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寒明けの章
2 昔のひと、今のひと。
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葉書を見つけたのは偶然だった。母はいつも几帳面で用心深く、半ば住まいでもある古い旅館を切り盛りしつつ自分宛の郵便物を人任せにしない。
だが、あのときは。
――――――――……
ふいに玄関の呼び鈴が鳴り、午睡からめざめた。
「木嶋さん、郵便とお荷物でーす」
「……はい」
週半ば。休日出勤の代替えとしての在宅だった。
けだるい体をゆっくりと起こし、二階の八畳和室から階下へと降りる。
階段を照らす窓のさんには雪が積もり、晴れ間の光を弾いて眩しかった。
何もなくとも季節だけは巡るんだな、と内心毒づく。
春に妻が失踪して以来、独りで過ごす家は空虚で無為。出かける気にもなれない。
桜が散りかけていたあの日。弁護士が間に立って、連絡も取れないままに離婚させられた。
責は夫にあると。もう、二度と近づくなと言われても。
(居場所すら、わからないのに)
自嘲の笑みが浮かぶ。記憶のなかの声がどんどん薄れてゆく。
母が経営する古びた旅館の裏手――ここは、以前は夫婦の住まいだった。
三年間。
互いの休日が滅多に合わなかったから、確実に会えるのは夜だけというわずかな時間だったけれど。
――妻、だった。かけがえのない湊。
玄関の戸の磨り硝子の向こうに、荷物を持つ配達人のシルエットが見える。
こんな風に訪ってくれる人間が、彼女であればいいのに。
熾火のように胸底で燻る熱を。叫びたい衝動を押し殺し、木嶋蓮也はつめたい石床に降り、鍵を開けた。
* *
「お休みのところすみません。木嶋……富さん宛ですね。サインか判子、お願いします。」
「はい。ご苦労様です」
受け渡しを終えた配達人は、ふと足を止めてポストの郵便物を抜き取り、まだ小上がりに座したままの家人に手渡した。
「どうぞ」
「あ。……どうも」
木嶋が受け取った封書の束に視線を落としているうちに、カラカラ……とサッシの引き戸が閉まり、バイクのエンジン音が遠ざかった。
静けさが満ちる。
手のなかに、いくつかの葉書と封書がある。
そのうちの一つに、どうしても目が吸い寄せられた。
――“木嶋富様”
裏返してはいないが、絵葉書なのだろう。宛名面の下半分が短い私信になってる。当たり障りのない文面のうち、後半を食い入るように 見つめた。
――“私はアルバイトをしながら職安で勧められた資格を取るための勉強をしています。年が明ければ職探しを”
つまり。
(新天地で、あえてすぐに働ける職種には就いていない。雇用保険関連の資格なら介護……よりは、簿記かITか。あいつは細腕だし力が弱い。抵抗なんか、あってないようなものだった)
思わぬところから得られた彼女の断片にぞくぞくする。
差出人の名前も住所もなかったが問題ない。消印の地名を調べればある程度は絞れる。それに。
「……いっそ、心配になるほど隙だらけだな」
くるっと返した裏面には、雪化粧が施された素朴な山が描かれている。峰の向こうは冬の海。暗い紺色の。
そういう場所なのだろうか。
察するに田舎。
人口密度が低く、それでいて新規の移住者は歓迎されそうな。
「…………」
長く、微動だにせず考えに耽っていた木嶋はすばやく視線を巡らせると、手にした郵便物と小包を台所のテーブルに置いた。
久々に頭が冴えた。
彼女の居場所をつき止めて、それで?
わからない。
だが、会いたい。
せめてもう一度。諦めきれない。
手がかりを寄越してくれた彼女に感謝しつつ、そこからは周到に。
母の富には決して悟られぬよう計画を練った。
* *
「……さん。ねぇってば。瀬尾さーん?」
「! はっ、はい?!」
訓練校からほど近い鍋料理専門店。その座敷の一つを貸し切り、今日試験を終えたメンバーのほとんどが温かい鍋をつつき、美味しそうな匂いの湯気に目と口許をほころばせている。
湊以外は。
浮かない顔だった自覚はある。なにしろ、すっかり縁を切ったはずの前夫に居場所を探り当てられていたのだ。
おそらく家は見つかっていない。幸い訓練も試験も終わった。あとは、ハローワークで求職活動をする際に気をつけねばならないとして。
……等々、ひたすら考え事に没頭していたとは言うに言えない。
声をかけてくれた正面の訓練仲間に微笑みかける。するとその時、ちょうどその左隣に座っていた篁とも目が合い、苦笑された。
傍目には互いに笑み交わすように見えたのかもしれない。やや離れた位置の既婚女性たちから一斉に嬌声が上がる。ついでに野次も。
「きゃ~、やだぁ。もう、二人一緒に座っちゃえばいいのに!」
「そうそう、ほら篁さん、行ったげなよ。グラス持って」
「大丈夫大丈夫、見ないふりしててあげるから」
「えー? 奥さんたち、もう酔ってんの? 厄介だなぁ」
やれやれ、と肩をすくめて軽い応酬。
それでも自身のグラスを持ち、座敷の端にいた湊の側へ。角を挟んで左側に腰を下ろす篁に、湊はいっそう縮こまった。
「すみません。なんかもう色々とご迷惑を」
「いいよ別に。好きでやってることだし」
「「「!!!!」」」
きゃぁぁあああ、と、先ほどよりは余程けたたましい歓声が上がる。
やばい、店から注意されやしないだろうかと焦る湊の取り皿に、篁は無言で鍋の海鮮類と白菜や茸類をよそっていった。手早い。
「あ、あの?」
「だめだよ、食べなきゃ。そっちのグラスは……ノンアルコールビール? 賢明だね。やっぱ心配?」
「……はい、一応。車で来ましたし」
一拍遅れて言葉の意味を咀嚼。小首を傾げ、ほろりと答えた。
本当は、公共の交通機関とタクシーを使用して、少しくらい飲んでもいいかなと考えていた。試験後までは。
でも、もし家を探り当てられたら?
