8 / 33
月の盗人
05
しおりを挟む
私を捕まえていて──。
それが恋でも、愛でも、別の違うものでも構わないから。
【太陽と月の終わらない恋の歌 月の盗人 5.】
その朝は妙にゆっくりと明けていった。
眠れずに過ごす夜は長くて、こんな時は、心身を休めるはずの宵の時間が、逆に疲れを増長させる気だるいものになる。
(もう、太陽が……)
レースのカーテンを通じて落ちてくる朝日が、マノンの重い瞼をくすぐった。
遠くからは、小鳥達が新しい一日の到来を軽やかに歌っているのが聞こえる。
ピピピ、チー、チー……
いつもは寝起きのいいマノンだったが、この朝だけは、このままぐずぐずとベッドにすがり付いていたい気分で、ゆっくりと顔を上げた。
(私、きっとひどい顔してる)
のが分かっていたから、余計に起きづらい。
昨夜は一晩中、ダヴィッドの声が頭にこびりついて離れなかった。
冷静な声で、少年の所へ行けとマノンに諭すダヴィッド──その少年とはつい先日、病院でマノンの唇を奪おうとし、それに失敗するとこの屋敷まで忍び込んでくるような『馬の骨』だというのに、だ。
そして、
「『知ってるよ』なんて……ダヴィッドの、いじわる」
マノンの真剣な愛の言葉を、いつも通り、ダヴィッドは簡単にかわしてしまうのだ。
まるで赤ん坊をあやすように。
そんなものは真剣に取り合う必要がないとでも言うように、あっさりと。
いくら家族として、娘として大事にしてくれても、他の誰も知らない夜の秘密を打ち明けてくれても、ダヴィッドはこの一線だけは絶対に越えなかった。
マノンは子供で、ダヴィッドは大人で、それは魚が鳥に恋をするようなものだと、一笑に付して、それでおしまいなのだ。
恋心は幼い気まぐれで、告白は子供の戯言だ、と。
「ブラン」
マノンは身をかがめ、ベッドの下の籠中の白猫をすくい上げた。
ひざに乗せ、頭を撫でてやると、なー、と喉を鳴らしてマノンに擦り寄ってくる。
子猫の時分に捨てられていたところを偶然見つけ、拾って以来ずっと部屋を共にしているこの白猫は、他人には無愛想なくせにマノンにだけは良く懐いていた。
マノンもそんなブランが好きだ。この子は自分が見つけ、拾ってきたのだという、保護欲のような……優越感のような、説明し難い愛着もある。
──多分、ダヴィッドにとってのマノンは、これなのだ。
白猫を腕に抱いたまま立ち上がったマノンは、静かにベッドを降りて、窓際のカーテンを引いた。
真っ直ぐに差し込んでくる白んだ日差しに目を細め、ガラス越しの新緑を見つめる。
今日という日が始まったのだ。
止めることが出来ないのならば、出来るだけのことをしなくては。
「ダヴィッド、居ないの?」
その朝、マノンが朝食にサロンへ出ると、いつもなら先に食事を始めているダヴィッドの姿がなかった。
ただ執事バトラーだけが、いつも通りテーブルの横に控えている。
「遠出の仕事があられるそうで、ダヴィッド様は半時間ほど前に出て行かれました」
「そう……」
何をしようとか、何を言おうとかいった明確な計画があった訳ではないが、朝からダヴィッドが居ないことに出足を挫かれたような気分だった。
せめて出発の時くらい、声を掛けてくれるかと思ったのに。
「本日は、ドロレス小児病院へ行かれるのでしょう。供をするように言い付かっています」
マノンのカップにミルクたっぷりの紅茶を注ぎながら、バトラーは言った。
「ん……」
確かに、バトラーを供に付けると言っていたダヴィッドの言葉を思い出し、マノンはテーブルの上に視線を置いたままコクコクと頷いた。
相変わらずそつのないダヴィッドの手配が、今朝ばかりは少し恨めしい。
あのサイモン少年には悪いが、マノンにとって今日のドロレス小児病院訪問は、気が重いばかりだった。
馬車に揺られてルザーンの郊外まで出ると、都会の光景はゆっくりと視界から消え去り、代わって牧歌的な景色が広がり始めた。
