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最強魔術師は褒められたい 1
最強魔術師は褒められたい 3
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学校前のバス停から五分ほどで寮に到着すると先輩が教えてくれた。時刻表を見る限り、時間帯によっては五分おきにバスが来るらしい。
乗り込んだバスには他にも何組か、一年と三年の組み合わせらしきペアがいた。
どんペアも三年生から話しかけて、硬い表情の一年の緊張をほぐそうとしている様だったけど、クラスで三年が迎えに来るのを待っていた時と同じように、一年は皆表情が硬く、なんとか三年生がかけてくれる言葉に返そうと必死みたいだ。
緊張して余裕がない一年と、どこか懐かしむような表情をしている三年という光景を眺めること約五分、『寮前』というシンプルなバス停名で下車したすぐ目の前には、立派な造りをしたマンションが何棟も建ち並んでいた。
白く、何重もある階層は首をどれだけ持ち上げても頂上が見えない程高い。
なんだこの建物は。本土の億ションばりじゃないか。重圧が凄い。建ってるだけで妙な威圧感…。
入学案内の公式ホームページやパンフレットで写真を通して外観は見ているが、それでも、いざ目の前に現実がドンと用意されると、開いた口が塞がらない。
「あはは、みんな最初は、そんな反応するんだよねぇ」
俺や周りの一年の反応を見て、先輩は慣れた様子で笑う。
こんな場所で、マジで暮らすの?
「ハインくんは一年生の時、私たちと違って驚いてなかったじゃない」
そばに立っていた別のペアの先輩が言うと、白い先輩は「あれ、そうだっけ?」と、また、笑った。
(この規模で驚いてなかったって…実家が金持ちって事か…?)
日の岩のタワーマンションを見ても動じないような環境で暮らしてきたのだろうか。
「さ、中に行こう」
仰天しっぱなしの俺に先輩が穏やかな声をかけてくれ、ようやく俺は、その驚きから解放されたように動き出した。
先輩についていきエレベーターに乗り込むと、先輩はほぼ屋上に等しい階のボタンを押した。
(高層マンションって、階層が高いほど額も上がるんじゃなかったっけ? 入試一位通過と在学生代表という肩書きの恩恵ってやつ…?)
驚く俺に、先輩は「良い反応するよねぇ」と、楽しそうに微笑んだ。
我ながら、自分の魔力器官の強さが恐ろしい。
まさかこんなところで恩恵を受ける事になるとはな、と思いつつもエレベーターを降りて、先輩についていく。
上階層も部屋は幾つかあったが、そのうちの一つの部屋の前で先輩は立ち止まり慣れた手つきでカードキーを通すと、やっぱり慣れたようにその扉を開けた。
「さあ、ここが僕たちの部屋だよ」
「どもっす…」
先輩が楽しそうにしているのを横目に、俺は招かれるままに中をそーっと覗き込む。
広めの玄関には靴箱があり、靴箱の上にはちょっとした物が置けるスペースがある。
玄関の外から中を覗く限り、廊下に沿って扉が四つあった。そのうちの三つは玄関と同じようにドアノブがついているが、一個はドアノブもない。スライドする形式のものらしい。
奥に構えるリビングには大きな窓があり、束ねられたカーテンが下がっていた。
初めて他人の家に上がり込むような感覚のまま、靴を脱いで部屋の中へと踏み入る。
ドアノブタイプの扉のうち、二つは個室で、もう一つはお手洗いだった。横にスライドするタイプの扉の向こうは脱衣所兼洗面所で、バスルームへと続いている。
リビングまで進むと、既にソファにテーブル、テレビが備わっていた。キッチンには大きめの冷蔵庫も置かれている。
先に送っておいた黒いスーツケースもリビングに置いてある。俺のスーツケース以外に三つも白いスーツケースがあるけど、先輩以外にもルームメイトが居るんだろうか。
「荷解きは先に済ませちゃおうか。きみは、どっちの部屋が良い?」
「え…いや、どっちでも…。というか、まだ居るんじゃないんすか? ルームメイト」
「うん? この部屋はきみと僕だけだよ?」
なら、三つもあるその白いスーツケースはいったい…?
思わず指差したスーツケース。先輩は不思議そうに碧眼を何度も瞬かせたあと、「ああ!」と合点がいったように声を上げた。
「これは全部、僕のだよ」
「…え…三つも…っすか…?」
「ほら、特別区にあるのは学校の敷地だけじゃないだろう? ショッピングセンター街に行けば、服屋はたくさんあるからね。ここで過ごしていくうちに、ものが増えに増えてしまったんだ」
「…ああ…それで三つ…」
さして困ってもいなさそうに「困った困った」と口にする先輩に、むしろ困ってしまったのは俺の方だ。正直、どんな反応をすれば良いのか困る。
いくらセンター街で新しい服を買ったとはいえ、多すぎやしないだろうか。
平日の昼は制服や学校支給の体操着で過ごすし、夜は動きやすい、ゆったりとした服装で過ごせば良いだろうから、敢えて私服を多く持つ必要もないと俺は思うのだが。
「見てみるかい?」
先輩がキラキラとした視線を俺に向けながら自分のスーツケースをポンポンと軽く叩く。少しでも俺の興味を引きたいと思ってくれているのか、その碧眼の眼差しは期待に溢れているようだ。
俺の方こそ「困った」と言いたくて、けど初対面の人に対してそれは流石に不躾だと思い、俺は『困った』の代わりに「あー…えっと…」と曖昧に返した。
「部屋決めて、荷解き、しましょうよ…」
「あ、そうだねぇ」
なんとも味気のない反応をする俺とは反対に、先輩は屈託無い笑みを浮かべた。
スーツケースを三つも使う量の服を片付けるなんて大変だろうなと思ってしまったが、この人には、その苦労は全く見えていない様だった。
(服が、好き…なのかな…?)
