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1巻
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東京にある昔ながらの商業地域に、「フローリスト・セリザワ」という小さな花屋がある。
最寄り駅から徒歩三分の距離にあるその店は、築四十八年の七階建てビルの一階にあり、広さは二十平方メートル弱。
オープン以来、二十年に渡り地元の人達から親しまれ、季節の花を中心に観葉植物や鉢植え、その他植物に関するグッズなどを販売している。
花屋の四季は世間よりも一、二カ月早い。二月も中旬に差し掛かった今、店先にはもうチューリップやヒヤシンスといった春の花が並び始めていた。
「澄香、お母さん、ちょっと配達に行ってくるから、店番お願い」
母親の葉子が、店のバックヤードからひょっこりと顔を出した。
「了解。気をつけていってらっしゃい」
「はーい、いってきます」
店の横にある駐車場へは、レジの奥にある通路から行く事ができる。
澄香はコデマリの入った花桶を持ち上げると、店の入り口横のスペースに置いた。
今日は朝から天気が良く、二月とは思えないほどのぽかぽか陽気だ。それからすぐにやって来た常連の女性客と挨拶を交わし、そのまま店先で立ち話が始まる。
「澄香ちゃん、三日後のバレンタインデーに、お花のアレンジメントを頼みたいんだけど」
「毎度ありがとうございます。どんな感じのアレンジメントにしましょうか」
「アレンジメントの中に、このくらいのチョコの箱を仕込みたいんだけど、できる?」
女性客が親指と人差し指で輪を作った。
「できますよ。お花とか色の指定はありますか?」
「特にないけど、バレンタインデーっぽくて、シックで可愛い感じのやつがいいな。予算は、四千円くらいで」
「了解です。いいですね、旦那さまとラブラブで」
澄香は、女性客に軽く体当たりをした。
「やだもう! って、まあそうなんだけどね。澄香ちゃんは、彼氏とかいるの?」
ストレートに聞かれて、澄香は肩をすくめながら首を横に振った。
「それが、さっぱり見つからなくて」
「あらそう? まあ、これもご縁だからね。じゃあ、十四日の夕方に取りに来るね~」
上機嫌で去っていく女性客を見送ったあと、澄香は大きく背伸びをした。
(彼氏ねぇ……。できる気配もなければ、そもそも男の人と出会うきっかけなんてゼロだもんね)
芹澤澄香、二十八歳。
小学生の頃から母親が経営する「フローリスト・セリザワ」に出入りし、高校卒業後は本格的に店を手伝い始めた。
明るい性格で、いつも笑顔でいる澄香は、今や近所でも評判の看板娘だ。
やや小柄ながら、日々ずっしりと重い鉢や花筒を運んでいるおかげで、体力には自信がある。
和風の顔立ちは、美人とはいえないものの愛嬌があると言われるし、誰にでも気さくに接するから、男女問わず知り合いは多い。
おしゃれに興味がないわけではないが、女子力は控えめで、洋服は動きやすさ重視。
肩までのくせっ毛は、ヘアゴムでひとつ括りにするか、バレッタで留めていた。
そんな澄香には、いまだかつて「恋人」と呼べる男性がいた事がない。大勢の男女と親しく話したり、飲み会などで偶然隣り合わせた男性と喋ったりする事はあるが、いつも「友達」止まりで、それ以上の関係になる事はなかった。
社会人になってからは特に、休みの日のズレや仕事の忙しさもあり、男友達と会う機会はほとんどなくなった。
職業柄人と接する機会は多いけれど、女性客のほうが多いし、たまに来る男性客は彼女がいたり妻帯者だったりがほとんどだ。
時折人恋しく思う事はあるものの、どうしても恋人がほしいというわけでもない。
たまには、おしゃれしてデートに出かけたいと思ったりもするが、なんだかんだで結局は日々、フローリスト用のエプロンを着けて店の中に留まっている。
(縁があれば、そのうち素敵な王子様に巡り合えるのかな)
そんな事を思いながら、澄香は店に入り、たった今注文を受けたアレンジメントのデザインを考え始める。
(シックで可愛くて、バレンタインデーっぽいやつか……)
花束やアレンジメントを注文される時、具体的な指示をしてくれる人もいれば、今のように抽象的なイメージだけを伝えて、あとはお任せという人もいる。いずれの時も作る側のセンスが問われるし、プレゼントとなると責任は重大だ。
(旦那さま、たまにお見かけするけど、結構恰幅のいい方だったよね。眼鏡をかけてて、奥さまよりちょっとだけ背が低くて――)
プレゼント用の花を用意する時、澄香はできる限り贈られる人の好みやイメージを聞いて作るようにしている。むろん、お客さまが急いでいる時は、時間をかけたリサーチはできない。
けれど、せっかく花を贈るという特別な行為をするのだから、その瞬間を思い出深いものにしたいと思う。
澄香は女性客のパートナーのイメージを頭の中で膨らませながら、キャッシャーの上に置かれているメモ用紙に手を伸ばした。
その上に思い浮かんだデザインを描き、花の名前と色をメモしていく。
バレンタインデーには、この他にも花束やアレンジメントの注文を四点受けており、そのうちのひとつは片想いをしている男性に渡すものであるらしい。
自分が作った花束が、重大な告白の場に立ち会うのだ。
そう思うと、ちょっとだけ胸がドキドキしてくる。
澄香は目を閉じて、花束を渡すシーンを想像しながら両手を前に差し出した。
「好きです! これ、私の気持ちです。○〇くんのために、私が想いを込めて用意したチョコレートと花束、受け取ってくださいっ! なぁんて言っちゃったりするのかなぁ――」
ひとしきり告白の甘酸っぱさを味わって目を開けると、目の前にスーツ姿の男性が立っていた。
彼は怪訝そうな表情を浮かべながら、澄香の顔と差し出したままの両手を見比べている。
その顔は、びっくりするほど美形だ。
「わわっ……す、すみません! い、いらっしゃいませ!」
澄香はあわてて手を引っ込めると、男性に軽く頭を下げた。彼は、無言のまま澄香から視線を外し、店の中に目をやる。
その顎のラインが完璧すぎるし、立ち姿はモデルのように美しい。それに加えて、店内にある花をぜんぶ自身の背景にしてしまったかのようなゴージャスな存在感がある。
彼は、ひとしきり店内を見回すと、澄香に視線を戻した。
「花束を作ってほしいんだが、すぐにできるか?」
「はい、もちろんです。プレゼントですか?」
「母への誕生日プレゼントだ」
男性が、淡々とした口調でそう言った。そっけない態度からは、母親の誕生日を祝う喜びなど一切感じられない。
しかし、わざわざこうして花屋に足を運ぶ手間暇をかけているのだ。そういった男性客の多くは、花を贈る事への照れくささを感じており、わざとそんな態度をとってしまう人が少なくない。
「そうですか。おめでとうございます。お母さまが好きな花や色は、ありますか?」
「さあ……よくわからないな」
男性が、眉間に微かな縦皺を寄せた。
「では、どんな雰囲気の方なのか、教えていただいてもよろしいでしょうか?」
「雰囲気?」
「はい。華やかだとか、可愛らしいとか、優しいとか――お客さまの、お母さまに対するイメージを伺って、できる限りお母さまにふさわしい花束を作らせていただきますので」
「派手で高そうに見える花束ならなんでもいい」
男性が、澄香の言葉を遮るようにそう言った。その口調は、ぞんざいでぶっきらぼうだったが、その割に店内の花をまじまじと見つめたり、ソワソワとスラックスのポケットに手を突っ込んだりしている。
(ははーん。さては、こう見えて実はシャイボーイって感じかな?)
