あやかし骨董店きさら堂の仮の主人

緋川真望

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(47)咲夜15歳 『きさら堂の仮の主人』後編

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「俺は翡翠様が大好きだよ」

 咲夜の可愛い声がそう言って、

「嬉しい」

 翡翠によく似た声がそう答えた。

「違う……。違う! 咲夜、私はここだ! それは私じゃない! 私はここにいる……!」

 叫んでみても、翡翠の声はぬるぬるした壁に吸い込まれてしまって誰にも届かない。

「ベータ、部屋に入っておいで。アルファと一緒に絵をこっちに持って来て」
「なんだなんだ? こんな時に何を見せるって?」
「ね、ねぇちょっと、咲夜くんは本当にそれでいいの? この赤ちゃんみたいな子が六代目で、咲夜くんがその代理だなんて」

 源吾と艶子の途惑った声が聞こえるが、咲夜が落ち着いた声で答えた。

「うん、翡翠様が自由になるなら俺はそれでいいよ。俺ね、あの日翡翠様が安否不明だって聞いてから、必死に知恵をしぼって準備してきたんだ。でも、結局全部が意味無かったみたいだから」

 咲夜が自嘲気味に小さく笑う。

「『きさら堂』の結界を壊すために描いたお札も、蓮次郎に頼んで井筒たかむらの骨を掘り起こしてきたことも、それから……この絵も……。だからせめて、俺は翡翠様の役に立ちたいんだ」
「咲夜、ありがとう。咲夜が『きさら堂』の仮の主人になってくれて、私はとても嬉しいよ」

 翡翠の偽物が優しい声を出す。

 暗闇の中にいる翡翠は、それを聞いて大きく首を振った。

「違う違う、咲夜は役に立ってくれなくったっていいんだ。ただ健やかに生きていてくれるだけで私は幸せなのに……」

 何を言っても、翡翠の声は壁に吸い込まれて消えてしまう。翡翠は不安から寒気がしてきて、自分の体を抱きしめた。

「あ、服が……」

 その手触りに異変を感じて、翡翠はぞっとした。液体に浸かっている部分が妙に柔らかくなっている。

 光の入らない空間に、ぬるぬるとした壁と、肌に痛い液体……。

(ここは……やはり……何かの胃袋の中なのか……?)

 その時、翡翠は視線を感じてハッと顔を上げた。
 誰かが翡翠をじっと見ている。
 ねっとりとした視線が全身にからみついてきて、翡翠の体を隅から隅まで舐めまわすようにみつめている。
 翡翠が腹の中で溶けていくのを、じっくりと眺めて楽しむかのように。

「いや……いやだ……たすけて……」
「ねぇ、咲夜」

 追い打ちをかけるように、翡翠の偽物が甘く囁いた。

「なぁに?」
「今夜は共に寝てくれるのだろう?」
「うん、俺は翡翠様と一緒に寝るよ」
「では、今宵は色々と楽しいことを教えてやろうか」
「楽しいこと?」
「あぁ、大人のあれやこれやだよ」

 咲夜が照れたようにふふふっと笑うのが聞こえた。

(翡翠の偽物が咲夜の体に触れる?)

 リアルに想像してしまい、怒りと吐き気が沸き上がる。

「い、いやだ……いやだ……! そんなこと、やめてくれ……」

 壁に取りすがるように翡翠が言うのを、やはり誰かがじっと観察している。

(わざと周りの音を聞かせているんだ。私が絶望するのを見て面白がっているんだ……)

 無力感が体を冷やしていく。
 翡翠の体は、恐怖でかすかに震え始めた。

「はいはい、イチャつくのは二人きりの時にしてくれ。俺は……ちょっと疲れてきた……ふう……」

 時津彦様が弱々しく息を吐くのが聞こえてきた。

「あ、そうだクソ野郎、じゃなくて五代目、休む前に教えて欲しいんだけど」
「あ? なんだよ」
「ここに来る時、地下の扉を大きく開けっ放しにしてきたの?」
「ん? なんでだ?」
「ちょっと気になって」
「いいや。元の通りに戻したぞ。隙間はせいぜい10センチくらいだったと思うが」
「ふうん……。じゃぁ、ここに来る時、たかむら以外にも誰か一緒だった?」
「いや、誰も……。それがどうかしたか?」
「うーん、ちょっとね」
「時津彦様! では私は扉を閉めてまいります!」

