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1巻
1-3
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再び一条を見るも、彼はすでにビジネスモードに入っており、話しかけられるような雰囲気ではない。
(ちょっ……なんでデート? 一石二鳥って何?)
一体、何がどうしてそうなるのか。
自分にふさわしい花を用意してもらいたいからといって、いくらなんでも飛躍しすぎだ。
しかし、どんなに一条を窺っても、先ほどの言葉を撤回する様子は見られない。
(まさか、本気なの……?)
まったくもって、わけがわからないが、仕事を請け負う側の澄香には断るという選択肢はない。
武田が契約内容について話している間も、澄香の頭の中では「デート」という単語がものすごいスピードでグルグルと回り続けていた。
一方的に一条とのデートが決まった日の夜、澄香は親友の土田春奈と近所のファミリーレストランで食事をしながら話し込んでいた。
「それって、めちゃくちゃ玉の輿に乗れるコースじゃないの! チャンスだよ、澄香!」
澄香が一連の出来事を話し終えるなり、春奈が興奮気味に椅子から腰を浮かせた。彼女は話を聞きながらスマートフォンで一条の画像を検索し、その美男ぶりに度肝を抜かれた様子だ。
春奈が見せてくれた彼に関する記事によれば、一条は今年三十歳になったばかり。幼少の頃から優秀で、成績は常にトップクラス。生まれながらのビジネスセンスを持ち、就任以来、自社の売上高を伸ばし、純利益を二倍以上に膨らませた実績を持つという。どうやら彼は、容姿端麗なだけでなく、超一流のビジネスパーソンであるらしい。
「こんなハイスペックなイケメン、ぜったいに逃がしちゃダメだからね! 何がなんでも捕まえて、結婚に持ち込まなきゃ。そうすれば、待っているのは夢のセレブ生活だよ~」
春奈が掌をひらひらさせながら、うっとりとした表情を浮かべた。彼女とは幼稚園からの仲であり、お互いになんでも話せる良き理解者でもある。そんな春奈は、現在付き合って二年目の彼氏と結婚準備中だ。
「玉の輿って……そんなんじゃないんだって。デートって言っても、あくまでも満足してもらえるアレンジメントを作れるよう、社長本人をよく知るためのもので――」
「だって、社長自ら〝デート〟って言ったんでしょ? デ、エ、ト! もしかして、いきなり盛り上がって朝までコースになったりして! おばさんには言ってあるの? なんなら、うちに泊まるって事にしておこうか?」
「春奈ったら……なんで、いきなりそこまで話が飛躍するの? これは〝デート〟という名の仕事なの。うまくいけば、美咲を留学させてあげられるし、家計的にも大助かりなのよ。間違っても契約を解除されないように、できるだけ社長を観察したり話したりして、少しでもたくさんの情報を得てこないと」
契約を結んだとはいえ、一条の判断でいつでも解約できる内容になっているのだ。
「そりゃそうだろうけど、せっかく出会ったんだよ? とりあえず、頑張ってみようよ。待ち合わせが午後七時なら、準備も手伝えるよ。私とサイズが同じだからデートの洋服を貸してあげられるし、髪の毛もおしゃれにしてあげる」
歯科衛生士の春奈は澄香と同じく木曜日が休みだが、診療は午後五時で終了するのだ。
「ありがとう。だけど、どう考えても現実的じゃないって。ものすごいイケメンなのは認めるけど、いかにも女性慣れしてそうだし、必要以上に親しくならないほうがいいと思う」
「まあ、これだけの人だから、ものすごくモテるだろうね」
「でしょ? そんな人が私なんかを相手にすると思う? それに、私が付き合うなら結婚前提じゃないと嫌だって知ってるでしょ? 遊ばれてポイとか、ぜったいにごめんだし。だったら、最初から何も期待しないほうがいいよ」
昔から堅実派の澄香は、軽い気持ちで男性と付き合うという考えがそもそもない。当然相手は、堅実で誠実な人が望ましいし、もし縁あって結婚する事になったら、平穏で安定した生活を送りたいと思う。
「澄香の考えは知ってるけど、たまには冒険してみるのもいいと思うよ? だって、相手は恋愛に長けたイケメンだよ。スポーツする時だって、事前に準備運動をするでしょ? このデートは、澄香がこの先、本気で恋愛をする時のための、いい練習になるんじゃないかって思うんだよね」
「練習って……。お互いに好きでもない相手と、何をどう練習するのよ」
「だから、そう硬く考えなくてもいいんだって。彼氏がいるわけでもないし、ただデートして、社長と楽しい時間を過ごせばいいの。それに、仕事の一環って言っても、せっかくなら楽しまなきゃ損だし、自然体でないと社長の人となりだってわからないよ」
言われてみれば、そうかもしれない。せっかく時間をとってもらうのだから、きちんと成果を出さなければ申し訳ない。
「そっか、そうだね」
「そうそう、そのついでに恋愛の練習をさせてもらうって感じで」
「……その、恋愛の練習ってやつ、必要かな?」
「必要だよ! 仕事も大事だけど、私生活だって重要だよ。何事にも練習や下準備は必要だもんね。なんにせよ、デートに関しては社長に任せておけば大丈夫。それに、私、社長って、ぜったいにいい人だと思う」
犬好きで自身もトイプードルを飼っている春奈が、そう断言する。
「だって、捨て犬を保護して何カ月も世話してるんだよ? ワンちゃんも社長に懐いてたんでしょ? 犬を信じなさい。彼が優しい人であるのは、間違いないわよ」
「確かに。そのワンちゃん、社長がそばにくると、嬉しそうにじゃれてピョンピョン飛んだりして。社長のほうも、ワンちゃんにかける言葉はぞんざいでそっけないんだけど、接し方やワンちゃんを見る目が優しいんだよね」
「ほーらね。ワンちゃんも社長に出会えてラッキーだったよ。澄香だって、そう。とにかく、金曜日は目一杯おしゃれして行かなきゃ。せっかく誘ってくれたんだし、それなりの服装をしていかないと失礼でしょ?」
なるほど、相手は有名企業の社長であり、どこに行くにせよカジュアルな装いは避けたほうがよさそうだ。
「わかった。じゃあ、協力をお願いしようかな」
「任せといて。あ~、なんだかウキウキしてきた~!」
やけにハイテンションの春奈に、澄香は困惑する。けれど、これも「フローリスト・セリザワ」や家族のため――そう思って、金曜日のデートに備えようと決心するのだった。
◇ ◇ ◇
一条時生は、仕事上多くの物件に接する事もあり、「一条ビルマネジメント」に入社以来、一、二年という短いスパンで引っ越しを繰り返してきた。
現在住んでいるのは地上三十二階、地下三階建てのタワーマンションで、時生はその最上階のペントハウスで一人暮らしをしている。設計施工ともに「一条コーポレーション」が行ったその建物は、築十二年、専有面積は約二百五十平方メートルの2LDKで、賃借料は毎月二百万円強。一階には二十四時間体制のコンシェルジュが常駐しており、中層階には住人専用のフィットネスルームやラウンジも完備している。
職場までは車で二十分弱で行けるし、実家は十五分の距離だ。