ぼんやりと考えたが、すぐにそれは頭のすみに追いやった。
「じゃあ、部屋を見に行こう!」
先輩が微笑みながら俺の腕をゆるくとって引き、個室の前まで向かう。
痛くはないが、ほぼ初対面の相手の腕をなんの迷いもなくとることが出来る先輩に内心かなり驚いた。
そういえば、この人は見るからに外国人で、在学生代表の挨拶の際にも日の岩の名前ではなく外国名で名乗っていた事を思い出す。スキンシップには抵抗がない国の出身なんだろうか。
先輩がそれぞれの扉を開けて部屋の中がよく見えるようにしてくれて「どっちにするかい?」と聞いてきたので、左右の部屋を見比べた。
「いや…反転してるだけで、一緒ですね」
部屋の広さも、見た目ではそこまで変わりが無いように見える。
人ひとりが横になっても余裕がありそうなベッドに、サイドチェスト、学生の本分である勉強をするための机に椅子。
魔力を通すことで簡単に染色できる特殊な素材が使われた壁紙。
ただ左右が反転しているというだけの違いで、あとは、同じようにしか見えない。
「あれ? 部屋にはこだわりがない?」
「え…まあ…使っていけば慣れるだろうし…」
「うんうん、じゃあここは僕が決めよう」
にこにこと、心底楽しそうに先輩は「僕はじゃあ、右側にしよう」と言う。俺は左側にプライベートルームを持つことになった。
部屋を決めたところでリビングに戻り、荷解きをするために自分のスーツケースを手繰り寄せると、俺は決まったばかりの自室へと運び込んだ。
俺が荷解きを終えてリビングに向かおうと部屋を出ると、廊下を挟んだ向かい側の扉は開きっぱなしになっていた。
中では先輩が、スーツケース三つ分の服をクローゼットにしまうために格闘している。
「あれ…入らないなぁ…。これはしまっておこう…」
広げられたスーツケースの上には、山のような服、服、服。
本当に、スーツケースの中は全て服だったらしい。スーツケースの色と同じく、白やクリーム色が多い。
(白が好きなのか…? にしたって…)
仕舞えないほど服を買って、いったいどうするつもりなんだろうか。
先輩は真剣に服の片付けと格闘していたから、黙ってリビングへと向かった。
リビングのソファに腰掛けると、腰はあっという間に沈む。ふかふかだ。良いソファを使っているらしい。
テーブルは木目調のものだがまっさらで、テレビのリモコンしか置かれていない。
これからあの先輩と、この、学生の身分には余るほどの場所で一年を共にするのか。
相手はDomで、俺はSubで、一昨年まで兄貴と行っていた欲求解消のプレイは、これからの一年、あの先輩と行う事になる。
いくら学校側が書類をもとに第二性の傾向を把握し、それに基づいて同室の相手を決めているといっても、人数には限りがある。
恐らくDomとSubの、一年生と三年生の合計割合はバランスを欠いているだろう。Switchがいたとしても細かなプレイの傾向は人により異なるし、Neutralの一年や三年だって居るはずだ。
あの先輩は恐らくDom性がとても強い。ランクだけで見れば相性は良いだろうし、ふわふわとしていて支配欲をむき出しにした姿は、想像がつかない。
だから、いきなりハードなことを求められたりすることはないと思う。一応、学生寮だし、ここ。
だが人はプレイの傾向を隠しがちだ。
それは、自分がどう見られるのか、どう見られたいのかを気にするからだ。
入学願書の第二性について記載する欄に『嘘は書かないでください。命に関わる場合があります』と書かれていても、嘘を書けてしまう。見栄っ張りなんか、なおさらだろう。
それに、俺の傾向をあの先輩が知ったら、どんな反応をするんだろうか。
一応、願書には嘘偽りなく記載をした。第二性の事も、魔力器官についても。
だから、先輩が本当に自分の第二性の傾向について噓偽りなく学校に申告していたとしたら、プレイの相性はいいかもしれない。
でも、あくまでもプレイの相性の話だ。
実際人間は、そこにさらに、見た目の好み、性格の好みなんてものが考慮される。
たとえプレイの相性が良かったとしても、こんなに可愛げのない見た目をした人が相手じゃ、解消できるものだってできなくなってしまうんじゃないだろうか。
もし先輩が第二性の傾向を隠していたのだとしたら、もっと、がっかりされることになるだろう。
考えれば考えるほどがっかりされるような未来が勝手に頭の中で再生され、ため息と共に消し去った。
しょうがない事だ。可愛くなかろうが、傾向がどうだろうが、残念だったなと相手に言ってやるほかない。
バラ色の楽しい高校生活なんて期待は、現実を生きるには邪魔すぎるのだ。
「はぁ~、やっと終わった。おまたせ」
ぐーっと背伸びをしながら穏やかな顔でリビングに来た先輩は、真っ白な制服から、同じく真っ白なトレーナーとスタイリッシュな白いパンツに身を包んでいた。
そういえば、俺、着替えてきてない。俺も着替えてきたほうが良いだろうか。
そう思って立ち上がろうとした俺の頭に、ふわりと柔らかな感覚がした。
ソファの隣のスペースが沈む。しかし俺の頭にある柔らかな感覚は続いた。ふわり、ふわりと、まるでこの感覚を馴染ませようとしているみたいだ。
「…えっ、と…」
何事かと視線を隣に向けると、柔らかく弧を描いた碧眼と目が合った。
「うんうん、やっと僕を見たね」
「いや…その、…ってか、手…」
初対面の男の頭を撫でる事ができるやつなんて、俺は初めて会った。
いくら先輩が、例えばスキンシップに抵抗のない国出身だったとしても、いきなりこんな事をするものなんだろうか。
