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96 価値観
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「このトウモク山内(さんない)は泣き鬼様に守られておるぞ!」
そう叫んで佐次郎を見た木村がニヤッと笑った。
全員が口々に『泣き鬼様』と声に出し、嬉しそうに盃を掲げる。
月が霞むほどの煙をあげて、猪肉の脂が爆ぜた。
よねこが焼いた鬼の宮の辺りで、なにかがひゅるりと光を放った。
それを見た春乃が心の中で呟く。
「よねこちゃん、この地は私らが守るけぇね。安心して生まれ変わって来んさい。それまではそこで見守ってちょうだいね」
昨日までのことは過去として酒が洗い流していく。
その場にいる誰もが、明日からの事だけを口にした。
上手に血抜きをした猪肉は相当に旨いらしく、焼けた端から男たちの胃袋へと消えていく。
「宝とはなんじゃろうな?」
助さんと名を変えた木村が佐次郎に話しかけた。
「何でしょうかのぉ。まあ、何でもええんですよ。昨日の敵同士が仲間になれたということが、すでに宝のようなものですけぇ」
「まさにそうじゃな。俺もたたら場山内の番頭になろうなどとは夢にも思わんかったしなぁ」
「不思議な縁ですのぉ」
「ああ、若殿様が繋いでくださったのだろう。まるであの日のような月夜ではないか」
「ええ、本当に」
二人はすっと夜空に視線を向けた。
わずかに雲を纏う満月の光がこの地に祝福を授けているように見える。
「頑張りましょう、す……す……助さん」
佐次郎が照れながら声を出した。
「ああ、頑張りましょうわい。鉄師佐次郎殿」
「いや、やっぱりダメじゃ。その呼び名は慣れません。ましてや木村様にそう呼ばれるなど、臍の周りが痒ゆうてたまりませんわい」
「はははっ! 馴れてくれ。それしかないぞ? こういう現場では命令系統がはっきりしておることが重要なんじゃ」
「はぁ、そうですね……」
大きな声で笑い声をあげた助さんがよろけながら立ち上がった。
すかさず杖を差し出す佐次郎を見て、助さんがニコッと笑う。
「今日だけは無礼講ということにしようか。明日からはけじめをつけねばな」
「助かります」
佐次郎も立ち上がり春乃を手招きした。
杣人たちの中で肉を頬張っていた春乃が撥ねるように駆けてくる。
「なんともかわいらしい女房殿じゃな」
「ええ、あれが俺の宝です」
春乃が前掛けで口の周りを拭きながら佐次郎を見上げる。
「木村さんを寝床に案内してくれ。時蔵に言えば分かるけぇ」
「うん、わかった。では助さん、行きましょうか」
助さんが優しい笑顔で頷いた。
「恐れ入りますのぉ、女将さん」
「おかみさん?」
「ええ、そうでしょう? あなたはこの地の領主の女房殿じゃもの」
春乃の顔が真っ赤に染まったが、暗闇がうまく隠してくれたようだ。
「ではよろしく頼むぞ、女将さん」
揶揄うような佐次郎の声にあっかんべぇをして見せた春乃は、それでも嬉しそうに歩き出した。
「ねえ助さん、あなたは偉い武将様だったのでしょう? こんなところに来るなんて間違ってないかねぇ」
木村助右ヱ門がフッと息を吐いてから言葉を紡いだ。
「間違ってはいないよ。俺はね、春乃さん。一度死んだ人間なんだ。佐次郎も同じ。一度死んだらね、価値観ってものが変わるんだ」
「価値観?」
春乃が不思議そうな顔で木村を見る。
「そう、価値観。要するに何が一番大事なのかっていうことが、とても単純になるんだ。春乃さんは何が一番大事?」
ほとんど考える間もなく春乃は答えた。
「そりゃ佐次郎さまだよぉ。私は佐次郎さまが生きていてくれたらそれでいいんだよぉ」
「はははっ! 例えば片目が無くなっても? 足が片方無くなってもか? もう二度と武士として生きてはいけない体になっても生きていればいい?」