そう思った澄香は、花束を作るべく店の壁際に置かれたフラワーショーケースの前に移動した。
「承知しました。誕生日に息子さんから花束をプレゼントされるなんて、お母さまは喜ばれるでしょうね。お客さまも、お母さまの喜んだ顔が見たいですよね?」
澄香がニコニコ顔でそう訊ねると、男性は眉間の皺をさらに深くしながら片方の眉尻を上げた。
「花を贈るのは毎年恒例の儀礼的なものだ。喜ぶとかそういうのはないな」
男性は、そう話しながら渋い顔をする。しかし、その視線は澄香がどんな花を手にするのか気になっている様子だ。
なるほど。儀礼的であれ、毎年花を贈っているのだ。察するに、彼は愛情表現が、あまり得意ではないのかもしれない。
澄香は男性の顔をじっと見つめた。目が合った途端、男性が澄香から顔を背ける。
「予算に上限はない。とにかく見栄えがよくて、ゴージャスな花束を作ってくれ」
ああ、やっぱり。
澄香は心の中で、深く頷いた。
伊達に長年に渡り「フローリスト・セリザワ」の看板娘をやっているわけではない。
この人は、おそらく本当の心とは裏腹に、わざとぞんざいな態度をとるタイプの人だ。
そう気づいたからには、もう少しリサーチして彼が贈ってよかったと思うような花束を作りたいと思う。
「かしこまりました。ちなみに、普段お母さまはどんなファッションをしていらっしゃいますか?」
「仕事をしているから、普段はほとんどスーツだな」
「そうですか。プライベートでも、きっちりしたお洋服が多いんでしょうか」
「いや、家では割とゆったりした服か、着物を着ている」
「わぁ、普段お着物をお召しなんですね。素敵です。ご自宅のインテリアなんかにも気を遣っていらっしゃるのでは?」
「どうかな。自宅でも仕事をするから、自室は、いたってシンプルで機能的だ」
「仕事熱心な方なんですね。きっと、洗練されたキャリアウーマンでいらっしゃるんでしょうね」
「確かに仕事は人の何倍もできるな。いつも忙しくしているし、外見はともかく中身は男みたいな人だ」
澄香は深く頷きながら、頭の中で男性客の母親のイメージを作り上げていく。
「なるほどです。とても粋でスタイリッシュな方なんですね」
男性が、ふっと鼻で笑う。
「それはどうかな。母はデスクに黄色いひよこの形をした時計を置いている。スタイリッシュな人間は、部屋にそぐわないものを置いたりしないだろう」
男性が、独り言のようにそう言った。
ほらほら。そっけない関係を装っている割には、細かなところまでちゃんと見ている。
こうなったら、男性の素直に出せない気持ちを、目一杯花束に込めてあげようと思う。
「ひよこの形をした時計ですか。女性って、どんなにかっこよくてスタイリッシュな方でも、どこかしらに可愛さを秘めていたりするんですよね。もしかして、お母さまもそんな感じですか?」
話しながら、フラワーショーケースを開けて黄色い薔薇を三本手に取る。
「いや、可愛さとはほど遠い人だ」
「お母さまは、デスクワーク中心のお仕事をなさっているんですか?」
自然な形でリサーチを進めつつ、澄香はオレンジ色のガーベラとラナンキュラス、黄色のフリージアを花桶から取り出す。
それに紫陽花に似た緑色のビバーナムと、ゴッドセフィアナという白い斑点のある葉を足した。束ねた花を眺め、ふと思い立ってミモザの花を加える。
「最近はそうだが、本来は自ら動き回るのが好きな仕事人間だから、しょっちゅう出歩いてる」
「お忙しい方なんですね」
「超多忙だ。だけど、そうしているのが好きな人だし、暇だと逆に具合が悪くなるタイプだと思う」
「アクティブなお母さまなんですね」
「いい年をしてアクティブすぎるくらいだ。いい加減、立ち止まって休めばいいのに。……なんて、俺が言っても聞くような人じゃないがな」
男性が誰に言うともなくそう零した顔に、一瞬影が差したような気がした。
澄香は、それを気に留めながらも、形を整えた花の茎をしっかりと紐で括る。きちんと保水したあと、オレンジイエローのラッピング用紙で丁寧に包んだ。
出来上がった花束は丸い形のラウンドブーケで、全体的に元気で可愛らしいものに仕上がっている。
「そんなお母さまを、ちゃんと理解して大切に思っていらっしゃるお客様の気持ちが、花束を通して伝わるといいですね――はい、お待たせいたしました。こちらでいかがでしょうか」
澄香は、にっこりと微笑みながら男性に花束を差し出した。
「今、お話を伺いながら、私なりにお客さまのお母さまをイメージして作ってみました」
澄香が男性に花束を差し出すと、彼は意外そうな表情を浮かべた。
「これが、俺の母親をイメージして作った花束?」
思っていたのと違う――男性の顔には、はっきりとそう書いてあった。
だが、ここからがフローリストとしての腕の見せどころだろう。
「はい、そうです。伺ったお話から、お母さまはバリバリのキャリアウーマンという印象を受けました。でも同時に、お客さまからは、お母さまを心の底から大事に思う気持ちや、はつらつとした可愛らしいイメージも伝わってきたんです」
男性が、花束から澄香に視線を移した。
「やけに小さいし、そんなに高そうな花も入ってなさそうだが?」
「五千円で作らせていただきました。もちろん、お客さまの、お母さまを思う気持ちは値段とは関係なく上限なしのプライスレスですけどね」
澄香は、男性に半歩近づいて、にっこりと笑った。
「さあ、どうぞ! これをお客さまの笑顔と一緒にお渡ししたら、喜ばれる事間違いなしです!」
男性が、澄香の勢いに圧されるように身体を仰け反らせる。彼の眉間には、今や深い縦皺が、くっきりと刻まれていた。
「……ふん、まあいい。支払いはこれで」
男性は、澄香の顔をジロリと見たあと、スーツの内ポケットから黒色のカードを取り出した。
「あ……申し訳ありません。うち、カードは使えないんです」
「は? 今時カードが使えない店なんてあるのか⁉」
