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1巻
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しおりを挟む「たとえば、ガーベラとフリージアは二月十一日の誕生花です。花の色や国によっても変わりますが、ガーベラの花言葉は『冒険心』『忍耐』、フリージアは『無邪気』などです。もしかすると、お母さまは、それを知っていて喜ばれたのかもしれませんね」
「なるほど。そういう事だったのか」
「それと、花束の中心に入れた黄色い薔薇は『ひよこ』っていう名前がついてるんですよ。ミモザも小さなひよこに見えなくもないし、お話を聞いているうちに、きっと可愛らしいものがお好きなんじゃないかと思って、あの花束をお作りしたんです」
「ほう……花束に、それほどたくさんの意味を込めていたのか」
澄香が説明を終えると、男性は感心したように目を細め唸った。
「俺の母は、一言で言えば〝女傑〟だ。『冒険心』とか『忍耐』は理解できる。しかし、『無邪気』というのは、どうにも納得いかないな」
「〝女傑〟ですか。きっと強くて美しい方なんでしょうね」
「もちろんだ。彼女ほどのビジネスセンスを持つ女性には会った事がないし、あの年であれだけの美貌を保っているのは評価に値する」
おそらく、女社長か何かなのだろうが、男性はよほど自身の母親が自慢であるようだ。
それでいて、実の母に対する他人行儀な言い回しが気になった。
「とにかく、あの母があんな顔をしたのには驚かされた。毎年誕生日には花を贈っているが、あれほど喜んだ事はいまだかつてなかった」
やや興奮気味にそう語る男性の様子には、喜びが滲み出ている。
「お役に立ててよかったです。喜んでくださったと聞いて、ホッとしました。聞かせてくださって、ありがとうございます――あ、これ、よかったらどうぞ!」
澄香は、出来上がったばかりの花束を男性に差し出した。
「それと、これもどうぞ。今日はバレンタインデーですから、来店してくださった男性のお客さま全員にプレゼントしているんです」
そう言って、丸いチョコレートボンボンの入った小袋も差し出す。
ラッピングもそれらしくしようと、透明の袋に入れて、水色とブラウンのリボンで括ってある。
澄香は先端にハートがついたフラワーピックにチョコレートボンボンをくっつけて、花束の真ん中に刺した。
「ピンク色の花束に、チョコレートか」
「はい。もうじき閉店ですし、せっかく作ったので。ピンク色ですが小さいし、もう夕方ですから持っていてもあまり目立ちませんよ。それと、チョコレートはちゃんとした市販品ですから、安心して食べていただけます」
男性限定で数も多くないから、本当は手作りにしたかったが、それを嫌う人もいるし、万が一何かあってはいけない。その代わり、品物はそれなりの時間をかけて厳選した。
「ふむ……この真ん中の花は、薔薇か?」
男性が花束を指さして、そう訊ねてきた。
「いえ、これはラナンキュラスといって、キンポウゲの仲間です。日持ちがするので、おすすめの花ですよ。ちなみに花言葉は『飾らない美しさ』です」
「なるほど。これはカーネーションだな?」
別の花を指さし、男性が澄香の顔を窺う。
「はい、そうです」
「これも知ってるぞ。確かスイートピー……」
「当たりです。よくご存じですね! では、これもわかりますか?」
澄香が花の周りにあしらったグリーンを掌で示すと、男性は顔を花束にグッと近づけて、それを凝視する。
「これも見た事がある……ちょっと待て、言うなよ。今思い出すから、ぜったいに言うな」
男性が花束に顔を寄せたまま、目を閉じて眉間に深い皺を寄せた。その表情は、負けず嫌いそのものといった感じだ。
「わかった、ペンペン草だ! そうだろ?」
いきなりの大声に驚き、澄香は目を丸くして固まる。
澄香は、花束を顔の少し前、目の高さに掲げていた。花束を挟んで、男性の顔は澄香から三十センチ足らずの位置にある。
