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番外:サイドストーリー&後日談
SS6 落ちこぼれ巫女と南洋の守り神 後編
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昇り始めた太陽が、水平線に赤いラインを描き出す。
海竜は、穏やかに凪いだ波間から顔を覗かせて、そのまま丘の上で待っている少女の方へと、静かに首を伸ばした。
少女に怯える様子はない。長い黒髪がそよ風に揺れた。少女は両手を広げて海竜を迎え入れ、その鼻先に頬を寄せる。
歪ではある。
確かに、歪んでいる。
言葉にすれば、途端に陳腐化してしまう想い。
それでも敢えて、この海竜と少女の間にあるものを言葉にするならば、『愛』という表現が最も近い。
少女は呪い師の娘。
この日の前夜、呪い師の父は、少女に告げたのだ。
『村の男に嫁げ、子を産み、呪い師の後継者を育てよ』、と。
だが、海竜は少女を大切に思い、少女は海竜を何よりも愛していた。
他の者に嫁ぐ事など、想像するのも悍ましかった。
そこで少女は、一計を案じたのだ。
少女は海竜の鼻先を愛おしげに撫でながら、こう囁きかけた。
――次に魔獣が現れた時には、ここへ来て欲しいのです。そして、魔獣を倒して欲しいのです。村人たちの眼の前で。
海竜は静かに目を閉じる。
――その時、私は宣言します。あの竜は守り神なのです。自分は守り神に選ばれた巫女であり、一生未婚を貫かねばならないのです、と。
あの日の光景を思い起こしながら、海竜は息を殺して岩陰から、巨大な黒竜が居座っていた一角を覗き見る。
――まだいる。
海竜の視線の先には、月明かりも届かぬ海底に身を丸めて、化石の如くに眠る古竜の姿があった。
海竜は考える。
人の子は脆い。
彼女は五十年と経たずに、泡になって海に帰ってしまった。
彼女の最期の望みを叶えるには、この黒い竜がどうあっても邪魔なのだ。
それにしても、この巨大な竜は一体どこから来たのか?
この海域の王者である自分を、遥かに凌ぐ巨体。
もし争う事にでもなれば、どう考えても勝ち目はない。
――早く、どこかへ行ってくれないものか……。
海竜の溜め息が泡となって、揺らめきながら海面へと浮かび上がっていく。
そして、それが弾けるのと同時に――
海竜の背びれを、むんずと掴む者がいた。
――なに!?
慌てて顧みれば、そこにいたのは一体の骸骨。
そいつは空洞の眼窩を海竜へと向けて、カタカタと歯を鳴らして嗤った。
「グォ!」
海竜は驚きの声を上げると、激しく海中で身体を回転させる。
だが、引きはがせない。
骸骨はがっしりとしがみつきながら剣を抜き放ち、海竜の眼球へと、その切っ先を突きつけた。
「お前も竜ならば、人間の言葉ぐらいはわかるのだろう? 喋れないのなら、頭を右に向ければ肯定。頭を左に向ければ否定。それで良いから質問に答えろ!」
――あの黒竜の竜牙兵か! ならば、態々人の子の言葉で話す必要などあるまい。剣を下ろせ!
海竜が胸の内で答えたその言葉に、竜牙兵は何の反応も返さない。どう見ても、『念話』が通じている様には見えなかった。
――どういうことだ? 『念話』も通じぬほどの劣等種なのか?
