異世界行政書士事務所 ~転生したら許認可チートでした。暴力ではなく「書類」で魔王をねじ伏せる~

れーやん

文字の大きさ
2 / 6

第2話 開業届と、窓口の魔女

しおりを挟む
 商業都市ミサトは、聖司の故郷に似た響きの名前だった。

 ミサト。みさと。

 偶然にしては、出来すぎている。

 街に入った瞬間から、聖司は妙な既視感を覚えていた。

 中央を貫く大通り。その両脇に整然と並ぶ商店。用水路の配置。区画の切り方。どこか、日本の地方都市を思わせる。

 気のせいだろうか。

「先生、あの建物が『ギルド庁舎』です」

 隣を歩くエルフの少女——イリアが、石造りの大きな建物を指差した。

 白い石壁。青い屋根。正面には巨大な紋章が掲げられている。剣と天秤と羽根ペンを組み合わせたデザイン。司法と行政と記録を司る、という意味だろうか。

 奴隷市場から逃げ出した後、聖司はイリアと共にこの街まで歩いてきた。丸一日かかった。三十五歳の肉体でなければ、四十八年分の精神は途中で音を上げていただろう。

 イリアは、なぜか聖司についてきた。

 恩を返したい、と彼女は言った。契約を無効化してくれた礼だと。

 断る理由もなかったので、とりあえず助手ということにしてある。実際、この世界の常識を教えてもらえるのはありがたい。二十年のMMO経験があっても、「リアル異世界」の常識は別物だ。

「よし、まずは開業届だ」

 聖司は庁舎の階段を上った。

 石段は磨り減っていた。何十年、何百年と、人々がこの階段を上り下りしてきた証拠だ。役所というのは、どの世界でも変わらないらしい。重厚で、威圧的で、そして——面倒くさい。


 庁舎の中は、予想通りの光景だった。

 長いカウンター。その向こうに並ぶ窓口。天井から吊るされた番号札。壁に貼られた「届出は正確に」「不備は受理できません」といった注意書き。

 日本の市役所と、驚くほど似ていた。

 違うのは、カウンターの向こうで書類を処理している職員たちの耳が尖っていたり、角が生えていたりすることくらいだ。

 番号札を取り、待合の椅子に座る。

 椅子は木製で、座面が硬い。わざとだろう。長居させないための設計だ。日本の役所でもよく見る手法だった。埼玉県内のいくつかの市役所で、同じ椅子を見たことがある。

 三十分ほど待って、ようやく番号が呼ばれた。

「42番の方、3番窓口へどうぞ」

 聖司は立ち上がり、指定された窓口へ向かった。

 窓口の向こうには、銀髪のエルフの女性が座っていた。

 眼鏡をかけている。髪は後ろで一つに結んでいる。年齢は——エルフの年齢は外見では分からないが、雰囲気からして若くはない。百歳は超えているだろう。

 彼女はこちらを見もせず、手元の羊皮紙に羽根ペンを走らせていた。インクの匂いが鼻をつく。鉄分を含んだ、独特の匂いだ。

「次の方。用件は」

「開業届を出しに来た」

「業種は」

「行政書士」

 羽根ペンが止まった。

 女性が顔を上げる。細い目が、聖司を値踏みするように見た。

 眼鏡の奥の瞳は、冷たい灰色だった。

「……行政書士」

「そうだ」

「そのような業種は、登録簿に存在しません」

「知ってる。だから新規で届け出る」

 女性の眉がぴくりと動いた。

「新規業種の届出には、審査委員会の承認が必要です。最短でも三ヶ月。必要書類は十二種類。保証人も二名。供託金として50ギル」

 聖司は黙って窓口のカウンターに手をついた。

「その審査委員会の根拠規定は」

「……は?」

「業種新設に審査委員会の承認が必要だという規定。世界法の何条何項だ」

 女性の表情が固くなった。

「世界法施行規則第42条に基づく——」

「読んだ」

 聖司は遮った。

「第42条の条文はこうだ。『新規業種の届出は、届出書の提出をもって効力を生ずる。届出書の様式は別表第七に定める』。審査委員会なんて一言も書いてない」

「それは——」

「お前が今言ったのは内規だろう。庁舎内のローカルルール。法的拘束力はない」

 窓口の空気が、一瞬で凍りついた。

 後ろに並んでいた住民たちが、何事かとこちらを見ている。隣の窓口の職員も、手を止めてこちらを窺っていた。

 女性の目が、すっと細くなった。

「……お詳しいんですね」

「詳しくないと、この仕事はできない」

 聖司は懐から羊皮紙を取り出した。

 昨夜、イリアに教わりながら徹夜で作成した届出書だ。インクは街の雑貨屋で買った。羊皮紙はイリアが「以前の雇い主の倉庫から失敬してきた」と言っていた。経緯は聞かないことにした。

