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序章 友哉とあきらの異常な日常
(3) 窓を叩くもの 後編
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「どうした、久豆葉あきら! 早くあけてくれ!」
ぎくりとして窓越しにハルを見上げる。偉そうに俺を見下ろす法衣姿の女は、どこからどう見てもハルにしか見えない。
でも。
俺は友哉の肩をつかんで、そいつを睨んだ。
「お前、誰だ?」
「え? 誰って?」
友哉の驚く声に重ねて、そいつが外から睨んでくる。
「何を言っている。すぐに開けなさい」
バシンとそいつの手が窓を叩いた。
「何の音だ?」
友哉がぎくりと横を見る。
「倉橋友哉! ここを開けてくれ!」
ハルの目がぎょろりと友哉を見て、両手を窓につく。
「友哉、窓の外の声は聞こえないんだよね」
「ああ、何も」
「じゃぁ、顔をこっちに向けていて」
「え? あ、ああ」
友哉がこっちを向くのに合わせて、ハルに似たそいつがゆっくり車を回ってくる。
この自称神様は相手にドアや窓を開けてもらわないと入ってこられないのか?
さっきのアパートの部屋だって、玄関は開いていたのに、わざわざ窓を開けろと言ってきた。
「開けなさい、久豆葉あきら」
今度は運転席側から、そいつが窓を叩いた。
「嫌だ」
俺が睨みつけると、ハルにしか見えないそいつは車のまわりを歩きながら、バン、バン、と車体を叩き始めた。
「あけろ、あけろ、あけろ、あけろ」
あの女の子と同様に、偏執的に同じ言葉を繰り返し始める。
「あけろ、あけろ、あけろ、あけろ」
怖いというより気持ちが悪い。
「あきら? この音は? 何かいるのか?」
「ハルに化けたやつが窓をバシバシ叩いてる」
友哉は気味悪そうに周囲を見回す。
「俺には何も見えないけど……」
「大雅! 連翹!」
俺の呼びかけに答えて、二匹の狼が飛び出していく。彼らには壁もドアも関係ないから、車体をすり抜けてハルの姿をしたものに襲い掛かり、牙を突き立てた。
ぱさり、とそいつが砂のように消える。
「あーけーてー」
ホッとする暇もなく、すぐにやつは別の窓の前に現れて、手のひらをバシンとぶつけてきた。
俺がギクッとするのを楽しむように、そいつは半分笑うような顔をしてこっちを見てくる。
狼が噛みつく。やつは消える。でもまた違う場所に現れる。いたちごっこだ。
「あけてー、あけてー、あけてー」
バシン、バシン、バシン……力はたいして強くないが、とにかくしつこい。
「だめだ……狼でも追い払えない」
「結界は、張れないな」
「うん」
俺がそばにいると、友哉は四季の結界をはれない。離れるには車のドアを開けなくてはならないが、その瞬間に奴は入ってくる。
「とりあえずドアを開けなければ入っては来られないみたいだし、本物のハルが来るまで車内に籠城するしかないかも」
「あーけーてー」
ハルの姿は少しずつ崩れて、目はつりあがり、口も裂けるように大きくなっていく。
執拗に叩き続けるやつの手のひらが破けて、次第に血が滲んでくる。人間なら痛みで叩くのをやめるだろうが、奴は人間じゃない。窓にいくつも赤い手形がついていく。
まるでホラー映画だ。
友哉には見えていないというのが救いだけれど、車体を叩く音だけはずっと聞こえているようで、奴の動きに合わせて首を巡らせている。
「琥珀! つゆくさ!」
式狼をさらに増やす。だが、俺の狼がいくら噛んでも、噛んでも、噛んでも、やつはパサリと消えてはすぐに復活して、車のまわりをぐるぐるとまわり続ける。
「あけてー、あけてー、あけてよー」
