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バイト掛持ち

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「ありがとうございます。どうぞロアとお呼びください」
スタッフに連れられて楽屋からホールに向かう。
今日は演奏が無いと思っている客たちの声が店内に響いていた。
ホールの後からマダム・ラッテが姿を現わすと何人かの客が拍手を贈った。
その拍手に優雅な微笑で応えたマダムラッテはテーブルに座ってティナに微笑みかけた。

(さあ、勝負よ!ティナ!)

大きく深呼吸をして前世でも演奏前に必ずやっていた指慣らしをおこなう。

(思ったより鍵盤が固いわね)

前世で使っていたピアノよりしっかり叩かないと音が響かないようだ。

(ではモーツアルトから・・・)

比較的簡単な明るい曲調であるピアノソナタ5番をチョイスして弾き始めた。
それほど長い曲では無いが、何小節か弾いただけで店内は静かになった。
マダムラッテが扇で口を隠しつつこちらを凝視している。
弾き終わったティナがピアノから手を離すと大きな拍手に包まれた。

(良かった・・・でもこれってもしかしてまだ発表前の曲だったかも?)

あまり深く考えることを止めて立ち上がってお辞儀をした。
何人かの女性客が小さくため息を漏らしながらティナに熱い視線を送っている。

(モテたらご祝儀くれるかな)

そんな事を考えながらもう一度ピアノの前に座ったティナは女性にウケる曲を考えた。
再び大きく息を吐いてゆっくりと弾き始めた。
チョイスした曲は「You are the reason」この世界からいうと約200年以上未来の曲だ。

少しゆっくりな曲調にアレンジしているためか、前世でも人気のナンバーだった。
店内はシーンと静まり返ってティナのハスキーなエッジボイスが響く。
男性にしては少し高めなキーだが、ティナの見た目とマッチして中性的なイメージを与えている。
演奏が終わって数秒してから大きな拍手が響き渡った。

(良かった・・・)

チラッとマダムラッテが座っているテーブルに目をやるとマダムも拍手を贈ってくれた。

案内してくれたスタッフに促されピアノの前を立つと何人かの曲からアンコールの声が掛かった。
どうやら気に入ってもらえたようだ。
楽屋に戻るとマダムラッテが待っていた。

「マダム・・・お聴きいただきありがとうございました。如何だったでしょうか」

「とても素晴らしかったわロア。いつから来ていただけるかしら?それとギャランティの事もお話ししないとね」

「ありがとうございますマダム。私は明日からでも構いませんのでご都合の良い日をお選びください。ギャラに関してもこの国の相場がわかりませんのでお任せいたします」

「まあ、私を信じて下さるの?では信頼は裏切れませんわね。では明日から来ていただけるかしら?ギャラについては後悔させない程度の条件を考えておきますわ」

「畏まりました。お仕事を与えて下さった事を心より感謝いたしますマダム」

そういってマダムの手をとり手の甲に口づけした。
マダムはにっこりと微笑んでいる。
スタッフ通用口まで送ってくれたスタッフが入り時間と拘束時間を教えてくれた。午後8時までには入って午前0時までに2ステージが基本らしい。
ステージ衣装はお店で用意してくれるらしいが準備するまでは自前の衣装にするしかない。
女性にしては背は高い方だが男性にしては小柄な部類になるティナに合う衣装が無いと言われた。
明日は衣装を誂えるための職人を呼ぶというので早めに出勤することになった。

「それでは失礼します。明日からよろしくお願いします」

「ええ、お気をつけて。ああ馬で来られたのですか、それなら安心です」

「明日からもその予定ですが問題無いですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。スタッフにも伝えて来ましょう」

スッと騎乗したティナは見送ってくれるスタッフに軽くお辞儀をしてゆっくりと馬を走らせた。
たった1日でふたつの仕事を手に入れたティナは気分が弾む。
ターゲットが来るまで半年しかないのだ。
なんとかまとまった金を稼いで屋敷の体裁を整えなくてはならない。
ティナは無駄な時間は1秒も無いと改めて思った。

それからのティナは朝4時に起床し午後1時まで食堂で働き、帰宅して睡眠をとり午後7時に出掛けて午前1時までピアノマンとして演奏するという目まぐるしい毎日を送った。
相変わらず食堂の夫婦は賄いを持たせてくれるし、クラブDのマダムは破格のギャラを提示してくれた上にステージ衣装も誂えてくれる優遇ぶりだ。

「お嬢様大丈夫ですか?働きすぎではないですか?」

泥のように眠ったティナが浴室に向かっているとビスタが心配して声を掛けてくれた。

「まだ大丈夫。っていうか賄い飯をたっぷり食べているから前より健康かもしれないわ」

「そうですね、私共までいただいて・・・以前より食生活が充実しているうえに食費が掛からないという・・・ありがたいことです」

「そうね。本当にありがたいわ。そういえばクラブDのマダムが毎日演奏するより隔日出勤にしたほうが人気が上がるって言い出してね。貰えるお金は変わらないのに出勤日が半分になったのよ。これでかなり体も休まると思うの」

「それは良うございました。このところお疲れが顔に出ていて心配しておりましたので」

「ありがとうビスタ。ところで最初に預けたお金ってどのくらい残ってる?」

「お預かりしたお金から購入したのは薪や油といった燃料の他は清掃道具や庭仕事の道具だけです。食費はお嬢様のおかげでほとんど掛かっておりませんのでまだまだ余分がございますよ」

「そう、無くなる前に早めに言ってね。それと冬になる前に薪や油などの燃料を貯めておいて頂戴。例えば30人くらいのお客様が1か月くらい滞在されても不足の無い位に」

「御来客のご予定がお有りなのでしょうか?」

「例えばよ。冬になったら値が上がるから安いうちにね」

「なるほど・・・流石でございます」

さっそく手配しますと言って去って行ったビスタを見送りながらティナは浴室に向かった。
昨夜1日おきの出勤を提案してきたマダムに言われたひと言を思い返してみる。

「ロア・・・どういう事情かは聞かないけどお店のためにも男装を継続してね。あなたについた女性客のおかげで売上が大きく伸びているの。もちろん彼女たちに貰ったプレゼントやお小遣いはあなたのものにして良いからね・・・ふふふ。絶対にバレちゃだめよ?」

いつから女だと気付いていたのだろう・・・もしかしたら初めからわかっていたのかもしれない・・・まあそれで売り上げが伸びたのなら問題ないか・・・

(どうりでまだ始めてひと月というのにステージ衣装が増えるはずだわ。しかも貴族風から近衛騎士風まで様々なバリエーションで用意されているものね・・・さすが商売人だわ)
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