マノンを乗せた二頭立ての小型馬車の御者台には、バトラーが手綱を持って納まっている。
移りゆく景色を眺めながら、客席のマノンは一人ぼんやりと、ダヴィッドの事を思った。
『俺と来るか』
あの満月の夜に現れた彼を──。
真冬の満月の夜、ありったけのボロに身を包みながら路地裏で震えていた哀れなマノンに手を差し伸べた、黒装束の男。
それがダヴィッドだった。
温かさとはどんなものだったのかさえ忘れていたマノンの身体を、そのビロードのマントで包み、暖めてくれたのも、彼だった。
震えるマノンをぎゅっと抱きしめて、低くも優しい声で、『大丈夫か』と具合を聞いてくれた。
喉まで凍えて答えられなかったマノンを、彼は抱き上げると、
『嫌でもいい、今夜だけは俺の所に来るんだ』
差し出された彼の手を取るのは、息をするよりもずっと楽で、自然な行為だった。
一晩だけの慈悲のはずが、もう一晩、もう一晩と引き伸ばされ、気が付けば部屋を与えられて、彼の家族となっていた。
皸だらけだった手は見る間につややかになり、髪は綺麗に漉かれ、高級なドレスを与えられ、美味しくて温かい料理を毎日一緒に食べるようになった。
真っ暗で先の見えなかった世界に、突然現れた太陽。──それも、ダヴィッドだった。
(ダヴィッドは知らないの……)
彼が、マノンの人生にとってどれだけの意味があるか。
助けてくれたから、拾ってくれたからという理由ではない。もしダヴィッドが明日マノンを元の裏路地に捨てても、そのせいで再び飢えても凍えても、マノンはきっとダヴィッドを想い続ける。
どんな大人の女だって、きっと、こんなに深く彼を愛することは出来ない。
マノンとバトラーの乗った馬車がドロレス小児病院へ辿り着くと、なんと入口に小さな花束を抱えたサイモン少年が立っていた。
バトラーに手を取られて馬車から降りようとするマノンへ向かって、サイモンは足早に駆け寄ってくる。
「これ」
と、挨拶も前に、花束を差し出してきた。
白の野花を寄せ集めた小振りな花束で、根元にはリボンが結ばれている。サイモン本人が飾り付けたのだろう、不器用に結ばれたそれはあらぬ方へ傾いていたけれど、一生懸命な愛情が感じられる可愛いらしい求愛の花束だ。
驚いたマノンがきょとんとしていると、緊張に焦ったサイモンは何を勘違いしたのか、拒否されたととったらしかった。
「い、いらないなら無理にいいよ! 別にお前の為に作ったんじゃないんだ。たまたま、庭に落ちてたから拾ってきただけで……!」
そう言って花束を後ろに隠し、顔を紅潮させた。
マノンはますます、きょとんとして、首を傾げた。突然花束をくれようとしたり、それを隠してお前のじゃないと言ったりと、忙しい人だと……そんなことを思って。
「私のじゃないの?」
「ち、違うよ! お前のだけど、でもいらないんだろ!」
「そんなことないもの。でも、他の人のだったら仕方ないから……」
「だっ」
サイモンは毛を逆立てんばかりにして声を上げた。
「だからお前のだってば! ほら! なんですぐ受け取らなかったんだよ!」
花束がばさりとマノンの胸元に投げ込まれる。
マノンは取り落としそうになったそれを慌てて捕まえて、手に抱えると、くんと匂いを嗅いだ。摘み立ての青々しい香りと、新鮮な甘い香りがする。
自然と顔がほころんで、マノンは花に口元を埋めたまま、サイモンに礼を言った。
「ありがとう……とっても素敵」
「なっ、なっ、」
サイモンの興奮は頂点へ達していた。
そんな微笑ましい若い二人のやり取りを横目に、バトラーは無言で馬を柵に繋いでいた。
病室に入ると、サイモンは大人しくベッドへ戻った。
マノンにはベッド脇に椅子が与えられ、バトラーは彼女の後ろを陣取っている。椅子を勧めてもバトラーは座らなかった。
そもそもバトラーが座っているところを、マノンはあまり見たことがない。
「よく来てくれたね。サイモンも嬉しいだろう、あれからずっと君のことばかり話していたからな」
通りがかった副院長が、マノンの姿を見とめると病室へ入ってきた。
