4 / 10
4
しおりを挟む
後日、わたしはまたバーに訪れた。マスターとの約束の、一日半額デーをしてもらうつもりだった。
「いらっしゃい」
「ほんとに、いいんですか? わたし、いっぱい飲みますよ?」
「約束だからね。どうぞ、なんでも」
ここぞとばかりに、わたしは高いウイスキーの名前を口にする。ロックをダブルで。
今日は木曜日だし、天気が悪いのもあって、いつもよりお客さんが少なくて。だからマスターと二人でゆっくり話すことができるし、お酒もたくさんオーダーしやすい。一応、それも計算ずくで来てはいた。
「そういえば絵里ちゃんて、恵と知り合いだったんだ?」
この間の合コンのときの様子で、マスターは気づいていたらしい。美香の会社の先輩で、前に一度話したことがあったのだと簡単に伝えると、マスターはなるほど、といった顔をして言った。
「こないだ来た時にね、恵、絵里ちゃんのこと、可愛いって言ってたから」
「え、恵さんって、女が好きなんですか」
「あ、いけない。……内緒ね。こういうことは勝手に言う話じゃなかった」
しまった、という顔をするけど、こちらは聞いてしまったのだからもう遅い。結局わたしたちは、流れで恵さんの話をすることになった。
恵さんはやっぱりずいぶんとモテるらしく、しかもバイセクシャルだから、このあいだの合コンでも、男女両方を物色していたらしい。今までに泣かされてきた者たちは数知れないとのこと。
「ドSって、自分で言ってましたけど……痛いことするんですかね。やられる側はつらくないのかな」
「僕も経験したわけじゃないから、よくわからないんだけどね。お互いに楽しんですることだから、暴力とかとは違うみたいだけど」
そんな話をしていれば、急にドアが開いて、一人客が入ってくる。まさかのその人は、恵さんだった。
「あ、噂をすれば」
「なになに、何の話?」
「な、なんでもないですっ」
「そうそう、絵里ちゃんがSMに興味があるとかなんとか」
マスターはよりによって、そんなことを恵さんに告げ口してしまう。
「へえ、絵里ちゃん、興味あるんだ」
「別に、そんなんじゃ……」
「そうなの? つまんないの」
恵さんはさらっと話を引っ込めてしまう。だけどそんなふうに言われると、なぜだか心がざわざわしてしまって。
「興味、全くないわけじゃ、ないですけど」
ついつい、そんなことを言ってしまう。
すると恵さんは、さっきとは別人のような優しいトーンで応えてきた。
「だったら……試してみる?」
恵さんの話だと、その手の趣味の人が集まるバーのようなものがあるらしい。詳しいことはまったくよくわからなかったのだけれど、たまたまこの近所にあるということだったので、酔った勢いで連れて行かれることになってしまった。SMバーと呼ばれる、その場所に。
さっそく、ということで、お会計を済ませてバーを後にした。ドアを閉めるなり、恵さんはわたしの腕をすっと引いて、夜道を誘導し始める。
こちらが避ける暇なんて与えないくらい、それは自然な動きだった。わたしはわたしで、変に抵抗するのもおかしいし、なんて思ってされるがままで。思えばいつもよりたくさん飲んだからか、かなり気持ちのいい状態になっていた。
どこをどう歩いたのか、方向音痴のわたしにはあまりよくわからないまま、恵さんに腕を引かれるままにSMバーにたどりついた。
重そうなドアを開けると、恵さんは慣れたような雰囲気で二本指を立てながら、わたしを中に入れる。バーカウンターの向こうのスタッフと思しき人が、わたしの顔を見るなり、お店のシステムを説明してくれた。
最初にドリンクを注文するように言われたので、わたしはまたウイスキーを注文した。さっきまで飲んでいたものとは違って、もっと安いメーカーのものだけれど。
注文したお酒を持って、恵さんと一緒に奥の方の座席に腰を下ろした。いくつか並んでいるソファーのような席には、男女のカップルと思しき人たちがイチャイチャしていたり、薄暗い店内のさらに奥のほうにはカーテンの仕切りがあって、個室になっているようだった。
お店の中央にはちょっとしたステージのようなものがあり、上から吊るされたロープのようなものや、床から天井まで延びている銀色のポールが、赤紫色の間接照明に照らされて光っていた。
初めての光景に見惚れていると、なにやら音楽が流れ始めて、ステージに人が集まってきた。どうやら何かのイベントがおこなわれるらしかった。
「こういうの、初めて?」
隣にいたカップルの女の人のほうが、わたしに話しかけてきた。
「その人、気をつけたほうがいいよ。遊び人だから」
彼女はそう言って、カラカラと笑う。
「うるさいなー、今日はそういうんじゃないから」
恵さんはそう言うけど、笑っていた。
イベントが始まり、ステージ上にM嬢と思しき、ベビードール姿のきわどい衣装の女性が出てきた。つづいて、明らかに女王様という風の黒いボンテージ姿の女性が出てきて、一気に場の空気感が変わる。