声もそうだが、何より顔の位置が近すぎて見開いた目がチカチカする。
「そ、そうです! ペンペン草、和名だとナズナ。春の七草でおなじみの越年草です。道端に生えているイメージですが、白くて可憐な花をつけるし、よく見るとふわりとしてロマンチックな雰囲気を持っているんですよ」
「ほお……ペンペン草って、ナズナの事なのか。ただの雑草だと思っていたが、違うんだな」
男性は、さらに花束に顔を近づけてペンペン草に見入っている。
目の前にある彼の鼻筋は、見事なまでにまっすぐだ。顔の輪郭はもちろん、形のいい唇や、目の形、瞳の色、睫毛の長さに至るまで美しい。
澄香は思わず瞬きを忘れて、彼の顔に見惚れた。そして、今さらながらに男性のイケメンぶりに感心する。
「なるほど。覚えておこう」
彼は頷き、ようやく花束から顔を離して、まっすぐ立った。そして、片手で花束を受け取ると、胸元から取り出した薄い冊子を澄香に差し出してくる。
「さっき、店先にいた女性に聞いたんだが、この店はオフィスに飾る花を定期的に持って来てくれるそうだな」
「はい、ご希望に沿った花をお好きな周期でお届けしております」
「では、とりあえず週に一度、ここに花を持って来てくれ」
渡された冊子は、企業パンフレットだった。
表紙には高層ビルの写真が載っており、上のほうに英字で会社名らしきものが記されている。
「花を置くのはエントランスと、社長室だ。建物の雰囲気は、これを見て判断してもらいたい。スタートは来週月曜日。正式な契約はその時に取り交わそう。時間は午前十時頃で。来社したら、受付で秘書課の武田一に連絡を入れてくれ。名刺は、そこに挟んである。では、よろしく」
男性は、一気にそう言うと、くるりと踵を返して入り口へ歩いていく。
澄香は受け取った冊子から顔を上げ、男性に声をかけた。
「ありがとうございます! あの、ご予算は、おいくらくらいのものをご用意したらいいでしょうか」
男性が店の外に出たところで、澄香のほうを振り返った。
「予算の上限はない。わが社のイメージを損ねない、立派で格調高い花を持って来てくれ」
「しょ、承知しました! 必ず、ご希望どおりの花をお持ちいたします」
澄香が彼を追って店の外に出ると、葉子が入り口のそばで棒立ちになっていた。彼女の足元には、先日男性が連れていた犬がまとわりついている。
「あ、この間のワンちゃんですね。捨て犬とおっしゃってましたが、飼う事にしたんですか?」
「いや、あくまでも預かっているだけだ」
男性が言うには、拾ったあとすぐに知人経由で保護施設に問い合わせたが、現在手いっぱいであり、空きが出るまで預かってほしいと言われたのだという。
「まったく、ただでさえ忙しいのに、なんで捨て犬の面倒まで見なきゃならないんだ」
彼は文句を言いつつも、店を出るとすぐに犬のほうへ歩み寄った。犬も男性が店の外に出て来たのがわかると、尻尾を振って嬉しそうにしている。
「そうなんですね。じゃあ、名前はまだ?」
「当然、名無しだ」
男性が葉子からリードの持ち手を受け取ると、犬はうしろ足で立ち上がり、彼の脚にじゃれついた。
「こら、行儀良くしなきゃダメだろ」
犬は男性の言う事を聞かず、さらにピョンピョンと跳ねて男性が履いている革靴を爪で引っ掻いている。よく見ると、犬を繋いでいるのは、通常の首輪ではなく着け心地がよさそうな胴輪タイプのハーネスだ。
これだと犬にあまり負担がかからず、快適に散歩させられると、以前犬好きの常連客に聞いた事がある。
(なんだかんだ言って、優しい人なんだな)
よく見ていると、犬は彼が持っている花束についているチョコレートが気になっている様子だ。
「ワンちゃん、チョコレートを気にしてますね。ぶらぶらしてるから目につくんだと思います。チョコレートは犬によくないので、食べちゃったほうがいいかもしれません」
犬がチョコレートを食べると、中毒を起こす事がある。
澄香がそれを男性に知らせると、彼は花束を高く持ち上げた。