だが、そんな筈はない。竜牙兵を生み出すことが出来るのは、竜の中でも一部の上位種だけなのだ。
戸惑う海竜を他所に、骸骨は声音を低くして脅しつける。
「私の言っていることがわかったのか? どうだ、答えろ!」
海竜が渋々首を右へと振ると、竜牙兵 は満足げに頷いた。
「ならば問う。島の人間達が『ダナン』と呼んでいたのはお前の事か?」
海竜は、首を更に右へと捩る。
「ならば、なぜ巫女の召喚に応じなかった。巫女の召喚方法になにか問題があったのか?」
海竜は少し逡巡した末に、左を向いた。
「それは、先代の巫女の指示か?」
海竜は『指示』という表現に抵抗を覚えたが、それを訂正する術はない。
海竜は、しかたなく右を向く。
「先代の巫女の狙いは、あの若い巫女に、巫女を辞めさせること。そうだな」
海竜は顔を右に向けたまま動かない。引っかかるものはあるが、決して間違いではない。
「先代の巫女は、今の巫女に何か恨みでもあったのか?」
海竜は、勢いよく左へと首を振る。
それは海竜にとって、あまりにも耐えがたい問い掛け。許しがたい誤りであった。
だが、海竜の過剰なまでのその反応が、レイには意外に思えた。
それというのも、少年の呟きを拾い集めて、そこに推測を加えた結果、レイの中では、若さを妬んだ先代巫女が若い巫女を貶めようとしている。そんな物語が作り上げられていたのだ。
だが、海竜のその感情的な挙動をみる限り、どうやらそうでは無いらしい。
海竜は激しく身を捩り、岩陰から飛び出した。
「動くな!」
海竜は竜牙兵の制止を無視して、古竜の方へと近づくと、その額へと自分の額を重ね合わせる。
途端にレイの脳裏に映像として流れ込んでくる海竜の思考。
――なるほど。そういうことか……。
ならば、巫女が最初に遭遇したのが、陸に上がってくるような魔物だったのは、この海竜にとっても想定外の出来事だったのだろう。
巨大蛸があの巫女へと襲い掛かった時、レイが手を出さねば、この海竜が飛び出していたであろうことも、容易に想像がつく。
――お前にとっても、あの巫女は『娘』だというのだな。
それまで眠る様に閉じていた瞼を見開き、古竜は海竜を見据えた。
――いいだろう。私に任せておけ。
◇ ◇ ◇
チャナは夢を見ていた。
幼い日の夢だ。
「チャナねぇ、ムアンのお嫁さんになるの」
少女の無邪気なその一言に、身寄りのないチャナの育ての母であり、師でもある彼女は困ったような顔をした。
チャナは、そこで目をさます。
午後の日差しが草ぶき屋根を貫いて、彼女の顔に斑模様を描いていた。
身体を伸ばすのにも苦労する、木の上の小さな小屋。
あの巨大な竜を呼び出して以来、村人達からの供物も一気に増えて、いまや彼女の寝る場所すらも食物に圧迫されている。いうなれば、マンゴーやパパイヤと添い寝しているような有様だ。
チャナは、今の今まで見ていた夢の事を思い出して、思わず苦笑する。
――分別のつかない子供の戯言とはいえ、馬鹿げた事を言ったものだ、と。
巫女は守り神のために、その生涯を捧げる。
他の男と番う事など、許される筈が無い。
歳を重ね、徐々に物事が分かるようになると、チャナにはあの時の師匠の表情が何を意味していたのかが分かってくる。
チャナが徐々に距離を取るようになると、ムアンは嫌がらせをするようになった。
駄々っ子みたいに。自分の存在を誇示するみたいに。
今なら分かる。ムアンは離れていくチャナを繋ぎ止めようとしていたのだと。
だが、二人とも子供だった。どうしようもなく子供だったのだ。