「業種名、行政書士。業務内容、官公署に提出する書類の作成、権利義務に関する書類の作成、事実証明に関する書類の作成、及びこれらの書類に関する相談業務。届出者、湊聖司」

 女性は無言で書類を受け取った。

 一字一句、確認していく。その目は、粗を探す目だった。獲物を狙う鷹のように鋭い。

 一分。二分。三分。

 女性が顔を上げた。

「この羊皮紙、等級が規定に足りませんね」

「足りてる」

「いいえ。届出書に使用する羊皮紙は、最低でも『上質』等級が必要です。これは『並』等級です」

「世界法施行規則第44条第2項但書」

 聖司は即座に返した。

「『届出者が経済的困窮の状態にある場合、または届出に係る業種が公益に資するものである場合は、この限りでない』。俺は昨日まで奴隷市場の檻の中にいた。経済的困窮の状態だ。文句あるか」

 女性の頬がぴくりと痙攣した。

 だが、彼女は引き下がらなかった。

「……では、インクの質を確認させてください」

「インク?」

「はい。公的届出書に使用するインクは、世界法施行規則第45条により、褪色防止処理済みのものに限られます」

 聖司は眉を上げた。

 日本の役所でも、黒インク指定か青インク可かで揉めたことがあったな……。どの世界でも、窓口担当者というのは同じ手を使ってくる。

「第45条は『保存を要する書類』に関する規定だ。届出書は保存書類じゃない。受理後に庁舎で転記されるから、原本の保存義務はない」

「転記前に褪色したらどうするんですか」

「受理した瞬間に転記するのが庁舎の義務だろう。施行規則第46条。『届出書の受理後、遅滞なく登録簿に転記しなければならない』。遅滞なく、だ。褪色する暇なんかない」

 女性の目が、さらに細くなった。

 沈黙が流れた。

 彼女は書類をもう一度見た。そして、新たな攻撃を繰り出してきた。

「この綴り方、規定と違いますね」

「何がだ」

「届出書の綴じ方は、左上を起点とする『王国式』が標準です。これは右上を起点とする『帝国式』になっています」

 聖司は、深く息を吸った。

 本質に関係ない。完全に、本質に関係ない指摘だった。

 だが、こういう窓口担当者は日本にもいた。申請を通したくないから、どうでもいい形式不備を延々と指摘してくる。十三年の実務経験で、何度も出会ってきた。

「施行規則第47条」

 聖司は静かに言った。

「『届出書の様式は別表第七に定める。ただし、記載事項に不備がなく、かつ、届出の趣旨が明確である場合は、様式の軽微な相違は受理を妨げない』。綴じ方は『軽微な相違』だ。却下の理由にならない」

 女性は書類を睨みつけた。

 聖司は続けた。

「さらに言えば、施行規則第48条。『窓口担当者は、届出書の形式的不備を理由に、正当な届出を拒んではならない。形式的不備がある場合は、補正を指導した上で受理しなければならない』」

 女性の手が、わずかに震えた。

「お前は今、三回連続で『形式的不備』を理由に受理を拒もうとした。四回目があったら、俺は上位庁に苦情を申し立てる。世界法第198条に基づいてな」

 沈黙。

 窓口の周囲が、完全に静まり返っていた。後ろに並んでいた人々が、固唾を呑んで見守っている。

 女性は長い間、聖司を見つめていた。

 その目には、怒りと——わずかな敬意が混じっているように見えた。

 やがて、小さく舌打ちした。

「……ルシエラ」

「何?」

「私の名前です。ルシエラ・ヴァイスベルト」

 彼女は届出書を手に取り、受付印を押した。

 ゴン、という重い音が、窓口に響いた。

「届出番号は後日通知します。届出済証の発行には三日かかります。届出済証と同時に、あなたの『職印』も発行されます」

「職印?」

「士業の証明印です。魔力が込められた印鑑で、届出書類に押印することで、その書類が有資格者によって作成されたことを証明します。偽造は不可能です。受け取りには本人確認が必要ですので、必ず届出者本人がお越しください」

