泣き鬼の花嫁

志波 連

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95 家名は不要

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 それから三日、残った杣人たちは甲斐甲斐しく佐次郎夫婦の面倒をみた。
 どこから手に入れるのか、キノコや木の実や雉肉を美味しく調理しては食べさせる。
 藁を敷き詰めた寝床は、杣人村のそれと変わらず寝心地も最高だった。

「伊十郎様から差し入れが届きましたよぉ。きっと先に誰かを遣わされたのでしょうねぇ。さすがです」

 春乃が船徳利に入った酒を抱えてにっこりと笑った。

「酒か? そりゃまた豪勢な事じゃ」

 佐次郎が嬉しそうにそれを受け取り佐助に言った。

「たたら場の者たちも呼んでやれ。これからは仲間として一緒に仕事をするのじゃから、こんな良い月が出た夜は酒を酌み交わすのも一興じゃ」

 口角をあげて頷いた佐助が言う。

「曾我衆はどうされます?」

「おう、そうじゃな。あれらも呼んでやれば良い。肉は足りるか?」

「昨日仕留めた猪がありますわい。川で血抜きをしましたけぇ炭火で焼けば最高でしょうて」

「そりゃええのぉ。酒は足りるか?」

 春乃が頷く。

「私が持てたのは一つだけですけんど、あと五つもありますよぉ。ほれ、あそこ」

 春乃が指をさした先には尻からげをした男が二人、大八車を引いている。

「杣人たちとたたら場衆と曾我衆で、今おるのは何人かの?」

 松吉が指を折りながら首を動かして数え始める。
 神妙な顔をして暮れなずむ空を睨む松吉の顔を見て春乃がケラケラと笑った。

「ええっと……わしらが五人で、たたら場の者が四人でしょ? 曾我衆がこっちに八人とこっちに九人おったけぇ……ん? 何人じゃ? 指の数が足りん!」

「二十と六じゃ。足りるか?」

「十分でしょうわい」

 頷いた佐助が、側にいた時蔵を呼んで使いに走らせた。
 たたら場衆はそれぞれの家に寝起きしているが、曾我衆たちは薪小屋で肩を寄せ合っている状態だ。
 空いている家を使えという佐次郎の言葉には、どうしても頷かなかった。

「わしらはまだ他所もんですけぇ、これからはお仲間にして貰いたいとは思うておりますけんど、ちゃんとお役に立てることを示してからでないと申し訳が立たんですよ」

 勘助の言葉に強い覚悟を見た佐次郎は、それ以上は勧めなかった。
 そのことでたたら場衆も見方を少しずつ変えているようだ。

「猪の炙り焼きと酒で固の盃といこうわい」

 佐次郎の号令でわらわらと人々が集まってくる。
 肉を焼く串も、肉を炙るための薪も、すべて杣人たちが準備していた。

「猪は酒で溶いた味噌を塗って喰らうのが一番うまいぞ」

 そろそろ顔の判別が難しくなるほど夜の帳が地表近くまで降りた頃、ひょっこり顔を出したのは木村助右ヱ門だった。
 愛馬の背からひょいと飛び降り、器用に片足だけで着地する。
 今までの鎧姿からは想像できないほど身軽な動きだ。

「木村様! 早かったですのぉ」

 佐次郎の声に木村が白い歯を見せた。

「家督はすでに弟のものじゃけな、俺が長居しても遠慮するだけじゃけ。父上も母上も、もちろん弟も賛成してくれたけぇ、今日から世話になるぞ」

「そりゃ何よりじゃ。さあさあ、こちらにどうぞ、木村様」

 木村が眉を寄せて困った顔をした。
 その表情を赤々と浮かび上がらせるほど、焚火の勢いが凄まじい。

「その木村様呼びは勘弁してくれ。そう呼ばれると俺は道庭様と呼ばねばならなくなる。お前は領主で俺はただの使用人じゃけ」

「いやいや、それは……」

 お互い辞したとはいえ、尼子家での格差はとんでもなく大きかった二人だ。
 佐次郎の困惑も当然と言えよう。

「そうじゃねぇ、ほんなら(それなら)この村では下の名前で呼ぶという決まりをつくりましょうよ。みんな名前で呼び合うのですよぉ」

 春乃の声に佐次郎と木村助右ヱ門が顔を見合わせた。

「そうなると、俺は佐次郎か?」

「では俺は助右ヱ門だな?」

 春乃がコロコロと笑いながら頷く。

「佐次郎さんは呼び馴れとるけんど、助右ヱ門さまはちと(少し)長いねぇ……そうじゃ、助さんにしようか?」

「おっ! いいなぁ。気に入ったぞ」

 恐れを知らない春乃にたじろぐ佐次郎たちを他所目に、当の木村が頷いた。
 春乃が嬉しそうな顔をして木村に言う。

「じゃあ助さん、みんなに一言挨拶せねばね」

 そう言うと春乃は率先して酌をして回る。
 たたら場衆も曾我衆も、驚いた顔をしながらも嬉しそうにそれを受けた。
 コホンと一つ咳をして、竹筒で作った盃をもった木村が声を張った。

「俺は今日からこの領地で働く助さんとなった。今までは軍略の事ばかり考えておったが、これよりはいかにこの村を栄えさせるかを考える者になる。皆も協力して一緒に頑張っていこうではないか」

「おぉ!」

 全員が気を揃えて声を出した後、まるで打ち合わせたかのように佐次郎へと視線を向けた。
 奇しくも夜空を漂っていた雲が切れ、満月がたたら場を明るく照らす。
 その景色に佐次郎は政久の最後の時を思った。

「俺は道庭佐次郎じゃが、これよりただの佐次郎となる。木村様も同じじゃが、武士を捨てたわけではない。しかし、この地で働くときは家名など無用の長物じゃ。皆が仲間じゃ。俺のことは佐次郎と呼んでくれ」

 酌を終えて隣に戻ってきた春乃の肩を抱き寄せて一度月を見上げた後、言葉を続けた。

「これは我が女房の春乃と申す。春乃は我が命であり我が心じゃ。そう思うて接してくれ」

 にこやかな声を出す佐次郎の右目からは止めどなく涙が溢れている。
 戦場に出ていた頃に比べれば、ずいぶんやせ細ってはいるが、その体全体から染み出すような覇気は健在だ。

「鬼の宮は焼け落ちたが、新しい鬼神様が来てくださった。これでこの地も安定じゃ」

 たたら場衆の誰かがそう言うと、どこからともなく拍手が沸き起こった。
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