「うん? 頭を撫でられるのは嫌いかい?」
「…嫌いってか…初対面でそんな事しないでしょ、普通」
「うーん、やっぱり日の岩人ってスキンシップが苦手な人が多いんだよねぇ…」
頭を撫でていた手がどけられ、俺を映していた碧眼はカーテンの向こう側へと向けられる。
なんだか少し、安堵したような、スカスカとするような、妙な感覚だ。
だが先輩は、ぱっと何かを思いついた様に「ああそうだ!」と声を上げると、今度は楽しそうに笑って俺に向き直る。
「自己紹介をしよう。僕は三年のレイリック・ハイン。魔力は武力型──って、これは知っているね、入学試験の時に組んだし。第二性はDomだけど、僕はどちらかというと支配するよりも甘やかして満たされるタイプかな」
随分と開けっ広げに話す先輩はにこやかだ。
こちらが気にしていることを教えてくれるのはありがたかったが、先輩の視線は爛々と輝いていて、何かを待ち望むようでもあった。
だが、先輩が何を待ち望んで俺にその輝かしい視線を向けているのか考えたくはない。
出来れば「あ、どうも…」の一言で終わらせて、当たり障りのない話を続けていきたかったんだけど、それは許してくれないらしい。
「ほら、次はきみの番だ」
予想した通りの展開過ぎる。
が、突然『自己紹介をしてください』と言われても、正直、何を言えば良いのかわからない。
名前と、せいぜい好きな食べ物ぐらいしか浮かばない。第二性についてなんて、口にするのも躊躇う。
俺は見た目も兄貴の様に可愛い感じではないから、Subで、支配されるよりも褒められたり、甘やかされることの方が好きで、なんて話したところで、やっぱり引かれるのがオチだろう。
いくら学校側が第二性の傾向に配慮をしてルームメイトを決めていたとしても、改めて口にして残念がられるのであれば、わざわざ話をする必要などどこにもない。
それだから、第二性については話したくなくなるのだ。
「うーん、これから一緒に暮らして、プレイだってしていく事になる。君のことを知らずにプレイを強要はしたくないんだ。だから、良かったら教えてくれるかい? これは、お互いを守ることにも繋がるというのは分かるだろう?」
まあ、確かに、一理あるけど。
「…俺は、里々春 黒羽…です。第二性はSubで…それから…同室で設定されてるから知ってると思うけど、俺は――」
深く、一度、息を吐き出した。
先輩は口を結んだ俺を焦らせることなく、じっと、次の言葉が出るのを待ってくれている様だった。
引かれて残念がられる覚悟を持つのには、少しだけ時間がかかる。
ほとんど初対面の人だし、残念がられても、きっとそのうち慣れてくるだろうけど。例え、俺の傾向を知られて冷たくあしらわれたとしても、その態度に慣れるしかない。
慣れれば、他にもきっとやりようは見えてくるはずだ。むしろ「残念でしたね」と言ってやれるぐらいには、なれるはずだ…。
そう自分に言い聞かせて、もう一度深呼吸をしてから口を開いた。
「…支配、されるよりも…褒められたり、甘やかされたい方…だと思う」
俺が発した言葉は、聞き取れるかどうかぐらいの大きさだった。
「うん、教えてくれてありがとう。Good boy.」
「――…?」
何を言われたのか理解するのに、少し時間がかかった。
先輩が優しい手つきで俺の頭を再度撫で、そして――。
(Commandを使って、褒められた…?)
聞こえてきた言葉は妙に甘く、向けられたCommandは、薄い膜になって体じゅうに浸透していくような感覚だ。
初対面で腕を親しげに引かれたり頭を撫でられたりしただけでなく、Commandまで使ってくるとは思いもしない。それも、褒められるなんて。
だが、それが妙に心地良く感じられ、また、先輩は嫌な顔も、残念そうな顔も見せなかった。
「ところで、甘やかされたい方『だと思う』っていうのは?」
俺の頭を撫で続けながら、先輩は興味深げに聞いてくる。
「あー…俺、第二性が目覚めてからは兄貴とプレイすることが主で、兄貴は俺を甘やかす方だったし…去年の一年間は、専門のセラピーの人とだったから、支配される様なCommandはあまり使われた事なくて、ですね…」
「そっかそっか。学校では、そういう命令形のCommandを使う相手を想定した訓練も行われるから、そこで知っていけるといいね」
「っす…」
やんわりと微笑む先輩に頭を撫で続けられて、俺はなんとも言えない、少しだけ甘やかな気持ちになる。
そして驚きと同時に、さっきまで頭の中にあった『残念がられるかもしれない』という考えはあっという間に薄れて、少しだけ、安心もした。
「それじゃあ、予めSafe Wordを決めておこうね。何がいい?」
「じゃあ、リリスで」
「もう少し悩むと思ったけど、即決だね」
先輩が、ぱちくりと目を瞬かせて俺を見る。
「兄貴とプレイしてた時に使ってたものなので、すっかり馴染んでるというか…」
「うん、そっかそっか。じゃあ、次は、少しお互いの事を知っていこう」
「お互いの事を知っていく…?」
そういうのは、過ごしていく中で知っていくものじゃないのか。
「じゃあねぇ…」
俺の疑問を解消するつもりはないのか、先輩は話しを続ける。
「きみはプレイと性的欲求は直結するタイプかい?」
「…あ…え? は、はぁ?!」
(この人、いま、なんて言った? 性的欲求? は?)
先輩は人当たりの良い笑顔で、まるで「これから一緒にケーキ食べない?」と言っているようだった。
俺の聞き間違いじゃなければ、とんでもない事を聞いてきたはずなんだけど?!
