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26 運命の二人の物語(1)
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透の生きる世界は狭い。
生まれ育った珀山の家にはもう行きたくないし、透がΩだと分かって離れて行った友人達とは会いたいとも思わない。それに、Ω判定を受けてからは過保護な母の束縛があって友達のひとりも作れなかったから、透自身が持っている人脈は鬼在に住んでいた頃の三年間のものしかなかった。つまり、店長と、アルバイト仲間と、当時の常連さんだけだ。
アルバイトは入れ替わりが激しくて表面的にしか付き合っていなかった。常連客は癖の強いβ男性ばかりで面白かったのだが(個室に入っている時間より受付で雑談している時間の方が長いお喋りおじさんとか、いつも帰り際に5段階評価でAVのレビューをしていく陽気なお爺ちゃんとか)透は彼らの本名すら知らなかった。
振り返ってみて愕然とするのだが、結局、三年間で透が得た人脈は店長一人ということになる。当然、慶からもらったスマホに登録されている連絡先は、慶と竜司と店長だけだった。
だから、もしも透が『少しの間だけでいいからαと離れたい』と思ったなら、頼れる相手は店長しかいないのだが……。
(なんで俺、ここに来ちゃったんだろ)
丸っこいアルファベットで『SAKURAI』と書かれた表札を前にして、透は途方に暮れていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ツマリ、コノΩハ、ツヨイオスニハマタヲヒラクノデスヨー」
―――― 強いオスには股を開く。
フェロモン研究の権威などと呼ばれる医師の口から出た言葉は、部屋の空気をピシリと凍らせた。
「何だと」
慶の体から威嚇するようにぶわりとフェロモンが噴き出す。
通訳女性が「ひっ」と小さく悲鳴を上げて、慌ててドイツ語で何かを言った。
医師の方はフェロモンに対してかなり鈍感な体質らしく、キョトンとした顔で通訳に返事をしている。
「す、すいません。覚えたばかりの日本語を言ってみたかったらしくて……その、本人は悪気があったわけではなくてユーモアのつもりだったようですから、どうか大目に見ていただけませんか」
通訳女性が怯えたように慶の顔色を窺っている。
外国人の医師がそういう日本語を覚えたということは、それを教えた人間がいるということだ。研究のサポートをしている日本人か、この通訳女性本人か、それともほかの誰かなのか。どちらにしても、透は彼らにそういう風に思われているということだろう。本来、Ωは番のα以外には性的な反応を示さず、絶対に番を裏切ることはない。けれど、透は番がいるにもかかわらず、強いαなら誰に対しても発情するのだから。
その時、慶がドイツ語で何かを言った。
とたんに医師と通訳がさーっと蒼ざめる。
何か脅すようなことを言っているのだと分かり、透はそっと慶の腕に触れた。
「慶、俺は話の続きを聞きたいんだけど」
慶はまだ怒りが治まらないというようにいうようにジロリと二人を睨みつつ、話の続きを促した。
医師の話を聞いて分かったことは、透のような症例は非常に少なく、フェロモン研究が本格化してから世界でまだ7例しか発見されていないことと、番以外に対して発情はするが番以外の子を妊娠した例はこれまで皆無だということだった。
「あの……好きな人にだけ体が反応するようにする方法とかは、無いんですか」
透の問いに医師が答え、女性がそれを通訳する。
「申し訳ありませんが、嫌な相手に発情してしまった時には抑制剤を飲むくらいしか対策のしようがありません。でも、神崎さんや鬼嵜さんほど濃いフェロモンの持ち主はめったにいませんので安心してください」
「…………」
透はちらりと後ろにいる鬼嵜を見た。
慶に殴られて鼻と顎とあばらを骨折した鬼嵜は、すっかり降参して大人しくなっていた。竜司といい鬼嵜といい、自分より強いと認めた相手には群れのボスに従う獣みたいに従順になる。ヤクザな世界の男というのはこういうものなんだろうか。それとも、これはαの性質なんだろうか。
「大丈夫だ、透。透がこの馬鹿と会うのは今日で最後だから」
