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1巻
1-3
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つま先立ちして苦労しながら食器を取り出していると、玄関のチャイムが鳴った。
「は……はーい!」
たぶん亮也だ。
だけど、もしかしたら急病の患畜かもしれない。
火を消してキッチンを出た沙良は、急いで階段に向かった。慣れない段差を駆け下り、二階の踊り場に到着する。そのままの勢いで一階を目指して、最後の段差を下りきる前にちょっとだけ脚が滑った。
「ひゃっ!」
バランスを崩し前面の壁にぶつかりそうになったそのとき、フロアから伸びてきた腕に助けられた。
「おっと危ない」
腕に抱えられた状態のまま上を向くと、驚いた顔の亮也がこちらを見つめていた。
「ただいま。出迎えはありがたいけど、そんなに急ぐと怪我をするぞ」
昼間聞いたときと同じ、優しくて低い声だ。けれど間近で聞くせいか、やけにセクシーに聞こえる。
「おっ……おかえりなさい……」
ようやく出た声は、情けないほど小さかった。
至近距離で見つめ合ううち、頬がどんどん紅潮していく。
「足、捻ったんじゃないか? 念のためこのまま運ぶから楽にしてて」
「えっ? わ、わわっ……!」
身体がふわりと宙に浮いたかと思うと、太ももをしっかりと抱えられて縦抱きにされる。
やや癖のある茶褐色の髪が、沙良の目の前に迫った。どんなシャンプーを使っているのだろう、すごくいい香りが漂ってくる。
びっくりして、かろうじて彼の肩に両手を置いたものの、そのあとはどうしたらいいのかわからない。
「あ……あのっ……」
ようやく口を開いたのに、そのあとが出てこない。
トントンと軽快に階段を上るリズムが、沙良の身体を上下に揺らす。
沙良の体重は五五キロで、自分でも少し余分な肉がついていることを自覚していた。普段それを気にするようなことはないけれど、今は意識しないわけにはいかなかった。ちょっとでも小さくなろうと、身体をぎゅっと縮こめて丸くなる。
「そんなに丸まらなくても大丈夫だよ。すぐに着くから、楽にしてて」
亮也が上を向いて口元をほころばせる。その笑顔が素敵すぎて、沙良はまたしても彼から目が離せなくなった。
心臓が、口から飛び出そうだ。どうにか落ち着こうとするのに、エラ呼吸する金魚のように、やたらと口ばかりパクパクと動いてしまう。
二階の踊り場に着くと、亮也が立ち止まって沙良を見た。視線が合い、思わず大きく目を見開く。
「ふむ……すごく驚いた顔しているね。目がまん丸になっているけど、瞳孔は閉じ気味だな。もしかして緊張してるのかな? 大丈夫、ぜんぜん怖くないから安心していいよ」
亮也がふたたび階段を上りはじめる。
視線が外れ、沙良はちょっとだけ身体の力を抜いた。
やはりこの人は、自分のことを女性だなんて微塵も思っていない。話しかけてくる口ぶりが、まるで患畜を相手にしているみたいだ。もしくは、子供相手?
きっと彼にとっての沙良は、女を意識しないですむ、理想のお手伝いさんなのだろう。そうとわかれば、おとなしく運ばれるのが一番の対処法だ。
でも……この距離は近い!
いくらなんでも近すぎだ。
順調に階段を運ばれ、気がついたときには三階のリビングに着いていた。
ソファの上に沙良を下ろした亮也が、足元に片膝をつく。あわてて立ち上がろうとしたが、彼が大きな掌で左足首を持ち、顔を覗き込んでくるのでそれもかなわない。
「まだじっとしてて。……どう、痛くないかな?」
亮也が、沙良の足首を上下にそっと動かす。
「はい」
痛くはない。だけど、ものすごく緊張している。男性が沙良の足首に触れるなんて、生まれてはじめての経験だ。
「こっちも?」
今度は左右に動かしてくる。
「はいっ、大丈夫です」
それにしても、イケメンは、頭のてっぺんですらかっこいい。きっと真のイケメンとは、全方位から見て非の打ちどころのない、亮也のような男性のことを言うのだろう。
「そうか。じゃあよかった」
亮也は顔を上げ、沙良を見て目を細めた。
きっと顔が赤くなっていると思うけれど、ここは我慢して、視線を合わせたままにしておく。
「もし後々痛むようであればすぐに言って。無理して動かすとよくないからね」
「はい、ありがとうございます」
沙良の足首を離すと、亮也がおもむろに沙良の隣に腰を下ろし、大きく背伸びをした。
「うーーーーん! 今日も一日、頑張ったなぁ!」
突然の大声に、ちょっとだけびっくりする。
「あぁ、帰りに買い物をすませてくれたんだよね。ごめん、うっかりしていた。必要経費として、いくらか事前に渡しておくべきだった」
「いえ、少額だったし大丈夫です」
「学生時代はずっと自炊? あ、でも寮に入っていたって言ってたよね」
「はい。でも、食事は各自作って食べてたので」
オフモードに入ったのか、亮也はソファの背もたれに頭を乗せ、目を閉じている。呼吸もゆっくりとしており、もしかしてこのまま寝てしまうのではないかと思うくらいだ。
前に投げ出された彼の脚は、驚くほど長い。
そのまま様子を窺っていると、閉じていた目が開き、沙良のほうに視線が向いた。
「俺、クリニックで気を張っている分、家では結構だらけてるんだ。だから、いつもこんな感じ。適当に食べて風呂に入って、あとは寝るだけ。あまり手はかからないタイプだから、その点では安心してくれていいと思うよ」
言われてみれば、なるほど昼間見たときよりも表情が緩んでいる感じだ。
クリニックでの彼も割とリラックスした感じに見えたけれど、そうではなかったらしい。
