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序 そのアルファの学友兼護衛兼婚約者、逃亡する
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その日、アルフレート・ラルス・ブラウンシュヴァイクの目覚めは最悪だった。
「ハインリヒ…」
「…はい、公子」
今すぐにでも駆られたい激昂を押し殺しながら、入って来てからずっと気まずげに佇んでいた幼少からの友にアルフレートが尋ねた。
「これはどう言う状況だ? 私は俗に言うヤリ逃げをされたのか?」
「…公子……」
「私が…? この、私が…? 手玉に取られたと?、散々私を拒み続けた………あの男に…!」
グシャリと手の中で握り潰されたのは小さな紙切れ。
たった一言綴られていた離別の言葉が、この状況を引っ括めた全てを物語っていた。
心底不愉快そうに、けれど声高々に哄笑する友人であり仕え主でもあるアルフレートに、ハインリヒの顔は蒼白だ。
それはただの恐怖からではない。
彼の全身から発せられる尋常でないアルファフェロモンの威圧のせいだった。
同じアルファでありながら、壁に手を付きどうにか立っているのがやっとのハインリヒは呼吸すらも苦しげだ。
「ベータではなく…、オメガだった…だと…? 謀られと言うのか、この私がっ?、…四年……四年もの間…!」
「公子…っ、…どうか、落ち着いて下さい…」
なんとか宥めようと真っ青な顔色で声を掛ける彼に救世主とも呼べる存在が現れたのは、いよいよ膝から力が抜けそうになるその寸前だった。
「それだけ彼が優れた《オメガ》だったってことでしょう、兄さん」
開け放たれたままのドアをコンコンコンとノックしたのはアルフレートの弟、クラウスだった。
鋭い視線がハインリヒから彼へと移される。
やや迷惑そうな表情で返事も待たずクラウスが室内に入って来る。…今日で退室することになる、学生寮のアルフレートの自室へと。
ソファの上で昨晩の装いのまま、色濃い情事の名残りを隠しもせず着衣を乱れさせたままの兄に、クラウスが続ける。
「兄さんも昔習ったから知ってるでしょう?」
「…何をだ」
「僕達アルファに《優性》が存在するように、古くはオメガにも《秀性》と呼ばれる存在がいたことを」
「…アイツが?それだと? バカな! それに《秀性》などただのお伽噺──」
「だったら兄さんはどうして四年も彼を傍に置いておいて気が付かなかったんです。いくら彼が自身をベータと偽っていようと、四年もの間アルフレート兄さんをここまで完璧に騙し通せるわけがない」
「………」
クラウスの言葉にアルフレートが口を閉ざす。
少し冷静さを取り戻したらしく、発せられていたアルファフェロモンも抑えられ、ハインリヒが安堵したように深呼吸していた。
アルフレートと良く似た顔立ちの、けれど兄よりは幾分柔らかさのある端整な褐色の容貌を愉快そうに緩め、ソファの肘掛けに腰を据えたクラウスが続けた。
「《秀でたオメガほど無意識下からヒートを隠すのが上手く、見た目がそれらしくない》」
「………」
「《愛した相手のため、又は《運命の番》のためだけに子孫を遺したがり、オメガとしての真の能力を発揮するのはここぞと言う時で、その腹に宿された子は漏れなく最上位クラスのアルファになると言われている》」
「………」
「《今ではもう見目麗しく一目でそうとわかるオメガばかりだが、決して存在しないわけではないと医学者の間では考えられている》…そう習ったじゃないですか、家庭教師に昔」
「……アイツが…《秀性》の……オメガ……っ…?」
片手で顔を覆いアルフレートが呟く。
俯いた顔に滑り落ちた長い髪が影を落とし、その表情は窺えない。
また先程なようなアルファフェロモンを間近で食らうかも知れないと思うと、主の身なりが気に掛かってはいてもハインリヒは迂闊に近付けないでいる。
彼は、アルフレートが再び激怒すると思っていたのだ。
上位アルファであるアルフレートからあれほど迫られ、求められたにも関わらず、四年もの間本当にあくまでもただの学友であり続け、隣国からの留学生の護衛兼オメガ避けの期間限定の婚約者としてのスタンスを決して崩さなかったルーファス・リンドリーが、実はオメガであったと言う衝撃の事実を…それもこんな形で突き付けられ。
ベータでも構わないとあれほど熱烈に彼を求めていたアルフレートに一切の真実を告げることなく、彼の恋情を弄ぶように、まるで一夜限りの火遊びをしただけなのだと言わんばかりに肌を合わせたりなどして…。
「……なんでアイツは、こんな真似をした?私を謀るなら最後まで騙し通せば良かっただろう…?」
低い声は震えているようにも聞こえた。
「さあ?僕は彼じゃないからわからない、………けど」
「けど、なんだ?」
俯いたまま促され、クラウスがあっけらかんと言った。
「彼にとっては昨日がここぞって時だったんじゃない?」
「…!」