 元気いっぱいにとうが言うのにかぶせて、咲夜が慌てて止める声が聞こえた。

「とう! 待って! 数分でいいからちょっと待ってて!」
「なりません。地下の扉を閉めるのは私の大事なお役目……ん? お前どこかで……ああっ! お前はあの時の……!」
「あれ? 今さら気付いたの?」
「た、たとえまた地の底へ送ると脅されても、私は時津彦様以外の命令には絶対に……」
「咲夜の言うことも聞いてやれ」
「へ? 時津彦様?」
「俺はもう『きさら堂』の主人じゃねぇ。六代目主人はたかむらで、仮の主人はこの咲夜だ」
「で、でも、私の忠誠は時津彦様だけに」
「これからは咲夜の命令に従うんだ。この時津彦がそう望んでいる」
「は、はい……分かりました」

 しゅんとしたとうの声に続いて、意外そうな蓮次郎の声が聞こえてくる。

「へぇ、ずいぶんあっさりと咲夜を信頼するんだな」
「このクソガキは翡翠の意思には絶対服従のようだからな」
「だから?」
「お優しい翡翠サマはたかむらを無下にはしないだろ?」
「ああ、それは当然。翡翠をよく知るこの蓮次郎が保証する」
「俺にはそれだけで十分だ。たかむらさえ安泰ならそれで……」
「うー?」
「あぁ、たかむら。これからも毎日うまいもんが食えるようだぞ」
「あー!」
「じゃぁつまり、時津彦、お前さんの目的はこの赤ん坊みてぇな男を『きさら堂』に預けることだったってことか?」

 源吾の声に時津彦様が答える。

「俺はもう長くねぇ……。たかむらは一人じゃ生きていけねぇだろうし、『きさら堂』の使用人達なら安心してたかむらを任せられると思ったんだ。ところが、無理して地上に出て来てみれば藍玉らんぎょく色した偽物の翡翠がここを牛耳っているじゃねぇか。それで俺がどんだけ焦ったか」
「それで翡翠さんを排除しようとしたってわけか」
「まさか本物の翡翠が俺に口答えするなんて、有り得ないと思っていたからな」
「私は本物の翡翠です。髪の色が違っても、本物の翡翠です」

 翡翠の偽物が、憎らしいほど平然と嘘をつく。

「翡翠には悪かったと思っている……。殴る前にちゃんと確かめるべきだった」
「クソ野郎、じゃなくて五代目」
「おいクソガキ、てめぇわざと言い間違えてるだろ」
「んじゃ、クソ五代目」
「おい」
「あんたがたかむらを連れてここに来たってことは、扉の向こう側の世界には預けられる人がいなかったってことだよね」
「あそこにまともな人間はいねぇ。いるのはバケモンだけだ」
「よくそんなところで、こいつと暮らしてこれたね」
「一応、庇護してくれるあやかしがいてな」
「あやかしが?」
「そいつは自分をぬえだと言っていたが、本当かどうかは分からねぇ。呪いをかけられたとかで顔を失くしていて、いつもぼんやりとしか姿が見えなかったからな。俺が絵師だと分かると、そいつは俺に顔を描いてくれと言ってきた。その代わりに、自分の城に住まわせて、ほかのバケモンどもから俺とたかむらを守ってやると」
「顔を……描く……」
「ああ、描くのは数ヵ月に一回くらいだった。老若男女どんな顔でも奴が望む通りに描いてやった。奴はその顔を使って、方々ほうぼうの世界で悪さしてたらしいがな」
「悪さ」
「ああ、奴は絶望を喰って生きているんだと。残酷な悪事を毎回楽しそうに自慢していたよ」
「例えば、どんな悪事を?」

 咲夜の声が、ほんの少し震えて聞こえた。

「そうだな。夫婦とか、親子とか、想いあっている者同士の片割れを殺して成り代わる、とかかな」
「殺して、成り代わる……?」

 咲夜の声が低くなる。

「殺すって、具体的にどう殺すの?」
「奴は巨大な口を持っていてな、それでばくりと丸呑みするらしい。何日間もかけて、ゆっくりと腹の中で溶かしていくと言っていた。そいつの絶望をじっくり味わいながら」

 ぞくりと寒気がした。
 今、まさに、翡翠はここで溶かされようとしているのだ。

「それで?」
「それで、しばらくは殺した片割れのふりをして仲良く過ごすらしい。で、いい頃合いで残った片割れに自分の正体を明かすんだと。例えば、『お前が今まで妻だと思って愛していたのは、お前の大事な妻を喰らったバケモンだぞ』って感じで。その時の絶望が一番美味いらしい」
「最低だな」
「まったくだ」
「あんたとたかむらはよく無事だったね」
「いつか食う気だったかもしれんがな……。一度、たかむらそっくりの顔を描かされたことがあったから。でも、今のところはまだ俺の描いてやる顔が必要だったんだろう」
「あんたなら、どんな顔でも描けるしね」
「そうでもないさ。この忌々しい蛇のせいで、俺の体はだんだんと動きづらくなってきていた……」
「それで、絵が描けなくなる前に逃げてきたんだ」
「そういうことだ」
「なるほどなぁ」