「なんてこと聞いてくるんすか!」
「ん? でもこれは普通の事だと…あ、日の岩人って、そういうところあるよね。ツツシミっていうやつかな? けど、第二性は性欲と直結するって人もけっこういるだろう?」
「そ、それは分かってますけど!」
そもそも直結する人間が大半だから、第二性による犯罪は年々数を減らすどころか増加の一途を辿っているのだ。
それを取り締まるのだって屯所の人間の仕事で、俺たちはその屯所の人間――つまり軍人になるための訓練をするこの場所に入学したわけで。
「ちなみに僕は直結するタイプだよ」
「要らんカミングアウト!」
「いやいや、要るって。けど安心してよ。いくら直結してると言っても自制が利かないわけじゃないし、ましてや僕たちは、そういう犯罪に遭ってしまった人たちとも触れる機会がある仕事の勉強をするわけだから、ちゃんと弁えられるよ」
寧ろそうじゃなきゃ、本末転倒だよね。
昨日お笑い番組見たんだけど、あの芸人面白くてさ、なんて今にも言い出しそうなテンションの先輩とは反対に、俺はすっかりそのテンションについていけずくたびれてしまった。
さっきまで感じていた甘やかな気持ちも安心感も、いったいどこへやら。
俺、本当に一年間この先輩と過ごすのか。
「あれ、疲れちゃったかな?」
「…誰のせいだと思ってんすか…」
「う~ん…じゃあ、クロハの事を聞かせてくれるかい?」
(いや、いきなり呼び捨て…)
この外国のテンションなら不思議ではないのかもしれないけど。
そもそも性欲と第二性がどうたらこうたらと、本当に包み隠さず初対面の相手に言うぐらいだから、次に何を言われたって、驚く必要もないんだろう。
だが――けろっと笑っていたと思ったら、今度は柔らかい笑みを浮かべて俺を見る先輩の碧眼には、優しい光りが混じっている。
「…俺の事って言われても」
「好きな食べ物とか、好きな事とか、何でもいいよ」
「…いったい、なんの意味が?」
「何のって、プレイに必要なのは信頼関係だろう? だから第二性に対する考え方はもちろん気になるけど、信頼関係はそれ以外からだって築ける。寧ろ、そっちの方が大切じゃないかい?」
「さっきわけのわからん事言っておきながら何言ってんすか」
先輩は子供の様に唇を尖らせて「えー、そんな事言わずに」と俺の腕を指先でつついた。
ふざけているのか、素の行動なのか、イマイチわからない。
「…好きなのは、魚…サバの味噌煮とか」
「ああ! なるほど…。日の岩の魚は美味しいよね。僕は肉が好きだけど、特別なときには食べたくなるよ」
「特別なとき?」
「そう。例えば試験が終わった後なんかは。ほら、オサシミとか美味しいよね。お寿司も、ある日ぽんと、急に食べたくなるんだ」
「まあ…その感覚はわかります」
あの、普段食べないものをふと食べたくなる感覚はなんなのだろうか。
「ちなみに、デザートは? 何が好き?」
「デザート…っすか」
「甘いものは? 苦手かい?」
その質問に、俺は「あー…」と声が漏れて、視線を逸らす。
俺は、先輩ほどではないが背もあるし、顔も兄貴と違って中性的ではない。Sub性の欲求を持つ自分に対する残念感。可愛い兄貴と比べてしまう。周りからの印象は、甘いものとは程遠い。
だからこの手の質問がくると、正直に言うのをためらってしまう。経験上、嗤われる事が多いからだ。
「あー…」とか「そのー…」とか、煮え切らない回答ばかりを用意する俺に、先輩は悪戯でも思いついたかの様なあくどい笑みを浮かべた。
「ほら。Say」
Commandが発せられて、足元から一気に熱が駆け上がってあっつくなる。
「ずるくないっすか?!」
「えー? だって教えてくれないから」
いや、これから言わされるのだ。嗤われて、恥ずかしいと思う事を。
慣れてしまった事だから、いまさら嗤われた時の心の対処法を考える必要もないが、それでも言葉にするには、心の準備が要った。
どうせCommandで言わされているのだからどうにもならないのだと自分に言い聞かせた。
「…いや…寧ろその逆というか…甘いものは好き、です…」
ぽろりと出てくる本音に、先輩は納得したのか何度も深く頷いて、俺を見て笑顔になる。
きっと、めちゃくちゃ嗤われるんだろう。揶揄われるかもしれない。だが仕方がない。
そんな思いとは反対に、膝の上で拳を握って、先輩のリアクションを待つことしか出来ない。
「僕も甘いものは好きだから、今度一緒に食べに行こう! センター街にあるケーキ屋さん、あそこは紅茶も美味しいしケーキも美味しいんだ。だから、どうかな?」
「え…」
嗤われなかった。
嗤われなかったどころか、思いがけない申し出。
まるで良いことを思いついたと言わんばかりに輝く碧眼に、衝撃に備えていた心は、まさかの方角から優しい花吹雪の大砲でも撃ち込まれたみたいだった。
「まあ…はい…良いですけど…」
「うんうん、教えてくれてありがとう。Good boy」
またCommandだ。
じんわりと心に広がって、なんだか悪い気はしない。
諦めていたはずの心が解けていく様な、不思議な馴染み方をしていく。
膝の上で握った拳が、そっと開かれていくようだった。
簡単なCommandなのに心地よさを微かに覚えるのは、何故だろう。
「そうだ、髪は切らないの?」
俺の髪に視線を向ける先輩の問いかけに、俺は頷いて返す。
そろそろ切り時かなと思ったのが、入学試験の時。それから実際の入学式まで一か月ちょっと。結局、切らないまま入学式を迎えてしまった。
「綺麗な髪だね」
「え…そうっすか…?」
意外なところを褒められて、また驚いた。
入学式は緊張もしなければ、驚くことも、なにか大きな感情の変化が訪れる様な事もなかったのに、まさか、こんなに驚かされてしまうとは。
「僕の髪はくせっ毛だろう?」
「ああ…良いクリーム色っすよね。それに、見た目はふわふわだし」
「え、良い色? ほんとう? ありがとう。褒められるのは嬉しいものだね」
先輩が目を細めて笑う。
褒められるのは、そう、嬉しいものだ。それは俺が一番よく知っている。
実際、第二性に関係なくそうやって褒められる事は、やっぱり、人を幸せにするんだろう。
それからも、何個か先輩の質問に答えていった。
俺が答えにくい質問に対してはCommandを使って回答を引き出され、そして、答えた分だけGood boyと褒められる。
第一性と第二性の何たらかんたらはさておいて、先輩とルームメイトになることは、俺にとってハズレではなさそうだと、少し、安心した。
乗り込んだバスには他にも何組か、一年と三年の組み合わせらしきペアがいた。
どんペアも三年生から話しかけて、硬い表情の一年の緊張をほぐそうとしている様だったけど、クラスで三年が迎えに来るのを待っていた時と同じように、一年は皆表情が硬く、なんとか三年生がかけてくれる言葉に返そうと必死みたいだ。
緊張して余裕がない一年と、どこか懐かしむような表情をしている三年という光景を眺めること約五分、『寮前』というシンプルなバス停名で下車したすぐ目の前には、立派な造りをしたマンションが何棟も建ち並んでいた。
白く、何重もある階層は首をどれだけ持ち上げても頂上が見えない程高い。
なんだこの建物は。本土の億ションばりじゃないか。重圧が凄い。建ってるだけで妙な威圧感…。
入学案内の公式ホームページやパンフレットで写真を通して外観は見ているが、それでも、いざ目の前に現実がドンと用意されると、開いた口が塞がらない。
「あはは、みんな最初は、そんな反応するんだよねぇ」
俺や周りの一年の反応を見て、先輩は慣れた様子で笑う。
こんな場所で、マジで暮らすの?