ここに引っ越して今年で二年目になるが、眺望は極めて良好だし、どこへ行くにも利便がよく、今のところ転居の予定はない。
唯一難点を上げるなら、大学時代からの悪友が徒歩五分の距離に住んでおり、しょっちゅうここに入り浸っては部屋を散らかしていく事くらいだ。
(そういえば、あの花屋もここから近かったな)
時生は、母に花束を贈った時の事を思い出す。毎年恒例の、ただ渡すだけの儀礼的なやり取りのはずが、今年は母の反応がまるで違った。
時生の母、一条貴子は現在五十五歳。
一条家の直系尊属にして、「一条コーポレーション」の代表取締役社長で、夫であり時生の父親である一条清志を副社長として従えている女傑だ。
昔から仕事第一で滅多に笑う事などない彼女が、「フローリスト・セリザワ」で作ってもらった花束を手にした途端、目尻を下げて満面の笑みを浮かべた。
それだけでも十分驚くに値するのに、花束を見つめながら「可愛い」と呟いて「ありがとう」と言ってくれた。
もちろん、毎年花束のお礼を言われていたが、いかにも取ってつけたような感じのものだった。
それなのに、今年に限ってはいつまでも両手に抱えたまま花を愛で、ついにはお気に入りの花器を用意させて自ら生けていたのだ。
今年渡した花束は豪華とはほど遠く、言ってみれば、作った本人と同じく、特別秀でた感じはしなかったのだが……
「いろいろと意味が込められていたにせよ、一体、あの花束の何がそんなに良かったんだ?」
時生は、窓から見える煌びやかな夜景を眺めながら、独り言を言う。
あの日、母の誕生日用の花束を買いに行く途中、たまたま「フローリスト・セリザワ」の前を通りかかった。信号に引っかかり、なんの気なしに店のほうを見ると、花屋の店先で、大口を開けて笑っているエプロン姿の女性が目に入った。
店は見るからに町の花屋といったこぢんまりとした感じだったし、女性もどこにでもいる普通の容姿だ。普段の自分なら、そんな店に立ち寄ったりしないし、花束を買う店も別の高級店を予定していた。
それなのに、気がつけば「フローリスト・セリザワ」で花束を依頼しており、店にいた女性に聞かれるまま、自身の母親について話していたのだ。
今考えてみても、なぜ話す気になったのかわからないし、気まぐれとしか言いようがない。強いて理由を上げるならば、彼女の笑顔に引き寄せられたとでも言うべきか。
(芹澤澄香か……。少々おせっかいだし、顔もスタイルも普通。だが、対応は丁寧で礼儀正しいし、からかい甲斐があって面白い。それに、妙に惹かれる……実に不可思議な女性だ)
芹澤澄香は、自分にとって目新しい事この上ない。
だが、いくら知らなかったとはいえ、誰に向かってあんな自己中心的ともいえる誘導をしたと思っているのだ。
これまで生きてきた中で、時生は親族以外に意見される事などまずなかった。
それなのに、彼女は花束を依頼した時、こちらの要望をストレートに受け取らず、最終的に自分の思い通りのものを作り、それを時生に受け取らせたのだ。
はっきりとした言葉ではなかったが、時生は結果的に彼女の言葉に誘導され、思っていたのとは違う花束を持って母を訪ねたのだった。
もちろん、いい結果を得られたのだから、彼女には感謝している。
それでも、やはりちょっと気に入らない。
まさかとは思うが、ああ見えて男を手玉に取るタイプの女性なのだろうか?
(いや、あの反応からして、男慣れしていないと判断するのが妥当だろうな)
彼女は、ほんの少し指に唇が触れたり、手を握ったりしただけで固まって赤面していた。
いずれにせよ、あれほどわかりやすい反応を見せる女性に会ったのははじめてだ。
時生の知る女性は皆、手練手管に長けており、嘘の涙を見せたり過剰に媚びたりする事はあっても、こちらの行動に素直に顔を赤くするような者など一人もいない。
それもそのはずで、これまで自分に近づいてきた女性は、全員が一条家のステータスを目当てにしていた。それはまあ、よしとしよう。
自分だって、一定以上の家柄や容姿などを重視して女性を選んでいるのだから、お互いさまと言えなくもない。
時生は将来的に一条グループのトップに立ち、各会社の未来を担う立場になる身だ。つまり、今後も一条家を繁栄させるべく、結婚をして子孫を残す義務を背負っている。
そのため、これまで女性とはそれを目的として付き合い、その都度、義務を果たすにふさわしいかどうかを判断してきた。
当然、恋愛感情など二の次である。由緒正しい一族に生まれたのだから、当たり前の事だと思うし、それについて異論はない。
しかし、長く生活をともにし、子を成す相手だ。性格はもとより、身体の相性も良くなければその気にはなれない。
結果、今に至るまで妻として、ともに一条家を盛り立てていける女性は見つからず、独身生活を継続している。
言うまでもなく、芹澤澄香は伴侶としては家柄、容姿ともに候補にも挙がらない女性だ。
ただ、彼女との短い交流の中で、その性格を好ましく感じた。
提示した要望を素直に実行しないのは問題だが、きちんと結果を出したのは見事だし評価に値する。彼女の相手をするのは愉快そうだし、彼女の手からチョコレートを食べた時、ふと唇を奪ってやりたい衝動に駆られた。
ほぼ初対面の、伴侶候補にもならない相手とデートをする気になったのは、そんな感情を持った自分を新鮮に感じたからだろう。
何より、一体なぜ、彼女の作った花束があれほど母を喜ばせたのか――ぜひとも、その要因を探る必要がある。
(何はともあれ、まずは近くで、彼女と接してみる事だ)
それには、当然身体の相性も含まれていた。
もちろん、相手の意向を無視して関係を持つつもりはないが、自他ともに認める超絶モテ男たる自分だ。
男慣れしていない女性を落とすのは、赤子の手をひねるよりも簡単だろう。
花嫁候補にはならないが、たまには結婚とは関係なく女性と深い関係になるのも悪くない。
そんな事を考えながら窓辺でワイングラスを傾けていると、左の足先に柔らかな温もりを感じた。
見ると、足元に犬がいる。
「なんだ、お前か」
この犬と出会ったのは、今から数カ月前。悪友に誘われて食事に行った時の事だ。
帰りがけに車を取りに一人駐車場に向かっていると、劇場横の路地で蹲っているこいつを見つけた。
かなり汚れていて、見るからに弱っていた。
それでも「おい」と声をかけると、顔を上げて「クゥン」と鳴いて、尻尾を振ってきた。
放っておけば間違いなく命を落とすだろう――そう判断するなり、なぜかそのまま放置する事ができなくなった。
幸い、近くに動物病院がある事を知っていたから、すぐにそこに連れて行って診てもらったところ、ジステンパーウイルスに感染していた。このウイルスは、伝染率と致死率が高く、消化器や呼吸器の他、目や皮膚、神経系の問題を引き起こすものだ。
そのまま入院加療させたが、うしろ足が動き辛いという後遺症が残った。
保護施設を訪ねたが、里親が見つかるまで預かってほしいと言われ、かれこれもう百日近く同居している。
いずれは手放す予定の犬だ。そのため、名前もつけないで「おい」とか「お前」とか呼んでいるが、一時的にでも呼び名をつけたほうがいいだろうか?