彼はブツブツと文句を言いながらカードをしまうと、マネークリップに挟んであった一万円札をキャッシャー台の上に置いた。そして、すぐに澄香に背を向けて入り口に向かって歩き出す。
「お待ちください。今、お釣りを――」
澄香は急いでレジを開けて五千円札を取り出した。
「釣りはいい」
「ですが――」
「いいったら、いいんだ」
男性は、面倒くさそうにそう言い捨てると、大股で店の入り口を通り過ぎていく。
澄香は、そのあとを追って店の外に出た。
てっきり店から遠ざかっているものと思っていた彼は、なぜか入り口のすぐ横にしゃがみ込んでいた。
「わっ!」
あやうく男性の尻を蹴飛ばしそうになったが、なんとか踏みとどまった。
見ると、男性の前に大人しそうな中型犬がいる。
「あ、ワンちゃん。お客さまの犬ですか?」
どうやら彼は、店の立て看板の支柱にその犬を繋いだ紐を括りつけていたみたいだ。
男性は花束を持った手で苦心して紐を解くと、澄香のすぐ横にすっくと立ち上がった。
「捨て犬だ。駅の近くにある劇場の近くで見つけた。なぜか懐かれて、どうしても離れないんだ。仕方なく面倒を見る事になって、かれこれ三カ月近くなるな」
男性は、そう言って澄香を上から見下ろしてきた。澄香も彼を見つめ返し、にっこりと微笑みを浮かべる。
改めて見ると、つくづく男前だ。目の高さが澄香より三十センチ以上高い位置にあるから、身長は百九十センチ近くあるのだろう。
店で花をバックに立っていた彼は、まるで漫画に出てくるヒーローみたいだった。そして今、なんでもない町の風景の中にいる彼も、雑誌の表紙を飾れるくらい絵になっている。
澄香は怖がらせないよう気をつけながら、犬の斜め前にゆっくりとしゃがみ込んだ。犬は、右耳の先端が黒く、その他は全体的に薄い茶の毛色をしている。
「そうなんですか……犬って人を見ますから、きっとお客さまが優しい人だってわかったんでしょうね。……よしよし、いい人に拾われてよかったね」
澄香が犬の頭を撫でながら男性を見上げると、彼は優しい目で犬を見ていた。しかし、澄香と目が合った途端、渋い顔をしてそっぽを向く。
「俺が優しいって? ふん……そんなふうに言われたのは、はじめてだ。ほら、行くぞ!」
男性は、犬を繋いだ紐を自分のほうに強く引き寄せた。けれど、その紐は十分にたわんでおり、引っ張ったところで犬には何のダメージもない。
「お買い上げありがとうございました。ぜひまたお越しくださいね」
澄香は立ち上がり、男性客の胸ポケットに、折りたたんだ五千円札を入れさせてもらった。
男性はムッとした表情を浮かべたものの、プイと横を向いてそのまま犬と一緒に道の向こうへ歩み去っていく。
澄香は犬を連れた男性のうしろ姿を見送りながら、自分が作った花束が無事役割を果たすよう心の中で祈るのだった。
「フローリスト・セリザワ」の営業時間は、午前十時から午後六時まで。定休日は毎週木曜日だが、母の日や敬老の日など、花のニーズが高まる日はその限りではない。
バレンタインデーである今日は、朝から予約客や通りすがりのお客さまで大盛況だ。
母親の葉子が店頭で接客をしているうしろで、澄香は注文を受けた花束やアレンジメント作りにかかりきりになっている。
「こんにちは~。お願いしたやつ、できてるかしら?」
先日夫に贈るバレンタインデー用のアレンジメントを注文してくれた女性客が、夕方過ぎに店にやって来た。
「いらっしゃいませ。はい、できてますよ」
澄香はキャッシャーの横にある作業台の内側から女性客に声をかけた。そして、今まさに出来上がったばかりのアレンジメントを彼女に見せる。
花びらがフリル状になった白薔薇を中心に据えたそれは、周りをユーカリや斑入りのアイビーで囲んでいる。花束を包んでいるのは凹凸のあるチョコレート色のラッピング用紙で、リボンはシックな紅色を選んだ。
「うわぁ、可愛い! 白薔薇がホワイトチョコみたいね。いかにもバレンタインデーって感じがして、すごくいいわぁ!」
女性客が小躍りして喜び、パチパチと手を叩く。
澄香は彼女から小さなチョコレート入りの小箱を受け取り、あらかじめ空けておいたスペースに、それを納めた。
「はい、これで本当に出来上がりです。奥さまの愛情がいっぱい詰まったアレンジメントですね」
「ありがとう! ほんと、食べちゃいたいくらい可愛いわぁ。いつものように写真に撮って、部屋に飾ったあとはドライフラワーにしようかしら」
そう言いながら女性客が笑顔で帰っていく。そのあとも、澄香は注文の品や店頭に並べるミニブーケなどを作り続ける。
いつもは午後六時で店を閉めるが、今日は一時間延長して営業を続ける予定だ。最寄り駅から歩いて三分という好条件の立地のおかげもあり「フローリスト・セリザワ」は、それなりに安定した売り上げがある。
しかし、店の土地建物は賃貸物件のため、毎月安くない賃貸料が発生していた。
澄香の家族は母の葉子と八つ離れた妹の美咲で、父の聡は今から十五年前に病気で他界した。現在大学二年生の美咲は、家を出て学校近くの寮に住んでいる。
日々どうにか暮らしているが、まだまだ学費がかかるし、奨学金だけでは賄えないものも多い。何かあった時の備えのためにも、もっと売り上げを伸ばしたいところだ。
「澄香、これで素敵なバルーンブーケをお願い」
葉子が笑顔で、一輪の赤い薔薇を差し出してきた。その向こうには、緊張した面持ちの女の子がいる。たぶん、高校生くらいだろうか。手に小さな紙袋を提げているところを見ると、これから好きな男の子にチョコレートを渡しに行くのだろう。
「はい、今すぐにとびきり素敵なやつを作りますね」
きっと今、女の子は胸がドキドキして落ち着かない気分でいるに違いない。
澄香が彼女に向かってにっこりと笑うと、女の子の口元がほんの少しほころんだ。
バルーン用のビニールを手で引っ張って伸ばし、傷つかないよう紙に包んだ薔薇を中に入れる。空気入れでバルーンの中にしっかりと空気を送り込んだあと、薔薇の茎に気をつけながら口を縛り、専用のスティックに固定する。
