向こう岸の楽園

み馬下諒

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第5回[肉体労働]

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 自分自身が人間であることを
 考える必要はない。
 人間のことを考えすぎると
 眠くなるだけだ。
 道徳領域である性の活動こそ
 人間がなすべき行為である。
 すなわち、
 美に感動する力があれば
 充分だろう。

 〈狩谷鷹羽『あがく指』より〉


 闇市の案内役による品定しなさだめを通過し、支配人の紹介状を持ってあらわれた飛英ひえいに、ストリップ劇場の責任者は目を丸くして驚いた。

克衛かつえさんとキラさんのお墨付きにしては、ずいぶん辛気臭しんきくさ容貌かおをしているが、細身で色白だし、磨けば玉になるか。……よし、いいだろう。おまえをストリッパーとして採用する。早速、明後日あさって実演デモに参加してもらおうか。」

 責任者の男は花園はなぞのと名乗り、楽屋にいる従業員へ声をかけた。喫茶室にやってきたストリッパー仲間は、飛英よりだいぶ歳上だった。歓楽街育ち特有の、自信に満ちた顔つきをしている。花園に促され互いに自己紹介すると、各々ばらけて行った。

「おまえ、荷物はないのか。」
「事務所に少しだけあります。」
「今からいって、持ってこい。きょうから劇場ここがおまえの住処すみかになる。家賃は報酬から差し引いて渡す。あとで契約書を取りにきな。目を通してサインしろ。」
「……わかりました。お世話になります。」

 花園は背広の下に中衣チョッキを身につけている。前面にのみ上質な生地が使われており、目を凝らすと細い縞もようが確認できた。支配人のキラよりは若く見えるが、白髪交じりの頭をしている。いったん劇場をあとにした飛英は、建物の屋根をあおいだ。西洋の建築様式が混在したオレンジ色の屋根に、薄茶色の外壁は、おとぎ話にでてくるような華麗な印象をあたえた。だが、窓の数が少なく、石造りの外観は、難攻不落の要塞にも見えた。

 遠くで、汽車の走る音が聞こえた。闇市にきて間もない飛英は、なれないことの連続で疲れていたが、まだ何も始まってはいなかった。事務所に戻り、かばんを手にして充の部屋に向かうと、扉を軽く叩いた。返事がないのであけて見ると、そこには誰もいなかった。応接間にキラの姿もなく、別れの挨拶をすることができなかった。とはいえ、闇市で生活を送る以上、いつでも探すことは可能だ。ふたりとも目立つ容姿をしている。飛英は階段をおりて玄関ホールまで引き返すと、ビルに向かって頭をさげた。

 ストリップ劇場は、北側の突き当たりにある。土埃つちぼこりの舞う路面を歩いていると、何もないところでよろめき、草履ぞうりの片方が脱げた。それを拾おうとして膝をおると、こんどはめまいを感じてその場へ坐りこんだ。

「……なんだろう、……気持ち悪い?」

 急に胸のあたりがもやもやする。不安と緊張とがいりまじった日々を送っていたせいか、頭がくらくらして動けない。しばらくじっとしていると、近くで足音がした。

織原おりはら。」

 克衛の声である。落ちていた草履を拾い、持ち主の足頸あしくびつかんで戻すと、飛英の顔をのぞきこんだ。

「具合が悪そうだ。冷や汗をかいているな。」
「すみません……、なんだか頭がくらくらして……、」
「どこかへ行く途中だったのか?」
「ストリップ劇場です……、」
「そうか。おまえさん、ストリッパーになったのか。」
「……はい。」

 克衛は顎髭あごひげをかくふりをして立ちあがると、飛英の上膊を捉えて無理やり起こした。それから、「いっしょに行こう」といって背中を支えた。


✓つづく
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