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第1話 契約は、知っている者の味方である
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目を開けた瞬間、鉄の匂いがした。
血ではない。錆だ。長年の実務経験が、その違いを瞬時に嗅ぎ分ける。
天井はない。代わりに、紫がかった夜空と、ありえない位置に浮かぶ二つの月。片方は欠け、片方は満ちている。潮汐はどうなっているのだろう、と場違いなことを考えた。
そして、檻。
湊聖司は三秒ほど周囲を観察してから、小さく息を吐いた。
「……やれやれ。不法就労の現場か」
同じ檻の中に、尖った耳を持つ少女たちが膝を抱えてうずくまっている。五人。全員が同じような粗末な麻の服を着せられ、首には淡く光る紋様が刻まれていた。
刺青ではない。内側から発光している。
少女たちの目は虚ろだった。瞳孔が開き、焦点が合っていない。薬物か、あるいは魔法による精神操作か。どちらにせよ、まともな状態ではない。
聖司は自分の体を確認した。
三十五歳の、働き盛りの男の体。
死んだはずだった。
四十八歳。埼玉県内の行政書士事務所で十三年間、不眠不休で働き続けた末の過労死。最後に見た景色は、事務所のデスクに散乱した書類の山だった。
それが今、なぜか若返っている。肩こりも腰痛もない。視力も回復している。三十五歳——人生で最も脂が乗っていた頃の肉体だ。
だが、頭の中には四十八年分の記憶がそのまま残っている。
十五歳から二十年間、伝説的MMO『エターナル・クロニクル』のギルドマスターとして君臨した日々。サービス終了の瞬間、仲間たちと交わした最後の挨拶。そこから一念発起して行政書士試験に挑み、合格してからの十三年間の実務経験。
すべてが、この若い体の中に詰まっている。
奇妙な感覚だった。だが、悪くない。
檻の鉄格子に手をかけ、その表面を親指で擦った。
赤錆が指先にこびりつく。爪で軽く引っ掻くと、薄く剥離した。
「この腐食具合……設置から十年は経ってるな」
鉄格子の断面を観察する。元の太さから二割ほど痩せている。定期的なメンテナンスをしていれば、こうはならない。
「点検記録、どうせ残してないだろ。工作物責任を問えるレベルだ」
誰に言うでもなく呟いた。
職業病だった。建設業許可、産廃収集運搬、古物商、風営法。ありとあらゆる届出書類と格闘し、役所の窓口で揉め、クライアントの尻を叩いて回った十三年間。その習慣は、どうやら異世界に放り込まれても抜けないらしい。
蝶番の位置を確認する。上下二箇所。溶接痕が粗い。量産品だ。錠前は外付けの南京錠タイプ。鍵穴は単純な構造に見える。
こういう細部を見る癖がついたのは、建設業の現場調査を何百件とこなしてきたからだ。建物を見れば、施工の質が分かる。書類を見れば、作成者の知識レベルが分かる。
この檻を作った者は、たいした職人ではない。
「おい新入り、目ェ覚めたか」
檻の外から、脂ぎった声が降ってきた。
革鎧を着た大柄な男。腰には鞭と、短剣のようなもの。顔には、人を人と思わない目。家畜を見る目と同じだ。
聖司は黙ってその男を観察した。
革鎧は使い込まれている。鞭の柄は手垢で光っている。つまり、この仕事を長くやっている。それなりの「実績」があるということだ。
「運が良かったな。お前、『鑑定』にも引っかからねえ雑魚スキルだったから、今日の競りには出さねえ。明日、鉱山行きの労働奴隷としてまとめて売る」
男は下卑た笑みを浮かべた。
「——Loss Cutってやつだ。分かるか?」
「分かるよ」
聖司は淡々と答えた。四十八年の人生経験が、この程度の威圧で動じることを許さない。
「損切りだろ。経営判断としては正しい。在庫を抱えるコストと、早期売却による機会損失の回避。教科書通りだ」
男の笑みが少し固くなった。予想と違う反応だったのだろう。
「ただ、その前提として」
聖司は続けた。
「損切りされるのがどっちか、ちゃんと確認したか?」
「……あァ?」
聖司は目を閉じた。
意識を集中する。すると、視界の端に青白い文字列が浮かび上がった。
この世界に来てから——正確には、目覚めてから——なぜか使えるようになった能力。ゲーム時代なら「チートスキル」と呼ばれていただろう。だが、聖司にとっては、これは単なる「便利な道具」だった。