慶が安心させるように、包帯の巻かれた手で透を抱き寄せる。
「あ、う、うん」
あの場に居合わせた初老の男性が中臣組の先代組長だったらしく、必死で慶に鬼嵜の命乞いをしていた。その後、慶との間でどんなやり取りがあったのかは分からないけれど、慶は鬼嵜を部下として迎え入れることを決めたらしい。服役中の暇潰しにと取れる資格はすべて取ったという鬼嵜は、実はかなり優秀な人材だった。「一生こき使ってやる」などと慶は言うけれど、つまりは一生面倒を見てやるということだ。
慶の秘書の黒田という女性と、透は話をしたことがある。慶は人間を『身内』か『敵』か『その他』かにくっきり三種類に分けて考える男だと黒田は言っていた。でもその『身内』の範囲はかなり広く、恋人の透はもちろん、神崎家の本邸を支えるすべての使用人と、神崎グループに所属するすべての従業員のほかに、竜司を含めた西濱会関係者と、元中臣組の関係者、付き合いのある刑事まで全員が含まれるという。「うちの社長は懐が広すぎるんです」と黒田は諦めたように笑っていた。
「なぁ……」
それまで黙っていた鬼嵜が口を開いた。包帯で固定されているせいで、モゴモゴとくぐもった声だった。
「俺も検査に協力したんだし、ひとつ聞きたいんだけどいいか」
鬼嵜は医師ではなく、慶の方を向いて許可を求めている。
「好きにしろ」
「どうも、社長」
ぺこっと軽く頭を下げてから、鬼嵜は医師の方を向いた。
「あのさぁ、『運命の番』って本当に実在するのか?」
また通訳を介して医師が答えた。
「はい、実在しますよ。恋愛映画にあるように、一度出会ってしまったら逃れられないなどというロマンティックなものではありませんが……。フェロモン研究に置いて『運命の番』といえば、遺伝子レベルで相性の良いαとΩのことを指します。これまで報告・研究された症例は世界で20数例ですが、実際にはもっといると思われます。『運命の番』は、すでに番がいても互いに発情し、子供を作ることも可能です」
「ほう、子供も作れるのか……」
「記録に残っている『運命の番』の約9割が、実際に『運命の番』同士で子供を出産しています。生まれた子供は全員が優秀なαで、今のところ例外はありません」
「へぇ、なんかそれって子供を作るためにあるような『運命』だな」
「遺伝子レベルで魅かれ合うのですから、当然そういう面もあるかと思います」
「はは、運命じゃない方の奴が哀れに思えてくるな」
「そうですね。『運命の番』と出会った場合、αもΩもそれまで共に過ごしてきた番とは別れることが多いようです」
「ふうん……」
不満そうに鼻息を漏らして、鬼嵜は黙った。
透もつられるように深く息を吐いてうつむいた。
(俺と慶は『運命の番』じゃない。俺はただ強いオスに魅かれるだけ……。強いオスには体が勝手に反応してしまうんだから、俺は慶の番になれないというだけじゃなくて、慶を裏切る可能性まである尻軽Ωなんだ……)
「透、どうした? どこか体調が悪いのか?」
「え? ううん、ぜんぜん大丈夫だよ」
肩を抱いてくれている慶の手はいつも通りに温かいのに、なぜだか少し居心地が悪かった。
(俺は、なんで当たり前みたいにここにいるんだろう……)
いつも通りに慶の腕に守られている自分に、透は強い違和感を覚えていた。
その後、珍しい症例だから是非もっと詳しく研究させてくれと医師から要請があったが、慶は「役に立たないなら、さっさと国へ帰れ」と吐き捨てた。
せっかく秘書の黒田が苦労して呼び寄せた名医だったのに、何の希望も見いだせずに残酷な現実が突き付けられただけに終わってしまったのだった。
大学病院に付属するその研究施設は廊下や階段に大きな鏡が設置されていた。αとΩが多く訪れるこの施設ではついついそういうことになってしまうことが多いから、いつでも身だしなみを整えられるようにあちこちに鏡を置いているのだと件の名医が言っていた。それが本当なのか冗談なのかよく分からないままだったが、もう確かめようという気力は起こらなかった。
鏡の前を通るたびに、慶に手を引かれる透の姿が映る。
どこからどう見ても、良家の子息だ。高級ブランドの服や靴はもちろん、肌着やハンカチに至るまで上質なもので揃えられ、艶のある髪も、血色の良い肌も、頭のてっぺんから足の爪先まで完璧に手入れされている。