 職印。

 その言葉を聞いた瞬間、聖司の脳裏に、あの感触が蘇った。

 使い古された、角の少し欠けた士業印。十三年間、何千回と押してきた。朱肉の匂い。印面に刻まれた「行政書士 湊聖司」の文字。最後に握ったのは、過労死する直前の深夜だった。

 あの印鑑は、もう手元にない。

 だが、この世界で新しい職印を手にする。

 四十八年の人生。最後に握っていたのは万年筆だった。だが、行政書士としての魂は、あの四角い印影に宿っていた。

 それは、再び「士業」として生きることの証だ。

「届出済証と職印を受け取るまでは、業務を行わないでください。違反した場合、届出は取り消されます」

「了解した」

 聖司は踵を返しかけた。

 ルシエラが、ぽつりと言った。

「……昔、あんたみたいに理屈にうるさい女がいたんだよ」

 聖司は足を止めた。

「何?」

「この街の名前の由来になった人さ。『ミサト』っていう名の女。数百年前、何もなかったこの土地に現れて、治水と法整備をやって、街の基礎を作った」

 聖司は振り返った。

「……その女は、どこから来たんだ」

「さあね。伝説じゃ、『異界の賢者』だったとか。私も詳しくは知らない。古い話だからね」

 ルシエラは肩をすくめた。

「ただ、あんたを見てたら、なんとなく思い出しただけさ。理屈っぽくて、融通が利かなくて、でも——正しいことを言う。そういうところが、似てる」

 聖司は黙ったまま、窓口を離れた。

 ミサト。

 同じ名前の女が、数百年前にこの街を作った。

 偶然か。それとも——。

 背後で、ルシエラの小さな声が聞こえた。

「門前払いの魔女と呼ばれて十年、初めて負けました。……次に来る時も、覚悟しておきなさい」

 聖司は振り返らなかった。

 ただ、小さく呟いた。

「異世界の役所も、日本の役所も、結局は同じだな……」


 次は事務所だ。

 ミサトの不動産屋を三件回ったが、どこも予算に合わない。

 最低でも月額20ギル。聖司の手持ちは、奴隷市場で解放した人々からもらった感謝の品を換金した15ギルだけだ。

「先生、あの……ひとつ、安い物件があるんですが」

 イリアが遠慮がちに言った。

「言ってみろ」

「……おすすめはしません」

「いいから」

 イリアが連れてきたのは、路地裏の古びた二階建てだった。

 壁は罅だらけ。窓ガラスは割れている。看板は朽ちて読めない。軒先の雨樋は外れかけ、壁には蔦が這っている。

 そして——玄関に、赤い×印が描かれていた。

「事故物件か」

「はい。三年前に、ここで……その、人が」

「分かった」

 聖司は建物に近づき、外壁を確認した。

 罅は表面だけだ。構造体には達していない。基礎は石造りで、傾きもない。建物自体はしっかりしている。

 二階部分を見上げる。

 ——おかしい。

「イリア、この建物の登記情報、確認できるか」

「登記……ですか? 不動産屋さんが持ってきた書類に書いてあると思いますが」

「見せてくれ」

 イリアが鞄から羊皮紙を取り出す。

 聖司は【契約視認】を発動した。


【物件概要書】

所在地:ミサト市第三区画 ロット番号未登録
構造:石造二階建
床面積:1階 42平方メートル / 2階 38平方メートル
所有者:ゲルド商会
管理者:ミサト不動産組合