「そうか。じゃあ、取って食べさせてくれ」
男性は花束を澄香に差し出し、犬を見ながら口を開けた。
「え? た、食べ……?」
「俺の手は、花束とハーネスで塞がっている」
男性に言われ、澄香はようやく彼が言っている意味を理解した。
急いで花束からピックを抜き、小袋からチョコレートを取り出して男性の口元に差し出す。
「はい、どうぞ!」
すると、彼はいまだじゃれついている犬に視線を残したまま、澄香が持っているチョコレートを口に入れた。
その時、彼の唇が澄香の指をかすめ、わずかな温もりがそこに残った。
それは、ほんの一瞬の出来事だったけれど、澄香の心臓を跳ねさせるのに十分な事件だった。
「うむ……ナッツ入りか。なかなかイケるな」
男性が片方の頬を膨らませながら、もごもごとチョコレートを咀嚼する。
「ほら、行くぞ。帰ったらごはんをやるから、大人しくしろ」
チョコレートを食べ終えた男性が、犬に向かって語りかける。そして、道を歩き出したと思ったら、ふと足を止めて澄香を振り返った。
「ちなみに、ペンペン草の花言葉は?」
男性に問われ、澄香は開けっぱなしになっていた口を閉じた。
「ペッ、ペンペン草の花言葉は――『あなたに私のすべてを捧げます』……です」
そう口にした自分の顔が、みるみる熱く火照ってくるのがわかった。瞬きが多くなり、鼻の穴も若干膨らんでいるような気がする。
「なるほど」
男性は軽く頷いて、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
そして、今度はうしろを振り返る事なく、犬を連れて悠々と道の向こうに歩み去ったのだった。
翌週の月曜日、澄香は依頼されたとおり、男性の会社に花の配達に向かった。目的のビルは「フローリスト・セリザワ」から高速を利用して三十分の距離にある日本有数のビジネス街に建っている。
あの日、受け取ってすぐに小冊子を確認したところ、彼の勤務先が「一条ビルマネジメント」という株式会社である事がわかった。
同社は国内大手不動産会社である「一条コーポレーション」のグループ会社で、オフィスビルや商業施設等の開発や不動産売買のコンサルティングなどを行っている。
従業員数は千人弱。国内に七つの支社を持ち、地上二十九階、地下五階建ての自社ビルのうち、上四階を本社として使用している。
(すごい……すごすぎる。何から何まで、規模が違いすぎる……!)
これまでにも何件か、企業へ装花の定期配送をしてきたが、これほどの大企業と関わるのははじめてだ。
まさか、町の小さな花屋がこんな場所に足を踏み入れる事になるとは思わなかった。
しかし引き受けたからには、必ずや満足してもらえる仕事をしようと固く決心する。
(ビビるな、澄香!)
そう自分に気合を入れつつ、ビルが建ち並ぶオフィス街に車を走らせる。はじめて来る場所ではあるが、仕事柄運転ならお手の物だ。
午前九時四十分にビルの地下駐車場に到着し、車体に店名が書いてあるバンを停めた。
普段、仕事中は黒色のワークエプロンをしているが、配達の時は白いシャツと黒いスラックスに着替えてから届け先に向かうようにしている。
澄香は運転席のドアを開け、外に出る前にルームミラーを覗いた。
いつもは日焼け止めとファンデーションで済ましているメイクも、今日は少し気合を入れてアイライナーと色つきリップクリームを上乗せした。もともとあまり化粧映えする顔ではないから、これくらいがちょうどいい。
ちょっとだけ乱れていた前髪を整え、運転席から降りて背筋をシャンと伸ばした。
そして、もらった名刺を胸ポケットから取り出し、今一度名前を確認する。
(秘書課の武田主任……)
はじめて来店してくれた時の彼は、一流企業に勤務するにふさわしく知的な印象だった。
二度目はカジュアルな格好だったせいか、前よりも若干若く見えた。
たぶん、年齢は三十代前半くらい。
(社長室の花を頼んできたって事は、もしかして武田さんって社長秘書なのかな?)