そのすべてが、慶によって与えられたものだった。
(俺は、慶にもらってばっかりだな)
前を歩く慶の大きな背中を見上げる。誰よりも強くて、誰よりも優しい男だ。権力も財力も何でも持っているくせに、透を初恋だと言ってくれる可愛い男だ。
(この男が本当に『運命の番』なら良かったのに……)
じわりと目が潤んできて、透は慌ててぶんぶんと首を振った。
「あのさ、慶……」
「なんだ?」
慶が立ち止まって振り向く。
「えっと……俺、ちょっと散歩でも行こうかな……」
「散歩? じゃぁ一緒に行こうか」
「あ、いやいや、慶は仕事があるだろ?」
「大丈夫だ。黒田も番の発情期が終わって復帰したし、透の為ならいくらでも時間は作れる」
「あー、えっと、でもちょっと」
「ちょっと?」
「散歩したいっていうより、そのぉ……ホントはひとりになりたいっていうか」
「…………」
「えっと、ごめん」
透が頭を下げると、慶はゆっくりと首を振った。
「謝らなくていい。じゃぁ、透は車に乗って行ってくれ。運転手に行きたい場所を言えば連れて行ってくれるから」
「いいよ、車には慶が乗って。俺は久しぶりに電車に乗りたいし」
そこまで言って、透は自分の財布に数千円しか入っていないことを思い出した。
「あ、ええと、少し金貸してくれるか?」
「透……」
慶がじっと透を見る。
何だか気まずくて、透は目をそらした。
「透、俺に貸してなんて言う必要は無い。俺が持っているものはすべて透に捧げると言っただろう?」
慶は不機嫌な声を出しながら、分厚い財布を出して透の手に握らせた。
「全額使っていい。足りなかったらカードも使っていい。暗証番号は〇〇〇〇だ」
「え、ちょ、そんなことされたら困るよ」
「受け取れ。受け取らないなら運転手付きのベンツに乗ってくれ」
強引に押し付けられた財布を手に研究施設を出て、透はやはり鬼在へと向かった。
だが、店のまわりには足場が組まれていて近づけず、アパートにも店長はいなかった。喫茶店かパチンコ屋だろうとは思ったが、探しに行く気も電話をする気にもなれなかった。
なんとなく鬼在の街をぶらぶらと歩き回り、着いた先が春哉と唯月が暮らす小さな一戸建ての前だった。
生まれ育った珀山の家にはもう行きたくないし、透がΩだと分かって離れて行った友人達とは会いたいとも思わない。それに、Ω判定を受けてからは過保護な母の束縛があって友達のひとりも作れなかったから、透自身が持っている人脈は鬼在に住んでいた頃の三年間のものしかなかった。つまり、店長と、アルバイト仲間と、当時の常連さんだけだ。
アルバイトは入れ替わりが激しくて表面的にしか付き合っていなかった。常連客は癖の強いβ男性ばかりで面白かったのだが(個室に入っている時間より受付で雑談している時間の方が長いお喋りおじさんとか、いつも帰り際に5段階評価でAVのレビューをしていく陽気なお爺ちゃんとか)透は彼らの本名すら知らなかった。
振り返ってみて愕然とするのだが、結局、三年間で透が得た人脈は店長一人ということになる。当然、慶からもらったスマホに登録されている連絡先は、慶と竜司と店長だけだった。
だから、もしも透が『少しの間だけでいいからαと離れたい』と思ったなら、頼れる相手は店長しかいないのだが……。
(なんで俺、ここに来ちゃったんだろ)
丸っこいアルファベットで『SAKURAI』と書かれた表札を前にして、透は途方に暮れていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ツマリ、コノΩハ、ツヨイオスニハマタヲヒラクノデスヨー」
―――― 強いオスには股を開く。
フェロモン研究の権威などと呼ばれる医師の口から出た言葉は、部屋の空気をピシリと凍らせた。
「何だと」
慶の体から威嚇するようにぶわりとフェロモンが噴き出す。
通訳女性が「ひっ」と小さく悲鳴を上げて、慌ててドイツ語で何かを言った。
医師の方はフェロモンに対してかなり鈍感な体質らしく、キョトンとした顔で通訳に返事をしている。
「す、すいません。覚えたばかりの日本語を言ってみたかったらしくて……その、本人は悪気があったわけではなくてユーモアのつもりだったようですから、どうか大目に見ていただけませんか」