終いには、互いにほとんど無視し合うような状態になった。
――お互いの為にも、あれで良かったんだよ、ムアン。
チャナが胸の内でそう呟きながら寝返りをうって、マンゴーに鼻先をぶつけたのと同時に、下から彼女を呼ぶ子供達の声が聞こえてきた。
「巫女! 大変! 魔物の群れが押し寄せてきた!」
◇ ◇ ◇
「なに……これ……」
チャナは、思わず言葉を失った。
水平線に舞い散る水しぶき。見渡す限りに広がる巨大な黒い影。蠢く触手のシルエット。恐らくあれは巨大蛸。無数の巨大蛸が、迫ってくる。
「何匹いるのよ……」
「巫女! 早く偉大なる守り神を!」
チャナは、下唇をぎゅっと噛みしめる。
今更、あれは偶然通りかかっただけの化け物だった。などと言える訳もない。やるしかない。
チャナは両手を掲げ、祈りを捧げる。
だが、やはりどこにもつながる様な感触は無い。
――それはそうだ。幸運は二度も続かない。
思わず項垂れるチャナ。ところが――
「来たあああ!」
「おぉおおおおお!」
すぐに、彼女の背後で歓声が上った。
飛び散る水しぶき。ゴゴゴと重い音を立てて、大地が震える。
顔を上げれば、眼前の海が山脈の様に盛り上がって、巨大な竜の黒い背中が、チャナの視界一杯に広がった。
「うそ……ホントに来ちゃった……」
呆然とするチャナ。だが、それを他所に、古竜は大きく顎を広げる。その奥で蒼い炎が爆ぜるのが見えた。
古竜が炎を噴きだしながら左右に首を振ると、灼熱の炎に海面が気化して、群雲の如くに湯気が立ち昇る。海面に突き出していた触手が一瞬にして黒く焦げ付き、風に乗って香ばしい薫りが、チャナ達の鼻を衝いた。
だが、それでも黒い影は、島へと向けて更に迫ってくる。海面の炎を掻い潜って、黒い波は怯むことなく押し寄せてくる。
「数が多すぎるんだ……」
流石にこの数では、たとえ偉大なる守り神とはいえ、対処するには手が足りない。
チャナが思わず唇を噛みしめたその瞬間――
グゥオオオオオオオオオオ――――!
古竜が空を見上げて、咆哮を上げた。
そして、
『我が声を聞け!』
風景が歪むほどの衝撃波を宙に放ちながら、声を上げた。
「しゃ、喋った!? 偉大なる守り神が喋った!?」
呆気に取られて立ちつくすチャナを他所に、周囲の村人たちは慌てて跪き、大地に額を擦り付けながら、必死に祈りの言葉を口にする。
地を埋め尽くすような村人たちの祈りを遮る様に、古竜は再び声を上げた。
『我は巫女を解放する』
「……え?」
チャナには、一瞬竜が何を言ったのかが、分からなかった。
解放する? 解放するってどういうこと?
『心のままに生きよ。心のままに愛するべき者を愛せよ。お前の想いを阻む者がいれば、我が大いなる災いを与えよう』
「……な、なんで!」
チャナは古竜へと叫ぶ。
だが、竜はそれには応えない。
古竜は、海中へとその身を沈ませると、激しい水しぶきを上げて、巨大蛸の群れ目掛けて突っ込んでいく。
水の中の様子は分からない。だが、海は激しく荒れ、荒れ狂う波が島の海岸線に打ちつける。時折、千切れた巨大蛸の触手が宙を舞い、白い水しぶきが高く舞い上がるのが見えた。
◇ ◇ ◇
「今更、心のままになんて言われたって……困る」
全身に巨大蛸を絡みつかせた古竜が北の方へと飛び去ってしまうと、それまでが嘘の様に、水面は穏やかに凪いだ。
波に荒らされた海岸沿いには、相応に被害が出ている。人々は既にそちらへ行ってしまって、丘の上にはチャナ一人が取り残されていた。