「やっぱり、名前がほしいか? お前、どう思う?」
犬に訊ねると、機嫌よさそうに尻尾を振って足の周りをクルクルと回り始めた。
『犬って人を見ますから、きっとお客さまが優しい人だってわかったんでしょうね』
そう言って、上目遣いにこちらを見た時の彼女は、犬と甲乙つけがたいほど愛嬌があった。
犬も芹澤澄香も、どちらも可愛げがある。
デート中、一体どんな反応を見せてくれるのやら……
それを思うと、かなり楽しみだし、せっかくだから十分に楽しませてやろうと思う。
「ふっ……名前、何がいいかな」
時生は膝を折ってその場に屈み込むと、優しく犬の頭を撫でてやるのだった。
◇ ◇ ◇
やってきた、デート当日。
澄香は仕事を終えるとすぐに自転車で七分の距離にある春奈の家に向かった。待ってましたとばかりに自室に迎え入れられ、鏡の前に座らされる。
一応、自力でコーディネイトした服を着て行ったけれど「地味すぎる」と、春奈に一蹴されてしまった。
「ちょっと、これ着てみて」
彼女が用意してくれていたのは、ふわふわとした白いニットのトップスに、黒のレーススカートを合わせた、ちょっとフォーマルな印象の組み合わせだった。それにライトグレーのチェスターコートとチェック柄のストールが加わる。
「ちょっとガーリッシュすぎない?」
普段これほど甘いテイストの洋服を着る機会なんかなかった。
澄香は鏡に映る自分自身を眺め、首を傾げる。
「ううん、似合ってる! バッチリだよ、澄香!」
「そ、そう?」
春奈に太鼓判を押され、ちょっとだけ安心する。
続いて、顔にナチュラルなピンク系のメイクを施され、髪の毛は丁寧に梳かして毛先を軽く巻かれた。
結局黒のパンプス以外は、すべて春奈のものを借りて待ち合わせ場所に向かう。
一条からは店に迎えに来ると言われていたが、前日にSNSで連絡を入れ、春奈の自宅近くの公園を待ち合わせ場所にさせてもらった。
理由は、準備を春奈の家でする予定だったのと、母にデートの件を言えなかったためだ。
(だって、いきなり「デートに行ってきます」なんて言えないよ……。ぜったい驚くし、いろいろと聞かれると面倒だし)
これまでも、何度かグループデートらしきものならした事があった。
けれど、一対一のデートなどした事がないし、母もそれを承知している。それなのに、いきなり恋人でもない人とデートをするなどと言ったら、一体何事かと思われてしまう。
(しかも、その相手が一条社長だと知ったら、腰を抜かしちゃうよ)
ただでさえ母は、彼がはじめて来店した時から目を白黒させっぱなしなのだ。
今は、とりあえず内緒にしておいたほうがいいだろう。
午後七時前。外はもうかなり暗いが、大通りに面した道は、明るい街灯に照らされている。
時間より少しだけ早く待ち合わせ場所に到着し、道路のほうに顔を向けた。すると、まさに今やって来たばかりの一条と、車のフロントガラス越しに目が合う。
「あっ、社長っ……」
澄香が、咄嗟にペコリと頭を下げると、彼はハンドルを持っていた手を上げて、軽く横に振った。その顔には、にこやかな笑みが浮かんでいる。
(社長、笑ってる)
薄く微笑まれた事はあったが、白い歯を見せて笑った顔を見るのははじめてだ。
その笑顔が素敵すぎる。
澄香は胸の高鳴りを抑えつつ、ぎこちなく微笑み返す。
車が少し先の路肩に停まり、一条が運転席から降りてきた。彼はすぐに助手席に回り、澄香のためにドアを開けてくれる。その動きが実に自然で、優雅だ。
「待たせて悪かったね」
「いえ、私も今来たばかりです」
「そうか。さあどうそ、乗って。寒かっただろう?」
「あっ……ありがとうございますっ」
いつ何時も尊大なのかと思っていたが、意外と紳士的で物腰が柔らかいのに驚いた。
(一応、デートだからかな? それとも、女性にはいつもこんな感じ?)
いずれにせよ、きっと彼はエスコート上手だ。
一方、澄香はデートに関してはド素人だし、もっと言えばいい年をして男性に対しては免疫がほぼゼロに等しい。
妙に背伸びしたり気取ったりしても仕方がないし、春奈が言っていたように、すべて一条に任せたほうがいいだろう。
そう思うと、いくらか気が楽になり、周りを見る余裕が出てきた。
街灯の灯りを受けて光るメタリックブラックの車は、見るからに高そうだ。
車にまったく詳しくない澄香でもそうとわかるくらい高級感があるし、腰を下ろしたシートもものすごく身体にフィットする。
(……って、当たり前だよね。大会社の御曹司で社長だよ?)