それも当然か。やってくるさまざまな患畜を前に、頭のなかはフル回転だったはずだ。それプラス往診までしたのだから、疲れていて当たり前だろう。
それなのに、亮也はさっきから沙良に気を使っているような気がする。
やたらと質問したり答えを引き出そうとしたりはしないし、質問も短い返事ですむものばかりだ。だから沙良は、変に気負わなくてすんでいる。
思えば、今までに出会った同じ年頃の男性で、こんな感じの人はいなかったように思う。たいてい皆自分のペースで話をして、質問があればどんどん投げかけ、なんらかの答えを聞き出そうとする。
だけど、亮也はまるで違う。
全体的な雰囲気がとてもゆったりとしていて、圧迫感がない。
これが大人の男というものなのだろうか。
イケメンすぎてドキドキするのに、なぜか不思議なくらい安心するのは、そういった気配りがあるからかもしれない。
だけど、正直今の状況をどうやりすごせばいいのかわからない。
「ははっ、そんな萎縮したハムスターみたいにならなくていいよ。おなかいっぱい息を吸って、吐いて……そうそう、リラックスして。ここはもう、小向さんの職場であり、家でもあるんだから」
どうやら、自然と身体が縮こまり、息を潜めていたみたいだ。
言われるままに深呼吸をしていると、大きな掌で頭をなでられた。
亮也の微笑んだ顔につられて、沙良も笑みを浮かべる。
無理に笑ったのではない。笑ってしまうほど魅力的な笑顔を見てしまったせいだ。
「よかった、やっと笑ってくれたね。はじめて見たときに思ったんだけど、小向さんって小動物系だよね。でも目が大きいから、ハムスターじゃないな。ふわふわしてて、こう……手のなかでくるっと丸くなっちゃいそうな――」
言いながら思案顔をしていた亮也だったが、はたとなにかに気づいたといったふうに、片方の眉尻を上げる。
「うん、やっぱりそうだ。小向さん、エゾモモンガに似てるよ」
亮也が確信を持った声でそう言い切る。
一方の沙良はわけがわからず、余計目を大きく見開いて首を捻った。
「えっ? エ、エゾ……?」
「そうそう、それ! そのしぐさも似ているよ。知らない? エゾモモンガ。ものすごく可愛いやつ……。ほら、これだ」
亮也が取り出したスマートフォンを操作して、沙良のほうに差し出す。
示されたスマートフォンの画面には、松の木のうろから身を乗り出す、小動物の写真が表示されていた。大きな黒い目に小さな口。体毛は白と褐色で、びっくりするほど可愛らしい。
「な? そっくりだと思わないか? こいつはネズミ目リス科で、体長はだいたい十五センチから十八センチくらい、体重は平均して百グラムほど。北海道の森林に住んでいるんだ。昔、北海道のクリニックにいたときに怪我をした子が連れてこられてね。たまたま居合わせたのが、当時まだ新米獣医師だった俺だけでさ。その子が、俺が正式に担当した患畜第一号になってくれた」
スマートフォンの画面が遠のき、亮也の顔がぐっと近づいてくる。
彼の目がごく近い位置に迫った。もう少し近寄れば、鼻先がくっついてしまいそうだ。
「だけど、残念ながらペットとして飼うことは法律で禁じられている。だから、治療がすんだ時点で森に帰したんだけどね。野生だと寿命はあまり長くないんだけど、まだ元気に飛び回ってくれているといいな」
エゾモモンガのことを話しながらも、亮也の視線はずっと沙良の顔に注がれている。
「目は大きいと九ミリくらいあってね。丸くて食べてしまいたいくらい愛らしかったなぁ……。そういうところも、すごく似てる」
(えっ? 食べっ……)
それはもしかして、沙良を食べてしまいたいということだろうか?
いや、いくらなんでもそれはない。動物と人間を一緒にしてどうする。
「それはさておき、小向さんの呼び方だけど……。もし嫌じゃなかったら、下の名前で呼んでもいいかな? 中村さんたちもそうしているみたいだし、そのほうが親しみがこもってる感じがするしね。もちろん、仕事中は別だけど。どうかな?」
「あ……はい! 問題ありません」
私生活でもそのほうが呼ばれ慣れているし、むしろ「小向さん」なんて呼ばれると、こちらが身構えてしまいそうだ。
「よかった。じゃあ、そうさせてもらうよ。俺のことも好きに呼んでくれていいから」
「はい、わかりました」
そうは言っても、同じように下の名前を呼ぶわけにもいかない。やはりはじめは「薮原先生」が妥当なところだろう。
「さて、と。さっきからすごくいい匂いがしてるな。今夜のメニューは……中華系?」
「はい、お肉たっぷりの野菜炒めがメインディッシュです」
「おっ、いいね! じゃあ、さっそくごはんにしてもらっていいかな?」
「はいっ」
あぁ、これだ。
亮也の食べる気満々の顔を見て、沙良は顔をほころばせた。
寮でもそうだったけれど、一人ぶんをチマチマと作って食べるのは今ひとつ寂しい。誰か一緒に食べてくれる人がいれば楽しいし、作り甲斐もあるというものだ。
ただし今回の場合、相手は気心の知れた友だちではなく、今日会ったばかりの独身男性。
作ったものを食べてくれるのは嬉しいけれど、身内以外の男性に手料理を振舞うのははじめてのことで、緊張する。
沙良の気後れをよそに、亮也は早々にキッチンに向かった。
「うぉ! すっごくうまそう。あ、食器とかわかったかな?」
「はい、手が届く範囲のものを適当に……」
急いであとを追ってキッチンに入ると、亮也ができ上がった料理に見入っている。
「そうか、このキッチン、少し身長が高い人用に作ってあるから、高さ調整する踏み台とかいるよな。明日時間があれば、一緒に買いに行こうか」