実際のところはよくわからないが、澄香の持つ「秘書」のイメージは、話し言葉や態度が丁寧で、間違ってもスラックスのポケットに手を突っ込んだりしない人だ。
対する彼は、話し方が常に上から目線で命令口調だったし、態度も大きかった。そのせいか、どうも秘書という職業がしっくりこない。しかし、プライベートでの来店だったし、会社では印象が違うのかもしれない。
そうはいっても、別に彼に悪い印象を持っているわけではない。
母親に関する話を聞く中で、実は愛情深い人だという事が窺い知れたし、聞きたい事があったとはいえ、花束を喜んでくれたとわざわざ報告にくる律義さもある。
それに、仕方なくとはいえ、捨て犬に対してあそこまでしてあげられる人は滅多にいないのではないかと思う。
そんな事を考えているうちに、ふとチョコレートを食べさせてあげた時の彼の顔が思い浮かんだ。
あの時、触れた唇の感触は、いまだにはっきりと指先に残っていて、思い出すたびに顔が赤くなる。それに、帰り際に見た彼の顔もしっかり脳裏に焼き付いていた。
今まで多くの男性を接客してきたが、これほど印象に残っているのは武田だけだ。
だからといって、何がどうなるわけでもないし、そんな事実があるというだけなのだが――
(さ、とりあえず配達!)
車の荷室から花や花瓶などを下ろし、カートに載せて広々とした駐車場を歩く。地下に入る前にビルの外観を確認したが、想像していたより遥かに大きくて立派だった。
周りには桜や松などを配した庭園があり、地下は主要地下鉄の駅に直結している。
(さすが「一条コーポレーション」のグループ会社だなぁ)
清潔で広さが十分にある荷物搬入用のエレベーターに乗り、二十六階にある総合受付を訪ねる。
受付の女性に要件と秘書課の武田主任の名前を告げると、すぐに作業スタートの許可を得る事ができた。
一応確認したところ、やはり彼は社長秘書だった。
言われてみれば、あのくらいの年齢の男性にしては貫禄があるし、威圧感もあった。一流企業の社長秘書ともなると、ああでなければ社会の荒波を渡っていけないのだろう。
(すごい人に出会っちゃったな)
客として彼が店に来てくれたおかげで、こんな大きな会社の仕事ができた。正式な契約はこれからだが、うまくいけば経済的にかなり余裕ができる。
そうすれば、妹が密かに望んでいる海外留学だってさせてあげられるかもしれない。
澄香は意気揚々とカートを押してエントランス横に移動し、壁際に作業用の敷物を敷いた。
その上に大型の鉢を置き、すでに生けてある花の形を整えていく。
使ったのは、白の百合と薔薇、トルコキキョウなどの淡いブルーの花々だ。鉢にはアイビーなどのグリーンを巻き付けており、幅や奥行きが感じられるよう工夫している。
高さは約百四十センチあり、行き交う人の目を引くのに十分なボリュームを持たせた。
できれば現場を下見したかったのだが、時間もなく週末だったため叶わなかった。
しかし、小冊子を見て可能な限りイメージを膨らませ、爽やかでありながら豪華なウエルカムフラワーを演出したつもりだ。
だが、実際のフロアは思っていたよりも天井が高く、開放的な空間になっている。
(これだったら、もう一回り大きなものでもよかったかもしれない)
そんな反省をしながら、澄香は手早く作業を進め、装花の設置を終えた。
その場の片づけを済ませ、再度受付を介して、再び荷物搬入用エレベーターに乗り込んで二十九階の社長室を目指す。
(緊張する……。社長さん、あんまり怖い人じゃないといいけど……)
小冊子には社長の顔写真などは載っておらず、調べようにも澄香はパソコンはおろかスマートフォンすら満足に使いこなせない機械音痴なのだ。
目指す階に到着すると、眼鏡の男性が澄香を待っていてくれた。
「『フローリスト・セリザワ』さんですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
男性は澄香に丁寧な礼をし、掌を上向けて進む方向を示してくれた。いかにも腰が低そうなその人は、武田とはまるで雰囲気が違う。
(この人も秘書かな……年は私と同じくらい?)