【登記情報】
建物表題登記:帝国歴389年登記
構造:石造平屋建
床面積:1階 42平方メートル

【備考】相続登記未了


 聖司の目が細くなった。

「三つ問題がある」

「み、三つ?」

「一つ目。所有者がゲルド商会になっている。俺が昨日潰した、あの奴隷商会だ。代表者は逮捕されて、商会は事実上解散している。つまり、この物件は現在、所有者不在だ」

「それは……どういう意味ですか」

「所有者不在の不動産を賃貸する権限が、ミサト不動産組合にあるかどうか疑わしい。賃貸借契約を結んでも、後から『無権限者との契約だった』と言われる可能性がある」

 イリアが青ざめた。

「で、では、借りられないんですか」

「待て、まだある。二つ目」

 聖司は二階を指差した。

「この建物、登記上は『平屋建』になっている。だが、実際には二階建てだ」

「え?」

「登記と現況が一致していない。つまり、二階部分は未登記の増築だ。建築確認を取っているかどうかも怪しい」

 心の中で、聖司は苦笑した。本来、不動産登記は司法書士の職域だ。現実でこんなことをしたら、業際違反で懲戒処分ものだろう。

 だが、この世界には業際がない。

「三つ目。ロット番号が『未登録』になっている。土地の区画が正式に登録されていないということだ。この土地は、法的には『存在しない土地』かもしれない」

 聖司は腕を組んだ。

「これだけ瑕疵があれば、交渉材料には十分だ」

「こ、交渉?」

「不動産屋に行く。家賃、叩き落とす」


 ミサト不動産組合の事務所は、ギルド庁舎の裏手にあった。

 組合長は、太った中年の人間だった。禿げ上がった頭に、脂ぎった笑顔。典型的な「悪徳不動産屋」の風貌だ。

「おや、あの物件に興味がおありで? 月額2ギル、敷金2ギル、礼金1ギル。事故物件ですから、お安くしておりますよ」

「高いな」

「いやいや、これでも相場の十分の一ですよ。あの物件、三年間借り手がいなくて——」

「所有者不在の物件を賃貸する権限が、お前にあるのか」

 組合長の笑顔が、一瞬固まった。

「……は?」

「あの物件の所有者はゲルド商会だ。代表者は昨日逮捕された。商会は事実上解散している。所有者が存在しない不動産の賃貸借契約は、無権限者との契約として無効になり得る」

 組合長の顔から、笑みが消えた。

「さらに言えば、あの物件は登記上『平屋建』だが、実際には二階建てだ。未登記の増築がある。建築確認を取っていない違法建築の可能性がある」

「そ、それは——」

「そしてロット番号が未登録だ。土地の区画が正式に登録されていない。つまり、あの土地は法的には存在しない。存在しない土地の上に建つ建物を賃貸することが、果たして合法かどうか」

 聖司は、静かに組合長を見据えた。

「これらの瑕疵を、ギルド庁舎に公的に申告することもできる。登記の不整合、違法建築の疑い、無権限賃貸。調査が入れば、お前の組合が管理している他の物件にも波及するだろうな」