くるりと振り向かれ、思わずその場に踏みとどまる。イケメンと近づくにはまだ勇気が足りない。
「い、いえ、明日は午前中に面接があって……。そのまま寮に行って引越しをすませるつもりなので、その途中で適当に買ってきます」
「うん、わかった。じゃあ、それも必要経費分から出してくれていいから」
亮也は率先して、配膳を手伝ってくれる。
沙良はキッチンとテーブルを行ったり来たりしながら、つい今しがたの発言について考えを巡らせた。
(やっぱり一緒に行ったほうがよかったかな……。必要経費だし……、でも緊張して、選ぶどころじゃなくなるかも。あ、百均とかじゃダメなのかな)
見たところ、部屋のなかに置かれているものはすべて、それなりに値が張りそうなものばかりだ。踏み台なんて役に立ちさえすればなんでもいいと思っていたけれど、この家に置く以上、それではダメかもしれない。デザイン重視で選んだほうがいいのだろうか。
「どうかした? 難しい顔して」
「あ……いえ……」
亮也は湯気が立つ皿が並ぶテーブルの前に座り、沙良にも座るよう促す。
「いきなりこんな生活がはじまって戸惑うことだらけだろう? ましてや相手が男なんだから、正直いろいろと気を使うと思う。だけど、あまり気負わなくていいし、なにか気になることがあれば気軽に聞いてくれたらいいよ」
優しく促され、沙良はようやく思っていたことを口に出した。
「あ……えっと、私が買ってきたものがこの部屋にマッチしなかったらどうしようって……」
「踏み台のことを言ってるのかな?」
「はい……、色とかデザインとか……」
せっかくきちんとコーディネートされているのに、そこだけが残念な感じになるのは申し訳ない。けれど、亮也は軽く微笑んだまま首を横に振った。
「ここって、設計の段階から全部友だちのインテリアデザイナーに任せっきりで建ててもらったんだ。だからインテリアも、全部丸投げ。気に入ってはいるけど特別なこだわりがあるわけじゃないから。そういうわけで、沙良ちゃんが気に入ったなら、なんでもいいよ。使い勝手がいいのが一番だし、その辺は実際に使う人の選択に任せる」
「はい――」
頷いて返事をしたはいいが、実際に「沙良ちゃん」と呼ばれたことで顔が火照る。
「じゃ、じゃあ、適当にみつくろって買ってきます」
「うん、よろしく」
向かい合って座り夕食を食べる間も、緊張状態は続いた。
箸を持つ指先は強張るし、咀嚼して呑み込む音すら気になってしまう。
「うん、うまい! この野菜炒め、すごくうまいよ」
一方亮也はというと、子供のような声を上げていた。沙良は嬉しく思いつつも、これまでにない褒められように、顔を赤くして恐縮してしまう。
「家で炊き立てのごはんを食べるのって、いつぶりかな……。家電を買い揃えたときに何度か炊いて、それきりだったから、かれこれ二年近くなるのか」
「えっ、そんなに長い間、炊き立てのごはんなしで!?」
驚いて、つい箸を持ったまま身を乗り出してしまった。
一日や二日食べなくてもどうということはないけれど、二年も食べていないなんて、沙良には考えられないことだ。
「うん。食べたくなったら行きつけの店に行ってたから。忙しくてなかなか足を運べないんだけどね」
「ああ……、そうですよね。炊き立てのごはんとか、外でも食べられますもんね」
そっと座り直す沙良に、亮也がにっこりと笑った。
「でも、やっぱりこうして家でゆっくり食べるのが一番だな。今はじめてそう思った。自分で炊いたときは、おかずは全部できあいのものばかりだったから」
そのあとも亮也は、見ていて気持ちがいいほどの食べっぷりを見せてくれた。
昼間あれだけ忙しく動き回っているのだから、おなかがすいて当然だろう。
彼は、ごはんを二杯おかわりし、用意した料理を全部綺麗に平らげてから「ごちそうさま」と言った。
沙良はといえば、そんな亮也につられるようにして食べたせいか、気がつけばいつもの半分の時間で食べ終わっていた。
「お皿、持っていくよ」
「いいえ、私がやります。だって、お給料をもらうわけだし……」
片づけを手伝おうとして立ち上がる亮也を、あわてて押しとどめる。
「それはそうだけど、これくらいは、ね。お手伝いといっても就活優先が大前提だし、明日だって午前中に面接の予定が入ってるんでしょう?」
「あ……はい」
「その準備もあるだろうし、俺が運んで、沙良ちゃんはそれを食洗機に突っ込む。あとは自由時間でいいよ。俺はこのあとシャワー浴びて寝るだけだし」
「はい。ありがとうございます」
トレイに食器を載せ終えると、亮也は大またでキッチンへ歩いていく。
それにしても、ものすごく好条件で雇われたものだ。
今さらながら恐縮して、亮也とすれ違いざまにぺこりと頭を下げる。すると、突然後頭部を撫でられた。驚いて顔を上げた視線が亮也のものとぶつかる。
「ごくろうさま。じゃあ、また明日ね。おやすみ」
歩きながら見つめられ、まるで流し目を送られた気分になる。ドキドキしつつもう一度会釈し、その場に立ち尽くした。
ほんの一瞬のことだったのに、触れられた部分にまだ亮也の手のぬくもりが残っている。
「……お皿……洗わないと……」
ようやく動けるようになった沙良はふらふらとキッチンに向かい、シンクの前に立った。軽く皿を水洗いして、食洗機のなかに並べる。
バスルームでは、今ごろ亮也が服を脱いでシャワーを浴びているころだろう。
「……って、余計なこと考えなくていいってば!」
頭のなかに浴室の湯気が思い浮かびそうになり、沙良は急いで妄想を蹴散らす。
男性と同居するという実感が、今になってじわじわと湧き起こる。
今流行のルームシェアだと思えばいい?
