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62 悉曇文字の札
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どのくらい時間が経ったのか、夜空には満点の星が瞬いている。
「遅うなりました」
静まり返った小屋の入り口に駆け込んできた黒い影が握っていたのは、月光を纏ったように黄色く輝くけばけば草だった。
「早かったですのぉ。わしらじゃったらあくる朝にはなっておりましたでしょうに」
「我ら杣人の道は木の上にあるからのぉ。早いも当たり前じゃ。途中で山猿の集団に出おうたが、不思議と避けてくれてのぉ。助かったわい」
そうは言っても相当な無理をしたのだろう。
顔中に切り傷をこさえて笑う時蔵は右腕をだらりとおろしている。
「折れたんか?」
吉松の問に首を振る時蔵。
「ちいと捻っただけですけぇ。心配は要らんですよ」
そう言いながらけばけば草をたたら場衆に渡すと、時蔵はがっくりと膝をついた。
「腕だけで走るようなもんじゃったけぇ、思っていたより疲れとるようですわい」
「ああ、ゆっくり休んでくれ。こちらの首尾は上々じゃけぇ、明るくなってから始めよう」
「ちいと眠っても良うがすか?」
「ああ、ゆっくり休んでくれ」
暗闇の中の会話では詳細はわからない。
ましてや佐次郎の脇腹に幼子の腕が埋まったままになっていることなど、時蔵は想像もしていなかった。
そしてあくる朝、佐次郎と寄り添うように眠る幼女の姿に驚いた時蔵が、部屋の隅で蹲るように丸くなっていた吉松を起こした。
「吉松どん、あの子はなにをしておるんかの?」
目を擦りながら伸びをした吉松が時蔵に答えた。
「ああ、あの子がワシの代わりに佐次郎さまの傷を押さえてくれとるんよ。そろそろ血の管は細うなっとるじゃろう。後は村まで帰る体力があるかどうか……」
「傷を? あの小さい子が?」
俄かには信じがたいという表情の時蔵を見ながら吉松はふと口角を上げた。
「お前には理解できんで当たり前じゃ。目の前で見ておったワシらでさえ、夢か現かはっきりせんもん。でものぉ、佐次郎さまの命はまだここにあるけぇ。お前もよう頑張ったのう」
褒められたことは理解したが、それ以外のことがさっぱりわからない。
「本当にあの子が佐次郎さまの傷を?」
吉松は時蔵が出掛けてからのことを静かな声で話し聞かせた。
「そりゃまた……神様が遣わしてくれんさったということじゃね?」
「そういうことじゃ」
「じゃが吉松どん、血が止まったとはいえ、そのままにしとったら、あの子の腕は佐次郎さまとくっついて離れんようになってしまう」
「そうかも知れんが、そうでないかもしれんじゃろ? ワシらにできることは全部やった。後は仏さんの加護に縋るだけじゃ」
時蔵が頷いた。
「ほんとにそうじゃね。ワシもお天道さんにお願いして来ようわい」
「ついでに顔も洗ってこいや。なかなか酷い顔をしとるけぇ」
伊十郎がぬっと小屋に入ってきた。
まだ暗いうちから小屋を出た伊十郎は、谷の湧き水で体を清め、それとなく周囲を警戒しながら敵の気配を探っていたのだ。
「おう、起きたか。ようやってくれたのぉ。もうすぐ村にも帰れるじゃろうけぇ、ゆっくり体を休めとけよ」
そう言いながら、自分が羽織っていた半纏をまだ眠ってい幼女の体にかけた。
「この子はたたら場の神さんが遣わしてくれた巫女さんじゃ」
「ほんとにそんなことがあるんじゃね」
そう呟いた時蔵の横顔を朝日が照らした。
「おはようさんであります」
たたら場の男が一人の老婆を伴って小屋をのぞいた。
「ああ、お前か。よう休めたか?」
「へぇ、あのぉ。これがよねこのばばさまです」
人生にくたびれ果てたような皺が痛々しい瘦せた老婆が頭を下げた。
「よねこがご迷惑をかけてしもうて……申し訳ないことで……」
水で絞った手拭いで体を清めながら、伊十郎が返事をした。
「迷惑をかけとるんはこっちじゃけ」
男が老婆から受け取った木の札を伊十郎の方へ差し出す。
「これはよねこの母親が山に入る時に置いて行ったものじゃそうです。よねこが無事に七つになったら山の宮にこのお札と一緒に連れて来るように言い残したんじゃそうです」