「明日からどうやって生きていけってのさ……」
悪く言えば、守り神から直々にクビを言い渡されてしまった訳で……。
チャナとしては、途方に暮れるより他にない。
チャナの溜め息に応えるかのように背後から足音が聞こえて、膝を抱えて地面を眺める彼女の視界に、誰かの影が落ちた。
地面に落ちたその影をじっと眺める彼女に、その影の主が語り掛ける。溢れそうになる想いに上擦りそうになるのを必死に堪えるような低い声。
「……ずっと言えなかった言葉があるんだ」
チャナは微笑みながら、静かに振り返った。
――落ちこぼれ巫女と南洋の守り神 了
海竜は、穏やかに凪いだ波間から顔を覗かせて、そのまま丘の上で待っている少女の方へと、静かに首を伸ばした。
少女に怯える様子はない。長い黒髪がそよ風に揺れた。少女は両手を広げて海竜を迎え入れ、その鼻先に頬を寄せる。
歪ではある。
確かに、歪んでいる。
言葉にすれば、途端に陳腐化してしまう想い。
それでも敢えて、この海竜と少女の間にあるものを言葉にするならば、『愛』という表現が最も近い。
少女は呪い師の娘。
この日の前夜、呪い師の父は、少女に告げたのだ。
『村の男に嫁げ、子を産み、呪い師の後継者を育てよ』、と。
だが、海竜は少女を大切に思い、少女は海竜を何よりも愛していた。
他の者に嫁ぐ事など、想像するのも悍ましかった。
そこで少女は、一計を案じたのだ。
少女は海竜の鼻先を愛おしげに撫でながら、こう囁きかけた。
――次に魔獣が現れた時には、ここへ来て欲しいのです。そして、魔獣を倒して欲しいのです。村人たちの眼の前で。
海竜は静かに目を閉じる。
――その時、私は宣言します。あの竜は守り神なのです。自分は守り神に選ばれた巫女であり、一生未婚を貫かねばならないのです、と。
あの日の光景を思い起こしながら、海竜は息を殺して岩陰から、巨大な黒竜が居座っていた一角を覗き見る。
――まだいる。
海竜の視線の先には、月明かりも届かぬ海底に身を丸めて、化石の如くに眠る古竜の姿があった。
海竜は考える。
人の子は脆い。
彼女は五十年と経たずに、泡になって海に帰ってしまった。
彼女の最期の望みを叶えるには、この黒い竜がどうあっても邪魔なのだ。
それにしても、この巨大な竜は一体どこから来たのか?
この海域の王者である自分を、遥かに凌ぐ巨体。
もし争う事にでもなれば、どう考えても勝ち目はない。
――早く、どこかへ行ってくれないものか……。
海竜の溜め息が泡となって、揺らめきながら海面へと浮かび上がっていく。
そして、それが弾けるのと同時に――
海竜の背びれを、むんずと掴む者がいた。
――なに!?
慌てて顧みれば、そこにいたのは一体の骸骨。
そいつは空洞の眼窩を海竜へと向けて、カタカタと歯を鳴らして嗤った。
「グォ!」
海竜は驚きの声を上げると、激しく海中で身体を回転させる。
だが、引きはがせない。
骸骨はがっしりとしがみつきながら剣を抜き放ち、海竜の眼球へと、その切っ先を突きつけた。
「お前も竜ならば、人間の言葉ぐらいはわかるのだろう? 喋れないのなら、頭を右に向ければ肯定。頭を左に向ければ否定。それで良いから質問に答えろ!」
――あの黒竜の竜牙兵か! ならば、態々人の子の言葉で話す必要などあるまい。剣を下ろせ!
海竜が胸の内で答えたその言葉に、竜牙兵は何の反応も返さない。どう見ても、『念話』が通じている様には見えなかった。
――どういうことだ? 『念話』も通じぬほどの劣等種なのか?