だけど、相手はモデルか俳優クラスのイケメンなわけで――
早々に後片づけを終えると、あてがわれた自室に入った。亮也のベッドルームの隣で、ベッドのほかに、丸いテーブルと椅子が置かれている。沙良はそこに、持参したノートパソコンを設置した。壁の一面はクローゼットになっていて、沙良の少ない荷物を入れてある。
窓の外はベランダで、その向こうはクリニックの駐車場だ。
沙良はベランダに出て、しばらくの間ぼんやりと外を眺めた。
クリニックは大通りに面しているが、裏は住宅地だ。目前に見える家屋は、皆二階建てばかり。そのため、視界は割と開けていた。
「はぁ……。今日は、いろいろありすぎたなぁ。だって考えてもみてよ。朝起きたときは、まさかこうなるとは思ってもみなかったんだから」
改めて、今日一日に起きた出来事を振り返ってみる。怒涛の展開とは、まさにこのことを言うのだろう。
「でも、とりあえず当面の危機は乗り越えたって感じかな……。さ、私もそろそろ寝る準備しなきゃ」
ひとり言を言いながら部屋に戻り、バスルームに向かうべく部屋のドアを開けた。
すると、ちょうど亮也が通りすぎるところだった。
「あ、よかった。時間があるときに白衣をクリーニングに出すか、洗ってアイロンをかけておいてくれる?」
まさかタイミングよく、彼がいるとは。沙良は、もう少しで叫びそうになる口をなんとか押さえる。
亮也は、上半身になにも着ていなかった。下半身は白いバスタオルに包まれてはいるが、きっとその下は裸だ。
あわてて顔を上向け、亮也と視線を合わせる。
たった今シャワーを終えたばかりなのか、髪の毛にまだ少し水滴が残っていた。
「は……はいっ……」
別に動揺なんかしていない――
そう自分に言い聞かせなければ、今の状況に耐えられそうもなかった。
沙良を見る亮也の目が、さっきとは違った色に見える。ちょっとだけ赤みがかった琥珀色みたいな、なんとも言えない魅惑的な色合いだ。
「予備があるから、あさってまででいいよ」
石鹸のいい香りが漂ってきて、沙良は思わず鼻をひくつかせた。
一日の終わりに見るにしては刺激的すぎる光景に、脳味噌がパニックを起こしている。
「わっ、わかりました! おやすみなさいっ」
一歩下がり、ドアを閉めた。
(え? ええっ? 今の、なに……?)
たった今見た亮也の姿が、目の裏に焼きついている。
右隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえてきた。
同居一日目にして、前途多難――
だけど、いちいち驚いてばかりもいられない。
その場に立ち尽くしていた沙良は、深呼吸を繰り返し、そして音を立てないようにそっとバスルームに向かったのだった。
* * *
その次の日。
沙良は目覚まし時計が鳴る二時間も前に目を覚ました。
カーテン越しにうっすらと明け方の光が見える。
昨夜はあれからシャワーを浴びて、早々にベッドに入った。しかしながら、なかなか寝付けずに、かなりの時間を考えごとに費やしていた。なのに、こんなに早く起きるなんて……
「なんで目が覚めちゃったんだろう。いくらなんでも、まだ起きるには早すぎるよ……」
沙良はもう一度目を閉じて、布団のなかで丸くなる。
用意されたベッドはちょうどいい硬さで、寝心地は最高だった。
紺色のシーツ類はすべて同じ素材のもので統一され、びっくりするほど肌触りがいい。きっとこれも、インテリアデザイナーの友だちがチョイスしたものなのだろう。
(リクちゃん、今ごろどうしてるかな……。ぐっすり眠れているといいけど……)
あれこれと考えを巡らせているうち、思いはリクちゃんに向かっていく。どうせ目が覚めてしまったのなら、リクちゃんに会いに行きたい。しかし、住居部分ならまだしも、クリニックエリアを勝手にうろつくことはできなかった。患畜の安眠の妨害はしたくないし、それ以前に一階の暗闇が怖い。
「あー、やだやだ。この年になって暗いところが苦手って……」
沙良は布団のなかで、もぞもぞと身体を動かす。すでに部屋はうす明るいけれど、枕元では、愛用の充電式ライトが点いている。
丸っこくてカメの形をしているそれは、沙良にとっては必需品だ。
沙良とて、できることなら真っ暗な場所でも眠れるようになりたい。けれどやっぱりそうできないのは、幼いころに起きたアクシデントのせいだ。
今から十六年前の夏の日、沙良は近所の友だちと一緒に、家の周りでかくれんぼをしていた。
沙良の家と、経営している牧場は隣接しており、敷地の境界線上に農機具をしまう小さな納屋がある。高さこそ二メートルもないが、その屋根は平たくて、大人が二人寝そべることができるほどの広さだ。
その日、たまたま納屋の横に、ロール状になった牧草が積んであった。
それに目をつけた沙良は、牧草を踏み台にして、屋根の上に隠れたのだ。じきに太陽が傾き、とても綺麗な夕日が見えたことを覚えている。
しかしその夕日が落ちるころになっても、鬼は沙良を探し出せない。
やがて沙良を探すことを諦めた友だちは帰宅し、沙良はというと、うっかり屋根の上で眠りこけていた。
あとで聞いたところによると、夜になっても帰ってこない沙良を探して、周りは大騒ぎになっていたらしい。
一方、目が覚めてあたりが真っ暗なことに気づいた沙良は、屋根の上で大声で泣き出した。
すぐに両親が気づいて助けてくれたけれど、それ以来、沙良は暗闇に恐怖心を抱くようになってしまったのだ。
「は……はーい!」
たぶん亮也だ。