春乃が心底不思議そうな顔をした。
「そんなの当たり前だよぉ。もしもそれが原因で佐次郎さまが働けなくなったら、私が働けばいいんだもん。目が見えなくなったら私が目になるよぉ。片足が無いなら私が杖になるよぉ」
木村助右ヱ門が目を見開いて春乃を見た。
「それは本心か?」
春乃が答える前に先を歩いていた時蔵が声を出した。
「それが春乃さんの本心ですよ。それをわしらは見てきましたけぇね」
「見てきた?」
「ええ。わしらが村に来なさった時、佐次郎さまは息しかしとらんかったです。それを春乃さんはずっと看病しとられましたよ。眠ったままの佐次郎さまの口を開いて、肉を煮込んだ汁を流し込んでねぇ。毎日毎日体を拭いてねぇ。なんとも甲斐甲斐しかったですよ」
「それは……凄いな」
「へぇ、ほんまに頭が下がりますよ。それもね、楽しそうに話しかけてね。見とって微笑ましい程でしたよ」
「なんとも羨ましいことじゃな。俺の家族はまるで腫物に触るようにしてのぉ。なんとも居た堪れなんだよ」
「そうですか。それは辛いですのぉ」
「辛い……そうじゃな。なんと言うか親にも女房にも申し訳が無いというかなぁ。まあ、子はまだおらなんだし、弟に家督相続を譲る言うたら実家に戻ってしもうたけぇ少しだけ楽にはなったが」
「戻りんさった? 離縁ですかい?」
「ああ、そういうことじゃ。あの頃はまだ切断した傷が癒えておらんでのぉ。肉の先が腐れて蛆がわいとった。そりゃもう気味悪がってのぉ……俺の寝とる部屋にさえ入って来んかった」
「そりゃ酷いねぇ。でも、奥さんも辛かったんじゃない? あれほど立派じゃった旦那さんの苦しむ姿が見れんかったんかもしれん。本当のところは奥さんしか分からんよ。でもね、助さん」
春乃が半泣きの顔を木村助右ヱ門に向けた。
「生きとるじゃん。それで十分じゃろ?」
「ああ、その通りじゃ。俺はまだ働ける。人の役にたてる。それで十分じゃ」
三人は奇妙な清々しさを漂わせながら夜空を見上げた。
「あっ! 流れ星! 佐次郎さまも見なさったじゃろうか」
春乃の声がたたら場の空気をほんの少し揺らした。
そう叫んで佐次郎を見た木村がニヤッと笑った。
全員が口々に『泣き鬼様』と声に出し、嬉しそうに盃を掲げる。
月が霞むほどの煙をあげて、猪肉の脂が爆ぜた。
よねこが焼いた鬼の宮の辺りで、なにかがひゅるりと光を放った。
それを見た春乃が心の中で呟く。
「よねこちゃん、この地は私らが守るけぇね。安心して生まれ変わって来んさい。それまではそこで見守ってちょうだいね」
昨日までのことは過去として酒が洗い流していく。
その場にいる誰もが、明日からの事だけを口にした。
上手に血抜きをした猪肉は相当に旨いらしく、焼けた端から男たちの胃袋へと消えていく。
「宝とはなんじゃろうな?」
助さんと名を変えた木村が佐次郎に話しかけた。
「何でしょうかのぉ。まあ、何でもええんですよ。昨日の敵同士が仲間になれたということが、すでに宝のようなものですけぇ」
「まさにそうじゃな。俺もたたら場山内の番頭になろうなどとは夢にも思わんかったしなぁ」
「不思議な縁ですのぉ」
「ああ、若殿様が繋いでくださったのだろう。まるであの日のような月夜ではないか」
「ええ、本当に」
二人はすっと夜空に視線を向けた。
わずかに雲を纏う満月の光がこの地に祝福を授けているように見える。
「頑張りましょう、す……す……助さん」
佐次郎が照れながら声を出した。
「ああ、頑張りましょうわい。鉄師佐次郎殿」
「いや、やっぱりダメじゃ。その呼び名は慣れません。ましてや木村様にそう呼ばれるなど、臍の周りが痒ゆうてたまりませんわい」
「はははっ! 馴れてくれ。それしかないぞ? こういう現場では命令系統がはっきりしておることが重要なんじゃ」
「はぁ、そうですね……」
大きな声で笑い声をあげた助さんがよろけながら立ち上がった。