それにしても、出入りの業者相手に、これほど丁寧な対応をする人ははじめてだ。
澄香は恐縮しつつ歩を進め、彼とともに廊下の一番奥にある部屋のドアの前に立った。
「こちらが社長室です。お花を届けたあと、エレベーターホールを右手に行った先の秘書室においで願えますか? そちらで、契約書の取り交わしをさせていただきます」
「わかりました。秘書課のどなたをお訪ねすればよいでしょうか?」
澄香が訊ねると、武田は自分の胸に手を当てて、かしこまった。
「私、武田一宛で結構です。すぐに対応できるよう、準備万端整えておきますので――」
「え? 武田さんって……」
澄香は、あわてて武田と名乗る人が首から下げているカード型の名札を見た。そこには確かに「武田一」と記されており、本人の顔写真までついている。
もらった名刺に記されていた「秘書課主任 武田一」は、店に来てくれた美丈夫ではなかった?
澄香の混乱をよそに、本物の武田が社長室のドアをノックした。
一呼吸置いたのちにドアを開け、武田が落ち着いた声で中に向かって声をかける。
「社長、『フローリスト・セリザワ』さんが、装花を届けにいらっしゃいました」
武田に促され、澄香は部屋の中に一歩足を踏み入れた。
窓際に配されたデスクの前に、こちらに背を向けた姿勢で立っているスーツ姿の男性がいる。
武田が速やかに退出し、一人残された澄香はカートを押して恐る恐る部屋の奥に向かった。そうしながら、社長に向かって声をかける。
「『フローリスト・セリザワ』です。お花をお届けに参りました」
言い終えると同時に、うしろ向きだった社長が澄香を振り返った。
「あっ」
思わず声が出て、あんぐりと口を開けたままその場に立ち尽くす。
そこにいたのは、装花を注文した男性その人だったのだ。
まさか、彼が社長だったなんて――
思ってもみなかった状況に、澄香は唖然として声も出せずにいる。
「花は、そこの棚の上に置いてくれ」
彼はデスクのすぐ左側の壁を指さした。そこには、クロームメッキのフレームに白いガラスパネルを組み合わせたデザイン性の高い棚が置かれている。
「は、はいっ」
澄香はカートからアレンジメントを取り上げ、まっすぐ指定された棚に向かった。その際、デスクの上に置かれたプレートに「一条時生」と記されているのを確認する。
渡されていた小冊子には、社長と数名の役員の名前が載っており、そこには確かに「代表取締役社長 一条時生」とあった。
澄香は自分の勘違いを悟り、心の中でガックリと肩を落とす。
一条を社長秘書だと思い込んでいた澄香は、彼の言動から「一条ビルマネジメント」の社長は、厳つくて近寄りがたい年配の男性だと想像していた。そして、自分なりにイメージを膨らませて、今手にしているアレンジメントを作ったのだ。
出来上がったのはバイオレットカラーやトルコキキョウなどの濃い紫を基調としたどっしりとした重みのある品で、まだ若くアクティブな印象の彼には明らかにそぐわない。
「ふぅん。ずいぶん渋めのアレンジメントだな」
澄香の背後に立った一条が、ボソリと呟く。
ああ、やっぱり――
彼が社長であると知らされていなかったとはいえ、これはさすがにイメージが違いすぎるし、不満に思っても仕方のない出来だ。
澄香は一条を振り返り、深々と頭を下げた。
「すみません! 来店してくださった方が社長ご本人とは思わず、年配の男性を想像して花を選んでしまいました」
「なるほど。俺が誰だかわかっていなかったんだな。社名がわかっているんだから、社長の名前で検索をかけたら一発で顔写真がヒットするはずだが?」
「申し訳ありません。あまり機械に詳しくないもので……」
言い訳がましく聞こえたらいけないと思い、澄香は口ごもったまま、さらに頭を下げる。
一応、自室にノートパソコンはあるが、まったく触っておらず使い方もよくわからない。そのうち使いこなせるようになりたいと思いつつ、気がつけば数年が経過していた。
「ふーん、機械音痴ってやつか。それじゃあ、時代に乗り遅れるぞ。一体、どんな人物を想定して作ったんだ? 恰幅がよくてしかつめらしい頑固おやじって感じか?」
そのとおりの事を言われ、澄香は素直に頷いてそれを認めた。
初回からこんな失敗をしてしまうなんて……
これでは、装花契約など結んでもらえないかもしれない。
