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【乃亜の章】
「君が俺の牧場に用があるようには見えない」①
しおりを挟む現代──乃亜の章
ひたすらに続く荒野の情景を前に、広瀬乃亜はいつしかハンドルを握る手を緩めていた。
──最後に対向車とすれ違ったのはいつだっただろう?
季節は初夏。ところはアメリカ合衆国コロラド州。
……に、まだいるはずだ。そう思いたい。
ときは午後二時を少し過ぎていた。
少なくともダッシュボードの電子時計はそう告げているが、このひと昔前のアメリカ車をどこまで信じていいのか、あまり定かではなくなってきている。
「まさかここまでなにもない場所だなんて……。おばあちゃんのためじゃなかったら、もう引き返すところなのに!」
叫んでみても、独りきりの車内に自分の声が響くだけで、なんの解決にもならない。
乃亜はカーナビアプリが開かれているスマホの画面にチラリと目を向けた。デンバー国際空港から出て、コロラド・スプリングに寄ったあたりまではよかった。
まだ文明があって──つまり、スマホがまだ使えて──道順を案内してくれた。
そこからさらに南下すると、景色こそは息を呑むほど雄大で美しい渓谷が広がっているものの、徐々に対向車は消え、時々スマホの電波が怪しくなり……パゴサ・スプリングを横目に目的地に向かってハンドルを切ると、そこは完全なる荒野だった。
荒野の中に、一本の道があるだけ。
(わたし、こんなところでなにをしてるんだろう……)
乃亜が空港で借りたレンタカーは、バカンスシーズンで他はほとんど出払っていたとかで、ビルトインのカーナビもない古い車種だ。
時々、エンジンがぷすん、ぷすんと音を漏らすのは、空耳だと思いたい。
それでも助手席に置いたバッグを見ると、乃亜はやはり進まざるを得なかった。
(そうよ。わたしはこれを届けなくちゃいけないんだ。それまでは進まなきゃ)
そうだ、乃亜にはこの使命がある。
逆に言えば、『これ』さえ終えればもうコロラドくんだりに用はない。
これを該当の人物に渡したらそれで終わり。さっさと帰ればいい。パゴサ・スプリングは温泉があって素敵だというから、そこだけ少々観光をして……。
あとは、早く日本に帰らないと。
* *
ぷすん! ぷすん!
不穏な「ぷすん」音は少しずつその存在感を増し、おそらくあともう少しで目的の牧場に着くという頃になって、無視できない音量になってきた。
「そんなぁ……」
音だけじゃない。あるべきではない軽い振動があって、最後に盛大な「ぷすん」音をもう一度上げたと思うと、車は徐々に動かなくなった。
「う……嘘でしょう? 誰か嘘だと言って。よりによってこんな場所で……」
嘆いてみても現実は変わらなかった。
広瀬乃亜、二十四歳、日本人。
はじめて訪れたアメリカはコロラドの荒野で、レンタカーが故障し立ち往生。スマホは使えず消息不明。
ニュースになるだろうか? それともこのくらいでは誰も話題に上げないだろうか?
乃亜はうなだれてハンドルに頭を乗せた。
乃亜は確かにそれなりに英語ができたけれど、レンタカー会社に連絡して事情を説明し代車を用意してもらうまでのやり取りを全部こなすとなると、考えただけで頭が痛くなる。
もし向こうが乃亜に過失があると言い出したらどうしよう?
きちんと反論できるだろうか、英語で?
「うう……」
乃亜はみじめっぽくうめきながら、とりあえず運転席のドアを開けて外によろよろと出た。とりあえず新鮮な空気が欲しかったし、座りっぱなしだった身体をくつろげたい。
「はあ……。うわぁ、さすがに広大……!」
そこには一面、日本にはない種類の雄大な自然が広がっていた。
車窓からのぞく四角に切り取られた風景とはまた違い、外に出て全方面をぐるりと見渡すと、その全貌に飲み込まれそうになる。
乾いた風が頬を撫でた。
地平線があまりにも遠くて、天と地のはっきりした地勢だ。
道路は一応アスファルト舗装されているものの一車線で、どちら方面から車両が来たとしてもエンジン音ですぐ気づくだろう。
だから乃亜はひとしきり風景を楽しむと、とりあえず「ぷすん」の原因を調べるべく車のボンネット側に回った。
「ボンネットってどうやって開けるんだっけ……。説明書あるかな」
作業しやすいように背中まで届く長い髪をまとめて、乃亜は車の先端を押したり引いたりしていじった。
開かない。
「やだ、どうしよう。一応電波はあるけどあやしいし……」
もしかしたらこういった状況のための説明動画があるかもしれない。そう思ってスマホを開いてみるものの、表示されるまでに時間がかかりすぎる。
乃亜は諦めにスマホをどけて両手で顔を覆った。
「もう信じられない……誰か助けて!」
願いは口に出すといいよ、誰かの耳に届いて、叶いやすくなるかもしれないから……と乃亜に教えたのは誰だっただろうか……。
曽祖母だったかもしれない。
曾祖母・春子は時々、乃亜の人生に不思議な指針を与えた。高校生時代にカナダへ一年の留学に乃亜を送り出し、英語を喋れるようにしなさいと諭したのも曽祖母だった。
そのおかげで現在、乃亜はこのありがたくない役目を押しつけられたのだけれど。
そのときだった。
遠方から、一台の車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
乃亜はスマホの存在を忘れてその車に目を凝らした。あまりなだらかとは言えない一車線をかなりのスピードで走り迫ってくる……。
白い……トラックだろうか? 乗用車?
違う。いわゆるピックアップトラックと呼ばれる、日本の軽トラックにステロイドを与えて大きく太くゴツくしたような、アメリカで人気の車種だ。
それが見る間に乃亜に近づいてくる。もちろん一本道の一車線なのだから別に乃亜を目指していなくても、走っていればすれ違うのは当然……。
だけど。
乃亜は身構えた。ここはアメリカ、一般人が銃を所有できる国だ。ぼうっと突っ立っていていいのだろうか? 車内に隠れるべき? それとも助けを求めて手を振るべき?
白いピックアップトラックの走行速度は乃亜の想像以上だったらしく、後方に砂埃を巻き上げながら一分と経たないうちに目前まで迫ってきた。
(ど、どうしよう……!)
うろたえているうちに白いピックアップトラックは乃亜の手前で速度を落とし、少し距離を置いて……停車した。
エンジンを止めると、運転席から大きな人影が現れる。
ピックアップトラックは車高が高いから、その人物は飛び降りるようにして地面に降り立った。バタンと扉を閉めると、乃亜に向かって歩いてくる。
本当に大きな、大きな男性だった。
「なぜこんな場所に停まっているんだ?」
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