 偽物の翡翠が納得したように呟いた後、急に甘えた声を出して咲夜に話しかけた。

「咲夜。そろそろその絵を見せてくれないか? 私のために描いてくれたのだろう?」
「そうだそうだ、もったいぶってないでさっさと開帳しろ」

 蓮次郎が、重くなっていた空気を軽くするように言う。

「あーあ。翡翠様に最初に見てもらいたかったのに……」
「ちゃんと見るよ」

 偽物の声が図々しくそう言った。

(見たい。咲夜の絵を私も見たい)

 暗闇の中で、翡翠の絶望が大きくなっていく。
 偽物は翡翠のものをひとつひとつすべて奪っていく気だ。この命だけでなく、命より大事な咲夜までも……。


「うん、じゃぁちゃんと、しっかり見て」

 ばさりと布の動く音がした後、その場にわっと歓声が上がった。

「おお、これは……なんというか……」
「なんとまぁ……ええと……」
「……うわぁ……すごいダダ洩れ……」

 感嘆の声と、それに交じってどこか気恥ずかしいような途惑ったような声が聞こえてくる。

(どうしたんだろう? 咲夜が描いた絵なら、素晴らしいに決まっているのに)



「これが、お前から見た翡翠なんだな」

 時津彦様が静かに言った。

「うん」
「そうか。美しいな……」
「うん」

(それは私を描いた絵なのか? ならばなぜ、ほかのみんなは途惑った声を?)



「な、なぁなぁ咲夜」

 蓮次郎が、照れたようなおかしな声を出す。

「なんつうか……これは……これが翡翠か? こんな……こんな顔、俺は見たことねぇぞ」
「俺にはいつも見せてくれるよ」
「まじか? こんな、なんつうか、母性のかたまり?……みたいな顔を? 翡翠が?」
「そうだよ」
「嘘だろ。これが、翡翠……」
「嗚呼、翡翠さんがまるで聖母様みてぇだ」

 源吾が溜息混じりにそう評価する。

「そうですねぇ。ちょっと陳腐かもしれませんけど、この絵にタイトルをつけるならやっぱり『無償の愛』でしょうか」

 艶子がうっとりした声を出した。

「うー! あー!」
「そうです。あれは翡翠ですよ。翡翠そのものです……」

 たかむらと八目姫様が温かい声で言った。

「これが、私なのか……? 私はこんなに優しい顔をしているのか……?」

 偽物の翡翠が、わざとらしく感動したような声を出している。

「そんなわけないでしょ。似ても似つかないのに」
「え」

 パシン。
 何かを叩くような軽い音がして、壁全体にびりっと衝撃が走って、翡翠は暗闇の中でよろめいた。

「え、なに?」
「お、お前、何を……何をした……」

 偽物の翡翠がガラガラに割れた声を出す。

「何って、お札を額に貼り付けただけだけど」
「ふ、ふだ?」
「うん。俺が『きさら堂』の結界を壊すために作った場作りの札だよ。ちょっとシワシワになっちゃったけど、効力は大丈夫みたいだね。ぜんぜん動けないでしょ? 偽物さん」
「ど……ど、して」
「どうしてって」

 咲夜がくすっと笑う。

「だってお前の顔、たかむらの顔だもん」
「正確に言えば、たかむらと似ているだけの顔だ」

 時津彦様が付け足すように言った。

「なっ! お、同じ顔だろう……?」

 動揺する偽物の声を無視して、咲夜が優しい声で翡翠に話しかけてきた。

「翡翠様、聞こえる? 今すぐ助けるから、ちょっと待っててね」
「咲夜……!」

 真っ暗闇の中で、翡翠は歓喜の声をあげる。

「おい咲夜、どういうことだ?」
「ここにいる翡翠さんは、翡翠さんじゃねぇてのか?」
「いったいいつから入れ替わっていたの?」
「説明は後! アルファ、ベータ、こいつの服をまくってお腹出して」
「はは……私の腹を切り裂くつもりか? 丸呑みした翡翠ごと切れてしまうぞ」
「大丈夫だよ。刃物で切るんじゃないから」