ハルの偽物はボンネットにまで登って来て叫び続け、叩き続ける。血の手形でガラスが埋まり、周りが少しずつ見えなくなっていく。手形の隙間からこちらを除く目が、常にぎょろぎょろと友哉をとらえている。
「なんだよこれ、すげぇ気持ち悪い……」
「他に一台も車が通らないな」
友哉がぼそりと言った。見えなくても、音で分かるのだろう。
ガラスが血で汚れ、奴の顔はもう見えない。でも、窓を叩く手はいつのまにか幼い子供のものになっていて、あけてーと叫ぶ声もハルの声から子供の声に変わっている。
窓を叩く手が、そして気味の悪い子供の声が、一人から二人、二人から三人と次第に増殖していく。右からも左からも、前からも後ろからも、同時にバシバシと音が聞こえてくる。
「もうとっくに、幻覚の中に閉じ込められていたりして」
俺が言うと、友哉は右手をこっちに伸ばして俺の腕を触って来た。
「大丈夫だ。こうして触われる。あきらも俺も幻覚じゃない」
「友哉」
「俺はアパートのあの子達みたいに迷ったりしないし、もしはぐれてしまっても俺が必ずあきらを見つけてやるから」
いきなりガクンと車体が左右に揺れた。
「うわっ」
友哉がよろめく。
「友哉!」
車体がさらにぐらぐらと激しく揺れ始める。
もちろん地震なんかじゃない。
車のすべての窓にびっしりと貼り付く無数の手が見えた。
あけてー、あけてー、という子供の声が、合唱みたいに声を合わせて上下左右から聞こえてくる。
友哉の顔色が蒼い。
「やめろ!」
俺は叫んだ。
「何回開けろと言ったって、俺はドアも窓も開けない!」
ぴたっとすべての騒音が止んだ。
友哉の喉がこくりと鳴る。
「それを置いて行け」
運転席側の窓から、そいつが言った。
「それを置いて行けば、お前だけは助けてやる」
血の汚れの隙間から覗いてくるぎょろぎょろとした目玉と目が合った。
「友哉、こっちに来て」
「え」
そいつに見せつけるように、助手席の友哉の上半身を引っ張り抱き寄せる。
「俺は最後まで友哉と一緒にいる。絶対に離れない」
絶対に、渡さない。
友哉は絶対に渡さない。
もしも奪われるようなことになるなら、俺は……。
目の前の細い首を見下ろす。
その首に残る深い牙の傷跡を見る。
友哉はなだめるように俺の背中を撫でてきた。
「大丈夫だ、あきら。きっとハルさんは間に合うよ」
『あきら! あきら! そこにいるのか?』
友哉の声に重ねるように、友哉の声がした。
運転席側の窓ガラスを手のひらでこすり、血の手形を拭って外から友哉が顔を覗かせる。
『ああ、あきら、無事だったか。良かったぁ……』
友哉はドアの外から、まっすぐに俺を見てニコッと笑った。
『あのアパートをひとりで突っ走って出て行くから、ほんとに心配したんだぞ。良かった、追いついて』
ハァハァと息を切らしながら、額の汗をさわやかに拭う。夏の日差しが似合う健康的な少年が、窓の外から俺を心配そうに見つめていた。
『大丈夫か、あきら、どうしたんだ?』
「友哉……」
「ん、どうした?」
俺の腕の中で友哉が答える。
『あきら、どうしたんだよ。変な顔をして。あれ? そこに誰かいるのか? 助手席に誰を乗せているんだ?』
ドアの外の友哉が聞いてくる。
「ここには友哉がいるよ……」
「え? 俺がどうかしたか?」
『何言っているんだ。俺が友哉だろ』
二人の友哉の声が重なる。
俺は悲しくて、おかしくて、泣きたい気分だった。
友哉はひとりで走ってくることは出来ないし、友哉は俺をまっすぐに見つめることは出来ないし、友哉は助手席に誰かが乗っていることを見ることは出来ない。
どっちが本物でどっちが偽物かなんて考えるまでもない。