相変わらずの人の良さそうな笑顔と、柔らかくも堅実な物腰で、部外者であるはずのマノンを歓迎する。
マノンは、そういえばダヴィッドは最初にここへ来たとき、自分が病院を訪れたがったという口実を使ったことを思い出して、慌てて頭を下げた。
「先日は、お招きありがとうございました。ずっと病院を見学してみたかったんです」
「いつでも歓迎だよ。若いのに感心だ」
それだけ言って、「では邪魔者はお暇しよう」と病室を出て行った。
サイモンは余計な事を言われてしまって顔を赤らめていたが、副院長が去った後の病室に静寂が訪れたのに慌てて、急いで捲くし立てた。
「ふ、副院長の言ってることなんて気にしなくていいからな! まあ……その、なんだ、座れよ!」
「もう、座ってるのに?」
「れ、礼儀だろ! だから言ってやっただけだっ」
「…………」
気まぐれな発言の数々に疑問を抱きながらも、マノンは大人しく座り直した。
同時に、さらりと揺れる金色の髪が、甘い石鹸の香りを誘ってゆらめき──少年のサイモンを興奮させるには充分すぎる色香が、あたりに溢れた。
そう、ダヴィッドを基準に考えるからまだまだ子供だと思えるけれど、外に目を向けて同年代の少年少女と比べれば、マノンはどこか大人びた存在なのだ。月のような静かな魅惑。
サイモンは息を呑んだ。
息を呑んで、背筋を伸ばす。
「今日は、その、来てくれて、ありが、とう」
絞り出すような声で、赤毛の少年はそう言った。
「いいの、それより……あなたは病気なんでしょう? ダヴィッドが言っていたわ」
「大したことないよ。大人しくしてれば気分はいいんだ。ただ、時々胸の辺りが苦しくなって、息が出来なくなる」
「そう……」
「それで、俺、お前の親父さんに頼んで」
と言って、サイモンはちらりとバトラーの方へ視線を移す。蝋人形のように微動だにしない、執事の見本標本のような男は、無言の冷たい目でサイモン達を見ていた。
「その……お前と話したいって……出来たらその、ダチになりたいっていうか、何だ」
「友達、ね?」
「そうだよ! いいだろ? だって俺は多分もう長く──」
言いかけて、サイモンはきゅっと口をつぐんだ。
「?」
「い、いや、何でもないよ……」
サイモンは手元に視線を落とした。
うな垂れたような横顔には、腕白で豪快な少年の影は薄く、ただ己の無力に打ちひしがれる人間の悲しさがあった。少なくともマノンには、そう見えた。
明日をも知れない重い病気になどなった事がないから、マノンにとって、少年の複雑な心は理解し切れない。治るかもしれないし、治らないかもしれない。
生きられるかもしれないし、生きられないかも……しれない。
こんな不安な運命の下に立つことが、どれほど難しいか。
分からないけれど、例えば、もうすぐダヴィッドに会えなくなるかもしれないと怯えながら生きる自分を想像してみれば、その悲しみの片鱗は感じることが出来る。
少しでもいい、一秒でも長く、彼の傍に居たいと願うだろう……きっと。
「前みたいに、口づけをしたいって言うなら嫌だし、駄目だけど」
シーツの上に投げ出されていたサイモンの手に、マノンの片手が触れた。
「友達になるのは大丈夫よ。お話したり、一緒に散歩したりするだけでしょう?」
「ほ、本当か!?」
「うん」
「ーーっ!」
その時のサイモンの喜びようといったら、バトラーの能面さえわずかに綻ばせる程だった、とか。
話し始めてみると、サイモンとマノンは意外にも馬が合った。
気が付けば時刻は昼に差し掛かっていて、病室に昼食が届けられた。サイモンは質素な銅器に乗った食事を勢い良く平らげる。その姿ばかりは、病気に苦しむ少年という感じではなく、微笑ましい。
「あなたはどうして、いつも『黒の怪盗』を名乗るの?」
「そりゃ、怪盗は俺の最高の英雄だからだよ! 俺だっていつかあんな風になるんだ。だからさ」
「ふうん」
ダヴィッドのようになるサイモンを想像してみる。