「ハインくんは一年生の時、私たちと違って驚いてなかったじゃない」
そばに立っていた別のペアの先輩が言うと、白い先輩は「あれ、そうだっけ?」と、また、笑った。
(この規模で驚いてなかったって…実家が金持ちって事か…?)
日の岩のタワーマンションを見ても動じないような環境で暮らしてきたのだろうか。
「さ、中に行こう」
仰天しっぱなしの俺に先輩が穏やかな声をかけてくれ、ようやく俺は、その驚きから解放されたように動き出した。
先輩についていきエレベーターに乗り込むと、先輩はほぼ屋上に等しい階のボタンを押した。
(高層マンションって、階層が高いほど額も上がるんじゃなかったっけ? 入試一位通過と在学生代表という肩書きの恩恵ってやつ…?)
驚く俺に、先輩は「良い反応するよねぇ」と、楽しそうに微笑んだ。
我ながら、自分の魔力器官の強さが恐ろしい。
まさかこんなところで恩恵を受ける事になるとはな、と思いつつもエレベーターを降りて、先輩についていく。
上階層も部屋は幾つかあったが、そのうちの一つの部屋の前で先輩は立ち止まり慣れた手つきでカードキーを通すと、やっぱり慣れたようにその扉を開けた。
「さあ、ここが僕たちの部屋だよ」
「どもっす…」
先輩が楽しそうにしているのを横目に、俺は招かれるままに中をそーっと覗き込む。
広めの玄関には靴箱があり、靴箱の上にはちょっとした物が置けるスペースがある。
玄関の外から中を覗く限り、廊下に沿って扉が四つあった。そのうちの三つは玄関と同じようにドアノブがついているが、一個はドアノブもない。スライドする形式のものらしい。
奥に構えるリビングには大きな窓があり、束ねられたカーテンが下がっていた。
初めて他人の家に上がり込むような感覚のまま、靴を脱いで部屋の中へと踏み入る。
ドアノブタイプの扉のうち、二つは個室で、もう一つはお手洗いだった。横にスライドするタイプの扉の向こうは脱衣所兼洗面所で、バスルームへと続いている。
リビングまで進むと、既にソファにテーブル、テレビが備わっていた。キッチンには大きめの冷蔵庫も置かれている。
先に送っておいた黒いスーツケースもリビングに置いてある。俺のスーツケース以外に三つも白いスーツケースがあるけど、先輩以外にもルームメイトが居るんだろうか。
「荷解きは先に済ませちゃおうか。きみは、どっちの部屋が良い?」
「え…いや、どっちでも…。というか、まだ居るんじゃないんすか? ルームメイト」
「うん? この部屋はきみと僕だけだよ?」
なら、三つもあるその白いスーツケースはいったい…?
思わず指差したスーツケース。先輩は不思議そうに碧眼を何度も瞬かせたあと、「ああ!」と合点がいったように声を上げた。
「これは全部、僕のだよ」
「…え…三つも…っすか…?」
「ほら、特別区にあるのは学校の敷地だけじゃないだろう? ショッピングセンター街に行けば、服屋はたくさんあるからね。ここで過ごしていくうちに、ものが増えに増えてしまったんだ」
「…ああ…それで三つ…」
さして困ってもいなさそうに「困った困った」と口にする先輩に、むしろ困ってしまったのは俺の方だ。正直、どんな反応をすれば良いのか困る。
いくらセンター街で新しい服を買ったとはいえ、多すぎやしないだろうか。
平日の昼は制服や学校支給の体操着で過ごすし、夜は動きやすい、ゆったりとした服装で過ごせば良いだろうから、敢えて私服を多く持つ必要もないと俺は思うのだが。
「見てみるかい?」
先輩がキラキラとした視線を俺に向けながら自分のスーツケースをポンポンと軽く叩く。少しでも俺の興味を引きたいと思ってくれているのか、その碧眼の眼差しは期待に溢れているようだ。
俺の方こそ「困った」と言いたくて、けど初対面の人に対してそれは流石に不躾だと思い、俺は『困った』の代わりに「あー…えっと…」と曖昧に返した。
「部屋決めて、荷解き、しましょうよ…」
「あ、そうだねぇ」
なんとも味気のない反応をする俺とは反対に、先輩は屈託無い笑みを浮かべた。
スーツケースを三つも使う量の服を片付けるなんて大変だろうなと思ってしまったが、この人には、その苦労は全く見えていない様だった。
(服が、好き…なのかな…?)