「昨日の卒業パーティーのあの夜が、さ。ルーファス殿にとって何か譲れないタイミングだったとか?」
その、一つ下の弟の言葉に、顔を伏せていたアルフレートが勢い良く立ち上がった。
「 捜 せ 」
端的に発せられた命令にハインリヒが瞠目する。
「何故?」と眼差しで問う古馴染みに、アルフレートが再度告げた。
今度は絶対的な強さを含ませ。
「捜せ。ルーファスを。なんとしてでも捜し出し、居所を私に教えろ」
その双眸は猛獣のような光を宿していた。
「どうしてですか、公子っ…! 明日にはもう帰国になります。自ら姿を消した者などわざわざ公子が捜してやる必要なんて………!」
「ならん。あれを見付けるまでは国に帰るつもりはない。父上にもそう伝えておけ」
「なっ…!? 何故公子がそこまでしてあの者を!」
納得出来ないと声を荒らげるハインリヒとは異なり、何かを察しているのか、クラウスは楽しげにパーティー用のスーツを脱ぎ出した兄を見ている。
「いくら秀でたオメガだとわかったからとは言え、あんな…公子の想いを拒み続けた者、今更アナタが捜してやる必要なんて──」
「ある」
「…ッ、公子!」
「私はあれをなんとしてでも捜さねばならんのだ」
「だから何故ですか!?」
間近でこれまでの二人のやり取りを見てきたハインリヒには信じられなかった。
同じアルファである自分から見てもこれほどにも優れたアルファであるアルフレートを、ベータだと偽ってまで拒み続けたようなルーファスに彼が何故まだ執着を見せるのか。
本来なら…。
本来ならば、たかが子爵令息のルーファス・リンドリーなんぞには、たとえ仮初めと言えど不釣り合いだった婚約者と言う肩書きも、今日でおしまいになるはずだったと言うのに。
アルフレートには誰か別の…彼に相応しい、アルファの本能を刺激し、庇護欲を掻き立てられる聡明で美しいオメガが帰国後にあてがわれるはずであったと言うのに。
それなのにどうしてと、いつも従順な彼にしては珍しく食い下がってくるのに、またもアルフレートが短く告げた。
今度は、ハインリヒが納得せざるを得ないその理由を。
「噛んだ」
ハインリヒが絶句する。
何処をなどと野暮なこと、アルファならばわざわざ聞く馬鹿はいないだろう。
呆然と…ハインリヒが幼い頃からの友であり、生涯唯一の主と定めた男を見つめた。
見つめることしか出来なかった。
「あれはもう私の《運命の番》だ─────!!」
その顔に、憤りでも悲嘆でも、ましてや嫌悪でもなく、心からの歓喜を浮かべそれはそれは晴れやかに力強く笑うアルフレートを。
【2025.09.21】
その日、アルフレート・ラルス・ブラウンシュヴァイクの目覚めは最悪だった。
「ハインリヒ…」
「…はい、公子」
今すぐにでも駆られたい激昂を押し殺しながら、入って来てからずっと気まずげに佇んでいた幼少からの友にアルフレートが尋ねた。
「これはどう言う状況だ? 私は俗に言うヤリ逃げをされたのか?」
「…公子……」
「私が…? この、私が…? 手玉に取られたと?、散々私を拒み続けた………あの男に…!」
グシャリと手の中で握り潰されたのは小さな紙切れ。
たった一言綴られていた離別の言葉が、この状況を引っ括めた全てを物語っていた。
心底不愉快そうに、けれど声高々に哄笑する友人であり仕え主でもあるアルフレートに、ハインリヒの顔は蒼白だ。
それはただの恐怖からではない。
彼の全身から発せられる尋常でないアルファフェロモンの威圧のせいだった。
同じアルファでありながら、壁に手を付きどうにか立っているのがやっとのハインリヒは呼吸すらも苦しげだ。
「ベータではなく…、オメガだった…だと…? 謀られと言うのか、この私がっ?、…四年……四年もの間…!」
「公子…っ、…どうか、落ち着いて下さい…」
なんとか宥めようと真っ青な顔色で声を掛ける彼に救世主とも呼べる存在が現れたのは、いよいよ膝から力が抜けそうになるその寸前だった。
「それだけ彼が優れた《オメガ》だったってことでしょう、兄さん」
開け放たれたままのドアをコンコンコンとノックしたのはアルフレートの弟、クラウスだった。
鋭い視線がハインリヒから彼へと移される。
やや迷惑そうな表情で返事も待たずクラウスが室内に入って来る。…今日で退室することになる、学生寮のアルフレートの自室へと。
ソファの上で昨晩の装いのまま、色濃い情事の名残りを隠しもせず着衣を乱れさせたままの兄に、クラウスが続ける。
「兄さんも昔習ったから知ってるでしょう?」
「…何をだ」
「僕達アルファに《優性》が存在するように、古くはオメガにも《秀性》と呼ばれる存在がいたことを」
「…アイツが?それだと? バカな! それに《秀性》などただのお伽噺──」
「だったら兄さんはどうして四年も彼を傍に置いておいて気が付かなかったんです。いくら彼が自身をベータと偽っていようと、四年もの間アルフレート兄さんをここまで完璧に騙し通せるわけがない」
「………」
クラウスの言葉にアルフレートが口を閉ざす。