それは可笑しくて、それでいてそれなりに絵になる図のように思えた。マノンがくすくすと笑うと、サイモンは口をへの字にして文句を言った。
「笑うなよっ」
「笑ってないのに」
「いーや、笑った。俺は黒の怪盗より凄い奴になるんだ、その時に後悔しても遅いぞ!」
──ガタン。
その時、病室の入口に急な音が響いて、皆が振り返った。
初老の男が立っている。副院長とは違う、マノンの知らない顔だった。サイモンの顔がさっと嫌悪に染まっていくのを、マノンは見た。
(誰……)
と、疑問を持つまでもない。
サイモンがすぐに口を開いた。「院長──」
(え)
マノンは院長と呼ばれた男の顔をもう一度見た。神経質そうな鷲鼻と、窪んだ瞳がギラギラとしている、気味の悪い顔だ。
「私の病院で騒ぐ者は今すぐに出て行ってもらうぞ」
外見に違わず、低くて物騒な声だった。
「ごめんなさい……静かにします」
マノンが言うと、院長はフンと鼻を鳴らして立ち去ろうとした。そこに、
「うるさいっ、誰がお前の言う事なんか聞くもんか!」
サイモンの怒声が響いて、彼の手から投げられた銅皿が素早く空を切った。銅皿は病室入口の柱に勢い良く当たって、床に落ちるとカラカラと空しい音を立てて回る。
院長はそれに見向きもせず、廊下の先へ消えてしまった。
「くそっ!」
サイモンが悪態を吐く。
突然の出来事に、マノンは身体を硬くした。
ダヴィッドが言っていた言葉を思い出す──『新しく院長に就いた男が、汚い横領をしているらしい……それを確かめるんだ』
今の男が……。
緊張に心臓が高鳴る。
今の男が、ダヴィッドがこれから戦わなくてはならない相手なのだ。
「あいつは大嫌いだ。急に治療費を上げたり、俺達には厳しいばっかりで大した治療もしない。値上げされた治療費が払えなくて、病院を出て行った奴もいるんだ……」
狼の唸りのような声で、サイモンが言った。
「だから……だから俺は黒の怪盗になるんだ。そうして奴をやっつけてやる……っ」
それが恋でも、愛でも、別の違うものでも構わないから。
【太陽と月の終わらない恋の歌 月の盗人 5.】
その朝は妙にゆっくりと明けていった。
眠れずに過ごす夜は長くて、こんな時は、心身を休めるはずの宵の時間が、逆に疲れを増長させる気だるいものになる。
(もう、太陽が……)
レースのカーテンを通じて落ちてくる朝日が、マノンの重い瞼をくすぐった。
遠くからは、小鳥達が新しい一日の到来を軽やかに歌っているのが聞こえる。
ピピピ、チー、チー……
いつもは寝起きのいいマノンだったが、この朝だけは、このままぐずぐずとベッドにすがり付いていたい気分で、ゆっくりと顔を上げた。
(私、きっとひどい顔してる)
のが分かっていたから、余計に起きづらい。
昨夜は一晩中、ダヴィッドの声が頭にこびりついて離れなかった。
冷静な声で、少年の所へ行けとマノンに諭すダヴィッド──その少年とはつい先日、病院でマノンの唇を奪おうとし、それに失敗するとこの屋敷まで忍び込んでくるような『馬の骨』だというのに、だ。
そして、
「『知ってるよ』なんて……ダヴィッドの、いじわる」
マノンの真剣な愛の言葉を、いつも通り、ダヴィッドは簡単にかわしてしまうのだ。
まるで赤ん坊をあやすように。
そんなものは真剣に取り合う必要がないとでも言うように、あっさりと。
いくら家族として、娘として大事にしてくれても、他の誰も知らない夜の秘密を打ち明けてくれても、ダヴィッドはこの一線だけは絶対に越えなかった。
マノンは子供で、ダヴィッドは大人で、それは魚が鳥に恋をするようなものだと、一笑に付して、それでおしまいなのだ。
恋心は幼い気まぐれで、告白は子供の戯言だ、と。
「ブラン」
マノンは身をかがめ、ベッドの下の籠中の白猫をすくい上げた。
ひざに乗せ、頭を撫でてやると、なー、と喉を鳴らしてマノンに擦り寄ってくる。
