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寒明けの章
8 氷雪のゆくえ
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――そっか。それで、大丈夫だった? 元旦那は。
家に電話は引いていない。スマホだ。湊は帰宅後、律儀に律にLINEで帰宅を知らせてから入浴を済ませていた。
* *
一人で過ごす食卓はさほど手の込んだものは作らない。朝、仕込んでおいたミネストローネに冷凍ごはんとチーズを投入し、温まったら塩コショウで味を整え、パセリを散らして即席リゾットにする。
コトコト、と小鍋で煮立つスープの香りに、ふと隣の冷蔵庫を流し見た。
(なんというか……色々ありすぎたな。料理用に買っておいた白ワインでも飲んじゃおうか)
そんな風に思いつき、ハウスワインをグラスに少量注いだ。見るともなくテレビをつけ、当たり障りのないクイズ番組などを流しておく。
出来上がった料理を持ってリビングへ。
そんな頃合いの着信だった。
湊は、ぺたんと座布団に座り、考えながら言葉を紡ぐ。
「はい。バイトしてるお店のオーナーがうまい具合にさばいてくださって。……あのひとの家は太平洋のほうが近いから、新幹線で来たのかな……。有給で、ホテルを取っていたとしたら明日も来るかも」
――は? 何それ。全然大丈夫じゃないでしょ。虫除けに行こうか。勤務何時から?
「午後一時からですけど。『虫』って?」
ピタリ、と湊はグラスを傾けていた手を止めた。訊き返すと、くすくすと耳元で笑われる。
――男避けだよ、男避け。ちょっとした刃傷沙汰なら、ないこともないから。相手が自衛官とか警察官とかじゃなきゃ平気。
「…………」
条件付けが。
(すごく、生々しい)
湊はワインで口を湿らせた。
「お申し出は大変ありがたいんですが、それ、元奥様に車で轢かれる以前のお話ですよね? いえ、たぶん刃物は持っていないと……。刺される理由がわかりませんし。復縁を迫られました。刺されたら私、余計に戻らないじゃないですか」
ちょうどリゾットは食べ終えて、あとはワインだけだった。それでちびちび飲んでいたわけだが。(ちょっと酔ってるなぁ)とは思い始めていた。
コト、と響くグラスの音が聞こえたのかもしれない。篁の声がにわかに揶揄いの色を帯びる。
――……なんか、妙にしどけないと思ったら。ひょっとして家飲みしてる? 瀬尾さん。
「!」
ぶは、と噎せそうになり、湊はちいさく咳き込んだ。
篁は言質をとったように晴れ晴れと告げる。
――もったいないなぁ。酔ってる瀬尾さんを見られないとか。駅に近くて落ち着けるとこ、いくつか知ってるよ。今度飲みに行く?
え、いや、それは。
若干涙目で通話画面を見ても“篁さん”と表示されているだけ。
しかも、『だめです。外飲みはほかのご友人を当たってください』とお願いする前に切られてしまった。
――――じゃあ明日ね。お休み。戸締まりはちゃんとするように、と。
表示オフ。
アプリのアイコンが並ぶホーム画面にため息をつき、空になったグラスを眺めた。
明日。本当に来るのだろうか。
篁も、問題の木嶋も。
「そんなに私……、無防備に見えるかしら」
やめやめ、と頭を振り、今一人とのやり取りまで浮かびそうになるのを必死にとどめる。
さっと流し台で食器を洗い、キッチンとテーブルを拭き清めた。
どんなに疲れていても、それこそ酔っていてもやってしまう癖のようなもの。
「……寝よう。もう、今日は営業終了です」
パチ、と台所の明かりを落とした。
* *
和雑貨カフェ“み穂”は平時、そんなに混みあわない。
客のほとんどが常連でリピーター。ご近所の奥様方の集いであったり、散歩がてら寄ってみたよ、という風情の老紳士など。
それで、常であれば平日は二階の呉服店舗や一階の雑貨入れ換え、事務仕事を手伝ったりするのだが。
「大盛況ですね……」
下げた皿をカウンターの内側で洗いながら、湊はぽつりと呟いた。隣で珈琲を挽いていた実苑がころころと笑う。
「ほんとねぇ。助かっちゃう」
「本気ですか、実苑さん? 騒がしいだけじゃ」
「あら」
古式ゆかしい黒いミルの取っ手を止めて、実苑はしげしげと湊を見つめる。