【スキル:契約視認(Contract Sight)】
対象に付与された契約・呪縛・雇用関係を「法的条文」として可視化する。
※注意:可視化された条文は、対象者の認識する言語で表示される。
二十年間のMMO経験が、この手のシステムへの順応を早めているのかもしれない。ステータス画面もスキル表示も、かつて見慣れたインターフェースと大差ない。
聖司は隣でうずくまるエルフの少女に視線を向けた。
彼女の首に光る紋様。そこに重なるように、青い文字が浮かぶ。
【奴隷契約書】
甲(所有者):ゲルド商会代表 ゲルド・マクファーレン
乙(被所有者):イリア(エルフ族・156歳・女性)
第1条 乙は甲の完全なる所有物であり、甲の命令に絶対服従するものとする。
第2条 本契約は乙の魂核に刻印され、乙の死亡まで有効とする。
第3条 契約締結の対価として、乙より200マナを徴収済み。
第4条 乙は甲の許可なく、甲の指定する場所から移動してはならない。
第5条 本契約に関する紛争は、帝国中央裁判所の管轄とする。
【様式】自由書式
【契約成立日】帝国歴402年 霜月12日
【締結時の乙の年齢】156歳
【届出】未届
聖司の目が細くなった。
穴だらけだ。
実務家の目で見れば、この契約書は欠陥品だった。致命的な瑕疵が、少なくとも四つはある。
かつて、役所の窓口で理不尽な却下を食らったことがある。書類は完璧だった。だが、担当者の気分で突き返された。あの時の怒りは、今でも覚えている。
だからこそ、今度は自分が「完璧な論理」で相手を叩き潰す番だ。
「おい、商人」
「なんだ、命乞いか?」
「この契約書、お前が作ったのか」
「当たり前だろ。ゲルド商会謹製、世界法に基づく正式な奴隷契約だ。『鑑定』のスキルで見たって、一字一句の隙も——」
「様式が違う」
商人の声が止まった。
「世界法施行規則・別表第三。奴隷契約に使用すべき様式は『第12号様式』と定められている」
聖司は淡々と続けた。この世界の法律体系は、目覚めてから不思議と頭に入っていた。スキルの副次効果か、あるいは転生のおまけか。理由は分からないが、便利なものは使う。
「お前のこれは旧式だ。六年前の法改正で廃止されたフォーマットを使い回してる。届出欄があるのに届出をしていない点も問題だが、そもそも様式自体が無効だ」
「な……そんな、細かいことを……」
「細かいことを言うのが俺の仕事だ」
聖司は指を立てた。
「様式不備だけでも契約は無効になり得るが、まあいい。他にもある。一点目」
人差し指。
「印紙代——この世界では契約魔力と呼ぶらしいが——の不足。世界法施行規則第88条によれば、奴隷契約の締結には最低250マナの契約魔力が必要だ。この契約書には『200マナ徴収済み』と書いてある。50マナ足りない」
「それは……その……」
「50マナをケチったんだろう。気持ちは分かる。俺もクライアントに『印紙代を節約したい』と言われることはある。だが、節約していい場所と悪い場所がある。これは悪い場所だ」
中指を立てる。
「二点目。契約締結権限の欠如」
商人の顔から、徐々に血の気が引いていく。
「エルフ族の成人年齢は200歳だ。帝国民法第4条に明記されている。156歳で締結されたこの契約は、未成年者との契約に該当する。未成年者との契約には親権者または後見人の同意が必要だが、この契約書にはその欄自体が存在しない」
薬指。
「三点目。届出義務の懈怠。奴隷契約は締結後30日以内に管轄のギルドへ届け出る義務がある。届出欄が空白ということは、届出をしていないということだ。届出のない奴隷契約は、第三者に対抗できない」
小指。
「そして四点目」
聖司は檻の外を指差した。
「管轄違いだ。ここは帝国領じゃない。国境から500メートル以内の緩衝地帯だ。世界法第203条。緩衝地帯における帝国法の適用は、外交協定に基づく場合を除き、認められない。帝国法に基づく奴隷契約の締結・執行は、この地では効力を持たない」
商人が何か叫ぼうとした。
聖司はそれを遮った。
「世界法第8条第2項。『手続き上の重大な瑕疵がある契約は、遡及的に無効とする。この場合において、契約の無効は善意の第三者にも対抗することができる』」
エルフの少女——イリアの首から、光る紋様が消えた。