「ラッピング用紙は何色がいいですか?」
澄香が訊ねると、女の子は少し考えたあと「何色が合いますか?」と質問してきた。
「そうですね……やわらかなピンク色も可愛いですし、すっきりとしたブルーで包むと男性も持ち歩きやすいです。あとは、まっすぐな想いを伝えるって意味で、真っ白なラッピング用紙で包むのも素敵ですよ」
それを聞いた女の子が、ぱあっと顔を輝かせた。
「じゃあ、白にします!」
「はい、かしこまりました」
それからすぐに取りかかり、出来上がったものを女の子に渡した。
「あの……『頑張って!』って言ってもらっていいですか? お姉さんに励ましてもらったら、なんだかうまくいきそうな気がするんです」
女の子に頼まれて、澄香は大きく頷きながら彼女の目を覗き込んだ。
「頑張って! ぜったいにうまくいくって、自分に魔法をかけましょう」
女の子は澄香が見守る中、プレゼントとバルーンブーケを持った手で胸元を押さえた。そして、大きく深呼吸をしたあと、澄香を見て顔をほころばせる。
「ありがとうございます。頑張ります!」
女の子が急ぎ足で店の外に出て行き、澄香はまた作業台に戻った。
(いいなぁ。一生懸命な気持ちがガツンと伝わってくるよね)
特別恋人がほしいとは思わなくても、やはりこの時期になると独り身の寂しさが身に染みる。
(だけど、今はまだ無理。美咲が大学を卒業するまでは、仕事に集中して頑張って稼がないと)
作業を続けながら接客をこなし、気がつけば閉店時刻まであと十分になっていた。用意したバレンタインデー用ブーケも完売し、残っているのは今作業台で作っているものだけだ。
(作り始めちゃったけど、あと十分か……。せっかくだし、残ったら家に飾ろうかな)
作っているのは、淡いピンク色の花を集めたミニブーケだ。
定価は五百円。花がたくさんついた一本の枝から分けて作るから、安く作れるしメインの花を変えるだけで、まったく違う印象のブーケが出来上がる。
ラナンキュラスを中心に、小さめのカーネーションとスイートピーを寄り添わせ、周りにグリーンとしてナズナをあしらってみた。
ナズナといえば、春の七草のひとつであり、別名〝ペンペン草〟と呼ばれるアブラナ科の植物だ。道端に生えている雑草としてよく知られているが、昨今はナチュラルな雰囲気を出す時に使うグリーンとして使われたりする。
「うん、いい感じ」
出来上がったブーケを照明にかざし、一人悦に入る。すると、店先にいた葉子が少々あわてた様子で手を振ってきた。
「どうしたの、お母さん」
澄香が声をかけると、葉子の横をすり抜けて、見覚えのある背の高い男性が店の中に入ってきた。
「あっ、犬の人――」
思わず指を差しそうになり、あわてて手を引っ込める。
男性はまっすぐ澄香に近づいてきながら、若干不機嫌そうな表情を浮かべた。
もしかして、クレームを言いに来たのかな……
内心でそう思いながら、澄香はにっこりと笑って男性を迎えた。
「いらっしゃいませ。今日は、どのような花をお求めですか?」
土曜日で仕事が休みなのか、今日の彼はシックな黒のコートに同色のカジュアルなパンツを合わせている。
クレームでなければ、彼女に渡すバレンタインデー用の花束を買いに来たのだろうか。どちらにせよ、こちらから決めつけるような事を言ってはならない。
「今日は花を買いに来たんじゃない。先日母に贈った花束の件で聞きたい事があって来た」
やはりクレームだったか……
あの時、男性は「派手で高そうに見える花束ならなんでもいい」と言った。
しかし澄香は、あえて男性から聞き出した彼の母親のイメージに合った花束を作って渡したのだ。
素直じゃない彼の母を思う気持ちが花束を通して伝われば――そう思ってした事だったが、余計なお世話だったのかもしれない。
「はい、なんなりと――」
「あの花束を母に渡したら、ものすごく喜ばれた。いつもなら礼を言って、取ってつけたような微笑みを浮かべるだけなのに、今回は花束を受け取った途端、本当に嬉しそうな顔をして『ありがとう。嬉しい』と言ったんだ」
男性が、澄香の言葉を遮るようにして、そう言った。
「しかも、いつもみたいにすぐ家政婦に渡して花瓶に生けさせず、ニコニコしながらしばらくの間花束を見つめていた。母のあんな顔を見たのは、何十年かぶりだ。一体、あの貧相な花束の、どこがそんなに良かったんだ?」
貧相とは、失礼な。
けれど、とりあえずクレームを言いに来たわけではないとわかり、澄香はホッと胸を撫で下ろした。
「喜んでいただけたようで何よりです。そうですか……実は、あの花束には、いろいろな意味を込めてあったんです」
「いろいろな意味、とは?」
最寄り駅から徒歩三分の距離にあるその店は、築四十八年の七階建てビルの一階にあり、広さは二十平方メートル弱。
オープン以来、二十年に渡り地元の人達から親しまれ、季節の花を中心に観葉植物や鉢植え、その他植物に関するグッズなどを販売している。
花屋の四季は世間よりも一、二カ月早い。二月も中旬に差し掛かった今、店先にはもうチューリップやヒヤシンスといった春の花が並び始めていた。
「澄香、お母さん、ちょっと配達に行ってくるから、店番お願い」
母親の葉子が、店のバックヤードからひょっこりと顔を出した。
「了解。気をつけていってらっしゃい」
「はーい、いってきます」
店の横にある駐車場へは、レジの奥にある通路から行く事ができる。
澄香はコデマリの入った花桶を持ち上げると、店の入り口横のスペースに置いた。
今日は朝から天気が良く、二月とは思えないほどのぽかぽか陽気だ。それからすぐにやって来た常連の女性客と挨拶を交わし、そのまま店先で立ち話が始まる。
「澄香ちゃん、三日後のバレンタインデーに、お花のアレンジメントを頼みたいんだけど」
「毎度ありがとうございます。どんな感じのアレンジメントにしましょうか」
「アレンジメントの中に、このくらいのチョコの箱を仕込みたいんだけど、できる?」
女性客が親指と人差し指で輪を作った。