子猫の時分に捨てられていたところを偶然見つけ、拾って以来ずっと部屋を共にしているこの白猫は、他人には無愛想なくせにマノンにだけは良く懐いていた。
マノンもそんなブランが好きだ。この子は自分が見つけ、拾ってきたのだという、保護欲のような……優越感のような、説明し難い愛着もある。
──多分、ダヴィッドにとってのマノンは、これなのだ。
白猫を腕に抱いたまま立ち上がったマノンは、静かにベッドを降りて、窓際のカーテンを引いた。
真っ直ぐに差し込んでくる白んだ日差しに目を細め、ガラス越しの新緑を見つめる。
今日という日が始まったのだ。
止めることが出来ないのならば、出来るだけのことをしなくては。
「ダヴィッド、居ないの?」
その朝、マノンが朝食にサロンへ出ると、いつもなら先に食事を始めているダヴィッドの姿がなかった。
ただ執事バトラーだけが、いつも通りテーブルの横に控えている。
「遠出の仕事があられるそうで、ダヴィッド様は半時間ほど前に出て行かれました」
「そう……」
何をしようとか、何を言おうとかいった明確な計画があった訳ではないが、朝からダヴィッドが居ないことに出足を挫かれたような気分だった。
せめて出発の時くらい、声を掛けてくれるかと思ったのに。
「本日は、ドロレス小児病院へ行かれるのでしょう。供をするように言い付かっています」
マノンのカップにミルクたっぷりの紅茶を注ぎながら、バトラーは言った。
「ん……」
確かに、バトラーを供に付けると言っていたダヴィッドの言葉を思い出し、マノンはテーブルの上に視線を置いたままコクコクと頷いた。
相変わらずそつのないダヴィッドの手配が、今朝ばかりは少し恨めしい。
あのサイモン少年には悪いが、マノンにとって今日のドロレス小児病院訪問は、気が重いばかりだった。
馬車に揺られてルザーンの郊外まで出ると、都会の光景はゆっくりと視界から消え去り、代わって牧歌的な景色が広がり始めた。
マノンを乗せた二頭立ての小型馬車の御者台には、バトラーが手綱を持って納まっている。
移りゆく景色を眺めながら、客席のマノンは一人ぼんやりと、ダヴィッドの事を思った。
『俺と来るか』
あの満月の夜に現れた彼を──。
真冬の満月の夜、ありったけのボロに身を包みながら路地裏で震えていた哀れなマノンに手を差し伸べた、黒装束の男。
それがダヴィッドだった。
温かさとはどんなものだったのかさえ忘れていたマノンの身体を、そのビロードのマントで包み、暖めてくれたのも、彼だった。
震えるマノンをぎゅっと抱きしめて、低くも優しい声で、『大丈夫か』と具合を聞いてくれた。
喉まで凍えて答えられなかったマノンを、彼は抱き上げると、
『嫌でもいい、今夜だけは俺の所に来るんだ』
差し出された彼の手を取るのは、息をするよりもずっと楽で、自然な行為だった。
一晩だけの慈悲のはずが、もう一晩、もう一晩と引き伸ばされ、気が付けば部屋を与えられて、彼の家族となっていた。
皸だらけだった手は見る間につややかになり、髪は綺麗に漉かれ、高級なドレスを与えられ、美味しくて温かい料理を毎日一緒に食べるようになった。
真っ暗で先の見えなかった世界に、突然現れた太陽。──それも、ダヴィッドだった。
(ダヴィッドは知らないの……)
彼が、マノンの人生にとってどれだけの意味があるか。
助けてくれたから、拾ってくれたからという理由ではない。もしダヴィッドが明日マノンを元の裏路地に捨てても、そのせいで再び飢えても凍えても、マノンはきっとダヴィッドを想い続ける。
どんな大人の女だって、きっと、こんなに深く彼を愛することは出来ない。
マノンとバトラーの乗った馬車がドロレス小児病院へ辿り着くと、なんと入口に小さな花束を抱えたサイモン少年が立っていた。
バトラーに手を取られて馬車から降りようとするマノンへ向かって、サイモンは足早に駆け寄ってくる。
「これ」
と、挨拶も前に、花束を差し出してきた。