すかさず杖を差し出す佐次郎を見て、助さんがニコッと笑う。
「今日だけは無礼講ということにしようか。明日からはけじめをつけねばな」
「助かります」
佐次郎も立ち上がり春乃を手招きした。
杣人たちの中で肉を頬張っていた春乃が撥ねるように駆けてくる。
「なんともかわいらしい女房殿じゃな」
「ええ、あれが俺の宝です」
春乃が前掛けで口の周りを拭きながら佐次郎を見上げる。
「木村さんを寝床に案内してくれ。時蔵に言えば分かるけぇ」
「うん、わかった。では助さん、行きましょうか」
助さんが優しい笑顔で頷いた。
「恐れ入りますのぉ、女将さん」
「おかみさん?」
「ええ、そうでしょう? あなたはこの地の領主の女房殿じゃもの」
春乃の顔が真っ赤に染まったが、暗闇がうまく隠してくれたようだ。
「ではよろしく頼むぞ、女将さん」
揶揄うような佐次郎の声にあっかんべぇをして見せた春乃は、それでも嬉しそうに歩き出した。
「ねえ助さん、あなたは偉い武将様だったのでしょう? こんなところに来るなんて間違ってないかねぇ」
木村助右ヱ門がフッと息を吐いてから言葉を紡いだ。
「間違ってはいないよ。俺はね、春乃さん。一度死んだ人間なんだ。佐次郎も同じ。一度死んだらね、価値観ってものが変わるんだ」
「価値観?」
春乃が不思議そうな顔で木村を見る。
「そう、価値観。要するに何が一番大事なのかっていうことが、とても単純になるんだ。春乃さんは何が一番大事?」
ほとんど考える間もなく春乃は答えた。
「そりゃ佐次郎さまだよぉ。私は佐次郎さまが生きていてくれたらそれでいいんだよぉ」
「はははっ! 例えば片目が無くなっても? 足が片方無くなってもか? もう二度と武士として生きてはいけない体になっても生きていればいい?」
春乃が心底不思議そうな顔をした。
「そんなの当たり前だよぉ。もしもそれが原因で佐次郎さまが働けなくなったら、私が働けばいいんだもん。目が見えなくなったら私が目になるよぉ。片足が無いなら私が杖になるよぉ」
木村助右ヱ門が目を見開いて春乃を見た。
「それは本心か?」
春乃が答える前に先を歩いていた時蔵が声を出した。
「それが春乃さんの本心ですよ。それをわしらは見てきましたけぇね」
「見てきた?」
「ええ。わしらが村に来なさった時、佐次郎さまは息しかしとらんかったです。それを春乃さんはずっと看病しとられましたよ。眠ったままの佐次郎さまの口を開いて、肉を煮込んだ汁を流し込んでねぇ。毎日毎日体を拭いてねぇ。なんとも甲斐甲斐しかったですよ」
「それは……凄いな」
「へぇ、ほんまに頭が下がりますよ。それもね、楽しそうに話しかけてね。見とって微笑ましい程でしたよ」
「なんとも羨ましいことじゃな。俺の家族はまるで腫物に触るようにしてのぉ。なんとも居た堪れなんだよ」
「そうですか。それは辛いですのぉ」
「辛い……そうじゃな。なんと言うか親にも女房にも申し訳が無いというかなぁ。まあ、子はまだおらなんだし、弟に家督相続を譲る言うたら実家に戻ってしもうたけぇ少しだけ楽にはなったが」
「戻りんさった? 離縁ですかい?」
「ああ、そういうことじゃ。あの頃はまだ切断した傷が癒えておらんでのぉ。肉の先が腐れて蛆がわいとった。そりゃもう気味悪がってのぉ……俺の寝とる部屋にさえ入って来んかった」
「そりゃ酷いねぇ。でも、奥さんも辛かったんじゃない? あれほど立派じゃった旦那さんの苦しむ姿が見れんかったんかもしれん。本当のところは奥さんしか分からんよ。でもね、助さん」
春乃が半泣きの顔を木村助右ヱ門に向けた。
「生きとるじゃん。それで十分じゃろ?」
「ああ、その通りじゃ。俺はまだ働ける。人の役にたてる。それで十分じゃ」
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