ひょっとして、今この店にいることもバレていたら……?
放っておくと、どんどん悪い方に思考が傾いてしまう。さりとて打ち上げをキャンセルして、坂の上の家で一人、夜明かしするのも怖かった。
疑心暗鬼とは、こんな心境だろうか。
「ありがとうございます。いただきます」
器を持ち、ふぅ、と湯気を吹く。魚介の出汁が染んだ野菜を箸でとり、口元へ。
食事中の顔を凝視されるのは落ち着かないが、諦めて食事に専念することにした。
周囲のメンバーも自分たちを冷やかすのに飽きたのか、すでに、穏やかにそれぞれの話題に興じている。
――――いつの間に、こんなに。
最初は、とにかく逃げたかった。一人になりたかった。心細さや孤独は覚悟していたのに、いざ気づくと随分と助けられている。頼ってしまっている。
九ヶ月かけて築き上げた、ここでの生活を守りたいと願う傍ら、反射で心に浮かべたひとはこの場にいない。
当たり前だ、かれとの接点は不思議すぎた。そもそも未成年だし……――
(!)
急変した表情を晒したくなくて、とっさに顔を伏せた。
「? どうかした?」
「い、いえ。何も」
何でもありません、と伝えてしばらく。
まだ顔が熱い気がして、視線を上げられなかった。
なぜ、かれなのか。
かれの顔が浮かんだのか。
お酒は一滴も飲んでいないのに、やっぱり動転しているのかもしれない。
(戻って。平常心……!)
湊は誰にも見えないように、悩ましい表情のままでテーブルに突っ伏し、吐息した。
だが、あのときは。
――――――――……
ふいに玄関の呼び鈴が鳴り、午睡からめざめた。
「木嶋さん、郵便とお荷物でーす」
「……はい」
週半ば。休日出勤の代替えとしての在宅だった。
けだるい体をゆっくりと起こし、二階の八畳和室から階下へと降りる。
階段を照らす窓のさんには雪が積もり、晴れ間の光を弾いて眩しかった。
何もなくとも季節だけは巡るんだな、と内心毒づく。
春に妻が失踪して以来、独りで過ごす家は空虚で無為。出かける気にもなれない。
桜が散りかけていたあの日。弁護士が間に立って、連絡も取れないままに離婚させられた。
責は夫にあると。もう、二度と近づくなと言われても。
(居場所すら、わからないのに)
自嘲の笑みが浮かぶ。記憶のなかの声がどんどん薄れてゆく。
母が経営する古びた旅館の裏手――ここは、以前は夫婦の住まいだった。
三年間。
互いの休日が滅多に合わなかったから、確実に会えるのは夜だけというわずかな時間だったけれど。
――妻、だった。かけがえのない湊。
玄関の戸の磨り硝子の向こうに、荷物を持つ配達人のシルエットが見える。
こんな風に訪ってくれる人間が、彼女であればいいのに。
熾火のように胸底で燻る熱を。叫びたい衝動を押し殺し、木嶋蓮也はつめたい石床に降り、鍵を開けた。
* *
「お休みのところすみません。木嶋……富さん宛ですね。サインか判子、お願いします。」
「はい。ご苦労様です」
受け渡しを終えた配達人は、ふと足を止めてポストの郵便物を抜き取り、まだ小上がりに座したままの家人に手渡した。
「どうぞ」
「あ。……どうも」
木嶋が受け取った封書の束に視線を落としているうちに、カラカラ……とサッシの引き戸が閉まり、バイクのエンジン音が遠ざかった。
静けさが満ちる。
手のなかに、いくつかの葉書と封書がある。
そのうちの一つに、どうしても目が吸い寄せられた。
――“木嶋富様”
裏返してはいないが、絵葉書なのだろう。宛名面の下半分が短い私信になってる。当たり障りのない文面のうち、後半を食い入るように 見つめた。
――“私はアルバイトをしながら職安で勧められた資格を取るための勉強をしています。年が明ければ職探しを”
つまり。
(新天地で、あえてすぐに働ける職種には就いていない。雇用保険関連の資格なら介護……よりは、簿記かITか。あいつは細腕だし力が弱い。抵抗なんか、あってないようなものだった)
思わぬところから得られた彼女の断片にぞくぞくする。
差出人の名前も住所もなかったが問題ない。消印の地名を調べればある程度は絞れる。それに。
「……いっそ、心配になるほど隙だらけだな」
くるっと返した裏面には、雪化粧が施された素朴な山が描かれている。峰の向こうは冬の海。暗い紺色の。
そういう場所なのだろうか。
察するに田舎。
人口密度が低く、それでいて新規の移住者は歓迎されそうな。
「…………」
長く、微動だにせず考えに耽っていた木嶋はすばやく視線を巡らせると、手にした郵便物と小包を台所のテーブルに置いた。
久々に頭が冴えた。
彼女の居場所をつき止めて、それで?