白の野花を寄せ集めた小振りな花束で、根元にはリボンが結ばれている。サイモン本人が飾り付けたのだろう、不器用に結ばれたそれはあらぬ方へ傾いていたけれど、一生懸命な愛情が感じられる可愛いらしい求愛の花束だ。
驚いたマノンがきょとんとしていると、緊張に焦ったサイモンは何を勘違いしたのか、拒否されたととったらしかった。
「い、いらないなら無理にいいよ! 別にお前の為に作ったんじゃないんだ。たまたま、庭に落ちてたから拾ってきただけで……!」
そう言って花束を後ろに隠し、顔を紅潮させた。
マノンはますます、きょとんとして、首を傾げた。突然花束をくれようとしたり、それを隠してお前のじゃないと言ったりと、忙しい人だと……そんなことを思って。
「私のじゃないの?」
「ち、違うよ! お前のだけど、でもいらないんだろ!」
「そんなことないもの。でも、他の人のだったら仕方ないから……」
「だっ」
サイモンは毛を逆立てんばかりにして声を上げた。
「だからお前のだってば! ほら! なんですぐ受け取らなかったんだよ!」
花束がばさりとマノンの胸元に投げ込まれる。
マノンは取り落としそうになったそれを慌てて捕まえて、手に抱えると、くんと匂いを嗅いだ。摘み立ての青々しい香りと、新鮮な甘い香りがする。
自然と顔がほころんで、マノンは花に口元を埋めたまま、サイモンに礼を言った。
「ありがとう……とっても素敵」
「なっ、なっ、」
サイモンの興奮は頂点へ達していた。
そんな微笑ましい若い二人のやり取りを横目に、バトラーは無言で馬を柵に繋いでいた。
病室に入ると、サイモンは大人しくベッドへ戻った。
マノンにはベッド脇に椅子が与えられ、バトラーは彼女の後ろを陣取っている。椅子を勧めてもバトラーは座らなかった。
そもそもバトラーが座っているところを、マノンはあまり見たことがない。
「よく来てくれたね。サイモンも嬉しいだろう、あれからずっと君のことばかり話していたからな」
通りがかった副院長が、マノンの姿を見とめると病室へ入ってきた。
相変わらずの人の良さそうな笑顔と、柔らかくも堅実な物腰で、部外者であるはずのマノンを歓迎する。
マノンは、そういえばダヴィッドは最初にここへ来たとき、自分が病院を訪れたがったという口実を使ったことを思い出して、慌てて頭を下げた。
「先日は、お招きありがとうございました。ずっと病院を見学してみたかったんです」
「いつでも歓迎だよ。若いのに感心だ」
それだけ言って、「では邪魔者はお暇しよう」と病室を出て行った。
サイモンは余計な事を言われてしまって顔を赤らめていたが、副院長が去った後の病室に静寂が訪れたのに慌てて、急いで捲くし立てた。
「ふ、副院長の言ってることなんて気にしなくていいからな! まあ……その、なんだ、座れよ!」
「もう、座ってるのに?」
「れ、礼儀だろ! だから言ってやっただけだっ」
「…………」
気まぐれな発言の数々に疑問を抱きながらも、マノンは大人しく座り直した。
同時に、さらりと揺れる金色の髪が、甘い石鹸の香りを誘ってゆらめき──少年のサイモンを興奮させるには充分すぎる色香が、あたりに溢れた。
そう、ダヴィッドを基準に考えるからまだまだ子供だと思えるけれど、外に目を向けて同年代の少年少女と比べれば、マノンはどこか大人びた存在なのだ。月のような静かな魅惑。
サイモンは息を呑んだ。
息を呑んで、背筋を伸ばす。
「今日は、その、来てくれて、ありが、とう」
絞り出すような声で、赤毛の少年はそう言った。
「いいの、それより……あなたは病気なんでしょう? ダヴィッドが言っていたわ」
「大したことないよ。大人しくしてれば気分はいいんだ。ただ、時々胸の辺りが苦しくなって、息が出来なくなる」
「そう……」
「それで、俺、お前の親父さんに頼んで」
と言って、サイモンはちらりとバトラーの方へ視線を移す。蝋人形のように微動だにしない、執事の見本標本のような男は、無言の冷たい目でサイモン達を見ていた。
「その……お前と話したいって……出来たらその、ダチになりたいっていうか、何だ」
