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悪魔の言う通りだった。
僕は少しでも彼女とお近づきになりたくて、コーヒー道に足を踏み込んだのだ。
その喫茶店は通っていた大学のキャンパスから歩いて十分ほどの場所にあった。
当時の僕といえば、ろくに講義に出るでもなく、登山部の部室に入り浸っては山の写真を眺めたり、高原地図を眺めたり、次の登山のスケジュールについて部員と話し合ったりしていた。
ある日、部員と「山コーヒー」についての話になった。
僕はそれまで特にこだわりを持っていなかったのだが、そいつは山で美味いコーヒーを飲むためだけに登山をしていると豪語していた。コーヒーなんて飲めればそれでいい、という態度の僕に対して「それはお前が美味いコーヒーを飲んだことがないからだ!」と主張し、あげく無理やりに喫茶店へと連れ込んだのだ。
かなでと初めて会ったのはその時だった。
カランカランという小気味よい鐘の音と店内に漂うコーヒーの香り、そしてかなでの凛とした「いらっしゃいませ」という声に迎えられて僕は初めてそこに入った。
店内は洒落た雰囲気で、店の特製ブレンドも、一緒に頼めるパンケーキも好みの味だったが、それよりもなによりも僕はかなでの凛とした姿にひかれた。
長身ですらりとした立ち姿、高い位置で結んだポニーテール、切れ長の目、笑うとこぼれる八重歯、注文を繰り返す時にほんの少し首を傾げる動作。その全てに、僕は見惚れた。
その日、三杯目のおかわりの時、かなでは僕に言った。
「コーヒー、お好きなんですね」
僕はどきまぎしながら、咄嗟にこう答えた。
「え、ええ。僕、うまいコーヒーを飲むために登山をやっているんです」
同席した部員には「おいっ!」と突っ込まれたが、そんな僕らの様子を見て笑うかなでを見ることができたので、僕としてはむしろありがたかった。
そんな風に僕らの関係は始まった。
幾度となく喫茶店に通い、関係が深まるほどに、僕のコーヒーの知識も深まっていった。登山の遠征から帰れば、今回はこんなコーヒーを飲んだ、とかなでに報告し、次はどんなブレンドを飲もうかと相談を持ち掛けたりした。
その度にかなでは僕と一緒に配合について考えたり、アドバイスをくれたりした。かなでのコーヒーの知識は大したもので、見た目には随分と若いのに実はけっこうベテランなのかなと一度疑ってみたりもしたが、小さいころから叔父であるマスターにいろいろと教わっていた結果らしかった。
その話を聞いて僕はこっそり安心し、それなら、とかなでに年齢を尋ねてみたが教えてはもらえず、それどころか「女性に年齢を尋ねるものではありませんっ!」と、軽く頭をはたかれた。
喫茶店の店員と客、という関係から恋人同士という関係になった時、僕はこの世の愛と幸福を全身で感じていた。それが祝福だと疑わなかった。僕らを引き合わせてくれたコーヒーに、感謝してもしきれなかった。
そんなかなでが実はコーヒーをブラックで飲めないということを知ったのは、だいぶ店に通い詰めた後のことだ。
「本当は、苦いのあんまり得意じゃないのよね」
困ったように首を傾げながらそういうかなでの姿を見て、僕は決めた。だったらミルクと砂糖を入れてもなお、コーヒーの旨みを最大限楽しめるブレンドを作ろうと。
「かなでブレンド」と名付けたそのコーヒーが完成したのは、それからだいぶ後のことだった。あまりに遅すぎた。僕がレシピを持って喫茶店を訪れたときには、すでにかなではこの世を去ってしまっていたのだから。
「病気、だったんだ」
気が付くと、僕は悪魔に全てを吐露していた。
「かなでと最後に話したのは、初めて外国の山に挑戦することになった時だ。しばらく日本に帰ってこないからって喫茶店に挨拶をしにいった。長い旅行になるから、その期間で例のブレンドを完成させてみせるって。山の綺麗な空気にインスピレーションを受けてかなでの為のコーヒー、淹れてみせるよって、僕はそう言った。かなでは笑って、じゃあ待ってる、約束だよって。その時、かなでの体はとっくに病気でボロボロだったんだ。初めて喫茶店で出会った時から、ずっと」
幼い頃から体が弱く、ずっと入院生活を続けていて、長く生きられないと宣告されていたかなでは、だったら死ぬまでに一度でいいから外の世界で生きてみたい、と両親に懇願したらしい。結果、かなでの叔父が経営する喫茶店でアルバイトという扱いで働くことになった。
働き始めたかなでは、医師に宣告されていた期間よりずっと、ずっと長く生きたという。働くという活力が、誰かと共に生きようという気持ちが、娘に生命力を与えたのだろう、とかなでの両親は涙ながらに言っていた。
「僕が飛行機に乗って旅立った次の日に、かなでは倒れた。僕は携帯電話の電波が入らないエリアを数日間にわたって歩いていたから、下山の日までそれを知ることができなかった。僕がのんきに山でコーヒーを淹れている間、かなでは亡くなってしまったんだ」