でも。
「確実に心の弱いとこを突いてくるんだな……」
偽物の友哉の姿は、俺の願望を映している。
目の見えている友哉。
健康そうな友哉。
俺の顔をまっすぐ見て笑っている友哉。
『あきら、開けてくれよ。一緒に帰ろう』
眩しいくらいの笑顔で、偽物はガチャガチャとドアハンドルをつかんでくる。
『なぁ、開けろよ。あきら、聞こえているだろ。あきら』
俺はドアの外の友哉を見つめた。
その右耳はきれいなままだし、首元にも傷が無い。
少しだけ日に焼けていて、よく見ると背も伸びている。
生命力が満ちていて、とても長生きしそうだった。
「あきら? また何か見えるのか?」
目の前の本物の友哉は体中傷だらけだ。
儚くて、弱くて、生命力が薄くて、とても長生きなんて出来そうにない。
友哉の肌に刻まれた傷跡を見るたびに、苦しいほど悲しみが胸に満ちて……けれど同時に後ろ暗い喜びにうっとりとしてしまう自分がいる。
俺は友哉の首に手を置いた。指先で、俺の牙の痕をなぞる。
「はは、なんだよ。くすぐったいって」
友哉はひとかけらの警戒心も無く笑みを見せる。
俺はその背中に腕を回して、さっきよりきつく抱きしめた。
「あきら?」
嚙み合わない会話と、脈絡のない俺の行動。
それでも友哉は黙って受け入れ、心配そうに俺に聞いてくる。
「怖いのか?」
「うん、怖い……」
俺はドアの外の偽物を睨んだ。
お前がどんな手を使って来ても、たとえ俺を殺したとしても、友哉はお前のものにはならない。俺が、どこまでも友哉を道連れにするからだ。
そう考えた途端、ドアの外の友哉の首から血が噴き出し、助けを求めるようにこちらに手を伸ばしてずるずると崩れ落ちた。
「あっ……」
どくんと心臓が波打つ。
分かっている。あれは偽物だ。
驚愕に見開かれた目や伸ばされた指先が友哉そっくりだったとしても、心を乱されてはいけない。
「はっ……はっ……」
走ってもいないのに、息が切れてくる。
すがりつくように友哉の体を掻き抱く。背中を反らすようなつらい体勢になっているのに、友哉は嫌がらなかった。
「大丈夫か? あきら、何が見えているんだ?」
俺は首を振った。
「言えない……」
「あきら」
『あきら』
本物と偽物が同時に俺の名前を呼ぶ。
『どうしてだよ、あきら……』
ドアの外から悲痛な声がする。
『どうして俺を……どうしてこんな……』
偽物の友哉は片手で血の流れる首を押さえて、弱々しく窓を叩いてくる。
「友哉、ごめん、ごめんなさい……」
偽物が完全に偽物ならこんなに混乱したりしない。偽物の姿は俺の願望を映していて、偽物の首から流れる血は俺の罪悪感を映し出している。
「頭を撫でてやろうか」
「え」
「歌を歌った方がいいかな」
友哉が少しおどけるように優しい声を出した。
「お前が何を見ているのかは分からないけれど、それは全部嘘だから。駐車場で山川さんが見た八尺様と同じだよ。いないと思えばきっと消える」
「きえる……?」
声が震えてしまう。
首から血を流す友哉が、泣きながらドアをひっかいてくる。キーキーと嫌な音がして、友哉の指先が血に染まっていく。
「うん、絶対に消える。怖い夢みたいなものだよ」
『あきら、ここを開けてくれ……助けて……痛いんだ。助けてくれ、あきら……』
窓ガラスをひっかく音に重ねて、俺を呼ぶ偽物の声が悲痛に響く。
偽物の黒い瞳が赤く染まり、目尻から血が流れ始める。
「夢……夢なら早く覚めたい」
俺の背中を友哉がそっと撫でてくれる。
俺は目を閉じて本物の友哉の髪に顔を近づけ、清浄な匂いを吸い込んだ。
「おまじない、しようか」
ポソリと場違いな単語が友哉の口から出て来た。
「おまじない……?」