「ほう? それをなぜ?」
老女が腰をかがめたまま口を開いた。
「梅が言うとったんです。ああ、梅というのはよねこを産んだわしの娘です。その梅が、もしお札を納める前によねこにお役目があるようなら、その方にこの札をお渡しするようにと」
「お役目?」
「へぇ、それはわしにもわからんのですが、梅はよねこには分かると言うておりましたのです。息子から聞いて、これがそのお役目じゃと思うたのです」
伊十郎が眉間に皺を寄せながらその木札を受け取った。
「これは……残念じゃが俺には読めんぞ」
そう言って伊十郎が後ろを振り返った。
柱に凭れ掛かり、苦しそうな息を繰り返す佐助と、その体を両脇から支えている吉松と時蔵が伊十郎が持つ木の札を覗き込んだ。
「こりゃあ密教で使う文字に似とりますのぉ……なんというんじゃったか……」
「悉曇文字(しったんもじ)ですよ」
三人の後ろから声がした。
振り返ると、切り落とされた両手首を止血のために荒縄で縛られた曾我衆の男だった。
腱を切られた足を敷き藁の上に投げ出して、流血を防ぐために両手を上に伸ばしている。
「ああ……お前のことをすっかり忘れとったわい。そんで? なんと言うた?」
「しったん文字言うたんです。密教で使う文字ですが、今では読めるもんは少ないですよ。わしら曾我の者は小さい頃から教えこまれるけぇ知っとりますがね」
「暗号で使うということか?」
「まあそういうことです」
伊十郎が男の前に立った。
「それなら読めるじゃろ? 読んでくれ」
男が木の札をじっと見てから口を開いた。
「命を繋ぐ者と書いてあります。その横には……『きりく』いう字が書いてありますのぉ。掠れとりますが、たぶん間違いない」
伊十郎が男の胸倉を掴んだ。
「きりく? 何じゃそれは」
「この一文字で千手観音様を表すんですよ。きりくと読みます」
「千手観音……俺たちが読めんと思って、でたらめを言うていることはあるまいな?」
男がフッと息を吐いた。
「どうせワシは死ぬんでしょう? まあ助かったとしてもこの腕じゃ死ぬしかないですけぇねぇ、今更噓など言うても仕方もないですわい」
伊十郎が老婆の方へ向き直った。
「遅うなりました」
静まり返った小屋の入り口に駆け込んできた黒い影が握っていたのは、月光を纏ったように黄色く輝くけばけば草だった。
「早かったですのぉ。わしらじゃったらあくる朝にはなっておりましたでしょうに」
「我ら杣人の道は木の上にあるからのぉ。早いも当たり前じゃ。途中で山猿の集団に出おうたが、不思議と避けてくれてのぉ。助かったわい」
そうは言っても相当な無理をしたのだろう。
顔中に切り傷をこさえて笑う時蔵は右腕をだらりとおろしている。
「折れたんか?」
吉松の問に首を振る時蔵。
「ちいと捻っただけですけぇ。心配は要らんですよ」
そう言いながらけばけば草をたたら場衆に渡すと、時蔵はがっくりと膝をついた。
「腕だけで走るようなもんじゃったけぇ、思っていたより疲れとるようですわい」
「ああ、ゆっくり休んでくれ。こちらの首尾は上々じゃけぇ、明るくなってから始めよう」
「ちいと眠っても良うがすか?」
「ああ、ゆっくり休んでくれ」
暗闇の中の会話では詳細はわからない。
ましてや佐次郎の脇腹に幼子の腕が埋まったままになっていることなど、時蔵は想像もしていなかった。
そしてあくる朝、佐次郎と寄り添うように眠る幼女の姿に驚いた時蔵が、部屋の隅で蹲るように丸くなっていた吉松を起こした。
「吉松どん、あの子はなにをしておるんかの?」
目を擦りながら伸びをした吉松が時蔵に答えた。
「ああ、あの子がワシの代わりに佐次郎さまの傷を押さえてくれとるんよ。そろそろ血の管は細うなっとるじゃろう。後は村まで帰る体力があるかどうか……」
「傷を? あの小さい子が?」
俄かには信じがたいという表情の時蔵を見ながら吉松はふと口角を上げた。
「お前には理解できんで当たり前じゃ。目の前で見ておったワシらでさえ、夢か現かはっきりせんもん。でものぉ、佐次郎さまの命はまだここにあるけぇ。お前もよう頑張ったのう」
褒められたことは理解したが、それ以外のことがさっぱりわからない。