澄香が普段使っているバンとは乗り心地がまるで違う。
一条は助手席のドアを閉めると、車の前を通って運転席のドアを開けた。今夜の彼は一段とゴージャスで目のやり場に困るくらいだ。
そんな一条が、シートに腰を下ろすなり、澄香のほうに身体ごと向き直ってくる。
(わっ! ち、近いっ!)
いきなり何事かと思いきや、彼は後部座席に置いてあったらしい縦長の紙袋を手に取り、中から真新しいネクタイを取り出した。
それまで締めていたのはシックで落ち着いた無地のネクタイだったが、今手にしているのは少しカジュアルで柔らかな印象のドット柄だ。
ルームミラーを調整した一条が、襟元に手をやりネクタイを緩めた。
衣擦れの音と優雅に動く手の指に見惚れているうちに、彼が新しいネクタイを締め終わり、さっきまで締めていたものを後部座席の上に置いた。
(ま、またっ⁉)
再び距離が近づき、血管の浮いた男性的な手の甲の造形美を間近に見せつけられる。
もしかして、わざと?
澄香が一人ドギマギしていると、一条がシートベルトを締めながら、澄香に顔を向けた。
「今日はシックな装いをしてるんだな。デートにぴったりだ。とても素敵だし、可愛いよ」
いきなり褒められて驚いた澄香は、顔にぎこちない笑みを浮かべた。
「あ……あ、ありがとうございます。実はこれ、ほぼ借り物なんです。私、おしゃれとかちゃんとした事がなくって……だから、友達に助けてもらって、メイクや髪の毛を整えてもらったんです」
あわてるあまり、別に言わなくてもいい事まで言ってしまった。澄香がバツの悪そうな顔をすると、一条がそれを見てにっこりする。
「友達はいいものだな。その人は、君の店の近くに住んでいるのか?」
「はい。幼稚園からずっと仲のいい幼馴染で、大親友なんです」
「それはいいね。近くにそういう人がいると、何かと心強い」
「そうなんです! 今日も、せっかくイケメンの社長とデートするんだから、それなりの格好をしていかないと失礼だからって――あっ……」
またしても余計な事を言ってしまい、思わず口元を手で押さえ下を向いた。車が走り出し、運転席から朗らかな笑い声が聞こえてくる。
「君の友達には〝イケメン〟と言ってくれた礼を言っておいてくれ。さて、とりあえず食事に行こうか。一応行きつけの日本料理店に予約を入れておいたが、フレンチとかイタリアンがよければ変更しても構わない」
「いえ、日本料理、嬉しいです。和食なら、ナイフもフォークも使わずに、お箸だけで食べられますから――」
(ああ、もう! 喋れば喋るだけボロが出る!)
澄香は、一度上げかけた顔を再度下に向けた。
やはり、何事にも練習や下準備は必要なのだと実感する。だが、春奈に言わせると、今日のこれはデートの練習のようなもののはず。なのに、それすらまともにできない自分は、デートの練習のための練習まで必要だったという事か……
「急に黙り込んで、どうかしたか?」
下を向いたまま沈黙していたら、一条にそう聞かれた。
「あ……いえ――」
澄香は、なんとか取り繕おうと思ったが、そうすると余計ドツボにハマってしまいそうな気がした。それならば、いっそ素直に打ち明けたほうがいい。そう思った澄香は、今思っている事などを包み隠さず話し始める。
「実は私、これまでデートとかまともにした事がないんです。友達とかお客さまとなら、いくらでもスムーズに話せるんですが、こんなふうに男の人と二人っきりだと何を話せばいいのかわからなくて……」
ちらりと運転席のほうを見ると、一条が話を聞いているというように相槌を打った。
「友達からは、いつか本当のデートをする時の事前練習だと思えばいいと言われました。仕事だとしても、せっかくならデートを楽しんだほうがいいし、自然体でないと社長の人となりもわからないって。それも一理あると思って、今日の日を迎えたんですけど、さっきから変な事を口走ってばかりで……だから……」
「だから、もうあまり口を開かないほうがいいと思ったのか?」
「はい、そんなところです」
澄香は頷きながら一条のほうを見た。すると、彼は前を向いて運転をしながら、口元にうっすらとした笑みを浮かべる。
車が交差点を左折し、少し細い道に入った。
「俺は君が話すのを聞くのは嫌いじゃない。むしろ、面白くて楽しいと感じるし、取り繕った上辺だけの話をされるよりずっといい。それに、君は素直に思った事を言っているだけで、別に変でもなんでもない」
そう言われて、澄香は肩の力が抜けたような気がした。
助手席で縮こまっていた身体が少しほぐれ、自然と話そうという気持ちになる。
「それに、本当のデートをする時の事前練習っていうのも賛成だな。楽しんだほうがいいというのも。しっかり今日を楽しんで、俺という人物を理解してもらいたい」
「はい、承知しました」
澄香は気持ちを新たにし、居住まいを正した。車が赤信号で止まり、一条が澄香のほうを見た。
「せっかくだし、お互いの呼び方も変えようか。君の事は〝澄香〟と呼ばせてもらう。いいな? 澄香」
「へ? あっ……はい! 問題ありません。じゃあ、私は社長の事を――」
「好きなように呼べばいい。呼び捨てでも構わないし」
「いえ、呼び捨ては、いくらなんでも無理です。では〝時生さん〟と呼ばせていただきます」
車が再び走り出し、高速に乗った。道の両側にはいくつものビルが乱立し、それぞれ、まだ灯りのついている階が多い。
「ここは、たまに仕事で通るんですけど、昼間とは雰囲気が違いますね」
「この辺りは日当たりがいいから、日中はほとんどの会社がブラインドを下ろしたりカーテンを引いたりしているからな。その逆に、夜は窓から中が丸見えになってる」
なるほど、時生が言うように、灯りがついている窓の中には残業をしている人達の姿が見えた。
オフィスの中を歩いたり、デスクに向かったりしているのが車の中からでもわかる。
「結構よく見えるんですね。なんだか、面白いです」
「うちの社屋の下層からも高速を走っている車がよく見える。五階にあるカフェの窓際や、七階のフィットネスルームのウォーキングマシンあたりからだと、特によく見えるな」
(ちょっ……なんでデート? 一石二鳥って何?)