だけど、もしかしたら急病の患畜かもしれない。
火を消してキッチンを出た沙良は、急いで階段に向かった。慣れない段差を駆け下り、二階の踊り場に到着する。そのままの勢いで一階を目指して、最後の段差を下りきる前にちょっとだけ脚が滑った。
「ひゃっ!」
バランスを崩し前面の壁にぶつかりそうになったそのとき、フロアから伸びてきた腕に助けられた。
「おっと危ない」
腕に抱えられた状態のまま上を向くと、驚いた顔の亮也がこちらを見つめていた。
「ただいま。出迎えはありがたいけど、そんなに急ぐと怪我をするぞ」
昼間聞いたときと同じ、優しくて低い声だ。けれど間近で聞くせいか、やけにセクシーに聞こえる。
「おっ……おかえりなさい……」
ようやく出た声は、情けないほど小さかった。
至近距離で見つめ合ううち、頬がどんどん紅潮していく。
「足、捻ったんじゃないか? 念のためこのまま運ぶから楽にしてて」
「えっ? わ、わわっ……!」
身体がふわりと宙に浮いたかと思うと、太ももをしっかりと抱えられて縦抱きにされる。
やや癖のある茶褐色の髪が、沙良の目の前に迫った。どんなシャンプーを使っているのだろう、すごくいい香りが漂ってくる。
びっくりして、かろうじて彼の肩に両手を置いたものの、そのあとはどうしたらいいのかわからない。
「あ……あのっ……」
ようやく口を開いたのに、そのあとが出てこない。
トントンと軽快に階段を上るリズムが、沙良の身体を上下に揺らす。
沙良の体重は五五キロで、自分でも少し余分な肉がついていることを自覚していた。普段それを気にするようなことはないけれど、今は意識しないわけにはいかなかった。ちょっとでも小さくなろうと、身体をぎゅっと縮こめて丸くなる。
「そんなに丸まらなくても大丈夫だよ。すぐに着くから、楽にしてて」
亮也が上を向いて口元をほころばせる。その笑顔が素敵すぎて、沙良はまたしても彼から目が離せなくなった。
心臓が、口から飛び出そうだ。どうにか落ち着こうとするのに、エラ呼吸する金魚のように、やたらと口ばかりパクパクと動いてしまう。
二階の踊り場に着くと、亮也が立ち止まって沙良を見た。視線が合い、思わず大きく目を見開く。
「ふむ……すごく驚いた顔しているね。目がまん丸になっているけど、瞳孔は閉じ気味だな。もしかして緊張してるのかな? 大丈夫、ぜんぜん怖くないから安心していいよ」
亮也がふたたび階段を上りはじめる。
視線が外れ、沙良はちょっとだけ身体の力を抜いた。
やはりこの人は、自分のことを女性だなんて微塵も思っていない。話しかけてくる口ぶりが、まるで患畜を相手にしているみたいだ。もしくは、子供相手?
きっと彼にとっての沙良は、女を意識しないですむ、理想のお手伝いさんなのだろう。そうとわかれば、おとなしく運ばれるのが一番の対処法だ。
でも……この距離は近い!
いくらなんでも近すぎだ。
順調に階段を運ばれ、気がついたときには三階のリビングに着いていた。
ソファの上に沙良を下ろした亮也が、足元に片膝をつく。あわてて立ち上がろうとしたが、彼が大きな掌で左足首を持ち、顔を覗き込んでくるのでそれもかなわない。
「まだじっとしてて。……どう、痛くないかな?」
亮也が、沙良の足首を上下にそっと動かす。
「はい」
痛くはない。だけど、ものすごく緊張している。男性が沙良の足首に触れるなんて、生まれてはじめての経験だ。
「こっちも?」
今度は左右に動かしてくる。
「はいっ、大丈夫です」
それにしても、イケメンは、頭のてっぺんですらかっこいい。きっと真のイケメンとは、全方位から見て非の打ちどころのない、亮也のような男性のことを言うのだろう。
「そうか。じゃあよかった」
亮也は顔を上げ、沙良を見て目を細めた。
きっと顔が赤くなっていると思うけれど、ここは我慢して、視線を合わせたままにしておく。
「もし後々痛むようであればすぐに言って。無理して動かすとよくないからね」
「はい、ありがとうございます」
沙良の足首を離すと、亮也がおもむろに沙良の隣に腰を下ろし、大きく背伸びをした。
「うーーーーん! 今日も一日、頑張ったなぁ!」
突然の大声に、ちょっとだけびっくりする。
「あぁ、帰りに買い物をすませてくれたんだよね。ごめん、うっかりしていた。必要経費として、いくらか事前に渡しておくべきだった」
「いえ、少額だったし大丈夫です」
「学生時代はずっと自炊? あ、でも寮に入っていたって言ってたよね」
「はい。でも、食事は各自作って食べてたので」
オフモードに入ったのか、亮也はソファの背もたれに頭を乗せ、目を閉じている。呼吸もゆっくりとしており、もしかしてこのまま寝てしまうのではないかと思うくらいだ。
前に投げ出された彼の脚は、驚くほど長い。
そのまま様子を窺っていると、閉じていた目が開き、沙良のほうに視線が向いた。
「俺、クリニックで気を張っている分、家では結構だらけてるんだ。だから、いつもこんな感じ。適当に食べて風呂に入って、あとは寝るだけ。あまり手はかからないタイプだから、その点では安心してくれていいと思うよ」
言われてみれば、なるほど昼間見たときよりも表情が緩んでいる感じだ。
クリニックでの彼も割とリラックスした感じに見えたけれど、そうではなかったらしい。
それも当然か。やってくるさまざまな患畜を前に、頭のなかはフル回転だったはずだ。それプラス往診までしたのだから、疲れていて当たり前だろう。
それなのに、亮也はさっきから沙良に気を使っているような気がする。
