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そこからの記憶は、なんだか曖昧だった。
ショーのあと、呆然としたままのわたしは、恵さんに連れられて、二人きりの個室に入っていた。
個室といっても、そこは簡単にカーテンで仕切られただけの空間で、薄いカーテンの向こうでは人の話し声がする。
「いきなり縛るのは、ハードル高いから……これ、着けてみようか?」
恵さんが差し出してきたそれは、黒いシンプルなデザインの首輪だった。
「え……」
「嫌なら、無理しなくてもいいけど?」
恵さんはそう言ってまた、あっけなく引っ込めてしまおうとするのだけど。そうされると、なぜだか胸の奥がきゅうっとなってしまう。
「ほんとは、やってみたいんじゃない?」
そう言われて思わず頷いてしまうと、流れるような動作で、恵さんはわたしに首輪をつけた。
「ほら、おすわり」
「あ……はい」
わたしは、言われた通りに動こうとするのだけど。
「ダメだよ、しゃべっちゃ。絵里ちゃんは今、ワンちゃんでしょ?」
そんなことを言って、頭を軽くポン、と触られる。
叩かれるのかと思ったら違って、なんとも言えない感覚になる。
「合言葉、決めようか。絵里ちゃん、好きな食べ物とかなんかない?」
「え……じゃあ、メロン」
さっきマスターに作ってもらったメロン味のカクテルが美味しかったのを思い出して言ったのだけど。
「じゃあ、本当にやめてほしいときには『メロン』って言ってね。それ以外のときは、やめてって言われてもやめないから」
そう言えば、聞いたことがある。SMプレイにはセーフワードというのがあって、安全のために決めておく必要があるのだ。『痛い』とか『やめて』とかだと、それはプレイの一環なのかどっちなのか、わからなくなってしまうから。
合言葉を決めると、ぼうっとしているわたしの頬に、恵さんはそっと、触れる。
「……いい?」
申し訳程度に聞くその言葉に意味なんてないことを、わたしは直感的にわかっていた。わたしが頷いたのを皮切りに、そのプレイは始まった。
恵さんは上着を脱ぐと、さっきのステージの女王様が持っていたような鞭をどこからともなく取り出して、わたしのお尻に軽く叩きつけた。
反射的に悲鳴が漏れるのだけど、思っていたよりも痛くはない。だけど息つく暇もなく、次の鞭が飛んでくる。次の衝撃はさっきよりもはっきりした痛みを伴うものだったけれど、まだやめてほしいとまでは思わなかった。
本当に、不思議な感覚だった。何度も叩かれて、鞭の刺激はかなり強いものになっているのにも関わらず、いつのまにかそれは、甘い感覚に変わっていた。
叩かれ続けながら頭の中が真っ白になって、よくわからなくなっているうちに、わたしは身体の力が抜けてしまった。さっきのM嬢みたいに。
「よしよし、いい子いい子」
恵さんは叩くのを止めて、わたしの髪を撫でた。
「絵里ちゃん、可愛いね」
そう言うと、またわたしの顎を持ち上げて。
そのまま唇に、キスを落とす。
そしてわたしはそのときになって、やっと気づいたのだった。
ああ、わたしはとんでもないことをしてしまったのだ、と。
*
どうやって自宅に帰ったのやら、よく覚えていない。だけど、身体がやけに熱かったことだけは覚えている。
翌朝、お風呂に入って鏡でチェックしたけれど、恵さんに叩かれた背中やお尻は、少し赤くはなっていたものの、さほど目立つわけでもなくて。だから、後から痣になったりはしないと思う。
お風呂から出て、髪を乾かしながらスマホをいじっていると、美香からLINEが届いた。シンプルなおはようの挨拶。
五年間ほぼ毎日欠かさずに行われてきた、数行の会話。だけどどういうわけか、今朝ばかりはすぐに返すことができなかった。いや、原因なんて、自分でもわかっているけれど。
だけど、挨拶に続いて送られてきた次の言葉を見て、わたしは思わず息をするのを忘れるほど驚いた。
『昨日、恵さんと一緒に飲んだの? なんか絵里の忘れ物、届けてくれるっていうから、連絡先教えてもいい?』
え、忘れ物って、何だろう。『いいよ』と返しながら、考えて、気づいた。
ああ、化粧ポーチがない。どうやら昨日行ったSMバーで落としてきたらしい。別に貴重品というわけじゃないから美香経由で渡してくれてもよかったのに。
そんなことを思いながらスーツに着替え、サブのポーチから取り出した道具でメイクをする。いつも使っているのと違う、二軍の道具たちは、一応化粧の役目は果たしてくれはしても、ほんの少し違和感があるのは否めない。
これを機にそろそろ新しいものを買い直してもいいかもしれない。床の上に放り出したままの、シワのついた昨日のスカートを横目に、わたしは慌ただしく出勤するのだった。