「できますよ。お花とか色の指定はありますか?」
「特にないけど、バレンタインデーっぽくて、シックで可愛い感じのやつがいいな。予算は、四千円くらいで」
「了解です。いいですね、旦那さまとラブラブで」
澄香は、女性客に軽く体当たりをした。
「やだもう! って、まあそうなんだけどね。澄香ちゃんは、彼氏とかいるの?」
ストレートに聞かれて、澄香は肩をすくめながら首を横に振った。
「それが、さっぱり見つからなくて」
「あらそう? まあ、これもご縁だからね。じゃあ、十四日の夕方に取りに来るね~」
上機嫌で去っていく女性客を見送ったあと、澄香は大きく背伸びをした。
(彼氏ねぇ……。できる気配もなければ、そもそも男の人と出会うきっかけなんてゼロだもんね)
芹澤澄香、二十八歳。
小学生の頃から母親が経営する「フローリスト・セリザワ」に出入りし、高校卒業後は本格的に店を手伝い始めた。
明るい性格で、いつも笑顔でいる澄香は、今や近所でも評判の看板娘だ。
やや小柄ながら、日々ずっしりと重い鉢や花筒を運んでいるおかげで、体力には自信がある。
和風の顔立ちは、美人とはいえないものの愛嬌があると言われるし、誰にでも気さくに接するから、男女問わず知り合いは多い。
おしゃれに興味がないわけではないが、女子力は控えめで、洋服は動きやすさ重視。
肩までのくせっ毛は、ヘアゴムでひとつ括りにするか、バレッタで留めていた。
そんな澄香には、いまだかつて「恋人」と呼べる男性がいた事がない。大勢の男女と親しく話したり、飲み会などで偶然隣り合わせた男性と喋ったりする事はあるが、いつも「友達」止まりで、それ以上の関係になる事はなかった。
社会人になってからは特に、休みの日のズレや仕事の忙しさもあり、男友達と会う機会はほとんどなくなった。
職業柄人と接する機会は多いけれど、女性客のほうが多いし、たまに来る男性客は彼女がいたり妻帯者だったりがほとんどだ。
時折人恋しく思う事はあるものの、どうしても恋人がほしいというわけでもない。
たまには、おしゃれしてデートに出かけたいと思ったりもするが、なんだかんだで結局は日々、フローリスト用のエプロンを着けて店の中に留まっている。
(縁があれば、そのうち素敵な王子様に巡り合えるのかな)
そんな事を思いながら、澄香は店に入り、たった今注文を受けたアレンジメントのデザインを考え始める。
(シックで可愛くて、バレンタインデーっぽいやつか……)
花束やアレンジメントを注文される時、具体的な指示をしてくれる人もいれば、今のように抽象的なイメージだけを伝えて、あとはお任せという人もいる。いずれの時も作る側のセンスが問われるし、プレゼントとなると責任は重大だ。
(旦那さま、たまにお見かけするけど、結構恰幅のいい方だったよね。眼鏡をかけてて、奥さまよりちょっとだけ背が低くて――)
プレゼント用の花を用意する時、澄香はできる限り贈られる人の好みやイメージを聞いて作るようにしている。むろん、お客さまが急いでいる時は、時間をかけたリサーチはできない。
けれど、せっかく花を贈るという特別な行為をするのだから、その瞬間を思い出深いものにしたいと思う。
澄香は女性客のパートナーのイメージを頭の中で膨らませながら、キャッシャーの上に置かれているメモ用紙に手を伸ばした。
その上に思い浮かんだデザインを描き、花の名前と色をメモしていく。
バレンタインデーには、この他にも花束やアレンジメントの注文を四点受けており、そのうちのひとつは片想いをしている男性に渡すものであるらしい。
自分が作った花束が、重大な告白の場に立ち会うのだ。
そう思うと、ちょっとだけ胸がドキドキしてくる。
澄香は目を閉じて、花束を渡すシーンを想像しながら両手を前に差し出した。
「好きです! これ、私の気持ちです。○〇くんのために、私が想いを込めて用意したチョコレートと花束、受け取ってくださいっ! なぁんて言っちゃったりするのかなぁ――」
ひとしきり告白の甘酸っぱさを味わって目を開けると、目の前にスーツ姿の男性が立っていた。
彼は怪訝そうな表情を浮かべながら、澄香の顔と差し出したままの両手を見比べている。
その顔は、びっくりするほど美形だ。
「わわっ……す、すみません! い、いらっしゃいませ!」
澄香はあわてて手を引っ込めると、男性に軽く頭を下げた。彼は、無言のまま澄香から視線を外し、店の中に目をやる。
その顎のラインが完璧すぎるし、立ち姿はモデルのように美しい。それに加えて、店内にある花をぜんぶ自身の背景にしてしまったかのようなゴージャスな存在感がある。
彼は、ひとしきり店内を見回すと、澄香に視線を戻した。
「花束を作ってほしいんだが、すぐにできるか?」
「はい、もちろんです。プレゼントですか?」
「母への誕生日プレゼントだ」
男性が、淡々とした口調でそう言った。そっけない態度からは、母親の誕生日を祝う喜びなど一切感じられない。
しかし、わざわざこうして花屋に足を運ぶ手間暇をかけているのだ。そういった男性客の多くは、花を贈る事への照れくささを感じており、わざとそんな態度をとってしまう人が少なくない。
「そうですか。おめでとうございます。お母さまが好きな花や色は、ありますか?」
「さあ……よくわからないな」
男性が、眉間に微かな縦皺を寄せた。
「では、どんな雰囲気の方なのか、教えていただいてもよろしいでしょうか?」
「雰囲気?」
「はい。華やかだとか、可愛らしいとか、優しいとか――お客さまの、お母さまに対するイメージを伺って、できる限りお母さまにふさわしい花束を作らせていただきますので」
「派手で高そうに見える花束ならなんでもいい」
男性が、澄香の言葉を遮るようにそう言った。その口調は、ぞんざいでぶっきらぼうだったが、その割に店内の花をまじまじと見つめたり、ソワソワとスラックスのポケットに手を突っ込んだりしている。
(ははーん。さては、こう見えて実はシャイボーイって感じかな?)