女王様はM嬢をステージの端に追い詰めると、彼女の顎に手を当てる。顎クイ、というやつだ。M嬢はされるがままに女王様にキスされていた。
ショーとはいえ、そういう場面というのは、なんだかドキドキしてしまう。
女王様は自然な流れで、M嬢を真っ赤な縄を使って縛り始めた。縄がかかっていくごとに、M嬢は切なげな吐息を漏らす。官能的な光景に、目が離せなくなった。
「すごいでしょ」
ステージに夢中になっているわたしの耳元で、恵さんがささやく。急に耳に触れた吐息がくすぐったくて、つい身体がびくっとなってしまう。
「実は私も昔、ああいうの、やってたんだ」
「……そうなんですか!?」
ショーはどんどん盛り上がりを増していった。女王様は黒い鞭を使って、縛られたM嬢のお尻を叩く。ピシイッっという音とともに、M嬢から悲鳴が上がる。
あんなに痛そうなことをしているのに、どうしてだろう。悲鳴はいつのまにか甘い色を帯びて、とろんとした目のM嬢はなんだかすごく気持ちよさそうで。
自分の心臓がドクドクと動くのを感じる。身体がやけに熱いのは、さっき飲んだウイスキーのせいなのか、それとも。
ひときわ大きな悲鳴とも嬌声ともつかない声がM嬢から上がり、それがクライマックスのようだった。身体の力が抜けてくにゃっとしている彼女の髪を、女王様は愛おしそうに撫でて労った。
その光景を見て、なぜだろう。
わたしは、つい思ってしまったのだ。「羨ましい」だなんて、そんなことを。
「いらっしゃい」
「ほんとに、いいんですか? わたし、いっぱい飲みますよ?」
「約束だからね。どうぞ、なんでも」
ここぞとばかりに、わたしは高いウイスキーの名前を口にする。ロックをダブルで。
今日は木曜日だし、天気が悪いのもあって、いつもよりお客さんが少なくて。だからマスターと二人でゆっくり話すことができるし、お酒もたくさんオーダーしやすい。一応、それも計算ずくで来てはいた。
「そういえば絵里ちゃんて、恵と知り合いだったんだ?」
この間の合コンのときの様子で、マスターは気づいていたらしい。美香の会社の先輩で、前に一度話したことがあったのだと簡単に伝えると、マスターはなるほど、といった顔をして言った。
「こないだ来た時にね、恵、絵里ちゃんのこと、可愛いって言ってたから」
「え、恵さんって、女が好きなんですか」
「あ、いけない。……内緒ね。こういうことは勝手に言う話じゃなかった」
しまった、という顔をするけど、こちらは聞いてしまったのだからもう遅い。結局わたしたちは、流れで恵さんの話をすることになった。
恵さんはやっぱりずいぶんとモテるらしく、しかもバイセクシャルだから、このあいだの合コンでも、男女両方を物色していたらしい。今までに泣かされてきた者たちは数知れないとのこと。
「ドSって、自分で言ってましたけど……痛いことするんですかね。やられる側はつらくないのかな」
「僕も経験したわけじゃないから、よくわからないんだけどね。お互いに楽しんですることだから、暴力とかとは違うみたいだけど」
そんな話をしていれば、急にドアが開いて、一人客が入ってくる。まさかのその人は、恵さんだった。
「あ、噂をすれば」
「なになに、何の話?」
「な、なんでもないですっ」
「そうそう、絵里ちゃんがSMに興味があるとかなんとか」
マスターはよりによって、そんなことを恵さんに告げ口してしまう。
「へえ、絵里ちゃん、興味あるんだ」
「別に、そんなんじゃ……」
「そうなの? つまんないの」
恵さんはさらっと話を引っ込めてしまう。だけどそんなふうに言われると、なぜだか心がざわざわしてしまって。
「興味、全くないわけじゃ、ないですけど」
ついつい、そんなことを言ってしまう。
すると恵さんは、さっきとは別人のような優しいトーンで応えてきた。
「だったら……試してみる?」
恵さんの話だと、その手の趣味の人が集まるバーのようなものがあるらしい。詳しいことはまったくよくわからなかったのだけれど、たまたまこの近所にあるということだったので、酔った勢いで連れて行かれることになってしまった。SMバーと呼ばれる、その場所に。
さっそく、ということで、お会計を済ませてバーを後にした。ドアを閉めるなり、恵さんはわたしの腕をすっと引いて、夜道を誘導し始める。
こちらが避ける暇なんて与えないくらい、それは自然な動きだった。わたしはわたしで、変に抵抗するのもおかしいし、なんて思ってされるがままで。思えばいつもよりたくさん飲んだからか、かなり気持ちのいい状態になっていた。
どこをどう歩いたのか、方向音痴のわたしにはあまりよくわからないまま、恵さんに腕を引かれるままにSMバーにたどりついた。
重そうなドアを開けると、恵さんは慣れたような雰囲気で二本指を立てながら、わたしを中に入れる。バーカウンターの向こうのスタッフと思しき人が、わたしの顔を見るなり、お店のシステムを説明してくれた。