通訳女性が怯えたように慶の顔色を窺っている。
外国人の医師がそういう日本語を覚えたということは、それを教えた人間がいるということだ。研究のサポートをしている日本人か、この通訳女性本人か、それともほかの誰かなのか。どちらにしても、透は彼らにそういう風に思われているということだろう。本来、Ωは番のα以外には性的な反応を示さず、絶対に番を裏切ることはない。けれど、透は番がいるにもかかわらず、強いαなら誰に対しても発情するのだから。
その時、慶がドイツ語で何かを言った。
とたんに医師と通訳がさーっと蒼ざめる。
何か脅すようなことを言っているのだと分かり、透はそっと慶の腕に触れた。
「慶、俺は話の続きを聞きたいんだけど」
慶はまだ怒りが治まらないというようにいうようにジロリと二人を睨みつつ、話の続きを促した。
医師の話を聞いて分かったことは、透のような症例は非常に少なく、フェロモン研究が本格化してから世界でまだ7例しか発見されていないことと、番以外に対して発情はするが番以外の子を妊娠した例はこれまで皆無だということだった。
「あの……好きな人にだけ体が反応するようにする方法とかは、無いんですか」
透の問いに医師が答え、女性がそれを通訳する。
「申し訳ありませんが、嫌な相手に発情してしまった時には抑制剤を飲むくらいしか対策のしようがありません。でも、神崎さんや鬼嵜さんほど濃いフェロモンの持ち主はめったにいませんので安心してください」
「…………」
透はちらりと後ろにいる鬼嵜を見た。
慶に殴られて鼻と顎とあばらを骨折した鬼嵜は、すっかり降参して大人しくなっていた。竜司といい鬼嵜といい、自分より強いと認めた相手には群れのボスに従う獣みたいに従順になる。ヤクザな世界の男というのはこういうものなんだろうか。それとも、これはαの性質なんだろうか。
「大丈夫だ、透。透がこの馬鹿と会うのは今日で最後だから」
慶が安心させるように、包帯の巻かれた手で透を抱き寄せる。
「あ、う、うん」
あの場に居合わせた初老の男性が中臣組の先代組長だったらしく、必死で慶に鬼嵜の命乞いをしていた。その後、慶との間でどんなやり取りがあったのかは分からないけれど、慶は鬼嵜を部下として迎え入れることを決めたらしい。服役中の暇潰しにと取れる資格はすべて取ったという鬼嵜は、実はかなり優秀な人材だった。「一生こき使ってやる」などと慶は言うけれど、つまりは一生面倒を見てやるということだ。
慶の秘書の黒田という女性と、透は話をしたことがある。慶は人間を『身内』か『敵』か『その他』かにくっきり三種類に分けて考える男だと黒田は言っていた。でもその『身内』の範囲はかなり広く、恋人の透はもちろん、神崎家の本邸を支えるすべての使用人と、神崎グループに所属するすべての従業員のほかに、竜司を含めた西濱会関係者と、元中臣組の関係者、付き合いのある刑事まで全員が含まれるという。「うちの社長は懐が広すぎるんです」と黒田は諦めたように笑っていた。
「なぁ……」
それまで黙っていた鬼嵜が口を開いた。包帯で固定されているせいで、モゴモゴとくぐもった声だった。
「俺も検査に協力したんだし、ひとつ聞きたいんだけどいいか」
鬼嵜は医師ではなく、慶の方を向いて許可を求めている。
「好きにしろ」
「どうも、社長」
ぺこっと軽く頭を下げてから、鬼嵜は医師の方を向いた。
「あのさぁ、『運命の番』って本当に実在するのか?」
また通訳を介して医師が答えた。
「はい、実在しますよ。恋愛映画にあるように、一度出会ってしまったら逃れられないなどというロマンティックなものではありませんが……。フェロモン研究に置いて『運命の番』といえば、遺伝子レベルで相性の良いαとΩのことを指します。これまで報告・研究された症例は世界で20数例ですが、実際にはもっといると思われます。『運命の番』は、すでに番がいても互いに発情し、子供を作ることも可能です」
「ほう、子供も作れるのか……」
「記録に残っている『運命の番』の約9割が、実際に『運命の番』同士で子供を出産しています。生まれた子供は全員が優秀なαで、今のところ例外はありません」
「へぇ、なんかそれって子供を作るためにあるような『運命』だな」