そう思った澄香は、花束を作るべく店の壁際に置かれたフラワーショーケースの前に移動した。
「承知しました。誕生日に息子さんから花束をプレゼントされるなんて、お母さまは喜ばれるでしょうね。お客さまも、お母さまの喜んだ顔が見たいですよね?」
澄香がニコニコ顔でそう訊ねると、男性は眉間の皺をさらに深くしながら片方の眉尻を上げた。
「花を贈るのは毎年恒例の儀礼的なものだ。喜ぶとかそういうのはないな」
男性は、そう話しながら渋い顔をする。しかし、その視線は澄香がどんな花を手にするのか気になっている様子だ。
なるほど。儀礼的であれ、毎年花を贈っているのだ。察するに、彼は愛情表現が、あまり得意ではないのかもしれない。
澄香は男性の顔をじっと見つめた。目が合った途端、男性が澄香から顔を背ける。
「予算に上限はない。とにかく見栄えがよくて、ゴージャスな花束を作ってくれ」
ああ、やっぱり。
澄香は心の中で、深く頷いた。
伊達に長年に渡り「フローリスト・セリザワ」の看板娘をやっているわけではない。
この人は、おそらく本当の心とは裏腹に、わざとぞんざいな態度をとるタイプの人だ。
そう気づいたからには、もう少しリサーチして彼が贈ってよかったと思うような花束を作りたいと思う。
「かしこまりました。ちなみに、普段お母さまはどんなファッションをしていらっしゃいますか?」
「仕事をしているから、普段はほとんどスーツだな」
「そうですか。プライベートでも、きっちりしたお洋服が多いんでしょうか」
「いや、家では割とゆったりした服か、着物を着ている」
「わぁ、普段お着物をお召しなんですね。素敵です。ご自宅のインテリアなんかにも気を遣っていらっしゃるのでは?」
「どうかな。自宅でも仕事をするから、自室は、いたってシンプルで機能的だ」
「仕事熱心な方なんですね。きっと、洗練されたキャリアウーマンでいらっしゃるんでしょうね」
「確かに仕事は人の何倍もできるな。いつも忙しくしているし、外見はともかく中身は男みたいな人だ」
澄香は深く頷きながら、頭の中で男性客の母親のイメージを作り上げていく。
「なるほどです。とても粋でスタイリッシュな方なんですね」
男性が、ふっと鼻で笑う。
「それはどうかな。母はデスクに黄色いひよこの形をした時計を置いている。スタイリッシュな人間は、部屋にそぐわないものを置いたりしないだろう」
男性が、独り言のようにそう言った。
ほらほら。そっけない関係を装っている割には、細かなところまでちゃんと見ている。
こうなったら、男性の素直に出せない気持ちを、目一杯花束に込めてあげようと思う。
「ひよこの形をした時計ですか。女性って、どんなにかっこよくてスタイリッシュな方でも、どこかしらに可愛さを秘めていたりするんですよね。もしかして、お母さまもそんな感じですか?」
話しながら、フラワーショーケースを開けて黄色い薔薇を三本手に取る。
「いや、可愛さとはほど遠い人だ」
「お母さまは、デスクワーク中心のお仕事をなさっているんですか?」
自然な形でリサーチを進めつつ、澄香はオレンジ色のガーベラとラナンキュラス、黄色のフリージアを花桶から取り出す。
それに紫陽花に似た緑色のビバーナムと、ゴッドセフィアナという白い斑点のある葉を足した。束ねた花を眺め、ふと思い立ってミモザの花を加える。
「最近はそうだが、本来は自ら動き回るのが好きな仕事人間だから、しょっちゅう出歩いてる」
「お忙しい方なんですね」
「超多忙だ。だけど、そうしているのが好きな人だし、暇だと逆に具合が悪くなるタイプだと思う」
「アクティブなお母さまなんですね」
「いい年をしてアクティブすぎるくらいだ。いい加減、立ち止まって休めばいいのに。……なんて、俺が言っても聞くような人じゃないがな」
男性が誰に言うともなくそう零した顔に、一瞬影が差したような気がした。
澄香は、それを気に留めながらも、形を整えた花の茎をしっかりと紐で括る。きちんと保水したあと、オレンジイエローのラッピング用紙で丁寧に包んだ。
出来上がった花束は丸い形のラウンドブーケで、全体的に元気で可愛らしいものに仕上がっている。
「そんなお母さまを、ちゃんと理解して大切に思っていらっしゃるお客様の気持ちが、花束を通して伝わるといいですね――はい、お待たせいたしました。こちらでいかがでしょうか」
澄香は、にっこりと微笑みながら男性に花束を差し出した。
「今、お話を伺いながら、私なりにお客さまのお母さまをイメージして作ってみました」
澄香が男性に花束を差し出すと、彼は意外そうな表情を浮かべた。
「これが、俺の母親をイメージして作った花束?」
思っていたのと違う――男性の顔には、はっきりとそう書いてあった。
だが、ここからがフローリストとしての腕の見せどころだろう。
「はい、そうです。伺ったお話から、お母さまはバリバリのキャリアウーマンという印象を受けました。でも同時に、お客さまからは、お母さまを心の底から大事に思う気持ちや、はつらつとした可愛らしいイメージも伝わってきたんです」
男性が、花束から澄香に視線を移した。
「やけに小さいし、そんなに高そうな花も入ってなさそうだが?」
「五千円で作らせていただきました。もちろん、お客さまの、お母さまを思う気持ちは値段とは関係なく上限なしのプライスレスですけどね」
澄香は、男性に半歩近づいて、にっこりと笑った。
「さあ、どうぞ! これをお客さまの笑顔と一緒にお渡ししたら、喜ばれる事間違いなしです!」
男性が、澄香の勢いに圧されるように身体を仰け反らせる。彼の眉間には、今や深い縦皺が、くっきりと刻まれていた。
