終末にはコーヒーを

エビハラ

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 コーヒーミルのハンドルを回すと、シェルター内に芳醇な香りがはじけるように広がる。
 コーヒー豆がもっとも香りを発するのは、こうして豆を挽く瞬間だと言われている。僕が豆を挽くやいなや、火吹き室でガス抜きをしていた悪魔もすぐに飛んできて、鼻孔を広げ、いっぱいに香りを吸い込んだ。

「おい、まだか、人間!」

 早速催促が飛んでくる。

「まだまだだよ。これから豆を挽いて、それから配合するんだから」

 そういってまたミルのハンドルを回す。この香りだ。この香りが、あの喫茶店にはいつも漂っていた。
 目を閉じれば、その光景が浮かんでくるようだ。木目調の、落ち着いた店内。カランコロンと音を立てる扉のベル。カウンターの奥でミルを挽くマスター。
 そして、いらっしゃいませとこちらを振り向く、かなで。
 
 先日、悪魔に話したからだろうか。
 僕は、忘れかけていた「かなでブレンド」の詳細を思い出しかけていた、ブラジルをメインに、サブはキリマンジャロ、ロブスタはほんの少しでいい。
 配分を間違えないよう、慎重にブレンドする。
 悪魔の方は、ハラハラドキドキといった様子で僕の手元を見つめている。
 もう少しだ、もう少しで届く。
 あの日淹れられなかった、僕とかなでの、コーヒー。

 シェルターにもともとあったコーヒーメーカーは家庭用のモノなので、豆の粒の大きさはそれに適した中細挽きにした。完成したかなでブレンドを、コーヒーメーカーにセットする。
 スイッチを入れ、少し待つと、ポット型の容器にぽたりぽたりと焦げ茶色に輝く液体が垂れてくる。豆を挽いた時ほどではないけれど、その香りは十分に鼻孔をくすぐる。
 悪魔は待ちきれない、といった様子ですでにマグカップを自分の掌の中に準備している。

「そんなに強く握ったままだと、淹れたときに火傷するよ」

 そう忠告すると、悪魔は呆れたような顔をして「人間、私が口から何を吹くか忘れたのか」と言い放った。それもそうだ。炎の悪魔が火傷なんかするはずもない。

 それならば、と僕は抽出したコーヒーを悪魔のマグカップの中に躊躇なく注ぎいれた。
 悪魔は自らの手でそれにミルクとコーヒーを混ぜ合わせる。その間に、僕は自分のカップに注ぎ込む。
 これで用意は整った。僕と悪魔はそれぞれにカップを手に取り、テーブルの両端に席取った。

「それじゃあ」

「うむ。いただくぞ」

 互いにカップを少し掲げる。乾杯の合図だ。
 僕は期待を胸に抱いて、カップに口つけた。
 口に入れた瞬間に、芳醇な香りが広がる。心地よい苦味と酸味、コーヒー本来のコクも失われていない。これだ。間違いない。かなでの為に僕が作った「かなでブレンド」の味だ。

 僕は満足していた。これで、悪魔に魂を刈られたとしてなんの悔いもない。
 むしろ、おまけのような人生の最後にこんなことをさせてもらってありがたいくらいだ。
 改めてお礼を言おうと悪魔の方に向き直ると、意外にも悪魔は怪訝な表情を浮かべていた。

「もしかして……口に召さなかったか?」 

 よくよく考えてみれば、「かなでブレンド」は確かにミルクやコーヒーを淹れてなお美味しく飲めるように配合してはあるけれど、それが悪魔の口に合うとは限らない。
 僕がかってにそう思い込んでいただけだ。
 これでは、悪魔の要望に応えられたとは言えない。
 
「……惜しい……あと一つ……」

 悪魔が、呟いた。

「……え?」

「おい、人間。初めに飲んだあのコロンビアとかいう豆はまだあるな?」

「あ、ああ。山のようにあるけど」

「ちょっと貸せ」

 そういうと悪魔は席を立ち、先ほどまで僕が四苦八苦しながら配合を試していたキッチンへと向かっていく。
 そこに残っていたキリマンジャロ、ブラジル、ロブスタに、コロンビアを加えて配合を始める。
 初めての経験であるはずなのに妙に慣れた手つきで作業を進める悪魔の表情は真剣そのものだった。
 僕は口出しすることも出来ずに、後ろからその手元を眺めていた。
 やがて僕の目の前に、一杯のコーヒーが用意された。
 悪魔が自分で調合し、自分で淹れた、いわば「悪魔ブレンド」がそこにはあった。
 先ほどとほんの少し違う香り。コロンビアを混ぜた分だろうか。
 自分のマグカップには砂糖とミルクを加え、悪魔は満足げに自分の席に腰を下ろした。

「ふふん、どうだ」

「どうだ、と言われても……飲んでみないことには」

「確かにその通りだ。それじゃあ飲め。私が許す」

 悪魔はマグカップを掲げる。乾杯の合図だ。

「では、お言葉に甘えて」

 カップに口をつける。先ほどの僕の「かなでブレンド」よりと比べ、ほんの少し苦味が抑えてあり、深みがあって、まったりとしており、それはまさにかなでの好むコーヒーの味、そのものだった。
 僕は驚愕していた。かなでを知らないはずの悪魔が、僕の作ったものよりかなでの好みに合致したコーヒーを作るなんて。
 目の前の悪魔はというと、自分の入れたコーヒーの香りを嗅ぎ、口に含み、十分に転がしたあとにコクンとそれを飲み乾した。
 そして満足げな表情を浮かべ、キラキラと輝く大きな瞳を僕に向け、言い放った。

「やったな、陽介! 完成だぞ、オリジナルブレンド!」

 そういって右手を掲げる。それがハイタッチの合図だと察した僕は、応じるように右手を差し出した。二つの掌は空中でぱちんと音を立てる。衝撃でジンジンと掌が痛んだが、それよりもそこから伝わる熱のほうが僕の心臓に血液を送るように脈打った。
 僕はしばらくその心地よい感覚を味わっていたが、そこでふと違和感に気づいた。

「なぁ、悪魔」

「ん、なんだ陽介」

 間違いない。満足げに自らのブレンドをすする悪魔に、僕は震える声で質問した。

「君、なんで僕の名前、知っているんだ?」

 記憶に間違いがなければ、僕は悪魔を召還してから一度も自分の名前を告げていない。
 このシェルターにも僕の名前を示すものは何一つないはずだ。
 悪魔が僕の名前を知り得るすべはないのに。

「え……だって……」

 悪魔は呆けたような表情を浮かべ、マグカップを片手に、斜め上に視線を向けて思い返すように

「喫茶店で名前を聞かれて……人に名前を尋ねるときは自分から名乗るのが礼儀でしょって……私が……」

 僕は息を呑んだ。
 それは、その思い出は、僕と、かなでが、出会った時の。

「陽介は照れ臭そうに……なぜか学生証を取り出して……」

 まさか、そんな、そんなことって。

「…………かなでっ!」

 僕は叫んでいた。
 それこそ、悲鳴のような叫びだった。

「私、私は……」

 悪魔はよろよろと立ち上がり、頭を抱えて後ずさった。ゆっくりと膝をつき、そのまま眠るように気を失う。
 僕は、呆然としたまま、その場所に立ち尽くしていた。
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