やたらと質問したり答えを引き出そうとしたりはしないし、質問も短い返事ですむものばかりだ。だから沙良は、変に気負わなくてすんでいる。
思えば、今までに出会った同じ年頃の男性で、こんな感じの人はいなかったように思う。たいてい皆自分のペースで話をして、質問があればどんどん投げかけ、なんらかの答えを聞き出そうとする。
だけど、亮也はまるで違う。
全体的な雰囲気がとてもゆったりとしていて、圧迫感がない。
これが大人の男というものなのだろうか。
イケメンすぎてドキドキするのに、なぜか不思議なくらい安心するのは、そういった気配りがあるからかもしれない。
だけど、正直今の状況をどうやりすごせばいいのかわからない。
「ははっ、そんな萎縮したハムスターみたいにならなくていいよ。おなかいっぱい息を吸って、吐いて……そうそう、リラックスして。ここはもう、小向さんの職場であり、家でもあるんだから」
どうやら、自然と身体が縮こまり、息を潜めていたみたいだ。
言われるままに深呼吸をしていると、大きな掌で頭をなでられた。
亮也の微笑んだ顔につられて、沙良も笑みを浮かべる。
無理に笑ったのではない。笑ってしまうほど魅力的な笑顔を見てしまったせいだ。
「よかった、やっと笑ってくれたね。はじめて見たときに思ったんだけど、小向さんって小動物系だよね。でも目が大きいから、ハムスターじゃないな。ふわふわしてて、こう……手のなかでくるっと丸くなっちゃいそうな――」
言いながら思案顔をしていた亮也だったが、はたとなにかに気づいたといったふうに、片方の眉尻を上げる。
「うん、やっぱりそうだ。小向さん、エゾモモンガに似てるよ」
亮也が確信を持った声でそう言い切る。
一方の沙良はわけがわからず、余計目を大きく見開いて首を捻った。
「えっ? エ、エゾ……?」
「そうそう、それ! そのしぐさも似ているよ。知らない? エゾモモンガ。ものすごく可愛いやつ……。ほら、これだ」
亮也が取り出したスマートフォンを操作して、沙良のほうに差し出す。
示されたスマートフォンの画面には、松の木のうろから身を乗り出す、小動物の写真が表示されていた。大きな黒い目に小さな口。体毛は白と褐色で、びっくりするほど可愛らしい。
「な? そっくりだと思わないか? こいつはネズミ目リス科で、体長はだいたい十五センチから十八センチくらい、体重は平均して百グラムほど。北海道の森林に住んでいるんだ。昔、北海道のクリニックにいたときに怪我をした子が連れてこられてね。たまたま居合わせたのが、当時まだ新米獣医師だった俺だけでさ。その子が、俺が正式に担当した患畜第一号になってくれた」
スマートフォンの画面が遠のき、亮也の顔がぐっと近づいてくる。
彼の目がごく近い位置に迫った。もう少し近寄れば、鼻先がくっついてしまいそうだ。
「だけど、残念ながらペットとして飼うことは法律で禁じられている。だから、治療がすんだ時点で森に帰したんだけどね。野生だと寿命はあまり長くないんだけど、まだ元気に飛び回ってくれているといいな」
エゾモモンガのことを話しながらも、亮也の視線はずっと沙良の顔に注がれている。
「目は大きいと九ミリくらいあってね。丸くて食べてしまいたいくらい愛らしかったなぁ……。そういうところも、すごく似てる」
(えっ? 食べっ……)
それはもしかして、沙良を食べてしまいたいということだろうか?
いや、いくらなんでもそれはない。動物と人間を一緒にしてどうする。
「それはさておき、小向さんの呼び方だけど……。もし嫌じゃなかったら、下の名前で呼んでもいいかな? 中村さんたちもそうしているみたいだし、そのほうが親しみがこもってる感じがするしね。もちろん、仕事中は別だけど。どうかな?」
「あ……はい! 問題ありません」
私生活でもそのほうが呼ばれ慣れているし、むしろ「小向さん」なんて呼ばれると、こちらが身構えてしまいそうだ。
「よかった。じゃあ、そうさせてもらうよ。俺のことも好きに呼んでくれていいから」
「はい、わかりました」
そうは言っても、同じように下の名前を呼ぶわけにもいかない。やはりはじめは「薮原先生」が妥当なところだろう。
「さて、と。さっきからすごくいい匂いがしてるな。今夜のメニューは……中華系?」
「はい、お肉たっぷりの野菜炒めがメインディッシュです」
「おっ、いいね! じゃあ、さっそくごはんにしてもらっていいかな?」
「はいっ」
あぁ、これだ。
亮也の食べる気満々の顔を見て、沙良は顔をほころばせた。
寮でもそうだったけれど、一人ぶんをチマチマと作って食べるのは今ひとつ寂しい。誰か一緒に食べてくれる人がいれば楽しいし、作り甲斐もあるというものだ。
ただし今回の場合、相手は気心の知れた友だちではなく、今日会ったばかりの独身男性。
作ったものを食べてくれるのは嬉しいけれど、身内以外の男性に手料理を振舞うのははじめてのことで、緊張する。
沙良の気後れをよそに、亮也は早々にキッチンに向かった。
「うぉ! すっごくうまそう。あ、食器とかわかったかな?」
「はい、手が届く範囲のものを適当に……」
急いであとを追ってキッチンに入ると、亮也ができ上がった料理に見入っている。
「そうか、このキッチン、少し身長が高い人用に作ってあるから、高さ調整する踏み台とかいるよな。明日時間があれば、一緒に買いに行こうか」
くるりと振り向かれ、思わずその場に踏みとどまる。イケメンと近づくにはまだ勇気が足りない。