「奥の間の鈴音がぐっすりだもの。いい子守唄なのね、きっと。何だかんだ言って三人とも、紳士なんですもの」
「そう……ですか?」
蛇口を閉めた湊はリネンをとり、皿を拭き始めた。
月曜日の午後二時。
一階には三名の客が詰めている。
そのすべてが湊の既知でカウンター席。椅子を一つずつ開けての微妙な距離感は何なのか。
向かって左から木嶋、律、篁の順に座っている。
かれらは延々、一見和やかな牽制を続けていた。
「左門君だっけ。学校は?」
「冬休みです」
「へぇ。貴重な休みを。なるほどなるほど――ね、瀬尾さん。この子も追い払っていい?」
「いいわけありませんよね、篁さん。やめてください」
淡々と述べると、実苑より向こう側に座る木嶋が「湊」と呼んだ。
「……なんでしょう」
精一杯の理性で応えると、木嶋もまた不愉快と不可解の狭間のような顔をしている。
「あんまり訊きたくないんだが。どっちだ?」
「お答えする義理はありません」
カチャ、と拭き終えた皿をかさねて後ろの棚に納めると、冷水のピッチャーを持って客席側に回る。半分ほど減っていた篁と律のコップに順に注いだ。
お冷やにはまだ口をつけていない木嶋には、絶対に近づかない。
勤務中は難しいと悟った木嶋が、今度は律に矛先を向ける。
「高校生かな、君は。湊の何?」
「俺は――」
「見込みあるだろ? こいつ、瀬尾さんが好きなんだよ」
「!! 言わせてくださいよ!」
「たっ、篁さんっ!?」
「えっ」
ちょうど、実苑がカウンター越しに差し出した珈琲に手を伸ばしつつ、木嶋が凍りつく。
受け取った器をゆるゆると置くと、訝しそうに目を細めた。
「知らないのかな。彼女は二十七だよ。三月には二十八だ。君、いくつ? ちゃんと将来とか考えてる? 言っとくけど湊じゃ遊べないよ」
「!」
――『遊べない』の正確な意味が瞬時に全員に伝播する。
室内の体感温度が、しん、と下がった。
律と篁からは表情が消えている。温厚な実苑ですら眉を険しくして、湊自身も。
カウンターの内側に戻っていた。
おそるおそる正面の律を見つめる。
前の主人としずかに対峙する、若いかれを。
「……『遊ぶ』って発想が、まず、よくわかんないですけど。俺は四月生まれだから九歳差です。大学は推薦で決まってるし、卒業前に内定が決まったら結婚を申し込みます。家族も。説得します」
「…………」
「えらい具体的だね。あ、オレも彼女とは付き合いたいよ」
「篁のお兄さんは黙っててください」
「~っ……」
ずるずるとしゃがみ込んでしまった湊に、実苑は気遣わしげに声をかけた。
「瀬尾さん、大丈夫よ。わたし、口は固いわ。多分母はこういうお話大好きだけど、黙っててあげる」
「いたみいります」
二階で会計事務をしている早苗を思い浮かべ、さもありなんと頷いた。
(――よし)
意を決して立ち上がる。全員から注目されたが、湊はあえて無視した。
今日初めて、真っ直ぐに木嶋を見つめる。
不安定な、どこか傷ついているようにすら見える瞳だった。
「お勘定しますね、木嶋さん。もう、新幹線の時間じゃありません?」
* *
心配そうな実苑と律のまなざしに微笑み、湊は店の雪駄を履いて外に出た。
小雪がちらついている。
表の通りに出ればタクシーはつかまるだろう。湊は姿勢を正した。浅いお辞儀をする。
「お元気で」
「もう、来るな、と?」
「そうですね」
背を直し、記憶のなかのどの姿よりも頼りなく佇む木嶋を眺めた。微笑みはしない。きゅ、と口角を上げるだけ。
決別を。
袂はもう、分かったのだから。
「どうか、私ではない女性を見つけて、私よりもずっと大切になさってください。……幸せに。勝手に出てしまい、すみませんでした。そのことだけは謝りますが」
「湊」
耳に染みついた、甘やかすような。すがりつくような呼び声。
けれど、ふるふると頭を振った。
もう応えない。
「お見送りしてから戻ります。さようなら」
――――蓮也さん。
心で呼び納める。もう二度と口にはしない。
「……」
再び深くお辞儀し、面を伏せて動かない湊に無言。
やりきれず苦悶を浮かべ、瞑目して視線を断ち切った木嶋は、首に巻いていたマフラーを外した。
広げる。
雪が積もり始めた元・妻の頭と肩にふわりと掛ける。
(!)