 咲夜がカリッと指を噛む音が聞こえ、やがて暗闇の中にすーっと赤い線が引かれていき、そこがぱっくりと開いて光が差してきた。

「翡翠様!」

 赤い切れ目から指が差し込まれ、それを広げるようにして腕が、そして咲夜の顔が見えた。

「咲夜!」
「俺の手につかまって!」

 翡翠は両手を伸ばして、必死で咲夜の手をつかんだ。そのままずるりと引き出されて、眩しさに翡翠は目をしばたいた。

「助か……た……?」
「う、嘘だ。こんな、私の腹が……! せっかく捕まえた極上の獲物が……!」
「うるせい、この偽物が!」
「ふんじばってやる!」

 蓮次郎と源吾が息巻くのを尻目に、咲夜がぎゅうっと翡翠を抱きしめてくる。

「翡翠様……翡翠様……! うっ、ううー……」
「咲夜……」

 救い出された翡翠より先に咲夜が泣き出して、大きく嗚咽を漏らし始めた。

「ご、ごめん……すぐに、助けられ、なくって……。あいつが偽物だって、すぐに、分かった、けど……。翡翠様がどこにいるのか、分からなくって……。もう死んでいたらどうしようって、もう会えなかったらどうしようって、俺、俺……ううぅー……」

 しゃくりあげながら、咲夜がさらにきつく抱きしめてくる。

「咲夜……ありがとう……」 

 力強い腕と、温かい体温と、優しい咲夜の匂いに包まれて、翡翠は安堵の中でふうっと意識を手放していた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「や、やめろやめろ! せめて、ひとおもいに殺してくれ! そっちには行きたくないー!」

 お札を貼られ、さらにぐるぐる巻きに縛られた鵺は、くねくねと身をよじって暴れている。

「じたばたしないでください。持ちにくい」
「お、お前、分かっているのか? そのドアの向こうには、私が片割れを喰らった者らが何人もいるんだぞ。そこにこんな格好で放り込まれたら……」
「時津彦様も咲夜様もお前を殺せとは言いませんでした」
「だから、そこに放り込まれたら、殺すのと一緒だろうが!」
「とうはお二人の命令に従うのみです」

 とうは無表情にそういって、木蛇穴と書かれた表札のあるドアを開けて、ぽいと鵺を放り込んだ。そうして、鵺の悲鳴を聞きながらバタンとドアを閉めた。

「ふう、やっと本当のお役目に戻れる」

 とうはにっこり微笑んで、いつも通りに正面の木製のドアをきっちりと閉じてからその前に陣取って座り込んだ。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 

 目を覚ますと、すぐ間近に咲夜の顔があった。

「咲夜……」

 安心して微笑むと、黒くて可愛い咲夜の瞳がうるうると潤んだ。

「翡翠様……目が覚めた? どこか痛かったりつらかったりしない?」
「大丈夫だ。ほんの少し、頭がぼんやりするくらいで……。ここは?」
「俺の部屋。翡翠様の寝室は、そのままクソ五代目とたかむらに使わせているから……ごめんね」
「謝ることは無い。今夜は一緒に寝ようと約束しただろう?」

 手を伸ばして咲夜の頬に触れると、咲夜は顔を動かしてちゅっとその手にキスをしてきた。


「咲夜が仮の主人になって……」
「あの自称ぬえの偽物野郎は……」

 二人同時に口を開いてしまい、顔を見合わせてくすくすと笑う。

「咲夜からどうぞ」
「あの偽物野郎は『きさら堂』から追い出したよ。本当は八つ裂きにしてやりたかったんだけれど、優しい翡翠様が嫌がると思って」
「そうか……」

 翡翠は優しいわけではないと思う。
 ただ、あのような下劣なモノのために咲夜の手が汚れるのが嫌なだけだ。

「でも安心して。もう悪さは出来ないはずだから」
「あぁ……気付いてくれて、ありがとう」
「当たり前だよ」
「うん、助けてくれて、本当にありがとう……」

 咲夜がそっと翡翠の乱れた髪を撫でつける。

「翡翠様、キスしていい?」

 翡翠がうなずくと、咲夜はそっと唇を重ねてきた。
 軽く触れ合うだけの優しいキスだ。
 咲夜は唇を離すと、じっと翡翠の目を見つめて来て、またそっと唇を重ねた。

 体の奥底に残っていた恐怖が消えていく。
 翡翠は幸福な溜息を吐いた。

「はぁ……幸せだ……幸せすぎて、もう死んでもいい……」
「翡翠様? 嘘でしょ?」
「ふふ……冗談だ。結婚したら、咲夜に大人のキスを教えてやろうな」
「キス以上のことも?」
「もちろん、もっと奥深いところまですべて」