「そ、怖い夢を見た時のおまじない」
友哉が微笑む。
友哉のまわりだけが、うっすらと柔らかな光に包まれている。
「覚えていないか? 雪彦さんの屋敷にいた頃のこと」
「覚えてる……」
友哉が俺にしてくれたことは、全部はっきりと覚えている。
「あの時のおまじないさ、めちゃくちゃ効き目があったろ?」
茶目っ気たっぷりに友哉が聞いてくる。
「うん……効き目、めちゃくちゃあったね……」
「俺に除霊や悪霊退治の力は無いけど、あきらの悪夢を祓ってやることは出来るよ。俺はあきらのお兄ちゃんだから」
友哉は少し体を起こして、手探りで俺の顔に触れて来た。指先が頬に触れて、ちょっと驚いたように友哉の目が開かれる。
「……泣いているのか」
言われるまで、自分が涙を流している事に気付いていなかった。
「お兄ちゃん……おまじないして」
「よっし、まかせろ」
友哉の指先が俺の額に当てられる。
友哉自身は気付いてはいないだろう。血まみれのガラスに囲まれた薄暗い車の中で、友哉だけがうっすらと発光していることを。
友哉は笑顔で、子供向けのかわいいおまじないを唱えた。
「バクさん、バクさん、悪い夢を食べてください」
トントントンと友哉の指が俺のおでこを優しく叩く。
じわっとそこから温かくなる。
窓をひっかく音が止まった。
偽物はきょとんとして自分の手を見下ろす。その体のすべての傷が、魔法をかけたみたいに強制的に癒えていく。首から流れる血も、爪がはがれかけた指も逆再生するように治っていく。
途惑った目で、偽物は俺を見てきた。
うん、これは途惑うよな。すごくよく分かる。
友哉は恐怖と疑心暗鬼まみれの怪談をむりやり青春ドラマに変えちゃうし、逃げ場のないホラーな世界の中にむりやり童話の世界を割り込ませてきちゃうんだ。
しかも、すべて無意識に。
だって、怪談もホラーな事象も友哉の目には見えていないから。
「もう一回、おまじないして、友哉」
「うん。バクさん、バクさん、あきらの悪い夢を全部食べてください」
額の上でまたトントントンと友哉の指が動く。
窓の外の偽物はすっかり健康的な姿で太陽の光を浴びていた。俺の顔を見ると、ふっと一瞬だけ笑顔になって夏の日差しに溶けるようにすぅっと消えていった。
「まじで、消えた」
「バクさんは最強だからな」
俺はぷっと小さく噴き出した。
友哉もくすくすと笑いだした。
派手な呪文も、大掛かりな祈祷も、霊力のぶつかり合いも必要なかった。
俺の悪夢を祓うのは、いつだって友哉だ。
ただ、美しい絵本のページをめくるように、すんなりと世界は晴れていた。
助手席側の窓がコンコンと鳴る。
「久豆葉あきら、倉橋友哉、もう大丈夫だ。迎えに来たぞ」
いつも通りに偉そうな口調で、蓮杖ハルの声が聞こえて来た。
「ハルさん!」
友哉が嬉しそうに答えた。
ぎくりとして窓越しにハルを見上げる。偉そうに俺を見下ろす法衣姿の女は、どこからどう見てもハルにしか見えない。
でも。
俺は友哉の肩をつかんで、そいつを睨んだ。
「お前、誰だ?」
「え? 誰って?」
友哉の驚く声に重ねて、そいつが外から睨んでくる。
「何を言っている。すぐに開けなさい」
バシンとそいつの手が窓を叩いた。
「何の音だ?」
友哉がぎくりと横を見る。
「倉橋友哉! ここを開けてくれ!」
ハルの目がぎょろりと友哉を見て、両手を窓につく。
「友哉、窓の外の声は聞こえないんだよね」
「ああ、何も」
「じゃぁ、顔をこっちに向けていて」
「え? あ、ああ」
友哉がこっちを向くのに合わせて、ハルに似たそいつがゆっくり車を回ってくる。
この自称神様は相手にドアや窓を開けてもらわないと入ってこられないのか?