僕はかなでとの約束を果たせなかった。
大切な人に、別れの一つも言うことができなかった。
その時きっと、僕の“心”は死んだのだ。大切な何かが音もなく崩れさった。
「それからの僕は、ただひたすら山に登り続けた。どんな危険な時期でも、危険な山でも構わず登った。周りからは勇敢なクライマーだとか、鉄のチャレンジ精神だとか言われてもてはやされたけど、なんてことはない、失う“命”がないんだから、恐れることがなかったんだ。死に場所を求めていただけだよ。なのに結局、こうして死なずにいる。世界が滅んだっていうのに、もう“心”が死んでしまっている僕だけがこうして生きてる。皮肉だよ」
豆はとっくに冷め切っていたけれど、僕は団扇を動かし続けていた。
悪魔はそんな僕の話をじっと聞いていた。
けして目をそらすことなく、正面から見つめて。
僕は無性にコーヒーが飲みたかった。
かなでを失ってからも、コーヒーだけは飲み続けた。
それが、僕と世界をつなぐ唯一のモノだったし、余生のような人生を埋めるには最適なものだったからだ。
「私に願えば」
悪魔が口を開いた。
「私に願えば、そのかなでという女を生き返らせることも出来た」
同情でもしたのだろうか。
悪魔は、彼女らしくない言葉を吐いた。
「かなでをここで生き返らせて、僕は君に魂という対価を支払って、今度は彼女をこの世界に残して一人きりにしろっていうのか?」
悪魔はハッとしたような表情をし、左右にオロオロと目をやって今度は俯いた。少し、言い方がきつかっただろうか。どうも僕は悪魔の少女らしい外見に引きずられているらしい。なんとも罪悪感が湧いてしまう。
「……きっと、かなでだってそんなことは望まないよ。さぁ豆は十分冷えたし、あとは二日間待ってガスを抜こう。そうしたら、美味しいコーヒーが飲めるよ」
そういって僕は悪魔の肩をポンポンと軽く叩いた。
悪魔は一度僕の顔を、様子をうかがうようにして見上げ、僕が別段落ち込んでいないことを見ると「気安く触れるでないっ!」などと言ってまた尻尾ではたいてきた。
僕は、なんとも可愛らしいこの悪魔に随分と気を許していた。
たとえもうすぐ魂を刈られるとしても、最後にこんな数日を過ごせるのなら、それも悪くない。
寝室の、金庫の中に眠る拳銃を思った。
あれを使わないでよかったと思えている今の自分は、もしかしたら蘇生されてから初めて、ちゃんと”生きて”いるのかもしれないと思った。
僕は少しでも彼女とお近づきになりたくて、コーヒー道に足を踏み込んだのだ。
その喫茶店は通っていた大学のキャンパスから歩いて十分ほどの場所にあった。
当時の僕といえば、ろくに講義に出るでもなく、登山部の部室に入り浸っては山の写真を眺めたり、高原地図を眺めたり、次の登山のスケジュールについて部員と話し合ったりしていた。
ある日、部員と「山コーヒー」についての話になった。
僕はそれまで特にこだわりを持っていなかったのだが、そいつは山で美味いコーヒーを飲むためだけに登山をしていると豪語していた。コーヒーなんて飲めればそれでいい、という態度の僕に対して「それはお前が美味いコーヒーを飲んだことがないからだ!」と主張し、あげく無理やりに喫茶店へと連れ込んだのだ。
かなでと初めて会ったのはその時だった。
カランカランという小気味よい鐘の音と店内に漂うコーヒーの香り、そしてかなでの凛とした「いらっしゃいませ」という声に迎えられて僕は初めてそこに入った。
店内は洒落た雰囲気で、店の特製ブレンドも、一緒に頼めるパンケーキも好みの味だったが、それよりもなによりも僕はかなでの凛とした姿にひかれた。
長身ですらりとした立ち姿、高い位置で結んだポニーテール、切れ長の目、笑うとこぼれる八重歯、注文を繰り返す時にほんの少し首を傾げる動作。その全てに、僕は見惚れた。
その日、三杯目のおかわりの時、かなでは僕に言った。
「コーヒー、お好きなんですね」
僕はどきまぎしながら、咄嗟にこう答えた。
「え、ええ。僕、うまいコーヒーを飲むために登山をやっているんです」
同席した部員には「おいっ!」と突っ込まれたが、そんな僕らの様子を見て笑うかなでを見ることができたので、僕としてはむしろありがたかった。
そんな風に僕らの関係は始まった。
幾度となく喫茶店に通い、関係が深まるほどに、僕のコーヒーの知識も深まっていった。登山の遠征から帰れば、今回はこんなコーヒーを飲んだ、とかなでに報告し、次はどんなブレンドを飲もうかと相談を持ち掛けたりした。
その度にかなでは僕と一緒に配合について考えたり、アドバイスをくれたりした。かなでのコーヒーの知識は大したもので、見た目には随分と若いのに実はけっこうベテランなのかなと一度疑ってみたりもしたが、小さいころから叔父であるマスターにいろいろと教わっていた結果らしかった。