だが、そんな筈はない。竜牙兵を生み出すことが出来るのは、竜の中でも一部の上位種だけなのだ。
戸惑う海竜を他所に、骸骨は声音を低くして脅しつける。
「私の言っていることがわかったのか? どうだ、答えろ!」
海竜が渋々首を右へと振ると、竜牙兵 は満足げに頷いた。
「ならば問う。島の人間達が『ダナン』と呼んでいたのはお前の事か?」
海竜は、首を更に右へと捩る。
「ならば、なぜ巫女の召喚に応じなかった。巫女の召喚方法になにか問題があったのか?」
海竜は少し逡巡した末に、左を向いた。
「それは、先代の巫女の指示か?」
海竜は『指示』という表現に抵抗を覚えたが、それを訂正する術はない。
海竜は、しかたなく右を向く。
「先代の巫女の狙いは、あの若い巫女に、巫女を辞めさせること。そうだな」
海竜は顔を右に向けたまま動かない。引っかかるものはあるが、決して間違いではない。
「先代の巫女は、今の巫女に何か恨みでもあったのか?」
海竜は、勢いよく左へと首を振る。
それは海竜にとって、あまりにも耐えがたい問い掛け。許しがたい誤りであった。
だが、海竜の過剰なまでのその反応が、レイには意外に思えた。
それというのも、少年の呟きを拾い集めて、そこに推測を加えた結果、レイの中では、若さを妬んだ先代巫女が若い巫女を貶めようとしている。そんな物語が作り上げられていたのだ。
だが、海竜のその感情的な挙動をみる限り、どうやらそうでは無いらしい。
海竜は激しく身を捩り、岩陰から飛び出した。
「動くな!」
海竜は竜牙兵の制止を無視して、古竜の方へと近づくと、その額へと自分の額を重ね合わせる。
途端にレイの脳裏に映像として流れ込んでくる海竜の思考。
――なるほど。そういうことか……。
ならば、巫女が最初に遭遇したのが、陸に上がってくるような魔物だったのは、この海竜にとっても想定外の出来事だったのだろう。
巨大蛸があの巫女へと襲い掛かった時、レイが手を出さねば、この海竜が飛び出していたであろうことも、容易に想像がつく。
――お前にとっても、あの巫女は『娘』だというのだな。
それまで眠る様に閉じていた瞼を見開き、古竜は海竜を見据えた。
――いいだろう。私に任せておけ。
◇ ◇ ◇
チャナは夢を見ていた。
幼い日の夢だ。
「チャナねぇ、ムアンのお嫁さんになるの」
少女の無邪気なその一言に、身寄りのないチャナの育ての母であり、師でもある彼女は困ったような顔をした。
チャナは、そこで目をさます。
午後の日差しが草ぶき屋根を貫いて、彼女の顔に斑模様を描いていた。
身体を伸ばすのにも苦労する、木の上の小さな小屋。
あの巨大な竜を呼び出して以来、村人達からの供物も一気に増えて、いまや彼女の寝る場所すらも食物に圧迫されている。いうなれば、マンゴーやパパイヤと添い寝しているような有様だ。
チャナは、今の今まで見ていた夢の事を思い出して、思わず苦笑する。
――分別のつかない子供の戯言とはいえ、馬鹿げた事を言ったものだ、と。
巫女は守り神のために、その生涯を捧げる。
他の男と番う事など、許される筈が無い。
歳を重ね、徐々に物事が分かるようになると、チャナにはあの時の師匠の表情が何を意味していたのかが分かってくる。
チャナが徐々に距離を取るようになると、ムアンは嫌がらせをするようになった。
駄々っ子みたいに。自分の存在を誇示するみたいに。
今なら分かる。ムアンは離れていくチャナを繋ぎ止めようとしていたのだと。
だが、二人とも子供だった。どうしようもなく子供だったのだ。
終いには、互いにほとんど無視し合うような状態になった。
――お互いの為にも、あれで良かったんだよ、ムアン。
チャナが胸の内でそう呟きながら寝返りをうって、マンゴーに鼻先をぶつけたのと同時に、下から彼女を呼ぶ子供達の声が聞こえてきた。
「巫女! 大変! 魔物の群れが押し寄せてきた!」
◇ ◇ ◇