「……ふん、まあいい。支払いはこれで」
男性は、澄香の顔をジロリと見たあと、スーツの内ポケットから黒色のカードを取り出した。
「あ……申し訳ありません。うち、カードは使えないんです」
「は? 今時カードが使えない店なんてあるのか⁉」
彼はブツブツと文句を言いながらカードをしまうと、マネークリップに挟んであった一万円札をキャッシャー台の上に置いた。そして、すぐに澄香に背を向けて入り口に向かって歩き出す。
「お待ちください。今、お釣りを――」
澄香は急いでレジを開けて五千円札を取り出した。
「釣りはいい」
「ですが――」
「いいったら、いいんだ」
男性は、面倒くさそうにそう言い捨てると、大股で店の入り口を通り過ぎていく。
澄香は、そのあとを追って店の外に出た。
てっきり店から遠ざかっているものと思っていた彼は、なぜか入り口のすぐ横にしゃがみ込んでいた。
「わっ!」
あやうく男性の尻を蹴飛ばしそうになったが、なんとか踏みとどまった。
見ると、男性の前に大人しそうな中型犬がいる。
「あ、ワンちゃん。お客さまの犬ですか?」
どうやら彼は、店の立て看板の支柱にその犬を繋いだ紐を括りつけていたみたいだ。
男性は花束を持った手で苦心して紐を解くと、澄香のすぐ横にすっくと立ち上がった。
「捨て犬だ。駅の近くにある劇場の近くで見つけた。なぜか懐かれて、どうしても離れないんだ。仕方なく面倒を見る事になって、かれこれ三カ月近くなるな」
男性は、そう言って澄香を上から見下ろしてきた。澄香も彼を見つめ返し、にっこりと微笑みを浮かべる。
改めて見ると、つくづく男前だ。目の高さが澄香より三十センチ以上高い位置にあるから、身長は百九十センチ近くあるのだろう。
店で花をバックに立っていた彼は、まるで漫画に出てくるヒーローみたいだった。そして今、なんでもない町の風景の中にいる彼も、雑誌の表紙を飾れるくらい絵になっている。
澄香は怖がらせないよう気をつけながら、犬の斜め前にゆっくりとしゃがみ込んだ。犬は、右耳の先端が黒く、その他は全体的に薄い茶の毛色をしている。
「そうなんですか……犬って人を見ますから、きっとお客さまが優しい人だってわかったんでしょうね。……よしよし、いい人に拾われてよかったね」
澄香が犬の頭を撫でながら男性を見上げると、彼は優しい目で犬を見ていた。しかし、澄香と目が合った途端、渋い顔をしてそっぽを向く。
「俺が優しいって? ふん……そんなふうに言われたのは、はじめてだ。ほら、行くぞ!」
男性は、犬を繋いだ紐を自分のほうに強く引き寄せた。けれど、その紐は十分にたわんでおり、引っ張ったところで犬には何のダメージもない。
「お買い上げありがとうございました。ぜひまたお越しくださいね」
澄香は立ち上がり、男性客の胸ポケットに、折りたたんだ五千円札を入れさせてもらった。
男性はムッとした表情を浮かべたものの、プイと横を向いてそのまま犬と一緒に道の向こうへ歩み去っていく。
澄香は犬を連れた男性のうしろ姿を見送りながら、自分が作った花束が無事役割を果たすよう心の中で祈るのだった。
「フローリスト・セリザワ」の営業時間は、午前十時から午後六時まで。定休日は毎週木曜日だが、母の日や敬老の日など、花のニーズが高まる日はその限りではない。
バレンタインデーである今日は、朝から予約客や通りすがりのお客さまで大盛況だ。
母親の葉子が店頭で接客をしているうしろで、澄香は注文を受けた花束やアレンジメント作りにかかりきりになっている。
「こんにちは~。お願いしたやつ、できてるかしら?」
先日夫に贈るバレンタインデー用のアレンジメントを注文してくれた女性客が、夕方過ぎに店にやって来た。
「いらっしゃいませ。はい、できてますよ」
澄香はキャッシャーの横にある作業台の内側から女性客に声をかけた。そして、今まさに出来上がったばかりのアレンジメントを彼女に見せる。
花びらがフリル状になった白薔薇を中心に据えたそれは、周りをユーカリや斑入りのアイビーで囲んでいる。花束を包んでいるのは凹凸のあるチョコレート色のラッピング用紙で、リボンはシックな紅色を選んだ。
「うわぁ、可愛い! 白薔薇がホワイトチョコみたいね。いかにもバレンタインデーって感じがして、すごくいいわぁ!」
女性客が小躍りして喜び、パチパチと手を叩く。
澄香は彼女から小さなチョコレート入りの小箱を受け取り、あらかじめ空けておいたスペースに、それを納めた。
「はい、これで本当に出来上がりです。奥さまの愛情がいっぱい詰まったアレンジメントですね」
「ありがとう! ほんと、食べちゃいたいくらい可愛いわぁ。いつものように写真に撮って、部屋に飾ったあとはドライフラワーにしようかしら」
そう言いながら女性客が笑顔で帰っていく。そのあとも、澄香は注文の品や店頭に並べるミニブーケなどを作り続ける。
いつもは午後六時で店を閉めるが、今日は一時間延長して営業を続ける予定だ。最寄り駅から歩いて三分という好条件の立地のおかげもあり「フローリスト・セリザワ」は、それなりに安定した売り上げがある。
しかし、店の土地建物は賃貸物件のため、毎月安くない賃貸料が発生していた。
澄香の家族は母の葉子と八つ離れた妹の美咲で、父の聡は今から十五年前に病気で他界した。現在大学二年生の美咲は、家を出て学校近くの寮に住んでいる。
日々どうにか暮らしているが、まだまだ学費がかかるし、奨学金だけでは賄えないものも多い。何かあった時の備えのためにも、もっと売り上げを伸ばしたいところだ。