ぼんやりと考えたが、すぐにそれは頭のすみに追いやった。
「じゃあ、部屋を見に行こう!」
先輩が微笑みながら俺の腕をゆるくとって引き、個室の前まで向かう。
痛くはないが、ほぼ初対面の相手の腕をなんの迷いもなくとることが出来る先輩に内心かなり驚いた。
そういえば、この人は見るからに外国人で、在学生代表の挨拶の際にも日の岩の名前ではなく外国名で名乗っていた事を思い出す。スキンシップには抵抗がない国の出身なんだろうか。
先輩がそれぞれの扉を開けて部屋の中がよく見えるようにしてくれて「どっちにするかい?」と聞いてきたので、左右の部屋を見比べた。
「いや…反転してるだけで、一緒ですね」
部屋の広さも、見た目ではそこまで変わりが無いように見える。
人ひとりが横になっても余裕がありそうなベッドに、サイドチェスト、学生の本分である勉強をするための机に椅子。
魔力を通すことで簡単に染色できる特殊な素材が使われた壁紙。
ただ左右が反転しているというだけの違いで、あとは、同じようにしか見えない。
「あれ? 部屋にはこだわりがない?」
「え…まあ…使っていけば慣れるだろうし…」
「うんうん、じゃあここは僕が決めよう」
にこにこと、心底楽しそうに先輩は「僕はじゃあ、右側にしよう」と言う。俺は左側にプライベートルームを持つことになった。
部屋を決めたところでリビングに戻り、荷解きをするために自分のスーツケースを手繰り寄せると、俺は決まったばかりの自室へと運び込んだ。
俺が荷解きを終えてリビングに向かおうと部屋を出ると、廊下を挟んだ向かい側の扉は開きっぱなしになっていた。
中では先輩が、スーツケース三つ分の服をクローゼットにしまうために格闘している。
「あれ…入らないなぁ…。これはしまっておこう…」
広げられたスーツケースの上には、山のような服、服、服。
本当に、スーツケースの中は全て服だったらしい。スーツケースの色と同じく、白やクリーム色が多い。
(白が好きなのか…? にしたって…)
仕舞えないほど服を買って、いったいどうするつもりなんだろうか。
先輩は真剣に服の片付けと格闘していたから、黙ってリビングへと向かった。
リビングのソファに腰掛けると、腰はあっという間に沈む。ふかふかだ。良いソファを使っているらしい。
テーブルは木目調のものだがまっさらで、テレビのリモコンしか置かれていない。
これからあの先輩と、この、学生の身分には余るほどの場所で一年を共にするのか。
相手はDomで、俺はSubで、一昨年まで兄貴と行っていた欲求解消のプレイは、これからの一年、あの先輩と行う事になる。
いくら学校側が書類をもとに第二性の傾向を把握し、それに基づいて同室の相手を決めているといっても、人数には限りがある。
恐らくDomとSubの、一年生と三年生の合計割合はバランスを欠いているだろう。Switchがいたとしても細かなプレイの傾向は人により異なるし、Neutralの一年や三年だって居るはずだ。
あの先輩は恐らくDom性がとても強い。ランクだけで見れば相性は良いだろうし、ふわふわとしていて支配欲をむき出しにした姿は、想像がつかない。
だから、いきなりハードなことを求められたりすることはないと思う。一応、学生寮だし、ここ。
だが人はプレイの傾向を隠しがちだ。
それは、自分がどう見られるのか、どう見られたいのかを気にするからだ。
入学願書の第二性について記載する欄に『嘘は書かないでください。命に関わる場合があります』と書かれていても、嘘を書けてしまう。見栄っ張りなんか、なおさらだろう。
それに、俺の傾向をあの先輩が知ったら、どんな反応をするんだろうか。
一応、願書には嘘偽りなく記載をした。第二性の事も、魔力器官についても。
だから、先輩が本当に自分の第二性の傾向について噓偽りなく学校に申告していたとしたら、プレイの相性はいいかもしれない。
でも、あくまでもプレイの相性の話だ。
実際人間は、そこにさらに、見た目の好み、性格の好みなんてものが考慮される。
たとえプレイの相性が良かったとしても、こんなに可愛げのない見た目をした人が相手じゃ、解消できるものだってできなくなってしまうんじゃないだろうか。
もし先輩が第二性の傾向を隠していたのだとしたら、もっと、がっかりされることになるだろう。
考えれば考えるほどがっかりされるような未来が勝手に頭の中で再生され、ため息と共に消し去った。
しょうがない事だ。可愛くなかろうが、傾向がどうだろうが、残念だったなと相手に言ってやるほかない。
バラ色の楽しい高校生活なんて期待は、現実を生きるには邪魔すぎるのだ。
「はぁ~、やっと終わった。おまたせ」
ぐーっと背伸びをしながら穏やかな顔でリビングに来た先輩は、真っ白な制服から、同じく真っ白なトレーナーとスタイリッシュな白いパンツに身を包んでいた。
そういえば、俺、着替えてきてない。俺も着替えてきたほうが良いだろうか。
そう思って立ち上がろうとした俺の頭に、ふわりと柔らかな感覚がした。
ソファの隣のスペースが沈む。しかし俺の頭にある柔らかな感覚は続いた。ふわり、ふわりと、まるでこの感覚を馴染ませようとしているみたいだ。
「…えっ、と…」
何事かと視線を隣に向けると、柔らかく弧を描いた碧眼と目が合った。
「うんうん、やっと僕を見たね」
「いや…その、…ってか、手…」
初対面の男の頭を撫でる事ができるやつなんて、俺は初めて会った。
いくら先輩が、例えばスキンシップに抵抗のない国出身だったとしても、いきなりこんな事をするものなんだろうか。