音はなかった。ただ、蛍が消えるように、す、と光が失われた。
同時に、広場中の檻で同じことが起きていた。
光が消える。紋様が剥がれ落ちる。奴隷たちが、呆然と自分の首に手をやる。
聖司は檻の中を見回した。五人のエルフの少女たち。全員の首から紋様が消えている。
「な、なんだこれは……!」
商人が絶叫した。
広場中が騒然となる。競りにかけられていた他の奴隷たちも、次々と紋様を失っていく。観客席の貴族たちが立ち上がり、何事かと叫んでいる。
聖司は静かに檻の扉を押した。
もう魔力による拘束は解けている。錠前は——最初から、飾りだったのかもしれない。あっさりと開いた。
「俺は湊聖司。行政書士だ」
振り返らずに言った。
「法律は、知っている者の味方だ」
懐に手を入れる。そこには、なぜか万年筆が入っていた。使い慣れた、十三年来の相棒。異世界転生でも一緒に来てくれたらしい。
それを取り出しながら、聖司は続けた。
「そして——完璧な書類は、剣より鋭く世界を切り裂く」
商人は腰を抜かしていた。
周囲の警備兵たちも、何が起きたのか理解できていない様子だった。
聖司は檻から出て、呆然と座り込んでいるイリアに手を差し伸べた。
「立てるか」
「……あ、あなたは……」
「説明は後だ。今はここを離れる」
イリアの手を取り、立たせる。
広場は混乱の渦中にあった。解放された奴隷たちが泣き叫び、商人たちが怒鳴り合い、貴族たちが我先にと逃げ出している。
その混乱の中を、聖司は静かに歩き始めた。
三十五歳の肉体に、四十八年分の経験。
この組み合わせが、この世界でどこまで通用するか。
試してみる価値はありそうだった。
背後で、商人の絶叫が聞こえた。
「待て……待てぇ! 俺の商品を……俺の財産を……!」
聖司は振り返らなかった。
ただ、小さく呟いた。
「お前の商品は、最初から商品じゃなかったんだよ」
紫色の空の下、二つの月が静かに見下ろしていた。
第1話 完
次回予告
第2話「開業届と、窓口の魔女」
「業種『行政書士』? そんな職業、登録簿にありませんが」
「ないなら作ればいい。新規業種の届出様式はあるだろう」
「……この羊皮紙、等級が規定に足りませんね。書き直してください」
「足りてる。世界法施行規則第44条第2項但書を読め」
——届出一枚、通すだけでも戦争だ。
血ではない。錆だ。長年の実務経験が、その違いを瞬時に嗅ぎ分ける。
天井はない。代わりに、紫がかった夜空と、ありえない位置に浮かぶ二つの月。片方は欠け、片方は満ちている。潮汐はどうなっているのだろう、と場違いなことを考えた。
そして、檻。
湊聖司は三秒ほど周囲を観察してから、小さく息を吐いた。
「……やれやれ。不法就労の現場か」
同じ檻の中に、尖った耳を持つ少女たちが膝を抱えてうずくまっている。五人。全員が同じような粗末な麻の服を着せられ、首には淡く光る紋様が刻まれていた。
刺青ではない。内側から発光している。
少女たちの目は虚ろだった。瞳孔が開き、焦点が合っていない。薬物か、あるいは魔法による精神操作か。どちらにせよ、まともな状態ではない。
聖司は自分の体を確認した。
三十五歳の、働き盛りの男の体。
死んだはずだった。
四十八歳。埼玉県内の行政書士事務所で十三年間、不眠不休で働き続けた末の過労死。最後に見た景色は、事務所のデスクに散乱した書類の山だった。
それが今、なぜか若返っている。肩こりも腰痛もない。視力も回復している。三十五歳——人生で最も脂が乗っていた頃の肉体だ。
だが、頭の中には四十八年分の記憶がそのまま残っている。
十五歳から二十年間、伝説的MMO『エターナル・クロニクル』のギルドマスターとして君臨した日々。サービス終了の瞬間、仲間たちと交わした最後の挨拶。そこから一念発起して行政書士試験に挑み、合格してからの十三年間の実務経験。
すべてが、この若い体の中に詰まっている。
奇妙な感覚だった。だが、悪くない。
檻の鉄格子に手をかけ、その表面を親指で擦った。
赤錆が指先にこびりつく。爪で軽く引っ掻くと、薄く剥離した。
「この腐食具合……設置から十年は経ってるな」
鉄格子の断面を観察する。元の太さから二割ほど痩せている。定期的なメンテナンスをしていれば、こうはならない。
「点検記録、どうせ残してないだろ。工作物責任を問えるレベルだ」
誰に言うでもなく呟いた。
