向こう岸の楽園

み馬下諒

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第39回[単独行動]

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 朝もやのなか、始発の汽車にのりこんだ飛英は、長い夢をみているのかと思った。夜は明けたばかりで、人の気配は少ない。東の空に高く太陽がのぼるころ、飛英はローカル鉄道にのりかえ、山に囲まれた景色をぼんやり見つめていた。気づいたとき、すでに足は駅舎へ向かっており、どうして勝手な行動にでてしまったのか、よくわからなかった。ただ、自分が目ざす場所は、頭のなかにはっきりと浮かんでいた。

「……礼慈郎さん、ごめんなさい。……ここからは、ひとりで行かせてください。」

 滝沢の資料を持ちだした飛英は、織江という町医が産科を開業した廃村へ向かっていた。そこで起きた男の出産について、書生の教授が調査した内容が記されている。男の腹からとりあげた赤子には、ひたいあざがあったと書きとめてあった。飛英に気をつかったのか、礼慈郎は言及におよばず、とくに深堀りしなかった。赤子の両親が共に男であったとは信じがたい事例だが、医者が不必要な虚偽の記述を残す理由もない。

「……生まれてきた赤ちゃんは、無事に成長したのでしょうか。」

 飛英は額の痣へ指を添えると、無意識に眉をひそめた。男の腹から生まれた人間が、まともな暮らしを送れたとは思えず、自分のように息が詰まる生活環境に身をおいていたのではないかと想像し、涙がこみあげてきた。男の顔も、赤子の名前も知らないのに、悲しい気持ちになった。ようやくある駅でおりた飛英は、花壇に咲く白い花を目に留め、小さく身ぶるいした。1日じゅう汽車にのって、辺りはもう暗くなっていた。だが、白い花は光を放っているかのように、かがやいて見えた。遠くで、けものが鳴く声が聞こえる。山奥の終着駅は無人で、奇妙なほど静まり返っていた。

 思いのほか、不安を感じていない飛英は、さらに奥地へ向かって歩きだした。ところどころ石垣がめぐらしてある道は、かつて屋敷が立っていた名残りである。庭木の多くは枯れていたが、蔦化の常緑樹はあたりかまわず蔓延はびこっていた。草木を踏みわけて進むうち、浴衣のすそが落ちている枝に引っかかり、足取りを重くした。飛英は着ていた衣服ころもを脱ぐと、草履ぞうりも捨て、裸身はだかになって闇のなかを歩き続けた。

 半日おくれで山奥の終着駅へおり立った礼慈郎は、風にざわつく老樹を一瞥し、花壇の花には目もくれず先を急をいだ。舗装をしていない道路や、雑草ばかり生える畑を横目に、まっすぐ廃村のある山奥へ向かう。そこに、飛英がいると確信していた。

「……織原、」

 もとより、山奥の廃村をたずねる予定だった礼慈郎は、要らぬ勘がはたらいて先を越した飛英と、なるべくはやく合流すべきだと考えた。織江という町医の話を聞いたときから、飛英の心は穏やかではなかった。その機微きびを捉えた礼慈郎は、資料に記されていた額の痣について、話題を避けている。

「……織原飛英、おまえはいったい何者なんだ。」

 礼慈郎は闇のなかへ吸いこまれるように進んでいき、やがて、見覚えのある浴衣を発見した。飛英の草履も落ちている。注意深く周囲を観察し、何が起きたのか思考をめぐらせた。地面に踏み荒らされた形跡はなく、人影のない山奥につき、集団で襲われた可能性は低いと判断し、あらためて謎めいた廃村について考えた。男が出産したという情報は現実的ではないが、生まれた赤子の額に痣のようなシミがあった点は、見過ごせない内容である。飛英のもつ表面上の特徴と一致するため、ばかげた空想が頭に浮かんではなれない。織原の先祖は、おそらく……。


✓つづく
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