少し冷静さを取り戻したらしく、発せられていたアルファフェロモンも抑えられ、ハインリヒが安堵したように深呼吸していた。
アルフレートと良く似た顔立ちの、けれど兄よりは幾分柔らかさのある端整な褐色の容貌を愉快そうに緩め、ソファの肘掛けに腰を据えたクラウスが続けた。
「《秀でたオメガほど無意識下からヒートを隠すのが上手く、見た目がそれらしくない》」
「………」
「《愛した相手のため、又は《運命の番》のためだけに子孫を遺したがり、オメガとしての真の能力を発揮するのはここぞと言う時で、その腹に宿された子は漏れなく最上位クラスのアルファになると言われている》」
「………」
「《今ではもう見目麗しく一目でそうとわかるオメガばかりだが、決して存在しないわけではないと医学者の間では考えられている》…そう習ったじゃないですか、家庭教師に昔」
「……アイツが…《秀性》の……オメガ……っ…?」
片手で顔を覆いアルフレートが呟く。
俯いた顔に滑り落ちた長い髪が影を落とし、その表情は窺えない。
また先程なようなアルファフェロモンを間近で食らうかも知れないと思うと、主の身なりが気に掛かってはいてもハインリヒは迂闊に近付けないでいる。
彼は、アルフレートが再び激怒すると思っていたのだ。
上位アルファであるアルフレートからあれほど迫られ、求められたにも関わらず、四年もの間本当にあくまでもただの学友であり続け、隣国からの留学生の護衛兼オメガ避けの期間限定の婚約者としてのスタンスを決して崩さなかったルーファス・リンドリーが、実はオメガであったと言う衝撃の事実を…それもこんな形で突き付けられ。
ベータでも構わないとあれほど熱烈に彼を求めていたアルフレートに一切の真実を告げることなく、彼の恋情を弄ぶように、まるで一夜限りの火遊びをしただけなのだと言わんばかりに肌を合わせたりなどして…。
「……なんでアイツは、こんな真似をした?私を謀るなら最後まで騙し通せば良かっただろう…?」
低い声は震えているようにも聞こえた。
「さあ?僕は彼じゃないからわからない、………けど」
「けど、なんだ?」
俯いたまま促され、クラウスがあっけらかんと言った。
「彼にとっては昨日がここぞって時だったんじゃない?」
「…!」
「昨日の卒業パーティーのあの夜が、さ。ルーファス殿にとって何か譲れないタイミングだったとか?」
その、一つ下の弟の言葉に、顔を伏せていたアルフレートが勢い良く立ち上がった。
「 捜 せ 」
端的に発せられた命令にハインリヒが瞠目する。
「何故?」と眼差しで問う古馴染みに、アルフレートが再度告げた。
今度は絶対的な強さを含ませ。
「捜せ。ルーファスを。なんとしてでも捜し出し、居所を私に教えろ」
その双眸は猛獣のような光を宿していた。
「どうしてですか、公子っ…! 明日にはもう帰国になります。自ら姿を消した者などわざわざ公子が捜してやる必要なんて………!」
「ならん。あれを見付けるまでは国に帰るつもりはない。父上にもそう伝えておけ」
「なっ…!? 何故公子がそこまでしてあの者を!」
納得出来ないと声を荒らげるハインリヒとは異なり、何かを察しているのか、クラウスは楽しげにパーティー用のスーツを脱ぎ出した兄を見ている。
「いくら秀でたオメガだとわかったからとは言え、あんな…公子の想いを拒み続けた者、今更アナタが捜してやる必要なんて──」
「ある」
「…ッ、公子!」
「私はあれをなんとしてでも捜さねばならんのだ」
「だから何故ですか!?」
間近でこれまでの二人のやり取りを見てきたハインリヒには信じられなかった。
同じアルファである自分から見てもこれほどにも優れたアルファであるアルフレートを、ベータだと偽ってまで拒み続けたようなルーファスに彼が何故まだ執着を見せるのか。
本来なら…。
本来ならば、たかが子爵令息のルーファス・リンドリーなんぞには、たとえ仮初めと言えど不釣り合いだった婚約者と言う肩書きも、今日でおしまいになるはずだったと言うのに。
アルフレートには誰か別の…彼に相応しい、アルファの本能を刺激し、庇護欲を掻き立てられる聡明で美しいオメガが帰国後にあてがわれるはずであったと言うのに。
それなのにどうしてと、いつも従順な彼にしては珍しく食い下がってくるのに、またもアルフレートが短く告げた。
今度は、ハインリヒが納得せざるを得ないその理由を。
「噛んだ」
ハインリヒが絶句する。
何処をなどと野暮なこと、アルファならばわざわざ聞く馬鹿はいないだろう。
呆然と…ハインリヒが幼い頃からの友であり、生涯唯一の主と定めた男を見つめた。
見つめることしか出来なかった。
「あれはもう私の《運命の番》だ─────!!」
その顔に、憤りでも悲嘆でも、ましてや嫌悪でもなく、心からの歓喜を浮かべそれはそれは晴れやかに力強く笑うアルフレートを。
【2025.09.21】
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