その話を聞いて僕はこっそり安心し、それなら、とかなでに年齢を尋ねてみたが教えてはもらえず、それどころか「女性に年齢を尋ねるものではありませんっ!」と、軽く頭をはたかれた。
喫茶店の店員と客、という関係から恋人同士という関係になった時、僕はこの世の愛と幸福を全身で感じていた。それが祝福だと疑わなかった。僕らを引き合わせてくれたコーヒーに、感謝してもしきれなかった。
そんなかなでが実はコーヒーをブラックで飲めないということを知ったのは、だいぶ店に通い詰めた後のことだ。
「本当は、苦いのあんまり得意じゃないのよね」
困ったように首を傾げながらそういうかなでの姿を見て、僕は決めた。だったらミルクと砂糖を入れてもなお、コーヒーの旨みを最大限楽しめるブレンドを作ろうと。
「かなでブレンド」と名付けたそのコーヒーが完成したのは、それからだいぶ後のことだった。あまりに遅すぎた。僕がレシピを持って喫茶店を訪れたときには、すでにかなではこの世を去ってしまっていたのだから。
「病気、だったんだ」
気が付くと、僕は悪魔に全てを吐露していた。
「かなでと最後に話したのは、初めて外国の山に挑戦することになった時だ。しばらく日本に帰ってこないからって喫茶店に挨拶をしにいった。長い旅行になるから、その期間で例のブレンドを完成させてみせるって。山の綺麗な空気にインスピレーションを受けてかなでの為のコーヒー、淹れてみせるよって、僕はそう言った。かなでは笑って、じゃあ待ってる、約束だよって。その時、かなでの体はとっくに病気でボロボロだったんだ。初めて喫茶店で出会った時から、ずっと」
幼い頃から体が弱く、ずっと入院生活を続けていて、長く生きられないと宣告されていたかなでは、だったら死ぬまでに一度でいいから外の世界で生きてみたい、と両親に懇願したらしい。結果、かなでの叔父が経営する喫茶店でアルバイトという扱いで働くことになった。
働き始めたかなでは、医師に宣告されていた期間よりずっと、ずっと長く生きたという。働くという活力が、誰かと共に生きようという気持ちが、娘に生命力を与えたのだろう、とかなでの両親は涙ながらに言っていた。
「僕が飛行機に乗って旅立った次の日に、かなでは倒れた。僕は携帯電話の電波が入らないエリアを数日間にわたって歩いていたから、下山の日までそれを知ることができなかった。僕がのんきに山でコーヒーを淹れている間、かなでは亡くなってしまったんだ」
僕はかなでとの約束を果たせなかった。
大切な人に、別れの一つも言うことができなかった。
その時きっと、僕の“心”は死んだのだ。大切な何かが音もなく崩れさった。
「それからの僕は、ただひたすら山に登り続けた。どんな危険な時期でも、危険な山でも構わず登った。周りからは勇敢なクライマーだとか、鉄のチャレンジ精神だとか言われてもてはやされたけど、なんてことはない、失う“命”がないんだから、恐れることがなかったんだ。死に場所を求めていただけだよ。なのに結局、こうして死なずにいる。世界が滅んだっていうのに、もう“心”が死んでしまっている僕だけがこうして生きてる。皮肉だよ」
豆はとっくに冷め切っていたけれど、僕は団扇を動かし続けていた。
悪魔はそんな僕の話をじっと聞いていた。
けして目をそらすことなく、正面から見つめて。
僕は無性にコーヒーが飲みたかった。
かなでを失ってからも、コーヒーだけは飲み続けた。
それが、僕と世界をつなぐ唯一のモノだったし、余生のような人生を埋めるには最適なものだったからだ。
「私に願えば」
悪魔が口を開いた。
「私に願えば、そのかなでという女を生き返らせることも出来た」
同情でもしたのだろうか。
悪魔は、彼女らしくない言葉を吐いた。
「かなでをここで生き返らせて、僕は君に魂という対価を支払って、今度は彼女をこの世界に残して一人きりにしろっていうのか?」
悪魔はハッとしたような表情をし、左右にオロオロと目をやって今度は俯いた。少し、言い方がきつかっただろうか。どうも僕は悪魔の少女らしい外見に引きずられているらしい。なんとも罪悪感が湧いてしまう。
「……きっと、かなでだってそんなことは望まないよ。さぁ豆は十分冷えたし、あとは二日間待ってガスを抜こう。そうしたら、美味しいコーヒーが飲めるよ」
そういって僕は悪魔の肩をポンポンと軽く叩いた。
悪魔は一度僕の顔を、様子をうかがうようにして見上げ、僕が別段落ち込んでいないことを見ると「気安く触れるでないっ!」などと言ってまた尻尾ではたいてきた。
僕は、なんとも可愛らしいこの悪魔に随分と気を許していた。
たとえもうすぐ魂を刈られるとしても、最後にこんな数日を過ごせるのなら、それも悪くない。
寝室の、金庫の中に眠る拳銃を思った。
あれを使わないでよかったと思えている今の自分は、もしかしたら蘇生されてから初めて、ちゃんと”生きて”いるのかもしれないと思った。
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