さっきのアパートの部屋だって、玄関は開いていたのに、わざわざ窓を開けろと言ってきた。
「開けなさい、久豆葉あきら」
今度は運転席側から、そいつが窓を叩いた。
「嫌だ」
俺が睨みつけると、ハルにしか見えないそいつは車のまわりを歩きながら、バン、バン、と車体を叩き始めた。
「あけろ、あけろ、あけろ、あけろ」
あの女の子と同様に、偏執的に同じ言葉を繰り返し始める。
「あけろ、あけろ、あけろ、あけろ」
怖いというより気持ちが悪い。
「あきら? この音は? 何かいるのか?」
「ハルに化けたやつが窓をバシバシ叩いてる」
友哉は気味悪そうに周囲を見回す。
「俺には何も見えないけど……」
「大雅! 連翹!」
俺の呼びかけに答えて、二匹の狼が飛び出していく。彼らには壁もドアも関係ないから、車体をすり抜けてハルの姿をしたものに襲い掛かり、牙を突き立てた。
ぱさり、とそいつが砂のように消える。
「あーけーてー」
ホッとする暇もなく、すぐにやつは別の窓の前に現れて、手のひらをバシンとぶつけてきた。
俺がギクッとするのを楽しむように、そいつは半分笑うような顔をしてこっちを見てくる。
狼が噛みつく。やつは消える。でもまた違う場所に現れる。いたちごっこだ。
「あけてー、あけてー、あけてー」
バシン、バシン、バシン……力はたいして強くないが、とにかくしつこい。
「だめだ……狼でも追い払えない」
「結界は、張れないな」
「うん」
俺がそばにいると、友哉は四季の結界をはれない。離れるには車のドアを開けなくてはならないが、その瞬間に奴は入ってくる。
「とりあえずドアを開けなければ入っては来られないみたいだし、本物のハルが来るまで車内に籠城するしかないかも」
「あーけーてー」
ハルの姿は少しずつ崩れて、目はつりあがり、口も裂けるように大きくなっていく。
執拗に叩き続けるやつの手のひらが破けて、次第に血が滲んでくる。人間なら痛みで叩くのをやめるだろうが、奴は人間じゃない。窓にいくつも赤い手形がついていく。
まるでホラー映画だ。
友哉には見えていないというのが救いだけれど、車体を叩く音だけはずっと聞こえているようで、奴の動きに合わせて首を巡らせている。
「琥珀! つゆくさ!」
式狼をさらに増やす。だが、俺の狼がいくら噛んでも、噛んでも、噛んでも、やつはパサリと消えてはすぐに復活して、車のまわりをぐるぐるとまわり続ける。
「あけてー、あけてー、あけてよー」
ハルの偽物はボンネットにまで登って来て叫び続け、叩き続ける。血の手形でガラスが埋まり、周りが少しずつ見えなくなっていく。手形の隙間からこちらを除く目が、常にぎょろぎょろと友哉をとらえている。
「なんだよこれ、すげぇ気持ち悪い……」
「他に一台も車が通らないな」
友哉がぼそりと言った。見えなくても、音で分かるのだろう。
ガラスが血で汚れ、奴の顔はもう見えない。でも、窓を叩く手はいつのまにか幼い子供のものになっていて、あけてーと叫ぶ声もハルの声から子供の声に変わっている。
窓を叩く手が、そして気味の悪い子供の声が、一人から二人、二人から三人と次第に増殖していく。右からも左からも、前からも後ろからも、同時にバシバシと音が聞こえてくる。
「もうとっくに、幻覚の中に閉じ込められていたりして」
俺が言うと、友哉は右手をこっちに伸ばして俺の腕を触って来た。
「大丈夫だ。こうして触われる。あきらも俺も幻覚じゃない」
「友哉」
「俺はアパートのあの子達みたいに迷ったりしないし、もしはぐれてしまっても俺が必ずあきらを見つけてやるから」
いきなりガクンと車体が左右に揺れた。
「うわっ」
友哉がよろめく。
「友哉!」
車体がさらにぐらぐらと激しく揺れ始める。
もちろん地震なんかじゃない。
車のすべての窓にびっしりと貼り付く無数の手が見えた。
あけてー、あけてー、という子供の声が、合唱みたいに声を合わせて上下左右から聞こえてくる。
友哉の顔色が蒼い。
「やめろ!」
俺は叫んだ。
「何回開けろと言ったって、俺はドアも窓も開けない!」
ぴたっとすべての騒音が止んだ。
友哉の喉がこくりと鳴る。
「それを置いて行け」
運転席側の窓から、そいつが言った。
「それを置いて行けば、お前だけは助けてやる」
血の汚れの隙間から覗いてくるぎょろぎょろとした目玉と目が合った。
「友哉、こっちに来て」
「え」
そいつに見せつけるように、助手席の友哉の上半身を引っ張り抱き寄せる。
「俺は最後まで友哉と一緒にいる。絶対に離れない」
絶対に、渡さない。
友哉は絶対に渡さない。
もしも奪われるようなことになるなら、俺は……。
目の前の細い首を見下ろす。
その首に残る深い牙の傷跡を見る。
友哉はなだめるように俺の背中を撫でてきた。
「大丈夫だ、あきら。きっとハルさんは間に合うよ」
『あきら! あきら! そこにいるのか?』
友哉の声に重ねるように、友哉の声がした。
運転席側の窓ガラスを手のひらでこすり、血の手形を拭って外から友哉が顔を覗かせる。
『ああ、あきら、無事だったか。良かったぁ……』
友哉はドアの外から、まっすぐに俺を見てニコッと笑った。
『あのアパートをひとりで突っ走って出て行くから、ほんとに心配したんだぞ。良かった、追いついて』
ハァハァと息を切らしながら、額の汗をさわやかに拭う。夏の日差しが似合う健康的な少年が、窓の外から俺を心配そうに見つめていた。
『大丈夫か、あきら、どうしたんだ?』
「友哉……」
「ん、どうした?」
俺の腕の中で友哉が答える。
『あきら、どうしたんだよ。変な顔をして。あれ? そこに誰かいるのか? 助手席に誰を乗せているんだ?』
ドアの外の友哉が聞いてくる。
「ここには友哉がいるよ……」
「え? 俺がどうかしたか?」
『何言っているんだ。俺が友哉だろ』
二人の友哉の声が重なる。
俺は悲しくて、おかしくて、泣きたい気分だった。
友哉はひとりで走ってくることは出来ないし、友哉は俺をまっすぐに見つめることは出来ないし、友哉は助手席に誰かが乗っていることを見ることは出来ない。
どっちが本物でどっちが偽物かなんて考えるまでもない。
でも。
「確実に心の弱いとこを突いてくるんだな……」
偽物の友哉の姿は、俺の願望を映している。
目の見えている友哉。
健康そうな友哉。
俺の顔をまっすぐ見て笑っている友哉。
『あきら、開けてくれよ。一緒に帰ろう』
眩しいくらいの笑顔で、偽物はガチャガチャとドアハンドルをつかんでくる。
『なぁ、開けろよ。あきら、聞こえているだろ。あきら』
俺はドアの外の友哉を見つめた。
その右耳はきれいなままだし、首元にも傷が無い。
少しだけ日に焼けていて、よく見ると背も伸びている。
生命力が満ちていて、とても長生きしそうだった。
「あきら? また何か見えるのか?」
目の前の本物の友哉は体中傷だらけだ。
儚くて、弱くて、生命力が薄くて、とても長生きなんて出来そうにない。
友哉の肌に刻まれた傷跡を見るたびに、苦しいほど悲しみが胸に満ちて……けれど同時に後ろ暗い喜びにうっとりとしてしまう自分がいる。
俺は友哉の首に手を置いた。指先で、俺の牙の痕をなぞる。
「はは、なんだよ。くすぐったいって」
友哉はひとかけらの警戒心も無く笑みを見せる。
俺はその背中に腕を回して、さっきよりきつく抱きしめた。
「あきら?」
嚙み合わない会話と、脈絡のない俺の行動。
それでも友哉は黙って受け入れ、心配そうに俺に聞いてくる。
「怖いのか?」
「うん、怖い……」
俺はドアの外の偽物を睨んだ。
お前がどんな手を使って来ても、たとえ俺を殺したとしても、友哉はお前のものにはならない。俺が、どこまでも友哉を道連れにするからだ。
そう考えた途端、ドアの外の友哉の首から血が噴き出し、助けを求めるようにこちらに手を伸ばしてずるずると崩れ落ちた。
「あっ……」
どくんと心臓が波打つ。
分かっている。あれは偽物だ。
驚愕に見開かれた目や伸ばされた指先が友哉そっくりだったとしても、心を乱されてはいけない。
「はっ……はっ……」
走ってもいないのに、息が切れてくる。
すがりつくように友哉の体を掻き抱く。背中を反らすようなつらい体勢になっているのに、友哉は嫌がらなかった。
「大丈夫か? あきら、何が見えているんだ?」
俺は首を振った。
「言えない……」
「あきら」
『あきら』
本物と偽物が同時に俺の名前を呼ぶ。
『どうしてだよ、あきら……』
ドアの外から悲痛な声がする。
『どうして俺を……どうしてこんな……』
偽物の友哉は片手で血の流れる首を押さえて、弱々しく窓を叩いてくる。
「友哉、ごめん、ごめんなさい……」