「なに……これ……」
チャナは、思わず言葉を失った。
水平線に舞い散る水しぶき。見渡す限りに広がる巨大な黒い影。蠢く触手のシルエット。恐らくあれは巨大蛸。無数の巨大蛸が、迫ってくる。
「何匹いるのよ……」
「巫女! 早く偉大なる守り神を!」
チャナは、下唇をぎゅっと噛みしめる。
今更、あれは偶然通りかかっただけの化け物だった。などと言える訳もない。やるしかない。
チャナは両手を掲げ、祈りを捧げる。
だが、やはりどこにもつながる様な感触は無い。
――それはそうだ。幸運は二度も続かない。
思わず項垂れるチャナ。ところが――
「来たあああ!」
「おぉおおおおお!」
すぐに、彼女の背後で歓声が上った。
飛び散る水しぶき。ゴゴゴと重い音を立てて、大地が震える。
顔を上げれば、眼前の海が山脈の様に盛り上がって、巨大な竜の黒い背中が、チャナの視界一杯に広がった。
「うそ……ホントに来ちゃった……」
呆然とするチャナ。だが、それを他所に、古竜は大きく顎を広げる。その奥で蒼い炎が爆ぜるのが見えた。
古竜が炎を噴きだしながら左右に首を振ると、灼熱の炎に海面が気化して、群雲の如くに湯気が立ち昇る。海面に突き出していた触手が一瞬にして黒く焦げ付き、風に乗って香ばしい薫りが、チャナ達の鼻を衝いた。
だが、それでも黒い影は、島へと向けて更に迫ってくる。海面の炎を掻い潜って、黒い波は怯むことなく押し寄せてくる。
「数が多すぎるんだ……」
流石にこの数では、たとえ偉大なる守り神とはいえ、対処するには手が足りない。
チャナが思わず唇を噛みしめたその瞬間――
グゥオオオオオオオオオオ――――!
古竜が空を見上げて、咆哮を上げた。
そして、
『我が声を聞け!』
風景が歪むほどの衝撃波を宙に放ちながら、声を上げた。
「しゃ、喋った!? 偉大なる守り神が喋った!?」
呆気に取られて立ちつくすチャナを他所に、周囲の村人たちは慌てて跪き、大地に額を擦り付けながら、必死に祈りの言葉を口にする。
地を埋め尽くすような村人たちの祈りを遮る様に、古竜は再び声を上げた。
『我は巫女を解放する』
「……え?」
チャナには、一瞬竜が何を言ったのかが、分からなかった。
解放する? 解放するってどういうこと?
『心のままに生きよ。心のままに愛するべき者を愛せよ。お前の想いを阻む者がいれば、我が大いなる災いを与えよう』
「……な、なんで!」
チャナは古竜へと叫ぶ。
だが、竜はそれには応えない。
古竜は、海中へとその身を沈ませると、激しい水しぶきを上げて、巨大蛸の群れ目掛けて突っ込んでいく。
水の中の様子は分からない。だが、海は激しく荒れ、荒れ狂う波が島の海岸線に打ちつける。時折、千切れた巨大蛸の触手が宙を舞い、白い水しぶきが高く舞い上がるのが見えた。
◇ ◇ ◇
「今更、心のままになんて言われたって……困る」
全身に巨大蛸を絡みつかせた古竜が北の方へと飛び去ってしまうと、それまでが嘘の様に、水面は穏やかに凪いだ。
波に荒らされた海岸沿いには、相応に被害が出ている。人々は既にそちらへ行ってしまって、丘の上にはチャナ一人が取り残されていた。
「明日からどうやって生きていけってのさ……」
悪く言えば、守り神から直々にクビを言い渡されてしまった訳で……。
チャナとしては、途方に暮れるより他にない。
チャナの溜め息に応えるかのように背後から足音が聞こえて、膝を抱えて地面を眺める彼女の視界に、誰かの影が落ちた。
地面に落ちたその影をじっと眺める彼女に、その影の主が語り掛ける。溢れそうになる想いに上擦りそうになるのを必死に堪えるような低い声。
「……ずっと言えなかった言葉があるんだ」
チャナは微笑みながら、静かに振り返った。
――落ちこぼれ巫女と南洋の守り神 了
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