「い、いえ、明日は午前中に面接があって……。そのまま寮に行って引越しをすませるつもりなので、その途中で適当に買ってきます」
「うん、わかった。じゃあ、それも必要経費分から出してくれていいから」
亮也は率先して、配膳を手伝ってくれる。
沙良はキッチンとテーブルを行ったり来たりしながら、つい今しがたの発言について考えを巡らせた。
(やっぱり一緒に行ったほうがよかったかな……。必要経費だし……、でも緊張して、選ぶどころじゃなくなるかも。あ、百均とかじゃダメなのかな)
見たところ、部屋のなかに置かれているものはすべて、それなりに値が張りそうなものばかりだ。踏み台なんて役に立ちさえすればなんでもいいと思っていたけれど、この家に置く以上、それではダメかもしれない。デザイン重視で選んだほうがいいのだろうか。
「どうかした? 難しい顔して」
「あ……いえ……」
亮也は湯気が立つ皿が並ぶテーブルの前に座り、沙良にも座るよう促す。
「いきなりこんな生活がはじまって戸惑うことだらけだろう? ましてや相手が男なんだから、正直いろいろと気を使うと思う。だけど、あまり気負わなくていいし、なにか気になることがあれば気軽に聞いてくれたらいいよ」
優しく促され、沙良はようやく思っていたことを口に出した。
「あ……えっと、私が買ってきたものがこの部屋にマッチしなかったらどうしようって……」
「踏み台のことを言ってるのかな?」
「はい……、色とかデザインとか……」
せっかくきちんとコーディネートされているのに、そこだけが残念な感じになるのは申し訳ない。けれど、亮也は軽く微笑んだまま首を横に振った。
「ここって、設計の段階から全部友だちのインテリアデザイナーに任せっきりで建ててもらったんだ。だからインテリアも、全部丸投げ。気に入ってはいるけど特別なこだわりがあるわけじゃないから。そういうわけで、沙良ちゃんが気に入ったなら、なんでもいいよ。使い勝手がいいのが一番だし、その辺は実際に使う人の選択に任せる」
「はい――」
頷いて返事をしたはいいが、実際に「沙良ちゃん」と呼ばれたことで顔が火照る。
「じゃ、じゃあ、適当にみつくろって買ってきます」
「うん、よろしく」
向かい合って座り夕食を食べる間も、緊張状態は続いた。
箸を持つ指先は強張るし、咀嚼して呑み込む音すら気になってしまう。
「うん、うまい! この野菜炒め、すごくうまいよ」
一方亮也はというと、子供のような声を上げていた。沙良は嬉しく思いつつも、これまでにない褒められように、顔を赤くして恐縮してしまう。
「家で炊き立てのごはんを食べるのって、いつぶりかな……。家電を買い揃えたときに何度か炊いて、それきりだったから、かれこれ二年近くなるのか」
「えっ、そんなに長い間、炊き立てのごはんなしで!?」
驚いて、つい箸を持ったまま身を乗り出してしまった。
一日や二日食べなくてもどうということはないけれど、二年も食べていないなんて、沙良には考えられないことだ。
「うん。食べたくなったら行きつけの店に行ってたから。忙しくてなかなか足を運べないんだけどね」
「ああ……、そうですよね。炊き立てのごはんとか、外でも食べられますもんね」
そっと座り直す沙良に、亮也がにっこりと笑った。
「でも、やっぱりこうして家でゆっくり食べるのが一番だな。今はじめてそう思った。自分で炊いたときは、おかずは全部できあいのものばかりだったから」
そのあとも亮也は、見ていて気持ちがいいほどの食べっぷりを見せてくれた。
昼間あれだけ忙しく動き回っているのだから、おなかがすいて当然だろう。
彼は、ごはんを二杯おかわりし、用意した料理を全部綺麗に平らげてから「ごちそうさま」と言った。
沙良はといえば、そんな亮也につられるようにして食べたせいか、気がつけばいつもの半分の時間で食べ終わっていた。
「お皿、持っていくよ」
「いいえ、私がやります。だって、お給料をもらうわけだし……」
片づけを手伝おうとして立ち上がる亮也を、あわてて押しとどめる。
「それはそうだけど、これくらいは、ね。お手伝いといっても就活優先が大前提だし、明日だって午前中に面接の予定が入ってるんでしょう?」
「あ……はい」
「その準備もあるだろうし、俺が運んで、沙良ちゃんはそれを食洗機に突っ込む。あとは自由時間でいいよ。俺はこのあとシャワー浴びて寝るだけだし」
「はい。ありがとうございます」
トレイに食器を載せ終えると、亮也は大またでキッチンへ歩いていく。
それにしても、ものすごく好条件で雇われたものだ。
今さらながら恐縮して、亮也とすれ違いざまにぺこりと頭を下げる。すると、突然後頭部を撫でられた。驚いて顔を上げた視線が亮也のものとぶつかる。
「ごくろうさま。じゃあ、また明日ね。おやすみ」
歩きながら見つめられ、まるで流し目を送られた気分になる。ドキドキしつつもう一度会釈し、その場に立ち尽くした。
ほんの一瞬のことだったのに、触れられた部分にまだ亮也の手のぬくもりが残っている。
「……お皿……洗わないと……」
ようやく動けるようになった沙良はふらふらとキッチンに向かい、シンクの前に立った。軽く皿を水洗いして、食洗機のなかに並べる。
バスルームでは、今ごろ亮也が服を脱いでシャワーを浴びているころだろう。
「……って、余計なこと考えなくていいってば!」
頭のなかに浴室の湯気が思い浮かびそうになり、沙良は急いで妄想を蹴散らす。
男性と同居するという実感が、今になってじわじわと湧き起こる。
今流行のルームシェアだと思えばいい?