「遺伝子レベルで魅かれ合うのですから、当然そういう面もあるかと思います」
「はは、運命じゃない方の奴が哀れに思えてくるな」
「そうですね。『運命の番』と出会った場合、αもΩもそれまで共に過ごしてきた番とは別れることが多いようです」
「ふうん……」
不満そうに鼻息を漏らして、鬼嵜は黙った。
透もつられるように深く息を吐いてうつむいた。
(俺と慶は『運命の番』じゃない。俺はただ強いオスに魅かれるだけ……。強いオスには体が勝手に反応してしまうんだから、俺は慶の番になれないというだけじゃなくて、慶を裏切る可能性まである尻軽Ωなんだ……)
「透、どうした? どこか体調が悪いのか?」
「え? ううん、ぜんぜん大丈夫だよ」
肩を抱いてくれている慶の手はいつも通りに温かいのに、なぜだか少し居心地が悪かった。
(俺は、なんで当たり前みたいにここにいるんだろう……)
いつも通りに慶の腕に守られている自分に、透は強い違和感を覚えていた。
その後、珍しい症例だから是非もっと詳しく研究させてくれと医師から要請があったが、慶は「役に立たないなら、さっさと国へ帰れ」と吐き捨てた。
せっかく秘書の黒田が苦労して呼び寄せた名医だったのに、何の希望も見いだせずに残酷な現実が突き付けられただけに終わってしまったのだった。
大学病院に付属するその研究施設は廊下や階段に大きな鏡が設置されていた。αとΩが多く訪れるこの施設ではついついそういうことになってしまうことが多いから、いつでも身だしなみを整えられるようにあちこちに鏡を置いているのだと件の名医が言っていた。それが本当なのか冗談なのかよく分からないままだったが、もう確かめようという気力は起こらなかった。
鏡の前を通るたびに、慶に手を引かれる透の姿が映る。
どこからどう見ても、良家の子息だ。高級ブランドの服や靴はもちろん、肌着やハンカチに至るまで上質なもので揃えられ、艶のある髪も、血色の良い肌も、頭のてっぺんから足の爪先まで完璧に手入れされている。
そのすべてが、慶によって与えられたものだった。
(俺は、慶にもらってばっかりだな)
前を歩く慶の大きな背中を見上げる。誰よりも強くて、誰よりも優しい男だ。権力も財力も何でも持っているくせに、透を初恋だと言ってくれる可愛い男だ。
(この男が本当に『運命の番』なら良かったのに……)
じわりと目が潤んできて、透は慌ててぶんぶんと首を振った。
「あのさ、慶……」
「なんだ?」
慶が立ち止まって振り向く。
「えっと……俺、ちょっと散歩でも行こうかな……」
「散歩? じゃぁ一緒に行こうか」
「あ、いやいや、慶は仕事があるだろ?」
「大丈夫だ。黒田も番の発情期が終わって復帰したし、透の為ならいくらでも時間は作れる」
「あー、えっと、でもちょっと」
「ちょっと?」
「散歩したいっていうより、そのぉ……ホントはひとりになりたいっていうか」
「…………」
「えっと、ごめん」
透が頭を下げると、慶はゆっくりと首を振った。
「謝らなくていい。じゃぁ、透は車に乗って行ってくれ。運転手に行きたい場所を言えば連れて行ってくれるから」
「いいよ、車には慶が乗って。俺は久しぶりに電車に乗りたいし」
そこまで言って、透は自分の財布に数千円しか入っていないことを思い出した。
「あ、ええと、少し金貸してくれるか?」
「透……」
慶がじっと透を見る。
何だか気まずくて、透は目をそらした。
「透、俺に貸してなんて言う必要は無い。俺が持っているものはすべて透に捧げると言っただろう?」
慶は不機嫌な声を出しながら、分厚い財布を出して透の手に握らせた。
「全額使っていい。足りなかったらカードも使っていい。暗証番号は〇〇〇〇だ」
「え、ちょ、そんなことされたら困るよ」
「受け取れ。受け取らないなら運転手付きのベンツに乗ってくれ」
強引に押し付けられた財布を手に研究施設を出て、透はやはり鬼在へと向かった。
だが、店のまわりには足場が組まれていて近づけず、アパートにも店長はいなかった。喫茶店かパチンコ屋だろうとは思ったが、探しに行く気も電話をする気にもなれなかった。
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