 組合長の顔が、みるみる青ざめていった。

 額に汗が浮かんでいる。

「……あ、あんた、何者だ」

 その声は、震えていた。

 聖司は表情を変えなかった。

「行政書士だ。届出は済ませた」

「行政……?」

「家賃は月額1ギル。敷金、礼金は免除。さらに、最初の三ヶ月はフリーレントだ。それで手を打つ」

 組合長は、しばらく聖司を見つめていた。

 その目には、恐怖があった。

 単なる知識ではない。相手の逃げ道を、法的に完全に塞ぐ。その静かな威圧感に、組合長は屈したのだ。

「……分かりました。その条件で、契約しましょう」

 聖司は頷いた。

 心の中で、小さく呟いた。

 これが、行政書士の戦い方だ。


 事務所の掃除を始めたのは、日が傾き始めた頃だった。

 埃を払い、蜘蛛の巣を取り、割れた窓ガラスを板で塞ぐ。イリアがどこからか調達してきた机と椅子を並べると、なんとなく事務所らしい形になってきた。

 玄関のドアが乱暴に開いたのは、その時だった。

「おい、お前がここの新しい借り主か!」

 入ってきたのは、巨大な緑色の男だった。

 身長は2メートルを超えている。筋肉の塊のような体躯。顔には古傷。牙が下唇から突き出している。

 オークだ。

 だが、聖司が最初に気づいたのは、その目だった。充血している。睡眠不足だ。そして、腕には擦り切れた腕章。何度も洗濯したのか、色が褪せている。

 その姿が、一瞬、別の誰かと重なった。

 かつて、聖司が救えなかった男。ブラック企業で潰れた若手社員。

 あの時、聖司は書類を完璧に整えた。残業記録、給与明細、就業規則の矛盾点。すべてを揃えて、労働基準監督署に提出する準備をしていた。

 だが、会社側の弁護士が介入してきた。

 「これ以上騒ぐなら、彼の再就職に差し障りますよ」

 脅しだった。だが、若手社員はそれに屈した。「もういいです、先生。これ以上は……」と言って、相談を打ち切った。

 三ヶ月後、彼は自殺した。

 あの時の、疲れ切った目。今、目の前にいるオークの目と、同じだ。

「誰だ」

「俺はバルザック。元帝国軍第三師団長だ」

 元軍人。しかも将軍クラス。その男が、なぜこんなボロボロの姿で——

「その腕章、なんだ」

「あ? これか」

 バルザックは自分の腕を見た。

「ギルド庁舎の警備員だ。不本意だがな」

 聖司は【契約視認】を発動した。


【雇用契約】

雇用主:ミサト・ギルド庁舎
被雇用者:バルザック
雇用形態:日雇い
日給:3ギル
勤務時間:記載なし
休日:記載なし
社会保険:未加入
労災適用:対象外

【実態】
直近30日間の平均労働時間:18時間/日
直近30日間の休日:0日


 聖司は、小さくため息をついた。

 日給3ギル。この世界の物価感覚はまだ掴めていないが、月額1ギルで借りられる事故物件の家賃から逆算すると、おそらく日本円で数百円程度だろう。

 それで、一日十八時間。休みなし。

「おい、バルザック」

「なんだ」

「お前の雇用契約、滅茶苦茶だぞ」

「……何だと?」

「勤務時間の記載がない。休日の記載もない。社会保険未加入、労災対象外。そして——直近一ヶ月、お前は一日も休んでいない。一日平均十八時間働いている」

 バルザックの顔が強張った。

「なぜ、それを——」

「見れば分かる」

 聖司は立ち上がった。

「将軍だった男が、なぜこんな扱いを受けている」

 バルザックは少し黙った。

 その沈黙の間、聖司は彼の姿を観察した。かつての誇りを削り取られた男の姿。不当な労働で疲弊し、それでも歯を食いしばって立っている姿。

 あの若手社員と、同じだ。

 あの時、俺は「不当な圧力」に屈した。相手の脅しに、クライアントが折れるのを止められなかった。書類を完璧に整えても、最後の一歩を踏み出させることができなかった。

 今度は、違う。

 今度は、絶対に負けない。

「……戦争で、部下を大勢死なせた」

 バルザックがぽつりと言った。

「責任を取って除隊した。だが、オークの元軍人を雇う奴はいねえ。ギルド庁舎の警備員が、唯一の仕事だった」

「それで、足元を見られているわけか」

「……そういうことだ」

 聖司は腕を組んだ。

「お前がここに来た用件は何だ」

 バルザックは少し黙ってから、ばつが悪そうに言った。

「……正直に言う。庁舎の窓口で、お前がルシエラを論破したって噂になってる」

「論破なんかしてない。規則通りの書類を出しただけだ」

「それができる奴がいねえから驚いてんだよ。あいつ、庁舎内じゃ『門前払いの魔女』って呼ばれてる」

「知ってる。本人から聞いた」

 バルザックは大きな体を縮めるようにして、言った。

「……俺の雇用契約、なんとかならねえか」

「なる」

「本当か」

「ただし、お前が俺のクライアントになるならな。報酬は——最初の給料の一割でいい」

 バルザックは少し考えてから、大きな手を差し出した。

「契約だ、行政書士」

 聖司はその手を握った。

 今度こそ、救う。


 日が暮れた。

 バルザックの雇用契約書の修正案を作成していると、玄関のドアが静かに開いた。

「……失礼します」

 入ってきたのは、フードを深く被った女性だった。

 背が高い。声は若い。フードの奥から、赤い瞳が一瞬だけ見えた。

「行政書士事務所は、こちらでしょうか」

「まだ正式には営業してない。届出済証は三日後だ」

「では、三日後に正式にご依頼します。今日は……ご相談だけ」

 女性はゆっくりとフードを下ろした。

 黒い髪。白い肌。整いすぎた顔立ち。

 そして——額から生えた、小さな二本の角。

「私、婚姻届を出したいんです」

 聖司は万年筆を置いた。

