記憶の書店と、ひとつぶの問い

久遠梓

文字の大きさ
2 / 3

第2巻 ひとつめの記憶

しおりを挟む
再びあの扉の前に立ったとき、私はなぜか深呼吸をしていた。
懐かしい空気に触れたくなった――そう言えば聞こえはいいけれど、実際のところは、自分でもよくわからない。ただ、心の中の何かが、またあの書店へ行けと背中を押していた。

木の扉を押すと、前と同じ鈴の音が迎えてくれた。
本棚の並びも、店内の薄暗さも変わっていない。けれど今日は、少しだけ明るく見えたのは、私の気分のせいだろうか。

「おや、また来てくれたのかね」

あの日と同じように、店の奥から店主が姿を現した。
柔らかな声。少し首を傾げて、目尻に皺を寄せて微笑む。

「ええ、なんとなく…気になってしまって」
「それは、それは。そういう“なんとなく”が、大事なんだよ」

店主の言葉は、どれも不思議と私の中にすっと入ってくる。
私はまた、特に目的もなく店内を歩き始めた。手に取る本に意味はない。ただ、指先が惹かれる方へ、気の向くままに。

しばらくして、背表紙に金色の模様が入った一冊が目に留まった。
薄い青緑の布張りの表紙。手に取った瞬間、ひやりとした感触が指に伝わる。

開くと、古い家屋の間を縫うように流れる小川の挿絵。
そこに立っている、黄色い傘の少女。

――あの子を知ってる。

心の奥が、静かに震えた。忘れていた記憶の扉が、軋む音を立てて開く。

それは、小学生の頃のある雨の日。
傘を忘れた私に、見知らぬ少女が自分の傘を差し出してくれた。小川沿いの細道で。声も名前も覚えていないのに、あの黄色い傘だけが、記憶に焼きついている。

なぜこんな場面が、この本の中にあるのだろう。
偶然? それとも…。

「思い出したかね?」
いつの間にか店主がそばにいた。

「…ええ。でも、不思議なんです。なんでこんな、本の中に…」

店主は、まるで子どもに秘密を打ち明けるように、そっと囁いた。

「この店の本はね、“あなたが忘れたままにしたもの”を、そっと教えてくれるんだよ」

私は言葉を失った。
この場所は――忘れていた記憶に、そっと光を当てる場所なのかもしれない。

私はその本も購入し、帰り道、何度もページをめくった。
記憶の中の少女の顔は曖昧なまま。でも、たしかに“あの日の自分”にもう一度触れた気がした。

そして私は思った。
また、この扉を開けよう。
過去と向き合う勇気を、この小さな書店がくれるのなら。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

もう終わってますわ

こもろう
恋愛
聖女ローラとばかり親しく付き合うの婚約者メルヴィン王子。 爪弾きにされた令嬢エメラインは覚悟を決めて立ち上がる。

一途な恋

凛子
恋愛
貴方だけ見つめてる……

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

処理中です...