だけど、相手はモデルか俳優クラスのイケメンなわけで――
早々に後片づけを終えると、あてがわれた自室に入った。亮也のベッドルームの隣で、ベッドのほかに、丸いテーブルと椅子が置かれている。沙良はそこに、持参したノートパソコンを設置した。壁の一面はクローゼットになっていて、沙良の少ない荷物を入れてある。
窓の外はベランダで、その向こうはクリニックの駐車場だ。
沙良はベランダに出て、しばらくの間ぼんやりと外を眺めた。
クリニックは大通りに面しているが、裏は住宅地だ。目前に見える家屋は、皆二階建てばかり。そのため、視界は割と開けていた。
「はぁ……。今日は、いろいろありすぎたなぁ。だって考えてもみてよ。朝起きたときは、まさかこうなるとは思ってもみなかったんだから」
改めて、今日一日に起きた出来事を振り返ってみる。怒涛の展開とは、まさにこのことを言うのだろう。
「でも、とりあえず当面の危機は乗り越えたって感じかな……。さ、私もそろそろ寝る準備しなきゃ」
ひとり言を言いながら部屋に戻り、バスルームに向かうべく部屋のドアを開けた。
すると、ちょうど亮也が通りすぎるところだった。
「あ、よかった。時間があるときに白衣をクリーニングに出すか、洗ってアイロンをかけておいてくれる?」
まさかタイミングよく、彼がいるとは。沙良は、もう少しで叫びそうになる口をなんとか押さえる。
亮也は、上半身になにも着ていなかった。下半身は白いバスタオルに包まれてはいるが、きっとその下は裸だ。
あわてて顔を上向け、亮也と視線を合わせる。
たった今シャワーを終えたばかりなのか、髪の毛にまだ少し水滴が残っていた。
「は……はいっ……」
別に動揺なんかしていない――
そう自分に言い聞かせなければ、今の状況に耐えられそうもなかった。
沙良を見る亮也の目が、さっきとは違った色に見える。ちょっとだけ赤みがかった琥珀色みたいな、なんとも言えない魅惑的な色合いだ。
「予備があるから、あさってまででいいよ」
石鹸のいい香りが漂ってきて、沙良は思わず鼻をひくつかせた。
一日の終わりに見るにしては刺激的すぎる光景に、脳味噌がパニックを起こしている。
「わっ、わかりました! おやすみなさいっ」
一歩下がり、ドアを閉めた。
(え? ええっ? 今の、なに……?)
たった今見た亮也の姿が、目の裏に焼きついている。
右隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえてきた。
同居一日目にして、前途多難――
だけど、いちいち驚いてばかりもいられない。
その場に立ち尽くしていた沙良は、深呼吸を繰り返し、そして音を立てないようにそっとバスルームに向かったのだった。
* * *
その次の日。
沙良は目覚まし時計が鳴る二時間も前に目を覚ました。
カーテン越しにうっすらと明け方の光が見える。
昨夜はあれからシャワーを浴びて、早々にベッドに入った。しかしながら、なかなか寝付けずに、かなりの時間を考えごとに費やしていた。なのに、こんなに早く起きるなんて……
「なんで目が覚めちゃったんだろう。いくらなんでも、まだ起きるには早すぎるよ……」
沙良はもう一度目を閉じて、布団のなかで丸くなる。
用意されたベッドはちょうどいい硬さで、寝心地は最高だった。
紺色のシーツ類はすべて同じ素材のもので統一され、びっくりするほど肌触りがいい。きっとこれも、インテリアデザイナーの友だちがチョイスしたものなのだろう。
(リクちゃん、今ごろどうしてるかな……。ぐっすり眠れているといいけど……)
あれこれと考えを巡らせているうち、思いはリクちゃんに向かっていく。どうせ目が覚めてしまったのなら、リクちゃんに会いに行きたい。しかし、住居部分ならまだしも、クリニックエリアを勝手にうろつくことはできなかった。患畜の安眠の妨害はしたくないし、それ以前に一階の暗闇が怖い。
「あー、やだやだ。この年になって暗いところが苦手って……」
沙良は布団のなかで、もぞもぞと身体を動かす。すでに部屋はうす明るいけれど、枕元では、愛用の充電式ライトが点いている。
丸っこくてカメの形をしているそれは、沙良にとっては必需品だ。
沙良とて、できることなら真っ暗な場所でも眠れるようになりたい。けれどやっぱりそうできないのは、幼いころに起きたアクシデントのせいだ。
今から十六年前の夏の日、沙良は近所の友だちと一緒に、家の周りでかくれんぼをしていた。
沙良の家と、経営している牧場は隣接しており、敷地の境界線上に農機具をしまう小さな納屋がある。高さこそ二メートルもないが、その屋根は平たくて、大人が二人寝そべることができるほどの広さだ。
その日、たまたま納屋の横に、ロール状になった牧草が積んであった。
それに目をつけた沙良は、牧草を踏み台にして、屋根の上に隠れたのだ。じきに太陽が傾き、とても綺麗な夕日が見えたことを覚えている。
しかしその夕日が落ちるころになっても、鬼は沙良を探し出せない。
やがて沙良を探すことを諦めた友だちは帰宅し、沙良はというと、うっかり屋根の上で眠りこけていた。
あとで聞いたところによると、夜になっても帰ってこない沙良を探して、周りは大騒ぎになっていたらしい。
一方、目が覚めてあたりが真っ暗なことに気づいた沙良は、屋根の上で大声で泣き出した。
すぐに両親が気づいて助けてくれたけれど、それ以来、沙良は暗闇に恐怖心を抱くようになってしまったのだ。
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