「本当にあの子が佐次郎さまの傷を?」
吉松は時蔵が出掛けてからのことを静かな声で話し聞かせた。
「そりゃまた……神様が遣わしてくれんさったということじゃね?」
「そういうことじゃ」
「じゃが吉松どん、血が止まったとはいえ、そのままにしとったら、あの子の腕は佐次郎さまとくっついて離れんようになってしまう」
「そうかも知れんが、そうでないかもしれんじゃろ? ワシらにできることは全部やった。後は仏さんの加護に縋るだけじゃ」
時蔵が頷いた。
「ほんとにそうじゃね。ワシもお天道さんにお願いして来ようわい」
「ついでに顔も洗ってこいや。なかなか酷い顔をしとるけぇ」
伊十郎がぬっと小屋に入ってきた。
まだ暗いうちから小屋を出た伊十郎は、谷の湧き水で体を清め、それとなく周囲を警戒しながら敵の気配を探っていたのだ。
「おう、起きたか。ようやってくれたのぉ。もうすぐ村にも帰れるじゃろうけぇ、ゆっくり体を休めとけよ」
そう言いながら、自分が羽織っていた半纏をまだ眠ってい幼女の体にかけた。
「この子はたたら場の神さんが遣わしてくれた巫女さんじゃ」
「ほんとにそんなことがあるんじゃね」
そう呟いた時蔵の横顔を朝日が照らした。
「おはようさんであります」
たたら場の男が一人の老婆を伴って小屋をのぞいた。
「ああ、お前か。よう休めたか?」
「へぇ、あのぉ。これがよねこのばばさまです」
人生にくたびれ果てたような皺が痛々しい瘦せた老婆が頭を下げた。
「よねこがご迷惑をかけてしもうて……申し訳ないことで……」
水で絞った手拭いで体を清めながら、伊十郎が返事をした。
「迷惑をかけとるんはこっちじゃけ」
男が老婆から受け取った木の札を伊十郎の方へ差し出す。
「これはよねこの母親が山に入る時に置いて行ったものじゃそうです。よねこが無事に七つになったら山の宮にこのお札と一緒に連れて来るように言い残したんじゃそうです」
「ほう? それをなぜ?」
老女が腰をかがめたまま口を開いた。
「梅が言うとったんです。ああ、梅というのはよねこを産んだわしの娘です。その梅が、もしお札を納める前によねこにお役目があるようなら、その方にこの札をお渡しするようにと」
「お役目?」
「へぇ、それはわしにもわからんのですが、梅はよねこには分かると言うておりましたのです。息子から聞いて、これがそのお役目じゃと思うたのです」
伊十郎が眉間に皺を寄せながらその木札を受け取った。
「これは……残念じゃが俺には読めんぞ」
そう言って伊十郎が後ろを振り返った。
柱に凭れ掛かり、苦しそうな息を繰り返す佐助と、その体を両脇から支えている吉松と時蔵が伊十郎が持つ木の札を覗き込んだ。
「こりゃあ密教で使う文字に似とりますのぉ……なんというんじゃったか……」
「悉曇文字(しったんもじ)ですよ」
三人の後ろから声がした。
振り返ると、切り落とされた両手首を止血のために荒縄で縛られた曾我衆の男だった。
腱を切られた足を敷き藁の上に投げ出して、流血を防ぐために両手を上に伸ばしている。
「ああ……お前のことをすっかり忘れとったわい。そんで? なんと言うた?」
「しったん文字言うたんです。密教で使う文字ですが、今では読めるもんは少ないですよ。わしら曾我の者は小さい頃から教えこまれるけぇ知っとりますがね」
「暗号で使うということか?」
「まあそういうことです」
伊十郎が男の前に立った。
「それなら読めるじゃろ? 読んでくれ」
男が木の札をじっと見てから口を開いた。
「命を繋ぐ者と書いてあります。その横には……『きりく』いう字が書いてありますのぉ。掠れとりますが、たぶん間違いない」
伊十郎が男の胸倉を掴んだ。
「きりく? 何じゃそれは」
「この一文字で千手観音様を表すんですよ。きりくと読みます」
「千手観音……俺たちが読めんと思って、でたらめを言うていることはあるまいな?」
男がフッと息を吐いた。
「どうせワシは死ぬんでしょう? まあ助かったとしてもこの腕じゃ死ぬしかないですけぇねぇ、今更噓など言うても仕方もないですわい」
伊十郎が老婆の方へ向き直った。
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