「友達、ね?」
「そうだよ! いいだろ? だって俺は多分もう長く──」
言いかけて、サイモンはきゅっと口をつぐんだ。
「?」
「い、いや、何でもないよ……」
サイモンは手元に視線を落とした。
うな垂れたような横顔には、腕白で豪快な少年の影は薄く、ただ己の無力に打ちひしがれる人間の悲しさがあった。少なくともマノンには、そう見えた。
明日をも知れない重い病気になどなった事がないから、マノンにとって、少年の複雑な心は理解し切れない。治るかもしれないし、治らないかもしれない。
生きられるかもしれないし、生きられないかも……しれない。
こんな不安な運命の下に立つことが、どれほど難しいか。
分からないけれど、例えば、もうすぐダヴィッドに会えなくなるかもしれないと怯えながら生きる自分を想像してみれば、その悲しみの片鱗は感じることが出来る。
少しでもいい、一秒でも長く、彼の傍に居たいと願うだろう……きっと。
「前みたいに、口づけをしたいって言うなら嫌だし、駄目だけど」
シーツの上に投げ出されていたサイモンの手に、マノンの片手が触れた。
「友達になるのは大丈夫よ。お話したり、一緒に散歩したりするだけでしょう?」
「ほ、本当か!?」
「うん」
「ーーっ!」
その時のサイモンの喜びようといったら、バトラーの能面さえわずかに綻ばせる程だった、とか。
話し始めてみると、サイモンとマノンは意外にも馬が合った。
気が付けば時刻は昼に差し掛かっていて、病室に昼食が届けられた。サイモンは質素な銅器に乗った食事を勢い良く平らげる。その姿ばかりは、病気に苦しむ少年という感じではなく、微笑ましい。
「あなたはどうして、いつも『黒の怪盗』を名乗るの?」
「そりゃ、怪盗は俺の最高の英雄だからだよ! 俺だっていつかあんな風になるんだ。だからさ」
「ふうん」
ダヴィッドのようになるサイモンを想像してみる。
それは可笑しくて、それでいてそれなりに絵になる図のように思えた。マノンがくすくすと笑うと、サイモンは口をへの字にして文句を言った。
「笑うなよっ」
「笑ってないのに」
「いーや、笑った。俺は黒の怪盗より凄い奴になるんだ、その時に後悔しても遅いぞ!」
──ガタン。
その時、病室の入口に急な音が響いて、皆が振り返った。
初老の男が立っている。副院長とは違う、マノンの知らない顔だった。サイモンの顔がさっと嫌悪に染まっていくのを、マノンは見た。
(誰……)
と、疑問を持つまでもない。
サイモンがすぐに口を開いた。「院長──」
(え)
マノンは院長と呼ばれた男の顔をもう一度見た。神経質そうな鷲鼻と、窪んだ瞳がギラギラとしている、気味の悪い顔だ。
「私の病院で騒ぐ者は今すぐに出て行ってもらうぞ」
外見に違わず、低くて物騒な声だった。
「ごめんなさい……静かにします」
マノンが言うと、院長はフンと鼻を鳴らして立ち去ろうとした。そこに、
「うるさいっ、誰がお前の言う事なんか聞くもんか!」
サイモンの怒声が響いて、彼の手から投げられた銅皿が素早く空を切った。銅皿は病室入口の柱に勢い良く当たって、床に落ちるとカラカラと空しい音を立てて回る。
院長はそれに見向きもせず、廊下の先へ消えてしまった。
「くそっ!」
サイモンが悪態を吐く。
突然の出来事に、マノンは身体を硬くした。
ダヴィッドが言っていた言葉を思い出す──『新しく院長に就いた男が、汚い横領をしているらしい……それを確かめるんだ』
今の男が……。
緊張に心臓が高鳴る。
今の男が、ダヴィッドがこれから戦わなくてはならない相手なのだ。
「あいつは大嫌いだ。急に治療費を上げたり、俺達には厳しいばっかりで大した治療もしない。値上げされた治療費が払えなくて、病院を出て行った奴もいるんだ……」
狼の唸りのような声で、サイモンが言った。
「だから……だから俺は黒の怪盗になるんだ。そうして奴をやっつけてやる……っ」
23
あなたにおすすめの小説