「澄香、これで素敵なバルーンブーケをお願い」
葉子が笑顔で、一輪の赤い薔薇を差し出してきた。その向こうには、緊張した面持ちの女の子がいる。たぶん、高校生くらいだろうか。手に小さな紙袋を提げているところを見ると、これから好きな男の子にチョコレートを渡しに行くのだろう。
「はい、今すぐにとびきり素敵なやつを作りますね」
きっと今、女の子は胸がドキドキして落ち着かない気分でいるに違いない。
澄香が彼女に向かってにっこりと笑うと、女の子の口元がほんの少しほころんだ。
バルーン用のビニールを手で引っ張って伸ばし、傷つかないよう紙に包んだ薔薇を中に入れる。空気入れでバルーンの中にしっかりと空気を送り込んだあと、薔薇の茎に気をつけながら口を縛り、専用のスティックに固定する。
「ラッピング用紙は何色がいいですか?」
澄香が訊ねると、女の子は少し考えたあと「何色が合いますか?」と質問してきた。
「そうですね……やわらかなピンク色も可愛いですし、すっきりとしたブルーで包むと男性も持ち歩きやすいです。あとは、まっすぐな想いを伝えるって意味で、真っ白なラッピング用紙で包むのも素敵ですよ」
それを聞いた女の子が、ぱあっと顔を輝かせた。
「じゃあ、白にします!」
「はい、かしこまりました」
それからすぐに取りかかり、出来上がったものを女の子に渡した。
「あの……『頑張って!』って言ってもらっていいですか? お姉さんに励ましてもらったら、なんだかうまくいきそうな気がするんです」
女の子に頼まれて、澄香は大きく頷きながら彼女の目を覗き込んだ。
「頑張って! ぜったいにうまくいくって、自分に魔法をかけましょう」
女の子は澄香が見守る中、プレゼントとバルーンブーケを持った手で胸元を押さえた。そして、大きく深呼吸をしたあと、澄香を見て顔をほころばせる。
「ありがとうございます。頑張ります!」
女の子が急ぎ足で店の外に出て行き、澄香はまた作業台に戻った。
(いいなぁ。一生懸命な気持ちがガツンと伝わってくるよね)
特別恋人がほしいとは思わなくても、やはりこの時期になると独り身の寂しさが身に染みる。
(だけど、今はまだ無理。美咲が大学を卒業するまでは、仕事に集中して頑張って稼がないと)
作業を続けながら接客をこなし、気がつけば閉店時刻まであと十分になっていた。用意したバレンタインデー用ブーケも完売し、残っているのは今作業台で作っているものだけだ。
(作り始めちゃったけど、あと十分か……。せっかくだし、残ったら家に飾ろうかな)
作っているのは、淡いピンク色の花を集めたミニブーケだ。
定価は五百円。花がたくさんついた一本の枝から分けて作るから、安く作れるしメインの花を変えるだけで、まったく違う印象のブーケが出来上がる。
ラナンキュラスを中心に、小さめのカーネーションとスイートピーを寄り添わせ、周りにグリーンとしてナズナをあしらってみた。
ナズナといえば、春の七草のひとつであり、別名〝ペンペン草〟と呼ばれるアブラナ科の植物だ。道端に生えている雑草としてよく知られているが、昨今はナチュラルな雰囲気を出す時に使うグリーンとして使われたりする。
「うん、いい感じ」
出来上がったブーケを照明にかざし、一人悦に入る。すると、店先にいた葉子が少々あわてた様子で手を振ってきた。
「どうしたの、お母さん」
澄香が声をかけると、葉子の横をすり抜けて、見覚えのある背の高い男性が店の中に入ってきた。
「あっ、犬の人――」
思わず指を差しそうになり、あわてて手を引っ込める。
男性はまっすぐ澄香に近づいてきながら、若干不機嫌そうな表情を浮かべた。
もしかして、クレームを言いに来たのかな……
内心でそう思いながら、澄香はにっこりと笑って男性を迎えた。
「いらっしゃいませ。今日は、どのような花をお求めですか?」
土曜日で仕事が休みなのか、今日の彼はシックな黒のコートに同色のカジュアルなパンツを合わせている。
クレームでなければ、彼女に渡すバレンタインデー用の花束を買いに来たのだろうか。どちらにせよ、こちらから決めつけるような事を言ってはならない。
「今日は花を買いに来たんじゃない。先日母に贈った花束の件で聞きたい事があって来た」
やはりクレームだったか……
あの時、男性は「派手で高そうに見える花束ならなんでもいい」と言った。
しかし澄香は、あえて男性から聞き出した彼の母親のイメージに合った花束を作って渡したのだ。
素直じゃない彼の母を思う気持ちが花束を通して伝われば――そう思ってした事だったが、余計なお世話だったのかもしれない。
「はい、なんなりと――」
「あの花束を母に渡したら、ものすごく喜ばれた。いつもなら礼を言って、取ってつけたような微笑みを浮かべるだけなのに、今回は花束を受け取った途端、本当に嬉しそうな顔をして『ありがとう。嬉しい』と言ったんだ」
男性が、澄香の言葉を遮るようにして、そう言った。
「しかも、いつもみたいにすぐ家政婦に渡して花瓶に生けさせず、ニコニコしながらしばらくの間花束を見つめていた。母のあんな顔を見たのは、何十年かぶりだ。一体、あの貧相な花束の、どこがそんなに良かったんだ?」
貧相とは、失礼な。
けれど、とりあえずクレームを言いに来たわけではないとわかり、澄香はホッと胸を撫で下ろした。
「喜んでいただけたようで何よりです。そうですか……実は、あの花束には、いろいろな意味を込めてあったんです」
「いろいろな意味、とは?」
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