一体、何がどうしてそうなるのか。
自分にふさわしい花を用意してもらいたいからといって、いくらなんでも飛躍しすぎだ。
しかし、どんなに一条を窺っても、先ほどの言葉を撤回する様子は見られない。
(まさか、本気なの……?)
まったくもって、わけがわからないが、仕事を請け負う側の澄香には断るという選択肢はない。
武田が契約内容について話している間も、澄香の頭の中では「デート」という単語がものすごいスピードでグルグルと回り続けていた。
一方的に一条とのデートが決まった日の夜、澄香は親友の土田春奈と近所のファミリーレストランで食事をしながら話し込んでいた。
「それって、めちゃくちゃ玉の輿に乗れるコースじゃないの! チャンスだよ、澄香!」
澄香が一連の出来事を話し終えるなり、春奈が興奮気味に椅子から腰を浮かせた。彼女は話を聞きながらスマートフォンで一条の画像を検索し、その美男ぶりに度肝を抜かれた様子だ。
春奈が見せてくれた彼に関する記事によれば、一条は今年三十歳になったばかり。幼少の頃から優秀で、成績は常にトップクラス。生まれながらのビジネスセンスを持ち、就任以来、自社の売上高を伸ばし、純利益を二倍以上に膨らませた実績を持つという。どうやら彼は、容姿端麗なだけでなく、超一流のビジネスパーソンであるらしい。
「こんなハイスペックなイケメン、ぜったいに逃がしちゃダメだからね! 何がなんでも捕まえて、結婚に持ち込まなきゃ。そうすれば、待っているのは夢のセレブ生活だよ~」
春奈が掌をひらひらさせながら、うっとりとした表情を浮かべた。彼女とは幼稚園からの仲であり、お互いになんでも話せる良き理解者でもある。そんな春奈は、現在付き合って二年目の彼氏と結婚準備中だ。
「玉の輿って……そんなんじゃないんだって。デートって言っても、あくまでも満足してもらえるアレンジメントを作れるよう、社長本人をよく知るためのもので――」
「だって、社長自ら〝デート〟って言ったんでしょ? デ、エ、ト! もしかして、いきなり盛り上がって朝までコースになったりして! おばさんには言ってあるの? なんなら、うちに泊まるって事にしておこうか?」
「春奈ったら……なんで、いきなりそこまで話が飛躍するの? これは〝デート〟という名の仕事なの。うまくいけば、美咲を留学させてあげられるし、家計的にも大助かりなのよ。間違っても契約を解除されないように、できるだけ社長を観察したり話したりして、少しでもたくさんの情報を得てこないと」
契約を結んだとはいえ、一条の判断でいつでも解約できる内容になっているのだ。
「そりゃそうだろうけど、せっかく出会ったんだよ? とりあえず、頑張ってみようよ。待ち合わせが午後七時なら、準備も手伝えるよ。私とサイズが同じだからデートの洋服を貸してあげられるし、髪の毛もおしゃれにしてあげる」
歯科衛生士の春奈は澄香と同じく木曜日が休みだが、診療は午後五時で終了するのだ。
「ありがとう。だけど、どう考えても現実的じゃないって。ものすごいイケメンなのは認めるけど、いかにも女性慣れしてそうだし、必要以上に親しくならないほうがいいと思う」
「まあ、これだけの人だから、ものすごくモテるだろうね」
「でしょ? そんな人が私なんかを相手にすると思う? それに、私が付き合うなら結婚前提じゃないと嫌だって知ってるでしょ? 遊ばれてポイとか、ぜったいにごめんだし。だったら、最初から何も期待しないほうがいいよ」
昔から堅実派の澄香は、軽い気持ちで男性と付き合うという考えがそもそもない。当然相手は、堅実で誠実な人が望ましいし、もし縁あって結婚する事になったら、平穏で安定した生活を送りたいと思う。
「澄香の考えは知ってるけど、たまには冒険してみるのもいいと思うよ? だって、相手は恋愛に長けたイケメンだよ。スポーツする時だって、事前に準備運動をするでしょ? このデートは、澄香がこの先、本気で恋愛をする時のための、いい練習になるんじゃないかって思うんだよね」
「練習って……。お互いに好きでもない相手と、何をどう練習するのよ」
「だから、そう硬く考えなくてもいいんだって。彼氏がいるわけでもないし、ただデートして、社長と楽しい時間を過ごせばいいの。それに、仕事の一環って言っても、せっかくなら楽しまなきゃ損だし、自然体でないと社長の人となりだってわからないよ」
言われてみれば、そうかもしれない。せっかく時間をとってもらうのだから、きちんと成果を出さなければ申し訳ない。
「そっか、そうだね」
「そうそう、そのついでに恋愛の練習をさせてもらうって感じで」
「……その、恋愛の練習ってやつ、必要かな?」
「必要だよ! 仕事も大事だけど、私生活だって重要だよ。何事にも練習や下準備は必要だもんね。なんにせよ、デートに関しては社長に任せておけば大丈夫。それに、私、社長って、ぜったいにいい人だと思う」
犬好きで自身もトイプードルを飼っている春奈が、そう断言する。
「だって、捨て犬を保護して何カ月も世話してるんだよ? ワンちゃんも社長に懐いてたんでしょ? 犬を信じなさい。彼が優しい人であるのは、間違いないわよ」
「確かに。そのワンちゃん、社長がそばにくると、嬉しそうにじゃれてピョンピョン飛んだりして。社長のほうも、ワンちゃんにかける言葉はぞんざいでそっけないんだけど、接し方やワンちゃんを見る目が優しいんだよね」
「ほーらね。ワンちゃんも社長に出会えてラッキーだったよ。澄香だって、そう。とにかく、金曜日は目一杯おしゃれして行かなきゃ。せっかく誘ってくれたんだし、それなりの服装をしていかないと失礼でしょ?」
なるほど、相手は有名企業の社長であり、どこに行くにせよカジュアルな装いは避けたほうがよさそうだ。
「わかった。じゃあ、協力をお願いしようかな」
「任せといて。あ~、なんだかウキウキしてきた~!」
やけにハイテンションの春奈に、澄香は困惑する。けれど、これも「フローリスト・セリザワ」や家族のため――そう思って、金曜日のデートに備えようと決心するのだった。
◇ ◇ ◇
一条時生は、仕事上多くの物件に接する事もあり、「一条ビルマネジメント」に入社以来、一、二年という短いスパンで引っ越しを繰り返してきた。
現在住んでいるのは地上三十二階、地下三階建てのタワーマンションで、時生はその最上階のペントハウスで一人暮らしをしている。設計施工ともに「一条コーポレーション」が行ったその建物は、築十二年、専有面積は約二百五十平方メートルの2LDKで、賃借料は毎月二百万円強。一階には二十四時間体制のコンシェルジュが常駐しており、中層階には住人専用のフィットネスルームやラウンジも完備している。
職場までは車で二十分弱で行けるし、実家は十五分の距離だ。
ここに引っ越して今年で二年目になるが、眺望は極めて良好だし、どこへ行くにも利便がよく、今のところ転居の予定はない。