わからない。
だが、会いたい。
せめてもう一度。諦めきれない。
手がかりを寄越してくれた彼女に感謝しつつ、そこからは周到に。
母の富には決して悟られぬよう計画を練った。
* *
「……さん。ねぇってば。瀬尾さーん?」
「! はっ、はい?!」
訓練校からほど近い鍋料理専門店。その座敷の一つを貸し切り、今日試験を終えたメンバーのほとんどが温かい鍋をつつき、美味しそうな匂いの湯気に目と口許をほころばせている。
湊以外は。
浮かない顔だった自覚はある。なにしろ、すっかり縁を切ったはずの前夫に居場所を探り当てられていたのだ。
おそらく家は見つかっていない。幸い訓練も試験も終わった。あとは、ハローワークで求職活動をする際に気をつけねばならないとして。
……等々、ひたすら考え事に没頭していたとは言うに言えない。
声をかけてくれた正面の訓練仲間に微笑みかける。するとその時、ちょうどその左隣に座っていた篁とも目が合い、苦笑された。
傍目には互いに笑み交わすように見えたのかもしれない。やや離れた位置の既婚女性たちから一斉に嬌声が上がる。ついでに野次も。
「きゃ~、やだぁ。もう、二人一緒に座っちゃえばいいのに!」
「そうそう、ほら篁さん、行ったげなよ。グラス持って」
「大丈夫大丈夫、見ないふりしててあげるから」
「えー? 奥さんたち、もう酔ってんの? 厄介だなぁ」
やれやれ、と肩をすくめて軽い応酬。
それでも自身のグラスを持ち、座敷の端にいた湊の側へ。角を挟んで左側に腰を下ろす篁に、湊はいっそう縮こまった。
「すみません。なんかもう色々とご迷惑を」
「いいよ別に。好きでやってることだし」
「「「!!!!」」」
きゃぁぁあああ、と、先ほどよりは余程けたたましい歓声が上がる。
やばい、店から注意されやしないだろうかと焦る湊の取り皿に、篁は無言で鍋の海鮮類と白菜や茸類をよそっていった。手早い。
「あ、あの?」
「だめだよ、食べなきゃ。そっちのグラスは……ノンアルコールビール? 賢明だね。やっぱ心配?」
「……はい、一応。車で来ましたし」
一拍遅れて言葉の意味を咀嚼。小首を傾げ、ほろりと答えた。
本当は、公共の交通機関とタクシーを使用して、少しくらい飲んでもいいかなと考えていた。試験後までは。
でも、もし家を探り当てられたら?
ひょっとして、今この店にいることもバレていたら……?
放っておくと、どんどん悪い方に思考が傾いてしまう。さりとて打ち上げをキャンセルして、坂の上の家で一人、夜明かしするのも怖かった。
疑心暗鬼とは、こんな心境だろうか。
「ありがとうございます。いただきます」
器を持ち、ふぅ、と湯気を吹く。魚介の出汁が染んだ野菜を箸でとり、口元へ。
食事中の顔を凝視されるのは落ち着かないが、諦めて食事に専念することにした。
周囲のメンバーも自分たちを冷やかすのに飽きたのか、すでに、穏やかにそれぞれの話題に興じている。
――――いつの間に、こんなに。
最初は、とにかく逃げたかった。一人になりたかった。心細さや孤独は覚悟していたのに、いざ気づくと随分と助けられている。頼ってしまっている。
九ヶ月かけて築き上げた、ここでの生活を守りたいと願う傍ら、反射で心に浮かべたひとはこの場にいない。
当たり前だ、かれとの接点は不思議すぎた。そもそも未成年だし……――
(!)
急変した表情を晒したくなくて、とっさに顔を伏せた。
「? どうかした?」
「い、いえ。何も」
何でもありません、と伝えてしばらく。
まだ顔が熱い気がして、視線を上げられなかった。
なぜ、かれなのか。
かれの顔が浮かんだのか。
お酒は一滴も飲んでいないのに、やっぱり動転しているのかもしれない。
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