「うん? 頭を撫でられるのは嫌いかい?」
「…嫌いってか…初対面でそんな事しないでしょ、普通」
「うーん、やっぱり日の岩人ってスキンシップが苦手な人が多いんだよねぇ…」
頭を撫でていた手がどけられ、俺を映していた碧眼はカーテンの向こう側へと向けられる。
なんだか少し、安堵したような、スカスカとするような、妙な感覚だ。
だが先輩は、ぱっと何かを思いついた様に「ああそうだ!」と声を上げると、今度は楽しそうに笑って俺に向き直る。
「自己紹介をしよう。僕は三年のレイリック・ハイン。魔力は武力型──って、これは知っているね、入学試験の時に組んだし。第二性はDomだけど、僕はどちらかというと支配するよりも甘やかして満たされるタイプかな」
随分と開けっ広げに話す先輩はにこやかだ。
こちらが気にしていることを教えてくれるのはありがたかったが、先輩の視線は爛々と輝いていて、何かを待ち望むようでもあった。
だが、先輩が何を待ち望んで俺にその輝かしい視線を向けているのか考えたくはない。
出来れば「あ、どうも…」の一言で終わらせて、当たり障りのない話を続けていきたかったんだけど、それは許してくれないらしい。
「ほら、次はきみの番だ」
予想した通りの展開過ぎる。
が、突然『自己紹介をしてください』と言われても、正直、何を言えば良いのかわからない。
名前と、せいぜい好きな食べ物ぐらいしか浮かばない。第二性についてなんて、口にするのも躊躇う。
俺は見た目も兄貴の様に可愛い感じではないから、Subで、支配されるよりも褒められたり、甘やかされることの方が好きで、なんて話したところで、やっぱり引かれるのがオチだろう。
いくら学校側が第二性の傾向に配慮をしてルームメイトを決めていたとしても、改めて口にして残念がられるのであれば、わざわざ話をする必要などどこにもない。
それだから、第二性については話したくなくなるのだ。
「うーん、これから一緒に暮らして、プレイだってしていく事になる。君のことを知らずにプレイを強要はしたくないんだ。だから、良かったら教えてくれるかい? これは、お互いを守ることにも繋がるというのは分かるだろう?」
まあ、確かに、一理あるけど。
「…俺は、里々春 黒羽…です。第二性はSubで…それから…同室で設定されてるから知ってると思うけど、俺は――」
深く、一度、息を吐き出した。
先輩は口を結んだ俺を焦らせることなく、じっと、次の言葉が出るのを待ってくれている様だった。
引かれて残念がられる覚悟を持つのには、少しだけ時間がかかる。
ほとんど初対面の人だし、残念がられても、きっとそのうち慣れてくるだろうけど。例え、俺の傾向を知られて冷たくあしらわれたとしても、その態度に慣れるしかない。
慣れれば、他にもきっとやりようは見えてくるはずだ。むしろ「残念でしたね」と言ってやれるぐらいには、なれるはずだ…。
そう自分に言い聞かせて、もう一度深呼吸をしてから口を開いた。
「…支配、されるよりも…褒められたり、甘やかされたい方…だと思う」
俺が発した言葉は、聞き取れるかどうかぐらいの大きさだった。
「うん、教えてくれてありがとう。Good boy.」
「――…?」
何を言われたのか理解するのに、少し時間がかかった。
先輩が優しい手つきで俺の頭を再度撫で、そして――。
(Commandを使って、褒められた…?)
聞こえてきた言葉は妙に甘く、向けられたCommandは、薄い膜になって体じゅうに浸透していくような感覚だ。
初対面で腕を親しげに引かれたり頭を撫でられたりしただけでなく、Commandまで使ってくるとは思いもしない。それも、褒められるなんて。
だが、それが妙に心地良く感じられ、また、先輩は嫌な顔も、残念そうな顔も見せなかった。
「ところで、甘やかされたい方『だと思う』っていうのは?」
俺の頭を撫で続けながら、先輩は興味深げに聞いてくる。
「あー…俺、第二性が目覚めてからは兄貴とプレイすることが主で、兄貴は俺を甘やかす方だったし…去年の一年間は、専門のセラピーの人とだったから、支配される様なCommandはあまり使われた事なくて、ですね…」
「そっかそっか。学校では、そういう命令形のCommandを使う相手を想定した訓練も行われるから、そこで知っていけるといいね」
「っす…」
やんわりと微笑む先輩に頭を撫で続けられて、俺はなんとも言えない、少しだけ甘やかな気持ちになる。
そして驚きと同時に、さっきまで頭の中にあった『残念がられるかもしれない』という考えはあっという間に薄れて、少しだけ、安心もした。
「それじゃあ、予めSafe Wordを決めておこうね。何がいい?」
「じゃあ、リリスで」
「もう少し悩むと思ったけど、即決だね」
先輩が、ぱちくりと目を瞬かせて俺を見る。
「兄貴とプレイしてた時に使ってたものなので、すっかり馴染んでるというか…」
「うん、そっかそっか。じゃあ、次は、少しお互いの事を知っていこう」
「お互いの事を知っていく…?」
そういうのは、過ごしていく中で知っていくものじゃないのか。
「じゃあねぇ…」
俺の疑問を解消するつもりはないのか、先輩は話しを続ける。
「きみはプレイと性的欲求は直結するタイプかい?」
「…あ…え? は、はぁ?!」
(この人、いま、なんて言った? 性的欲求? は?)
先輩は人当たりの良い笑顔で、まるで「これから一緒にケーキ食べない?」と言っているようだった。
俺の聞き間違いじゃなければ、とんでもない事を聞いてきたはずなんだけど?!