唯一難点を上げるなら、大学時代からの悪友が徒歩五分の距離に住んでおり、しょっちゅうここに入り浸っては部屋を散らかしていく事くらいだ。
(そういえば、あの花屋もここから近かったな)
時生は、母に花束を贈った時の事を思い出す。毎年恒例の、ただ渡すだけの儀礼的なやり取りのはずが、今年は母の反応がまるで違った。
時生の母、一条貴子は現在五十五歳。
一条家の直系尊属にして、「一条コーポレーション」の代表取締役社長で、夫であり時生の父親である一条清志を副社長として従えている女傑だ。
昔から仕事第一で滅多に笑う事などない彼女が、「フローリスト・セリザワ」で作ってもらった花束を手にした途端、目尻を下げて満面の笑みを浮かべた。
それだけでも十分驚くに値するのに、花束を見つめながら「可愛い」と呟いて「ありがとう」と言ってくれた。
もちろん、毎年花束のお礼を言われていたが、いかにも取ってつけたような感じのものだった。
それなのに、今年に限ってはいつまでも両手に抱えたまま花を愛で、ついにはお気に入りの花器を用意させて自ら生けていたのだ。
今年渡した花束は豪華とはほど遠く、言ってみれば、作った本人と同じく、特別秀でた感じはしなかったのだが……
「いろいろと意味が込められていたにせよ、一体、あの花束の何がそんなに良かったんだ?」
時生は、窓から見える煌びやかな夜景を眺めながら、独り言を言う。
あの日、母の誕生日用の花束を買いに行く途中、たまたま「フローリスト・セリザワ」の前を通りかかった。信号に引っかかり、なんの気なしに店のほうを見ると、花屋の店先で、大口を開けて笑っているエプロン姿の女性が目に入った。
店は見るからに町の花屋といったこぢんまりとした感じだったし、女性もどこにでもいる普通の容姿だ。普段の自分なら、そんな店に立ち寄ったりしないし、花束を買う店も別の高級店を予定していた。
それなのに、気がつけば「フローリスト・セリザワ」で花束を依頼しており、店にいた女性に聞かれるまま、自身の母親について話していたのだ。
今考えてみても、なぜ話す気になったのかわからないし、気まぐれとしか言いようがない。強いて理由を上げるならば、彼女の笑顔に引き寄せられたとでも言うべきか。
(芹澤澄香か……。少々おせっかいだし、顔もスタイルも普通。だが、対応は丁寧で礼儀正しいし、からかい甲斐があって面白い。それに、妙に惹かれる……実に不可思議な女性だ)
芹澤澄香は、自分にとって目新しい事この上ない。
だが、いくら知らなかったとはいえ、誰に向かってあんな自己中心的ともいえる誘導をしたと思っているのだ。
これまで生きてきた中で、時生は親族以外に意見される事などまずなかった。
それなのに、彼女は花束を依頼した時、こちらの要望をストレートに受け取らず、最終的に自分の思い通りのものを作り、それを時生に受け取らせたのだ。
はっきりとした言葉ではなかったが、時生は結果的に彼女の言葉に誘導され、思っていたのとは違う花束を持って母を訪ねたのだった。
もちろん、いい結果を得られたのだから、彼女には感謝している。
それでも、やはりちょっと気に入らない。
まさかとは思うが、ああ見えて男を手玉に取るタイプの女性なのだろうか?
(いや、あの反応からして、男慣れしていないと判断するのが妥当だろうな)
彼女は、ほんの少し指に唇が触れたり、手を握ったりしただけで固まって赤面していた。
いずれにせよ、あれほどわかりやすい反応を見せる女性に会ったのははじめてだ。
時生の知る女性は皆、手練手管に長けており、嘘の涙を見せたり過剰に媚びたりする事はあっても、こちらの行動に素直に顔を赤くするような者など一人もいない。
それもそのはずで、これまで自分に近づいてきた女性は、全員が一条家のステータスを目当てにしていた。それはまあ、よしとしよう。
自分だって、一定以上の家柄や容姿などを重視して女性を選んでいるのだから、お互いさまと言えなくもない。
時生は将来的に一条グループのトップに立ち、各会社の未来を担う立場になる身だ。つまり、今後も一条家を繁栄させるべく、結婚をして子孫を残す義務を背負っている。
そのため、これまで女性とはそれを目的として付き合い、その都度、義務を果たすにふさわしいかどうかを判断してきた。
当然、恋愛感情など二の次である。由緒正しい一族に生まれたのだから、当たり前の事だと思うし、それについて異論はない。
しかし、長く生活をともにし、子を成す相手だ。性格はもとより、身体の相性も良くなければその気にはなれない。
結果、今に至るまで妻として、ともに一条家を盛り立てていける女性は見つからず、独身生活を継続している。
言うまでもなく、芹澤澄香は伴侶としては家柄、容姿ともに候補にも挙がらない女性だ。
ただ、彼女との短い交流の中で、その性格を好ましく感じた。
提示した要望を素直に実行しないのは問題だが、きちんと結果を出したのは見事だし評価に値する。彼女の相手をするのは愉快そうだし、彼女の手からチョコレートを食べた時、ふと唇を奪ってやりたい衝動に駆られた。
ほぼ初対面の、伴侶候補にもならない相手とデートをする気になったのは、そんな感情を持った自分を新鮮に感じたからだろう。
何より、一体なぜ、彼女の作った花束があれほど母を喜ばせたのか――ぜひとも、その要因を探る必要がある。
(何はともあれ、まずは近くで、彼女と接してみる事だ)
それには、当然身体の相性も含まれていた。
もちろん、相手の意向を無視して関係を持つつもりはないが、自他ともに認める超絶モテ男たる自分だ。
男慣れしていない女性を落とすのは、赤子の手をひねるよりも簡単だろう。
花嫁候補にはならないが、たまには結婚とは関係なく女性と深い関係になるのも悪くない。
そんな事を考えながら窓辺でワイングラスを傾けていると、左の足先に柔らかな温もりを感じた。
見ると、足元に犬がいる。
「なんだ、お前か」
この犬と出会ったのは、今から数カ月前。悪友に誘われて食事に行った時の事だ。
帰りがけに車を取りに一人駐車場に向かっていると、劇場横の路地で蹲っているこいつを見つけた。
かなり汚れていて、見るからに弱っていた。
それでも「おい」と声をかけると、顔を上げて「クゥン」と鳴いて、尻尾を振ってきた。
放っておけば間違いなく命を落とすだろう――そう判断するなり、なぜかそのまま放置する事ができなくなった。
幸い、近くに動物病院がある事を知っていたから、すぐにそこに連れて行って診てもらったところ、ジステンパーウイルスに感染していた。このウイルスは、伝染率と致死率が高く、消化器や呼吸器の他、目や皮膚、神経系の問題を引き起こすものだ。
そのまま入院加療させたが、うしろ足が動き辛いという後遺症が残った。
保護施設を訪ねたが、里親が見つかるまで預かってほしいと言われ、かれこれもう百日近く同居している。
いずれは手放す予定の犬だ。そのため、名前もつけないで「おい」とか「お前」とか呼んでいるが、一時的にでも呼び名をつけたほうがいいだろうか?