職業病だった。建設業許可、産廃収集運搬、古物商、風営法。ありとあらゆる届出書類と格闘し、役所の窓口で揉め、クライアントの尻を叩いて回った十三年間。その習慣は、どうやら異世界に放り込まれても抜けないらしい。
蝶番の位置を確認する。上下二箇所。溶接痕が粗い。量産品だ。錠前は外付けの南京錠タイプ。鍵穴は単純な構造に見える。
こういう細部を見る癖がついたのは、建設業の現場調査を何百件とこなしてきたからだ。建物を見れば、施工の質が分かる。書類を見れば、作成者の知識レベルが分かる。
この檻を作った者は、たいした職人ではない。
「おい新入り、目ェ覚めたか」
檻の外から、脂ぎった声が降ってきた。
革鎧を着た大柄な男。腰には鞭と、短剣のようなもの。顔には、人を人と思わない目。家畜を見る目と同じだ。
聖司は黙ってその男を観察した。
革鎧は使い込まれている。鞭の柄は手垢で光っている。つまり、この仕事を長くやっている。それなりの「実績」があるということだ。
「運が良かったな。お前、『鑑定』にも引っかからねえ雑魚スキルだったから、今日の競りには出さねえ。明日、鉱山行きの労働奴隷としてまとめて売る」
男は下卑た笑みを浮かべた。
「——Loss Cutってやつだ。分かるか?」
「分かるよ」
聖司は淡々と答えた。四十八年の人生経験が、この程度の威圧で動じることを許さない。
「損切りだろ。経営判断としては正しい。在庫を抱えるコストと、早期売却による機会損失の回避。教科書通りだ」
男の笑みが少し固くなった。予想と違う反応だったのだろう。
「ただ、その前提として」
聖司は続けた。
「損切りされるのがどっちか、ちゃんと確認したか?」
「……あァ?」
聖司は目を閉じた。
意識を集中する。すると、視界の端に青白い文字列が浮かび上がった。
この世界に来てから——正確には、目覚めてから——なぜか使えるようになった能力。ゲーム時代なら「チートスキル」と呼ばれていただろう。だが、聖司にとっては、これは単なる「便利な道具」だった。
【スキル:契約視認(Contract Sight)】
対象に付与された契約・呪縛・雇用関係を「法的条文」として可視化する。
※注意:可視化された条文は、対象者の認識する言語で表示される。
二十年間のMMO経験が、この手のシステムへの順応を早めているのかもしれない。ステータス画面もスキル表示も、かつて見慣れたインターフェースと大差ない。
聖司は隣でうずくまるエルフの少女に視線を向けた。
彼女の首に光る紋様。そこに重なるように、青い文字が浮かぶ。
【奴隷契約書】
甲(所有者):ゲルド商会代表 ゲルド・マクファーレン
乙(被所有者):イリア(エルフ族・156歳・女性)
第1条 乙は甲の完全なる所有物であり、甲の命令に絶対服従するものとする。
第2条 本契約は乙の魂核に刻印され、乙の死亡まで有効とする。
第3条 契約締結の対価として、乙より200マナを徴収済み。
第4条 乙は甲の許可なく、甲の指定する場所から移動してはならない。
第5条 本契約に関する紛争は、帝国中央裁判所の管轄とする。
【様式】自由書式
【契約成立日】帝国歴402年 霜月12日
【締結時の乙の年齢】156歳
【届出】未届
聖司の目が細くなった。
穴だらけだ。
実務家の目で見れば、この契約書は欠陥品だった。致命的な瑕疵が、少なくとも四つはある。
かつて、役所の窓口で理不尽な却下を食らったことがある。書類は完璧だった。だが、担当者の気分で突き返された。あの時の怒りは、今でも覚えている。
だからこそ、今度は自分が「完璧な論理」で相手を叩き潰す番だ。
「おい、商人」
「なんだ、命乞いか?」
「この契約書、お前が作ったのか」
「当たり前だろ。ゲルド商会謹製、世界法に基づく正式な奴隷契約だ。『鑑定』のスキルで見たって、一字一句の隙も——」
「様式が違う」
商人の声が止まった。
「世界法施行規則・別表第三。奴隷契約に使用すべき様式は『第12号様式』と定められている」
聖司は淡々と続けた。この世界の法律体系は、目覚めてから不思議と頭に入っていた。スキルの副次効果か、あるいは転生のおまけか。理由は分からないが、便利なものは使う。
「お前のこれは旧式だ。六年前の法改正で廃止されたフォーマットを使い回してる。届出欄があるのに届出をしていない点も問題だが、そもそも様式自体が無効だ」