わずかに動じる湊を切なく一瞥。少しだけ微笑んだ。
「捨てていい」
さく、と踏む雪の音。
湊は顔を上げなかった。
遠ざかる足音に、さまざまに追想が巡る。吹きすさぶ嵐に似て胸をかき乱す、縛りつけられていた時間を。
いずれ終わる冬にかさね、きたる春にほどける。
融かす。心の氷雪を砕くように。
家に電話は引いていない。スマホだ。湊は帰宅後、律儀に律にLINEで帰宅を知らせてから入浴を済ませていた。
* *
一人で過ごす食卓はさほど手の込んだものは作らない。朝、仕込んでおいたミネストローネに冷凍ごはんとチーズを投入し、温まったら塩コショウで味を整え、パセリを散らして即席リゾットにする。
コトコト、と小鍋で煮立つスープの香りに、ふと隣の冷蔵庫を流し見た。
(なんというか……色々ありすぎたな。料理用に買っておいた白ワインでも飲んじゃおうか)
そんな風に思いつき、ハウスワインをグラスに少量注いだ。見るともなくテレビをつけ、当たり障りのないクイズ番組などを流しておく。
出来上がった料理を持ってリビングへ。
そんな頃合いの着信だった。
湊は、ぺたんと座布団に座り、考えながら言葉を紡ぐ。
「はい。バイトしてるお店のオーナーがうまい具合にさばいてくださって。……あのひとの家は太平洋のほうが近いから、新幹線で来たのかな……。有給で、ホテルを取っていたとしたら明日も来るかも」
――は? 何それ。全然大丈夫じゃないでしょ。虫除けに行こうか。勤務何時から?
「午後一時からですけど。『虫』って?」
ピタリ、と湊はグラスを傾けていた手を止めた。訊き返すと、くすくすと耳元で笑われる。
――男避けだよ、男避け。ちょっとした刃傷沙汰なら、ないこともないから。相手が自衛官とか警察官とかじゃなきゃ平気。
「…………」
条件付けが。
(すごく、生々しい)
湊はワインで口を湿らせた。
「お申し出は大変ありがたいんですが、それ、元奥様に車で轢かれる以前のお話ですよね? いえ、たぶん刃物は持っていないと……。刺される理由がわかりませんし。復縁を迫られました。刺されたら私、余計に戻らないじゃないですか」
ちょうどリゾットは食べ終えて、あとはワインだけだった。それでちびちび飲んでいたわけだが。(ちょっと酔ってるなぁ)とは思い始めていた。
コト、と響くグラスの音が聞こえたのかもしれない。篁の声がにわかに揶揄いの色を帯びる。
――……なんか、妙にしどけないと思ったら。ひょっとして家飲みしてる? 瀬尾さん。
「!」
ぶは、と噎せそうになり、湊はちいさく咳き込んだ。
篁は言質をとったように晴れ晴れと告げる。
――もったいないなぁ。酔ってる瀬尾さんを見られないとか。駅に近くて落ち着けるとこ、いくつか知ってるよ。今度飲みに行く?
え、いや、それは。
若干涙目で通話画面を見ても“篁さん”と表示されているだけ。
しかも、『だめです。外飲みはほかのご友人を当たってください』とお願いする前に切られてしまった。
――――じゃあ明日ね。お休み。戸締まりはちゃんとするように、と。
表示オフ。
アプリのアイコンが並ぶホーム画面にため息をつき、空になったグラスを眺めた。
明日。本当に来るのだろうか。
篁も、問題の木嶋も。
「そんなに私……、無防備に見えるかしら」
やめやめ、と頭を振り、今一人とのやり取りまで浮かびそうになるのを必死にとどめる。
さっと流し台で食器を洗い、キッチンとテーブルを拭き清めた。
どんなに疲れていても、それこそ酔っていてもやってしまう癖のようなもの。
「……寝よう。もう、今日は営業終了です」
パチ、と台所の明かりを落とした。
* *
和雑貨カフェ“み穂”は平時、そんなに混みあわない。
客のほとんどが常連でリピーター。ご近所の奥様方の集いであったり、散歩がてら寄ってみたよ、という風情の老紳士など。
それで、常であれば平日は二階の呉服店舗や一階の雑貨入れ換え、事務仕事を手伝ったりするのだが。
「大盛況ですね……」
下げた皿をカウンターの内側で洗いながら、湊はぽつりと呟いた。隣で珈琲を挽いていた実苑がころころと笑う。
「ほんとねぇ。助かっちゃう」
「本気ですか、実苑さん? 騒がしいだけじゃ」
「あら」
古式ゆかしい黒いミルの取っ手を止めて、実苑はしげしげと湊を見つめる。
「奥の間の鈴音がぐっすりだもの。いい子守唄なのね、きっと。何だかんだ言って三人とも、紳士なんですもの」
「そう……ですか?」