「やっぱり、名前がほしいか? お前、どう思う?」
犬に訊ねると、機嫌よさそうに尻尾を振って足の周りをクルクルと回り始めた。
『犬って人を見ますから、きっとお客さまが優しい人だってわかったんでしょうね』
そう言って、上目遣いにこちらを見た時の彼女は、犬と甲乙つけがたいほど愛嬌があった。
犬も芹澤澄香も、どちらも可愛げがある。
デート中、一体どんな反応を見せてくれるのやら……
それを思うと、かなり楽しみだし、せっかくだから十分に楽しませてやろうと思う。
「ふっ……名前、何がいいかな」
時生は膝を折ってその場に屈み込むと、優しく犬の頭を撫でてやるのだった。
◇ ◇ ◇
やってきた、デート当日。
澄香は仕事を終えるとすぐに自転車で七分の距離にある春奈の家に向かった。待ってましたとばかりに自室に迎え入れられ、鏡の前に座らされる。
一応、自力でコーディネイトした服を着て行ったけれど「地味すぎる」と、春奈に一蹴されてしまった。
「ちょっと、これ着てみて」
彼女が用意してくれていたのは、ふわふわとした白いニットのトップスに、黒のレーススカートを合わせた、ちょっとフォーマルな印象の組み合わせだった。それにライトグレーのチェスターコートとチェック柄のストールが加わる。
「ちょっとガーリッシュすぎない?」
普段これほど甘いテイストの洋服を着る機会なんかなかった。
澄香は鏡に映る自分自身を眺め、首を傾げる。
「ううん、似合ってる! バッチリだよ、澄香!」
「そ、そう?」
春奈に太鼓判を押され、ちょっとだけ安心する。
続いて、顔にナチュラルなピンク系のメイクを施され、髪の毛は丁寧に梳かして毛先を軽く巻かれた。
結局黒のパンプス以外は、すべて春奈のものを借りて待ち合わせ場所に向かう。
一条からは店に迎えに来ると言われていたが、前日にSNSで連絡を入れ、春奈の自宅近くの公園を待ち合わせ場所にさせてもらった。
理由は、準備を春奈の家でする予定だったのと、母にデートの件を言えなかったためだ。
(だって、いきなり「デートに行ってきます」なんて言えないよ……。ぜったい驚くし、いろいろと聞かれると面倒だし)
これまでも、何度かグループデートらしきものならした事があった。
けれど、一対一のデートなどした事がないし、母もそれを承知している。それなのに、いきなり恋人でもない人とデートをするなどと言ったら、一体何事かと思われてしまう。
(しかも、その相手が一条社長だと知ったら、腰を抜かしちゃうよ)
ただでさえ母は、彼がはじめて来店した時から目を白黒させっぱなしなのだ。
今は、とりあえず内緒にしておいたほうがいいだろう。
午後七時前。外はもうかなり暗いが、大通りに面した道は、明るい街灯に照らされている。
時間より少しだけ早く待ち合わせ場所に到着し、道路のほうに顔を向けた。すると、まさに今やって来たばかりの一条と、車のフロントガラス越しに目が合う。
「あっ、社長っ……」
澄香が、咄嗟にペコリと頭を下げると、彼はハンドルを持っていた手を上げて、軽く横に振った。その顔には、にこやかな笑みが浮かんでいる。
(社長、笑ってる)
薄く微笑まれた事はあったが、白い歯を見せて笑った顔を見るのははじめてだ。
その笑顔が素敵すぎる。
澄香は胸の高鳴りを抑えつつ、ぎこちなく微笑み返す。
車が少し先の路肩に停まり、一条が運転席から降りてきた。彼はすぐに助手席に回り、澄香のためにドアを開けてくれる。その動きが実に自然で、優雅だ。
「待たせて悪かったね」
「いえ、私も今来たばかりです」
「そうか。さあどうそ、乗って。寒かっただろう?」
「あっ……ありがとうございますっ」
いつ何時も尊大なのかと思っていたが、意外と紳士的で物腰が柔らかいのに驚いた。
(一応、デートだからかな? それとも、女性にはいつもこんな感じ?)
いずれにせよ、きっと彼はエスコート上手だ。
一方、澄香はデートに関してはド素人だし、もっと言えばいい年をして男性に対しては免疫がほぼゼロに等しい。
妙に背伸びしたり気取ったりしても仕方がないし、春奈が言っていたように、すべて一条に任せたほうがいいだろう。
そう思うと、いくらか気が楽になり、周りを見る余裕が出てきた。
街灯の灯りを受けて光るメタリックブラックの車は、見るからに高そうだ。
車にまったく詳しくない澄香でもそうとわかるくらい高級感があるし、腰を下ろしたシートもものすごく身体にフィットする。
(……って、当たり前だよね。大会社の御曹司で社長だよ?)