最初にドリンクを注文するように言われたので、わたしはまたウイスキーを注文した。さっきまで飲んでいたものとは違って、もっと安いメーカーのものだけれど。
注文したお酒を持って、恵さんと一緒に奥の方の座席に腰を下ろした。いくつか並んでいるソファーのような席には、男女のカップルと思しき人たちがイチャイチャしていたり、薄暗い店内のさらに奥のほうにはカーテンの仕切りがあって、個室になっているようだった。
お店の中央にはちょっとしたステージのようなものがあり、上から吊るされたロープのようなものや、床から天井まで延びている銀色のポールが、赤紫色の間接照明に照らされて光っていた。
初めての光景に見惚れていると、なにやら音楽が流れ始めて、ステージに人が集まってきた。どうやら何かのイベントがおこなわれるらしかった。
「こういうの、初めて?」
隣にいたカップルの女の人のほうが、わたしに話しかけてきた。
「その人、気をつけたほうがいいよ。遊び人だから」
彼女はそう言って、カラカラと笑う。
「うるさいなー、今日はそういうんじゃないから」
恵さんはそう言うけど、笑っていた。
イベントが始まり、ステージ上にM嬢と思しき、ベビードール姿のきわどい衣装の女性が出てきた。つづいて、明らかに女王様という風の黒いボンテージ姿の女性が出てきて、一気に場の空気感が変わる。
女王様はM嬢をステージの端に追い詰めると、彼女の顎に手を当てる。顎クイ、というやつだ。M嬢はされるがままに女王様にキスされていた。
ショーとはいえ、そういう場面というのは、なんだかドキドキしてしまう。
女王様は自然な流れで、M嬢を真っ赤な縄を使って縛り始めた。縄がかかっていくごとに、M嬢は切なげな吐息を漏らす。官能的な光景に、目が離せなくなった。
「すごいでしょ」
ステージに夢中になっているわたしの耳元で、恵さんがささやく。急に耳に触れた吐息がくすぐったくて、つい身体がびくっとなってしまう。
「実は私も昔、ああいうの、やってたんだ」
「……そうなんですか!?」
ショーはどんどん盛り上がりを増していった。女王様は黒い鞭を使って、縛られたM嬢のお尻を叩く。ピシイッっという音とともに、M嬢から悲鳴が上がる。
あんなに痛そうなことをしているのに、どうしてだろう。悲鳴はいつのまにか甘い色を帯びて、とろんとした目のM嬢はなんだかすごく気持ちよさそうで。
自分の心臓がドクドクと動くのを感じる。身体がやけに熱いのは、さっき飲んだウイスキーのせいなのか、それとも。
ひときわ大きな悲鳴とも嬌声ともつかない声がM嬢から上がり、それがクライマックスのようだった。身体の力が抜けてくにゃっとしている彼女の髪を、女王様は愛おしそうに撫でて労った。
その光景を見て、なぜだろう。
わたしは、つい思ってしまったのだ。「羨ましい」だなんて、そんなことを。
0
あなたにおすすめの小説
小さくなって寝ている先輩にキスをしようとしたら、バレて逆にキスをされてしまった話
穂鈴 えい
恋愛
ある日の放課後、部室に入ったわたしは、普段しっかりとした先輩が無防備な姿で眠っているのに気がついた。ひっそりと片思いを抱いている先輩にキスがしたくて縮小薬を飲んで100分の1サイズで近づくのだが、途中で気づかれてしまったわたしは、逆に先輩に弄ばれてしまい……。
ヘビースモーカーお姉さんが彼女を吸って禁煙する話
霜月このは
恋愛
軽音サークルの真希はヘビースモーカーな先輩の樹里さんに密かに憧れていた。二十歳の誕生日、樹里さんとサシ飲みしたところから、タバコの話になり……。
※ノクターンノベルズにも掲載しています。
さくらと遥香(ショートストーリー)
youmery
恋愛
「さくらと遥香」46時間TV編で両想いになり、周りには内緒で付き合い始めたさくちゃんとかっきー。
その後のメインストーリーとはあまり関係してこない、単発で読めるショートストーリー集です。
※さくちゃん目線です。
※さくちゃんとかっきーは周りに内緒で付き合っています。メンバーにも事務所にも秘密にしています。
※メインストーリーの長編「さくらと遥香」を未読でも楽しめますが、46時間TV編だけでも読んでからお読みいただくことをおすすめします。
※ショートストーリーはpixivでもほぼ同内容で公開中です。
久しぶりに帰省したら私のことが大好きな従妹と姫はじめしちゃった件
楠富 つかさ
恋愛
久しぶりに帰省したら私のことが大好きな従妹と姫はじめしちゃうし、なんなら恋人にもなるし、果てには彼女のために職場まで変える。まぁ、愛の力って偉大だよね。
※この物語はフィクションであり実在の地名は登場しますが、人物・団体とは関係ありません。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる