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(27)咲夜13歳 『アクアマリン』
しおりを挟むコンコンコン、コンコンコン、ゴンゴンゴン……!
少し苛立ったようなノックの音で、翡翠はハッと目を覚ました。
室内はすでに明るく、窓からの陽光に翡翠の半裸が照らされている。白磁の肌の上には、蓮次郎による激しい情事の痕跡が色濃く残されていた。
「ん……」
「翡翠様、お目覚めですか?」
ドアの向こうから呼びかけるひいの声も、どことなく苛立ちを含んでいる。おそらく、朝から何度もここを訪ねたのだろう。
「まだ寝ていらっしゃるのですか? 今日は、『なな』までもが絵から出ております。地下の扉へ赴かれた方がよろしいのでは?」
体を起こそうとしたが、全身がギシギシと痛くて動けない。
昨晩は新月だった。蓮次郎は翡翠を抱きつぶすかのように夜通し犯し続けた。そして気絶するように眠った翡翠を置いて、さっさと『きさら堂』を出ていったのだろう。
「……あと一時間くらいしたら、また来てくれ」
翡翠のかすれた声に対して、ひいは少し沈黙した。
「…………分かりました」
不満げな声を残し、七人分の足音が遠ざかっていく。
「はぁ……」
首を動かすと、アクアマリンを溶かしたような水色の髪がさらさらと顔にかかった。
二年前のあの日、翡翠は『白殺しの藍甕』の青霧に自らの意志で飛び込んだ。濡烏の黒髪は透き通った藍玉に、翡翠色の瞳も髪と同じく藍玉色へと変化した。
時津彦様からいただいた姿を勝手に変えるなどと、言語道断な所業と言っていい。変色してしまった翡翠は、彼女達にとっての完璧な『翡翠様』ではなくなってしまった。
今まで通りに専属メイドとして仕えてくれてはいるが、どうしても違和感が拭えないのだろう。今の翡翠を偽物のように思っているのが態度に表れていた。
(咲夜に会いたい……)
疲れた時、心が重くてたまらない時、思い返すのは可愛くてたまらない咲夜の姿だ。
艶子のおかげで半年に一度は会えているのに、それでも毎日のように思い浮かべてしまう。
―――― ひすいさま、大好き!
(あの可愛い声でいっぱい大好きだと言われたい。咲夜を抱きしめていっぱい大好きだと言いたい。咲夜の匂いを嗅ぎたい。咲夜の体温を感じたい。咲夜の可愛い笑顔を見たい……)
―――― ひすいさま、ひすいさま、俺ね、ふういんを習っているんだよ。あとね、妖気を高めたり低めたりする場作りも出来るようになったんだー。今度のお休みはひすいさまにプレゼント持ってくるね! 楽しみにしててね!
現実逃避に前回会った時の咲夜を思い返していると、ふと、はだけた胸の上を青いものが動いていくのに気付いた。
蜥蜴の影だ。
「ふふ、お前も私と同じだな。二年が過ぎても青いままだ」
白殺しの藍甕を開けた日、この蜥蜴の置物の本体には布をかけておいたのだが、影の方は自由気ままに散歩をしていて青く染まってしまったらしい。
いつまでも青が残る翡翠や蜥蜴とは違い、人間である咲夜は妖気の無いあちら側へ渡ったとたんに髪と瞳がほとんど黒に戻ってしまったという。あやかしと人間とでは根本的に何かが違うのだろうが、それを聞いて寂しい気持ちになったのを覚えている。
蜥蜴の青い影は四本足でよちよちと歩いて、翡翠の上からシーツの上へ、そしてベッドの柱へと移ってのんびり散歩するように降りていく。
「う……んん……」
小さくうめき声を上げながら、翡翠はどうにか身を起こした。
翡翠の色がどう変わろうと、使用人達の態度がどう変わろうと、『きさら堂』の仮の主人は翡翠しかいない。代わってくれるものは誰もいないのだから、やるべきことは自分でこなすしかない。
疲れ切った体に熱いシャワーを浴びて、きちんと着替えをして、そして地下の扉を調節しに行くのだ。
(大丈夫。ちゃんと道順は覚えている。この体では地下の扉まで行って戻るだけでも時間がかかるだろうが、それでも仮の主人としての役目は果たせる……)
翡翠は蜥蜴の影の後を追うようにベッドを降りると、壁に手をつきながらゆっくり浴室へ向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「もう我慢できない……!」
その日の夕刻、翡翠が一人で地下の扉から戻るとちょうど艶子が訪ねてきたところだった。
「我慢? 何の話だ?」
「翡翠様、地下へはおひとりで行かれたのですか?」
「あ、ああ」
「なぜです?」
「とうのことがあってから、みな地下へ行くのを怖がるようになってな」
「そんな甘えを許すのですか?」
「甘えというか……。本能的な怯えはどうしようもないだろう」
「たとえ恐怖で地下に行けなくても、翡翠様をここでお出迎えするのが専属メイドの仕事では?」
硝子のガゼボの前で仁王立ちしている艶子は、狐の耳がぴくぴくと動き、興奮のためか尻尾までぶんぶんと揺れている。
翡翠はランタンを床に置いて、艶子の手を取った。
「とりあえず、落ち着こうか」
「でも……!」
「応接室へ行こう、艶子。私もゆっくり座りたいから」
第二応接室は、今日も掃除が行き届いていた。
珊瑚色に金の装飾が施された猫足のソファに腰を下ろし、翡翠は少しぐったりと背もたれに体重をかける。
クリスタルのシャンデリアが、キラキラと光を放っているのが見えて、咲夜が迷子の蝶を返しに来た日が思い出された。
「ずっとこんな感じなんですか?」
「こんな……?」
憤懣やるかたないというように、艶子が鼻息を荒くしている。
「あのメイド達に、蔑ろにされているじゃありませんか」
「はは、そこまで酷くはないよ。毎日、きちんと朝の挨拶も来るし、着替えも身支度も手伝ってくれる。掃除も洗濯も行き届いていて……あぁ、それはひい達じゃなくてランドリーメイドとハウスメイドの仕事だったか……」
「じゃぁ今の状況は何なんですか」
「今?」
「翡翠様に来客があっても、誰もそばに控えていないし、茶のひとつも出さないなんて」
今までは、翡翠が命じる前に、何でもひいが気を利かせてくれていた。必要なものは先回りして用意してあったから不便を感じたことは無かったのだが。
「そうだな。茶ぐらい出してもらわないと」
翡翠は滅多に使うことのない呼び鈴に手を伸ばした。
ほどなくして誰かがドアをノックしてくる。
「入りなさい」
翡翠の声にこたえて、ドアが開く。ワゴンに乗せた紅茶のセットを運んできたのは、普段めったに会うことのないハウスメイドのひとりだった。
「どういうこと?」
艶子がぎろりとした目でハウスメイドに尋ねる。
「どうして、翡翠様のおそばにいるべき者が誰もここに来ないわけ?」
「……わ、分かりません」
消え入るような細い声でハウスメイドが答えると、艶子の眉毛がカッと吊り上がる。
「翡翠様の専属メイドをここへ呼んで! すぐに!」
「いや、艶子、そこまでしなくても……」
ブチ切れた艶子に翡翠の方が途惑っている内に、ひいからななまで七人の専属メイドが応接室にずらりと勢ぞろいしていた。
「あなた達のその冷たい態度はいったい何なの? この方は『きさら堂』の仮の主人である翡翠様ですよ。どうして地下へ行くのにお供しないの? どうして来客があっても放っておくの? 翡翠様がお優しいからといって、つけあがるのもたいがいにしなさいな!」
「つ、艶子……。それは仕方がないのだ。私が勝手なことをして変色してしまったから」
「いったい色が何だというのですか。髪の色が変わってもお顔はそのまま、お声もそのまま、お優しい性格だってそのままです。翡翠様は翡翠様じゃありませんか! 『きさら堂』の仮の主人としてのお役目だって翡翠様はきっちり果たしているのに……!」
ひい達は無表情に押し黙ったままで艶子の苦言を聞いていた。
反省する様子のない彼女らに、さらに艶子はヒートアップする。
「何とか言ったらどうなの? 時津彦様がいったい何のためにあなた達を描いて生み出してくれたのか、今一度よぉく考えてみなさいな。翡翠様にお仕えするというお役目を放棄して、あなた達にいったい何が残るというの?」
「艶子、もう良いのだ」
「でも」
「この子らは人間ではない。感情で意地悪をしているわけではないのだ。なんというか、もっと本能的なものだから」
「本能……?」
艶子がよく分からないというように、翡翠を見る。
「艶子や絹田の親分さん、そして咲夜から見れば、髪の色が変わろうが瞳の色が変わろうが、私は私だろう? でも、絵から生まれたあやかしにとって、色は命と同じくらいに重要なのだ。色が変わった瞬間に、私はもう時津彦様の描いた最高傑作ではなくなってしまった。彼女達にとって、私は本物の翡翠ではないのだ」
「そんな……」
「そうなるのが分かっていて、私はあの青い霧に身をさらした。自業自得だな」
翡翠はふっと微笑む。
自業自得と言いながらも、実は何も後悔はしていない。
あの日、あの痛快で馬鹿げた選択をしたあの日、狸の源吾は呆れつつも面白がり、狐の艶子は心配して説教をくれた。
超絶美人に変化した大蜘蛛の八目姫は、翡翠を一目見るなり手を6本にょきっと出して周囲を凍り付かせると、翡翠の体中を四方八方からペタペタと触り始めた。咲夜への興味より、変色した翡翠に好奇心が傾いたらしい。
そしてそのまま何も言わずに帰ってしまったのだが、その数日後、翡翠の新しい衣装が『きさら堂』に届けられ、以降、ひと月ごとに新作が届くようになったのだった。
「それに……八目姫様が新しく贈ってくださる私の衣装も時津彦様のお好みとはかけ離れているのに、私は毎日のようにそれを着ているから」
八目姫が作る新しい衣装は毎回形が違っていて、女性のイブニングドレスのようなものもあれば、アラビア風のようなものもあり、今翡翠が着ているのはどことなく古代中華風のドレスである。
以前は、体のラインを出さないようなゆったりしたローブばかりだったが、新しい衣装はほぼすべて翡翠の細さを強調するようなデザインで作られていた。
「よくお似合いですよ。以前のお姿はまるで人間のようでしたが、今の翡翠様はもう人間には見えません。もっと高次の存在……天使……いいえ、天界から降臨した天女様のようです」
艶子は最上級の誉め言葉として言ったはずだが、ひい達には逆効果だ。時津彦様は人間なのだから。
翡翠は困ったように微笑み、ひい達に目を向けた。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな。大丈夫だから、無理はしなくて良い。今日はもう下がりなさい」
「いいえ、ここにいてもらわないと!」
「艶子」
「あぁ、違うんです。お説教はもうおしまい。ただ、急ですけど骨董店『きさら堂』に明日お客様が来るので、この子達にもきちんと出迎えをしてもらわないといけませんから」
やっと、今日ここに訪ねてきた本題に入ったようで、艶子がコホンと咳払いをする。
「『きさら堂』に客か。随分と久しぶりだ」
「はい。それが……はるばる仏蘭西から来た元貴族のご老人でして、通訳も一緒に『きさら堂』に入れて欲しいと言っているんです」
「通訳か……あまり、客本人以外を入れたくはないが……」
「そうですよね。何かあった時に処理しにくいですし」
宝飾品を盗もうとして鎧騎士に殺された男のことを翡翠は思い出した。もしあの男に連れがいたなら、きっと面倒なことになっていただろう。
「あの、そういえば蓮次郎はどこです?」
「今朝早くに出ていったらしい」
「え、もう? だって、昨晩は新月だったんですよね?」
「あぁ……」
「じゃぁ、何ですか、やり逃げってことですか?」
「その言い方はどうだろうか。蓮次郎様は私のために来てくださっているわけだから」
「翡翠様……。あいつがいないところでまで敬語を使わなくてもいいんじゃないですか?」
「感謝しているのは本当だ」
「うーん。でも外野の私から見ると、ふたりはもっと腹を割って話し合った方がいいような気がするんですけどね」
「話をしたくとも、すぐいなくなってしまうのでな。ここ数年、まともに会話もしていない」
「はぁ、結局何をどうしたいのかしら、蓮次郎の阿呆は」
翡翠にも、それはよく分からなかった。
翡翠はずっと、蓮次郎と軽口を言い合えるような友人でいたかった。けれど、蓮次郎の方はそうではなかった。分かっているのはそれだけだ。
「仕入れはどうしているんです?」
「最近はあまり仕入れてこないな……。時々、説明書きと一緒に数点置かれていることもあるが」
「あやかし館もかなり賑やかになっていて、そんなに美術品を増やす必要もないですものね」
時津彦様の絵は売れば億の値が付くこともあって、時津彦様自身の資産も多い。骨董店『きさら堂』は時津彦様の道楽で始めたもので、特に儲けを出す必要もないものだった。
「それで、蓮次郎はどこへ行くとかは……」
「すまない。何も聞いていない」
「そうですか。蓮次郎なら英語も仏蘭西語もペラペラだから、通訳を頼めると思ったんですけど……。翡翠様に心当たりは?」
「私は『きさら堂』の外のことは良く知らないのでな……。そうだな、艶子の弟がやっている日曜舎くらいしか」
「詩乃がやっているカレー屋ですね」
艶子の弟の鬼在詩乃は人間が大好きで、いつも人間と触れ合いたいという理由で飲食店を経営していた。
「あそこのカレーは蓮次郎のお気に入りのようだから」
「そうですね。それと詩乃は港近くにジャズバーも持っているんです。まだ鬼在の街にいるならそっちで飲んでいるかも知れません」
「蓮次郎が見つかれば、蓮次郎に頼もう。もし見つからなかったら、客の連れてきた通訳でも良しとしよう」
「分かりました。急いで探させます」
「よろしく頼む」
「それと、もうひとつ。その客人なんですが、欲しいものはすでに決まっているそうなんです。女の影が映るというカーテン、ここにありますか?」
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