澄香が普段使っているバンとは乗り心地がまるで違う。
一条は助手席のドアを閉めると、車の前を通って運転席のドアを開けた。今夜の彼は一段とゴージャスで目のやり場に困るくらいだ。
そんな一条が、シートに腰を下ろすなり、澄香のほうに身体ごと向き直ってくる。
(わっ! ち、近いっ!)
いきなり何事かと思いきや、彼は後部座席に置いてあったらしい縦長の紙袋を手に取り、中から真新しいネクタイを取り出した。
それまで締めていたのはシックで落ち着いた無地のネクタイだったが、今手にしているのは少しカジュアルで柔らかな印象のドット柄だ。
ルームミラーを調整した一条が、襟元に手をやりネクタイを緩めた。
衣擦れの音と優雅に動く手の指に見惚れているうちに、彼が新しいネクタイを締め終わり、さっきまで締めていたものを後部座席の上に置いた。
(ま、またっ⁉)
再び距離が近づき、血管の浮いた男性的な手の甲の造形美を間近に見せつけられる。
もしかして、わざと?
澄香が一人ドギマギしていると、一条がシートベルトを締めながら、澄香に顔を向けた。
「今日はシックな装いをしてるんだな。デートにぴったりだ。とても素敵だし、可愛いよ」
いきなり褒められて驚いた澄香は、顔にぎこちない笑みを浮かべた。
「あ……あ、ありがとうございます。実はこれ、ほぼ借り物なんです。私、おしゃれとかちゃんとした事がなくって……だから、友達に助けてもらって、メイクや髪の毛を整えてもらったんです」
あわてるあまり、別に言わなくてもいい事まで言ってしまった。澄香がバツの悪そうな顔をすると、一条がそれを見てにっこりする。
「友達はいいものだな。その人は、君の店の近くに住んでいるのか?」
「はい。幼稚園からずっと仲のいい幼馴染で、大親友なんです」
「それはいいね。近くにそういう人がいると、何かと心強い」
「そうなんです! 今日も、せっかくイケメンの社長とデートするんだから、それなりの格好をしていかないと失礼だからって――あっ……」
またしても余計な事を言ってしまい、思わず口元を手で押さえ下を向いた。車が走り出し、運転席から朗らかな笑い声が聞こえてくる。
「君の友達には〝イケメン〟と言ってくれた礼を言っておいてくれ。さて、とりあえず食事に行こうか。一応行きつけの日本料理店に予約を入れておいたが、フレンチとかイタリアンがよければ変更しても構わない」
「いえ、日本料理、嬉しいです。和食なら、ナイフもフォークも使わずに、お箸だけで食べられますから――」
(ああ、もう! 喋れば喋るだけボロが出る!)
澄香は、一度上げかけた顔を再度下に向けた。
やはり、何事にも練習や下準備は必要なのだと実感する。だが、春奈に言わせると、今日のこれはデートの練習のようなもののはず。なのに、それすらまともにできない自分は、デートの練習のための練習まで必要だったという事か……
「急に黙り込んで、どうかしたか?」
下を向いたまま沈黙していたら、一条にそう聞かれた。
「あ……いえ――」
澄香は、なんとか取り繕おうと思ったが、そうすると余計ドツボにハマってしまいそうな気がした。それならば、いっそ素直に打ち明けたほうがいい。そう思った澄香は、今思っている事などを包み隠さず話し始める。
「実は私、これまでデートとかまともにした事がないんです。友達とかお客さまとなら、いくらでもスムーズに話せるんですが、こんなふうに男の人と二人っきりだと何を話せばいいのかわからなくて……」
ちらりと運転席のほうを見ると、一条が話を聞いているというように相槌を打った。
「友達からは、いつか本当のデートをする時の事前練習だと思えばいいと言われました。仕事だとしても、せっかくならデートを楽しんだほうがいいし、自然体でないと社長の人となりもわからないって。それも一理あると思って、今日の日を迎えたんですけど、さっきから変な事を口走ってばかりで……だから……」
「だから、もうあまり口を開かないほうがいいと思ったのか?」
「はい、そんなところです」
澄香は頷きながら一条のほうを見た。すると、彼は前を向いて運転をしながら、口元にうっすらとした笑みを浮かべる。
車が交差点を左折し、少し細い道に入った。
「俺は君が話すのを聞くのは嫌いじゃない。むしろ、面白くて楽しいと感じるし、取り繕った上辺だけの話をされるよりずっといい。それに、君は素直に思った事を言っているだけで、別に変でもなんでもない」
そう言われて、澄香は肩の力が抜けたような気がした。
助手席で縮こまっていた身体が少しほぐれ、自然と話そうという気持ちになる。
「それに、本当のデートをする時の事前練習っていうのも賛成だな。楽しんだほうがいいというのも。しっかり今日を楽しんで、俺という人物を理解してもらいたい」
「はい、承知しました」
澄香は気持ちを新たにし、居住まいを正した。車が赤信号で止まり、一条が澄香のほうを見た。
「せっかくだし、お互いの呼び方も変えようか。君の事は〝澄香〟と呼ばせてもらう。いいな? 澄香」
「へ? あっ……はい! 問題ありません。じゃあ、私は社長の事を――」
「好きなように呼べばいい。呼び捨てでも構わないし」
「いえ、呼び捨ては、いくらなんでも無理です。では〝時生さん〟と呼ばせていただきます」
車が再び走り出し、高速に乗った。道の両側にはいくつものビルが乱立し、それぞれ、まだ灯りのついている階が多い。
「ここは、たまに仕事で通るんですけど、昼間とは雰囲気が違いますね」
「この辺りは日当たりがいいから、日中はほとんどの会社がブラインドを下ろしたりカーテンを引いたりしているからな。その逆に、夜は窓から中が丸見えになってる」
なるほど、時生が言うように、灯りがついている窓の中には残業をしている人達の姿が見えた。
オフィスの中を歩いたり、デスクに向かったりしているのが車の中からでもわかる。
「結構よく見えるんですね。なんだか、面白いです」
「うちの社屋の下層からも高速を走っている車がよく見える。五階にあるカフェの窓際や、七階のフィットネスルームのウォーキングマシンあたりからだと、特によく見えるな」
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