 何を想像したのか、咲夜の顔がほんのりと赤くなった。

「だから私以外に、その体に触れさせるな」

 咲夜がちょっと目を見開く。

「やきもち焼く?」
「業火で焼き尽くす」
「わぁ」

 嬉しそうに笑ってから、咲夜はコホンと咳払いをした。

「えっと、じゃ、じゃぁさっき言いかけたことをどうぞ」
「咲夜は本当に『きさら堂』の仮の主人になっても良いのか?」
「うん、もうなってるし」

 当然のことのように、咲夜はうなずく。

「だが、今ならまだ私が……」
「俺が六代目になりたかったのは、翡翠様を助けたかったからだよ。だから名目は何でもいいんだ。『きさら堂』の主人でも、『きさら堂』のの主人でも、やることは一緒でしょ」
「でも、それで咲夜の自由が奪われたら」
「時津彦の野郎は自由だったよ」
「え?」
「翡翠様は、元は『きさら堂』の使用人として描かれた絵だったから、ここから出ることが出来なかった。でも、クソ五代目も俺も人間だから、好きに出入り出来るんだって」
「そうか、それなら良かったが……」
「むしろ、『きさら堂の仮の主人』という立場が、今まで翡翠様を守っていたんだって、五代目が言ってたよ」
「仮の主人という立場?」
「うん。『きさら堂』というのは、もとは異界への扉を管理するために建てられたお堂だったんだって。だから、ここには初代が施した術によって守りの力が働いていた。あの偽物野郎は翡翠様がその守りから外れた一瞬の隙をついて、入れ替わったらしいよ」
「そうか……。ずっとこの館に縛り付けられているような気がしていたが、まさか守られていたとは……」
「だからね、今の翡翠様はとても不安定な存在らしいんだ」

 不安定。
 確かに、依代よりしろであるはずの絵は破られてしまっており、しかも『きさら堂』の仮の主人という立場まで失ってしまった。
 翡翠には拠り所となるものが無い。

「翡翠様、お願いがあります」

 急にかしこまって、咲夜が床の上に膝をついた。

「咲夜?」
「どうかこの願いを聞き遂げていただきたいのです」

 咲夜が敬語を使うのを初めて聞いた。
 翡翠が慌てて身を起こすと、咲夜はベッドの横の床に正座して、真剣な顔で翡翠を見上げていた。

「翡翠様……。このままだと、翡翠様はいつ消えてしまうか分からないとあやかし館の神達に言われました。だからどうか、俺の描いた絵に宿っていただけないでしょうか」
「宿る……」
「はい」

 咲夜が反対側の壁に立てかけられた大きな絵を指し示す。
 そこには、翡翠の絵があった。

 柔らかな笑みを浮かべて、好きという感情を隠すことなく溢れさせている翡翠の全身像だ。

「……私だ」
「はい、翡翠様です」
「ふふ……本当に私だ」

 咲夜への想いが溢れすぎていて、見ているだけで恥ずかしくなるくらいの、翡翠そのものの絵だった。

「また絵のあやかしになったら、今度は俺に支配されるかもって思うかもしれないけど、でも……」
「そんな心配をするはずがない」
「翡翠様」
「自分に仕えさせるために描いた絵と、相手を守るために描いた絵は違う。私にもそれくらいは分かるよ」

 翡翠はベッドから立ち上がるが、疲れのせいでふらふらとよろけてしまう。
 咲夜に支えられながら、絵の前まで歩いた。

「だが、宿ると一口に言っても、私にはどうしたらよいか」
「触るだけでいいって、五代目が言っていたよ」
「そうか」

 翡翠は手を伸ばして、絵に指先をちょんと触れさせた。
 たったそれだけで、ふわっと浮遊感があって、いつのまにか翡翠は絵の中に入っていた。

「翡翠様、どんな感じ?」

 絵の向こうから、咲夜が不安そうに聞いてくる。
 翡翠は気持ちよくて、思い切り手足を伸ばした。

「そうだな……あったかくて、居心地が良くて……少し眠い……」
「眠っていいよ。『きさら堂』のことは、仮の主人の俺に任せて。安心して、眠っていいよ」

 翡翠は小さく欠伸をして、目を閉じた。

「では、ちょっとだけ、眠る……」
「お休み、翡翠様」
「あぁ、おやすみ……さくや……」



 そうして翡翠は眠りについて、以後三年間、一度も目覚めなかった。
 



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