(こんな事なら、もっと真面目にパソコンを勉強しておけばよかった……)
せっかく、これまでにないチャンスをもらったのだから、いつも以上にリサーチをしてしかるべきだったのに……
今回の契約が無事締結されれば、生活に余裕ができて妹の海外留学の夢も実現できたかもしれなかった。しかし、自分のミスでそれもダメになりそうだ。
澄香は覚悟を決めて顔を上げると、一条を見た。しかし彼は、別段怒っている様子もなく、じっとアレンジメントを見つめている。
「今回はこれでいいが、次回からはもっと俺にふさわしい花を選んでくれ。母に贈った花束の時のように、俺を喜ばせるアレンジメントを持ってくるんだ」
次回――と言うからには、次があるという事だ。
澄香は俄然やる気を取り戻し、前のめりになって「はい」と返事をした。
「次はきっと、満足していただけるアレンジメントを持ってくるとお約束します! もしご希望の花がありましたらお聞かせください。その他にも、大きさや色、雰囲気、なんでもいいので希望をおっしゃってください」
次こそは、という固い決意を胸に、澄香はポケットからペンとメモ帳を取り出した。
しかし、彼は鷹揚に首を横に振りながら、澄香の手からそれを取り上げてしまった。
「あ」
思ってもみない彼の行動に、澄香はポカンとして棒立ちになる。
「あいにく、俺は忙しくて、ここでいろいろ話している時間はないんだ」
「ああ……はい、承知しました」
なるほど、社長なのだから、それも当たり前だ。
澄香は、手を伸ばしてペンとメモ帳を受け取ろうとした。しかし、一条は取り上げたものを、高く持ち上げて手が届かないようにしてくる。
「ちょっ……あの――」
まるで、小学生の男の子が、ふざけているみたいだ。
澄香は戸惑いつつも、再度ペンとメモ帳に手を伸ばす。すると、一条が愉快そうに笑って、澄香の手を掴み、掌の上にペンとメモ帳を置いてくれた。
いきなり手を握られた澄香は、驚いて固まる。しかも彼は、澄香の手を握ったまま腰を屈め、顔を覗き込んできた。
「わざわざ君に花を頼むんだから、ぜひとも俺にふさわしいものを持って来てもらいたい。ところで、君の店はいつが定休日だ?」
「も、木曜日です」
「土日は営業しているのか? 君の他に従業員は先日見た年配の女性だけか?」
「はい。土日も営業していますし、先日お話させていただいたのは私の母です。あの店は母が経営者で、従業員は母と私の二人だけです」
「そうか。閉店時刻は、うちと同じ午後六時だったな。では、とりあえず今週の金曜日の午後七時、店に迎えに行くから準備をして待っているように」
それだけ言うと、一条は澄香の手を離し、デスクについてビジネスホンのボタンを押した。そして、秘書の武田を呼び出し、ここへ来て装花契約を進めるよう指示する。
ほどなくしてやって来た武田が、澄香を応接セットに誘導し、契約書を示した。
当初言われていたとおり、花を置くのはエントランスと社長室の二カ所。週に一度の割合で花を生け替え、必要に応じてメンテナンスをする。
(よかった! これで美咲の海外留学への道が開ける!)
澄香は躍り出しそうになるのを堪えて、心の中でガッツポーズをした。今日は、なんていい日なのだろう!
ソファに腰かけながら一条のほうを見ると、ちょうどパソコンを開いて仕事を始めようとしているところだった。
聞くなら今だ――澄香は、早口で一条に声をかけた。
「あの、金曜日の準備っていうのは、何の準備でしょうか?」
澄香の問いかけに、彼はパソコンに向けた顔を動かさないまま、チラリと視線だけを向けてきた。
「デートに決まっているだろう? 俺と二人きりでデートをして、俺自身を深く知ってもらう。そうすれば、俺も君をよく知る事ができるし、一石二鳥だ」
彼はそう言うと、早々にキーを操作し始める。
「……えっ……デ、デート……?」
一瞬聞き間違いかと思った。けれど、前の席に座っている武田を見ると、澄香の言葉に反応するように深く頷いている。
「こちらが、社長の名刺です」
武田から一条の名刺を渡され、何かあれば裏面に記されている個人の電話番号かSNSのアカウントに連絡をするよう言われた。
(デ、デートって何?)
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