蛇口を閉めた湊はリネンをとり、皿を拭き始めた。
月曜日の午後二時。
一階には三名の客が詰めている。
そのすべてが湊の既知でカウンター席。椅子を一つずつ開けての微妙な距離感は何なのか。
向かって左から木嶋、律、篁の順に座っている。
かれらは延々、一見和やかな牽制を続けていた。
「左門君だっけ。学校は?」
「冬休みです」
「へぇ。貴重な休みを。なるほどなるほど――ね、瀬尾さん。この子も追い払っていい?」
「いいわけありませんよね、篁さん。やめてください」
淡々と述べると、実苑より向こう側に座る木嶋が「湊」と呼んだ。
「……なんでしょう」
精一杯の理性で応えると、木嶋もまた不愉快と不可解の狭間のような顔をしている。
「あんまり訊きたくないんだが。どっちだ?」
「お答えする義理はありません」
カチャ、と拭き終えた皿をかさねて後ろの棚に納めると、冷水のピッチャーを持って客席側に回る。半分ほど減っていた篁と律のコップに順に注いだ。
お冷やにはまだ口をつけていない木嶋には、絶対に近づかない。
勤務中は難しいと悟った木嶋が、今度は律に矛先を向ける。
「高校生かな、君は。湊の何?」
「俺は――」
「見込みあるだろ? こいつ、瀬尾さんが好きなんだよ」
「!! 言わせてくださいよ!」
「たっ、篁さんっ!?」
「えっ」
ちょうど、実苑がカウンター越しに差し出した珈琲に手を伸ばしつつ、木嶋が凍りつく。
受け取った器をゆるゆると置くと、訝しそうに目を細めた。
「知らないのかな。彼女は二十七だよ。三月には二十八だ。君、いくつ? ちゃんと将来とか考えてる? 言っとくけど湊じゃ遊べないよ」
「!」
――『遊べない』の正確な意味が瞬時に全員に伝播する。
室内の体感温度が、しん、と下がった。
律と篁からは表情が消えている。温厚な実苑ですら眉を険しくして、湊自身も。
カウンターの内側に戻っていた。
おそるおそる正面の律を見つめる。
前の主人としずかに対峙する、若いかれを。
「……『遊ぶ』って発想が、まず、よくわかんないですけど。俺は四月生まれだから九歳差です。大学は推薦で決まってるし、卒業前に内定が決まったら結婚を申し込みます。家族も。説得します」
「…………」
「えらい具体的だね。あ、オレも彼女とは付き合いたいよ」
「篁のお兄さんは黙っててください」
「~っ……」
ずるずるとしゃがみ込んでしまった湊に、実苑は気遣わしげに声をかけた。
「瀬尾さん、大丈夫よ。わたし、口は固いわ。多分母はこういうお話大好きだけど、黙っててあげる」
「いたみいります」
二階で会計事務をしている早苗を思い浮かべ、さもありなんと頷いた。
(――よし)
意を決して立ち上がる。全員から注目されたが、湊はあえて無視した。
今日初めて、真っ直ぐに木嶋を見つめる。
不安定な、どこか傷ついているようにすら見える瞳だった。
「お勘定しますね、木嶋さん。もう、新幹線の時間じゃありません?」
* *
心配そうな実苑と律のまなざしに微笑み、湊は店の雪駄を履いて外に出た。
小雪がちらついている。
表の通りに出ればタクシーはつかまるだろう。湊は姿勢を正した。浅いお辞儀をする。
「お元気で」
「もう、来るな、と?」
「そうですね」
背を直し、記憶のなかのどの姿よりも頼りなく佇む木嶋を眺めた。微笑みはしない。きゅ、と口角を上げるだけ。
決別を。
袂はもう、分かったのだから。
「どうか、私ではない女性を見つけて、私よりもずっと大切になさってください。……幸せに。勝手に出てしまい、すみませんでした。そのことだけは謝りますが」
「湊」
耳に染みついた、甘やかすような。すがりつくような呼び声。
けれど、ふるふると頭を振った。
もう応えない。
「お見送りしてから戻ります。さようなら」
――――蓮也さん。
心で呼び納める。もう二度と口にはしない。
「……」
再び深くお辞儀し、面を伏せて動かない湊に無言。
やりきれず苦悶を浮かべ、瞑目して視線を断ち切った木嶋は、首に巻いていたマフラーを外した。
広げる。
雪が積もり始めた元・妻の頭と肩にふわりと掛ける。
(!)
わずかに動じる湊を切なく一瞥。少しだけ微笑んだ。
「捨てていい」
さく、と踏む雪の音。
湊は顔を上げなかった。
遠ざかる足音に、さまざまに追想が巡る。吹きすさぶ嵐に似て胸をかき乱す、縛りつけられていた時間を。
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