「な……そんな、細かいことを……」
「細かいことを言うのが俺の仕事だ」
聖司は指を立てた。
「様式不備だけでも契約は無効になり得るが、まあいい。他にもある。一点目」
人差し指。
「印紙代——この世界では契約魔力と呼ぶらしいが——の不足。世界法施行規則第88条によれば、奴隷契約の締結には最低250マナの契約魔力が必要だ。この契約書には『200マナ徴収済み』と書いてある。50マナ足りない」
「それは……その……」
「50マナをケチったんだろう。気持ちは分かる。俺もクライアントに『印紙代を節約したい』と言われることはある。だが、節約していい場所と悪い場所がある。これは悪い場所だ」
中指を立てる。
「二点目。契約締結権限の欠如」
商人の顔から、徐々に血の気が引いていく。
「エルフ族の成人年齢は200歳だ。帝国民法第4条に明記されている。156歳で締結されたこの契約は、未成年者との契約に該当する。未成年者との契約には親権者または後見人の同意が必要だが、この契約書にはその欄自体が存在しない」
薬指。
「三点目。届出義務の懈怠。奴隷契約は締結後30日以内に管轄のギルドへ届け出る義務がある。届出欄が空白ということは、届出をしていないということだ。届出のない奴隷契約は、第三者に対抗できない」
小指。
「そして四点目」
聖司は檻の外を指差した。
「管轄違いだ。ここは帝国領じゃない。国境から500メートル以内の緩衝地帯だ。世界法第203条。緩衝地帯における帝国法の適用は、外交協定に基づく場合を除き、認められない。帝国法に基づく奴隷契約の締結・執行は、この地では効力を持たない」
商人が何か叫ぼうとした。
聖司はそれを遮った。
「世界法第8条第2項。『手続き上の重大な瑕疵がある契約は、遡及的に無効とする。この場合において、契約の無効は善意の第三者にも対抗することができる』」
エルフの少女——イリアの首から、光る紋様が消えた。
音はなかった。ただ、蛍が消えるように、す、と光が失われた。
同時に、広場中の檻で同じことが起きていた。
光が消える。紋様が剥がれ落ちる。奴隷たちが、呆然と自分の首に手をやる。
聖司は檻の中を見回した。五人のエルフの少女たち。全員の首から紋様が消えている。
「な、なんだこれは……!」
商人が絶叫した。
広場中が騒然となる。競りにかけられていた他の奴隷たちも、次々と紋様を失っていく。観客席の貴族たちが立ち上がり、何事かと叫んでいる。
聖司は静かに檻の扉を押した。
もう魔力による拘束は解けている。錠前は——最初から、飾りだったのかもしれない。あっさりと開いた。
「俺は湊聖司。行政書士だ」
振り返らずに言った。
「法律は、知っている者の味方だ」
懐に手を入れる。そこには、なぜか万年筆が入っていた。使い慣れた、十三年来の相棒。異世界転生でも一緒に来てくれたらしい。
それを取り出しながら、聖司は続けた。
「そして——完璧な書類は、剣より鋭く世界を切り裂く」
商人は腰を抜かしていた。
周囲の警備兵たちも、何が起きたのか理解できていない様子だった。
聖司は檻から出て、呆然と座り込んでいるイリアに手を差し伸べた。
「立てるか」
「……あ、あなたは……」
「説明は後だ。今はここを離れる」
イリアの手を取り、立たせる。
広場は混乱の渦中にあった。解放された奴隷たちが泣き叫び、商人たちが怒鳴り合い、貴族たちが我先にと逃げ出している。
その混乱の中を、聖司は静かに歩き始めた。
三十五歳の肉体に、四十八年分の経験。
この組み合わせが、この世界でどこまで通用するか。
試してみる価値はありそうだった。
背後で、商人の絶叫が聞こえた。
「待て……待てぇ! 俺の商品を……俺の財産を……!」
聖司は振り返らなかった。
ただ、小さく呟いた。
「お前の商品は、最初から商品じゃなかったんだよ」
紫色の空の下、二つの月が静かに見下ろしていた。
第1話 完
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「業種『行政書士』? そんな職業、登録簿にありませんが」
「ないなら作ればいい。新規業種の届出様式はあるだろう」
「……この羊皮紙、等級が規定に足りませんね。書き直してください」
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