「なんてこと聞いてくるんすか!」
「ん? でもこれは普通の事だと…あ、日の岩人って、そういうところあるよね。ツツシミっていうやつかな? けど、第二性は性欲と直結するって人もけっこういるだろう?」
「そ、それは分かってますけど!」
そもそも直結する人間が大半だから、第二性による犯罪は年々数を減らすどころか増加の一途を辿っているのだ。
それを取り締まるのだって屯所の人間の仕事で、俺たちはその屯所の人間――つまり軍人になるための訓練をするこの場所に入学したわけで。
「ちなみに僕は直結するタイプだよ」
「要らんカミングアウト!」
「いやいや、要るって。けど安心してよ。いくら直結してると言っても自制が利かないわけじゃないし、ましてや僕たちは、そういう犯罪に遭ってしまった人たちとも触れる機会がある仕事の勉強をするわけだから、ちゃんと弁えられるよ」
寧ろそうじゃなきゃ、本末転倒だよね。
昨日お笑い番組見たんだけど、あの芸人面白くてさ、なんて今にも言い出しそうなテンションの先輩とは反対に、俺はすっかりそのテンションについていけずくたびれてしまった。
さっきまで感じていた甘やかな気持ちも安心感も、いったいどこへやら。
俺、本当に一年間この先輩と過ごすのか。
「あれ、疲れちゃったかな?」
「…誰のせいだと思ってんすか…」
「う~ん…じゃあ、クロハの事を聞かせてくれるかい?」
(いや、いきなり呼び捨て…)
この外国のテンションなら不思議ではないのかもしれないけど。
そもそも性欲と第二性がどうたらこうたらと、本当に包み隠さず初対面の相手に言うぐらいだから、次に何を言われたって、驚く必要もないんだろう。
だが――けろっと笑っていたと思ったら、今度は柔らかい笑みを浮かべて俺を見る先輩の碧眼には、優しい光りが混じっている。
「…俺の事って言われても」
「好きな食べ物とか、好きな事とか、何でもいいよ」
「…いったい、なんの意味が?」
「何のって、プレイに必要なのは信頼関係だろう? だから第二性に対する考え方はもちろん気になるけど、信頼関係はそれ以外からだって築ける。寧ろ、そっちの方が大切じゃないかい?」
「さっきわけのわからん事言っておきながら何言ってんすか」
先輩は子供の様に唇を尖らせて「えー、そんな事言わずに」と俺の腕を指先でつついた。
ふざけているのか、素の行動なのか、イマイチわからない。
「…好きなのは、魚…サバの味噌煮とか」
「ああ! なるほど…。日の岩の魚は美味しいよね。僕は肉が好きだけど、特別なときには食べたくなるよ」
「特別なとき?」
「そう。例えば試験が終わった後なんかは。ほら、オサシミとか美味しいよね。お寿司も、ある日ぽんと、急に食べたくなるんだ」
「まあ…その感覚はわかります」
あの、普段食べないものをふと食べたくなる感覚はなんなのだろうか。
「ちなみに、デザートは? 何が好き?」
「デザート…っすか」
「甘いものは? 苦手かい?」
その質問に、俺は「あー…」と声が漏れて、視線を逸らす。
俺は、先輩ほどではないが背もあるし、顔も兄貴と違って中性的ではない。Sub性の欲求を持つ自分に対する残念感。可愛い兄貴と比べてしまう。周りからの印象は、甘いものとは程遠い。
だからこの手の質問がくると、正直に言うのをためらってしまう。経験上、嗤われる事が多いからだ。
「あー…」とか「そのー…」とか、煮え切らない回答ばかりを用意する俺に、先輩は悪戯でも思いついたかの様なあくどい笑みを浮かべた。
「ほら。Say」
Commandが発せられて、足元から一気に熱が駆け上がってあっつくなる。
「ずるくないっすか?!」
「えー? だって教えてくれないから」
いや、これから言わされるのだ。嗤われて、恥ずかしいと思う事を。
慣れてしまった事だから、いまさら嗤われた時の心の対処法を考える必要もないが、それでも言葉にするには、心の準備が要った。
どうせCommandで言わされているのだからどうにもならないのだと自分に言い聞かせた。
「…いや…寧ろその逆というか…甘いものは好き、です…」
ぽろりと出てくる本音に、先輩は納得したのか何度も深く頷いて、俺を見て笑顔になる。
きっと、めちゃくちゃ嗤われるんだろう。揶揄われるかもしれない。だが仕方がない。
そんな思いとは反対に、膝の上で拳を握って、先輩のリアクションを待つことしか出来ない。
「僕も甘いものは好きだから、今度一緒に食べに行こう! センター街にあるケーキ屋さん、あそこは紅茶も美味しいしケーキも美味しいんだ。だから、どうかな?」
「え…」
嗤われなかった。
嗤われなかったどころか、思いがけない申し出。
まるで良いことを思いついたと言わんばかりに輝く碧眼に、衝撃に備えていた心は、まさかの方角から優しい花吹雪の大砲でも撃ち込まれたみたいだった。
「まあ…はい…良いですけど…」
「うんうん、教えてくれてありがとう。Good boy」
またCommandだ。
じんわりと心に広がって、なんだか悪い気はしない。
諦めていたはずの心が解けていく様な、不思議な馴染み方をしていく。
膝の上で握った拳が、そっと開かれていくようだった。
簡単なCommandなのに心地よさを微かに覚えるのは、何故だろう。
「そうだ、髪は切らないの?」
俺の髪に視線を向ける先輩の問いかけに、俺は頷いて返す。
そろそろ切り時かなと思ったのが、入学試験の時。それから実際の入学式まで一か月ちょっと。結局、切らないまま入学式を迎えてしまった。
「綺麗な髪だね」
「え…そうっすか…?」
意外なところを褒められて、また驚いた。
入学式は緊張もしなければ、驚くことも、なにか大きな感情の変化が訪れる様な事もなかったのに、まさか、こんなに驚かされてしまうとは。
「僕の髪はくせっ毛だろう?」
「ああ…良いクリーム色っすよね。それに、見た目はふわふわだし」
「え、良い色? ほんとう? ありがとう。褒められるのは嬉しいものだね」
先輩が目を細めて笑う。
褒められるのは、そう、嬉しいものだ。それは俺が一番よく知っている。
実際、第二性に関係なくそうやって褒められる事は、やっぱり、人を幸せにするんだろう。
それからも、何個か先輩の質問に答えていった。
俺が答えにくい質問に対してはCommandを使って回答を引き出され、そして、答えた分だけGood boyと褒められる。
第一性と第二性の何たらかんたらはさておいて、先輩とルームメイトになることは、俺にとってハズレではなさそうだと、少し、安心した。
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