偽物が完全に偽物ならこんなに混乱したりしない。偽物の姿は俺の願望を映していて、偽物の首から流れる血は俺の罪悪感を映し出している。
「頭を撫でてやろうか」
「え」
「歌を歌った方がいいかな」
友哉が少しおどけるように優しい声を出した。
「お前が何を見ているのかは分からないけれど、それは全部嘘だから。駐車場で山川さんが見た八尺様と同じだよ。いないと思えばきっと消える」
「きえる……?」
声が震えてしまう。
首から血を流す友哉が、泣きながらドアをひっかいてくる。キーキーと嫌な音がして、友哉の指先が血に染まっていく。
「うん、絶対に消える。怖い夢みたいなものだよ」
『あきら、ここを開けてくれ……助けて……痛いんだ。助けてくれ、あきら……』
窓ガラスをひっかく音に重ねて、俺を呼ぶ偽物の声が悲痛に響く。
偽物の黒い瞳が赤く染まり、目尻から血が流れ始める。
「夢……夢なら早く覚めたい」
俺の背中を友哉がそっと撫でてくれる。
俺は目を閉じて本物の友哉の髪に顔を近づけ、清浄な匂いを吸い込んだ。
「おまじない、しようか」
ポソリと場違いな単語が友哉の口から出て来た。
「おまじない……?」
「そ、怖い夢を見た時のおまじない」
友哉が微笑む。
友哉のまわりだけが、うっすらと柔らかな光に包まれている。
「覚えていないか? 雪彦さんの屋敷にいた頃のこと」
「覚えてる……」
友哉が俺にしてくれたことは、全部はっきりと覚えている。
「あの時のおまじないさ、めちゃくちゃ効き目があったろ?」
茶目っ気たっぷりに友哉が聞いてくる。
「うん……効き目、めちゃくちゃあったね……」
「俺に除霊や悪霊退治の力は無いけど、あきらの悪夢を祓ってやることは出来るよ。俺はあきらのお兄ちゃんだから」
友哉は少し体を起こして、手探りで俺の顔に触れて来た。指先が頬に触れて、ちょっと驚いたように友哉の目が開かれる。
「……泣いているのか」
言われるまで、自分が涙を流している事に気付いていなかった。
「お兄ちゃん……おまじないして」
「よっし、まかせろ」
友哉の指先が俺の額に当てられる。
友哉自身は気付いてはいないだろう。血まみれのガラスに囲まれた薄暗い車の中で、友哉だけがうっすらと発光していることを。
友哉は笑顔で、子供向けのかわいいおまじないを唱えた。
「バクさん、バクさん、悪い夢を食べてください」
トントントンと友哉の指が俺のおでこを優しく叩く。
じわっとそこから温かくなる。
窓をひっかく音が止まった。
偽物はきょとんとして自分の手を見下ろす。その体のすべての傷が、魔法をかけたみたいに強制的に癒えていく。首から流れる血も、爪がはがれかけた指も逆再生するように治っていく。
途惑った目で、偽物は俺を見てきた。
うん、これは途惑うよな。すごくよく分かる。
友哉は恐怖と疑心暗鬼まみれの怪談をむりやり青春ドラマに変えちゃうし、逃げ場のないホラーな世界の中にむりやり童話の世界を割り込ませてきちゃうんだ。
しかも、すべて無意識に。
だって、怪談もホラーな事象も友哉の目には見えていないから。
「もう一回、おまじないして、友哉」
「うん。バクさん、バクさん、あきらの悪い夢を全部食べてください」
額の上でまたトントントンと友哉の指が動く。
窓の外の偽物はすっかり健康的な姿で太陽の光を浴びていた。俺の顔を見ると、ふっと一瞬だけ笑顔になって夏の日差しに溶けるようにすぅっと消えていった。
「まじで、消えた」
「バクさんは最強だからな」
俺はぷっと小さく噴き出した。
友哉もくすくすと笑いだした。
派手な呪文も、大掛かりな祈祷も、霊力のぶつかり合いも必要なかった。
俺の悪夢を祓うのは、いつだって友哉だ。
ただ、美しい絵本のページをめくるように、すんなりと世界は晴れていた。
助手席側の窓がコンコンと鳴る。
「久豆葉あきら、倉橋友哉、もう大丈夫だ。迎えに来たぞ」
いつも通りに偉そうな口調で、蓮杖ハルの声が聞こえて来た。
「ハルさん!」
友哉が嬉しそうに答えた。
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●婚約破棄ものですが主人公に悪役令息、転生転移、回帰の要素はありません。
性表現は一切出てきません。
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