ショーのあと、呆然としたままのわたしは、恵さんに連れられて、二人きりの個室に入っていた。
個室といっても、そこは簡単にカーテンで仕切られただけの空間で、薄いカーテンの向こうでは人の話し声がする。
「いきなり縛るのは、ハードル高いから……これ、着けてみようか?」
恵さんが差し出してきたそれは、黒いシンプルなデザインの首輪だった。
「え……」
「嫌なら、無理しなくてもいいけど?」
恵さんはそう言ってまた、あっけなく引っ込めてしまおうとするのだけど。そうされると、なぜだか胸の奥がきゅうっとなってしまう。
「ほんとは、やってみたいんじゃない?」
そう言われて思わず頷いてしまうと、流れるような動作で、恵さんはわたしに首輪をつけた。
「ほら、おすわり」
「あ……はい」
わたしは、言われた通りに動こうとするのだけど。
「ダメだよ、しゃべっちゃ。絵里ちゃんは今、ワンちゃんでしょ?」
そんなことを言って、頭を軽くポン、と触られる。
叩かれるのかと思ったら違って、なんとも言えない感覚になる。
「合言葉、決めようか。絵里ちゃん、好きな食べ物とかなんかない?」
「え……じゃあ、メロン」
さっきマスターに作ってもらったメロン味のカクテルが美味しかったのを思い出して言ったのだけど。
「じゃあ、本当にやめてほしいときには『メロン』って言ってね。それ以外のときは、やめてって言われてもやめないから」
そう言えば、聞いたことがある。SMプレイにはセーフワードというのがあって、安全のために決めておく必要があるのだ。『痛い』とか『やめて』とかだと、それはプレイの一環なのかどっちなのか、わからなくなってしまうから。
合言葉を決めると、ぼうっとしているわたしの頬に、恵さんはそっと、触れる。
「……いい?」
申し訳程度に聞くその言葉に意味なんてないことを、わたしは直感的にわかっていた。わたしが頷いたのを皮切りに、そのプレイは始まった。
恵さんは上着を脱ぐと、さっきのステージの女王様が持っていたような鞭をどこからともなく取り出して、わたしのお尻に軽く叩きつけた。
反射的に悲鳴が漏れるのだけど、思っていたよりも痛くはない。だけど息つく暇もなく、次の鞭が飛んでくる。次の衝撃はさっきよりもはっきりした痛みを伴うものだったけれど、まだやめてほしいとまでは思わなかった。
本当に、不思議な感覚だった。何度も叩かれて、鞭の刺激はかなり強いものになっているのにも関わらず、いつのまにかそれは、甘い感覚に変わっていた。
叩かれ続けながら頭の中が真っ白になって、よくわからなくなっているうちに、わたしは身体の力が抜けてしまった。さっきのM嬢みたいに。
「よしよし、いい子いい子」
恵さんは叩くのを止めて、わたしの髪を撫でた。
「絵里ちゃん、可愛いね」
そう言うと、またわたしの顎を持ち上げて。
そのまま唇に、キスを落とす。
そしてわたしはそのときになって、やっと気づいたのだった。
ああ、わたしはとんでもないことをしてしまったのだ、と。
*
どうやって自宅に帰ったのやら、よく覚えていない。だけど、身体がやけに熱かったことだけは覚えている。
翌朝、お風呂に入って鏡でチェックしたけれど、恵さんに叩かれた背中やお尻は、少し赤くはなっていたものの、さほど目立つわけでもなくて。だから、後から痣になったりはしないと思う。
お風呂から出て、髪を乾かしながらスマホをいじっていると、美香からLINEが届いた。シンプルなおはようの挨拶。
五年間ほぼ毎日欠かさずに行われてきた、数行の会話。だけどどういうわけか、今朝ばかりはすぐに返すことができなかった。いや、原因なんて、自分でもわかっているけれど。
だけど、挨拶に続いて送られてきた次の言葉を見て、わたしは思わず息をするのを忘れるほど驚いた。
『昨日、恵さんと一緒に飲んだの? なんか絵里の忘れ物、届けてくれるっていうから、連絡先教えてもいい?』
え、忘れ物って、何だろう。『いいよ』と返しながら、考えて、気づいた。
ああ、化粧ポーチがない。どうやら昨日行ったSMバーで落としてきたらしい。別に貴重品というわけじゃないから美香経由で渡してくれてもよかったのに。
そんなことを思いながらスーツに着替え、サブのポーチから取り出した道具でメイクをする。いつも使っているのと違う、二軍の道具たちは、一応化粧の役目は果たしてくれはしても、ほんの少し違和感があるのは否めない。
これを機にそろそろ新しいものを買い直してもいいかもしれない。床の上に放り出したままの、シワのついた昨日のスカートを横目に、わたしは慌ただしく出勤するのだった。
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