「相手は」

 女性は少し俯いてから、言った。

「……父です」

 イリアが息を呑んだ。

 バルザックが椅子から転げ落ちた。

「父と言うと」

「はい」

 女性は——魔族の女性は、静かに言った。

「魔王です」

 聖司は、ゆっくりと椅子に座り直した。

 四十八年の人生で、様々な相談を受けてきた。だが、これは初めてだ。

「……座れ。話を聞こう」

 異世界行政書士事務所。

 開業初日の夜は、まだ終わりそうにない。



第2話 完


次回予告

第3話「魔王の婚姻届——または、親族法の深淵について」

「生物学的な父と、法的な父。この世界では、その二つが分離できる」
「つまり……?」
「つまり、お前の父親は——法的には、お前の父親じゃないかもしれない」

——法の抜け穴は、時に人の想像を超える。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

高校生の俺、異世界転移していきなり追放されるが、じつは最強魔法使い。可愛い看板娘がいる宿屋に拾われたのでもう戻りません

下昴しん
ファンタジー
高校生のタクトは部活帰りに突然異世界へ転移してしまう。 横柄な態度の王から、魔法使いはいらんわ、城から出ていけと言われ、いきなり無職になったタクト。 偶然会った宿屋の店長トロに仕事をもらい、看板娘のマロンと一緒に宿と食堂を手伝うことに。 すると突然、客の兵士が暴れだし宿はメチャクチャになる。 兵士に殴り飛ばされるトロとマロン。 この世界の魔法は、生活で利用する程度の威力しかなく、とても弱い。 しかし──タクトの魔法は人並み外れて、無法者も脳筋男もひれ伏すほど強かった。

転生能無し少女のゆるっとチートな異世界交流

犬社護
ファンタジー
10歳の祝福の儀で、イリア・ランスロット伯爵令嬢は、神様からギフトを貰えなかった。その日以降、家族から【能無し・役立たず】と罵られる日々が続くも、彼女はめげることなく、3年間懸命に努力し続ける。 しかし、13歳の誕生日を迎えても、取得魔法は1個、スキルに至ってはゼロという始末。 遂に我慢の限界を超えた家族から、王都追放処分を受けてしまう。 彼女は悲しみに暮れるも一念発起し、家族から最後の餞別として貰ったお金を使い、隣国行きの列車に乗るも、今度は山間部での落雷による脱線事故が起きてしまい、その衝撃で車外へ放り出され、列車もろとも崖下へと転落していく。 転落中、彼女は前世日本人-七瀬彩奈で、12歳で水難事故に巻き込まれ死んでしまったことを思い出し、現世13歳までの記憶が走馬灯として駆け巡りながら、絶望の淵に達したところで気絶してしまう。 そんな窮地のところをランクS冒険者ベイツに助けられると、神様からギフト《異世界交流》とスキル《アニマルセラピー》を貰っていることに気づかされ、そこから神鳥ルウリと知り合い、日本の家族とも交流できたことで、人生の転機を迎えることとなる。 人は、娯楽で癒されます。 動物や従魔たちには、何もありません。 私が異世界にいる家族と交流して、動物や従魔たちに癒しを与えましょう!

【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~

きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。 前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。

異世界転生したので森の中で静かに暮らしたい

ボナペティ鈴木
ファンタジー
異世界に転生することになったが勇者や賢者、チート能力なんて必要ない。 強靭な肉体さえあれば生きていくことができるはず。 ただただ森の中で静かに暮らしていきたい。

転生したら名家の次男になりましたが、俺は汚点らしいです

NEXTブレイブ
ファンタジー
ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた

異世界に転生したので幸せに暮らします、多分

かのこkanoko
ファンタジー
物心ついたら、異世界に転生していた事を思い出した。 前世の分も幸せに暮らします! 平成30年3月26日完結しました。 番外編、書くかもです。 5月9日、番外編追加しました。 小説家になろう様でも公開してます。 エブリスタ様でも公開してます。

異世界転生したらたくさんスキルもらったけど今まで選ばれなかったものだった~魔王討伐は無理な気がする~

宝者来価
ファンタジー
俺は異世界転生者カドマツ。 転生理由は幼い少女を交通事故からかばったこと。 良いとこなしの日々を送っていたが女神様から異世界に転生すると説明された時にはアニメやゲームのような展開を期待したりもした。 例えばモンスターを倒して国を救いヒロインと結ばれるなど。 けれど与えられた【今まで選ばれなかったスキルが使える】 戦闘はおろか日常の役にも立つ気がしない余りものばかり。 同じ転生者でイケメン王子のレイニーに出迎えられ歓迎される。 彼は【スキル:水】を使う最強で理想的な異世界転生者に思えたのだが―――!? ※小説家になろう様にも掲載しています。

悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる

竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。 評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。 身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。

処理中です...