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!
秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。
民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。
「おまえたちは許さない」
二度目の人生。
エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。
彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。
1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。
「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」
憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。
二人の偽りの婚約の行く末は……
【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】
佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
追放された養女令嬢は、聖騎士団長の腕の中で真実の愛を知る。~元婚約者が自滅する横で、私は最高に幸せになります~
有賀冬馬
恋愛
「お前のような無能な女、私の格が下がるのだよ」
最愛の婚約者だったはずの王子に罵られ、雨の夜に放り出されたエルナ。
すべてを失った彼女が救われたのは、国の英雄である聖騎士団長・レオナードの手によってだった。
虚飾の社交界では見えなかった、本当の価値。
泥にまみれて子供たちを笑顔にするエルナの姿に、レオナードは心を奪われていく。
「君の隣に、私以外の居場所は作らせない」
そんな二人の裏側で、エルナを捨てた王子は破滅へのカウントダウンを始めていた。
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」完結
まほりろ
恋愛
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行中。
コミカライズ化がスタートしましたらこちらの作品は非公開にします。
「アリシア・フィルタ貴様との婚約を破棄する!」
イエーガー公爵家の令息レイモンド様が言い放った。レイモンド様の腕には男爵家の令嬢ミランダ様がいた。ミランダ様はピンクのふわふわした髪に赤い大きな瞳、小柄な体躯で庇護欲をそそる美少女。
対する私は銀色の髪に紫の瞳、表情が表に出にくく能面姫と呼ばれています。
レイモンド様がミランダ様に惹かれても仕方ありませんね……ですが。
「貴様は俺が心優しく美しいミランダに好意を抱いたことに嫉妬し、ミランダの教科書を破いたり、階段から突き落とすなどの狼藉を……」
「あの、ちょっとよろしいですか?」
「なんだ!」
レイモンド様が眉間にしわを寄せ私を睨む。
「婚約破棄ですか? 婚約破棄なら昨日成立しましたが、ご存知ありませんでしたか?」
私の言葉にレイモンド様とミランダ様は顔を見合わせ絶句した。
全31話、約43,000文字、完結済み。
他サイトにもアップしています。
小説家になろう、日間ランキング異世界恋愛2位!総合2位!
pixivウィークリーランキング2位に入った作品です。
アルファポリス、恋愛2位、総合2位、HOTランキング2位に入った作品です。
2021/10/23アルファポリス完結ランキング4位に入ってました。ありがとうございます。
「Copyright(C)2021-九十九沢まほろ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる