雨音は鳴りやまない

ナナシマイ

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第一章

自覚する(3)

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 この人たちは、神さまが「外の心」と「土の心」を分けた理由がわからない、と言った。けれども、わたしにはわかってしまった。

 土の国の子供。
 それは本当にいたのだろう。でなければ、この服がここにあることに説明がつかない。この身体が中途半端に子供のものであることに、説明がつかない。

 神さまの言葉が、知りたくない事実に繋がっていく。

 木下周の身体は、確かにここにある。神さまもそう言っていたのだから。それを踏まえた上で、土の国の子供について、その存在を考えるとしたら。

 心臓の送り出す血液が、両の指先でドクンドクンと脈打っている。
 その不快なリズムに合わせて、わたしの思考は結論を導きだす。

 ……こんなの、人殺しも同然だ。
 わたしの思いが強すぎて、その子の身体を乗っ取ってしまった。塗り替えてしまった。
 この夢の中の世界は、きっと、それがあり得る場所なのだ。

 口の中がとても苦い。与り知らぬところで起こったことなのに、その当事者は、原因は、わたしだ。その事実が重くのしかかってくる。どうにかして、土の国の子を元に戻せないだろうか。

 ……駄目だ。考えてはいけない。

 神さまが干渉してくるのだ。もうこれ以上、大変なことに巻き込まれたくなかった。だからなにもしないほうが良い。そう思えば思うほど、苦い罪悪感は広がっていく。

 わたしにできることは少ない。ほとんどないと言っても良い。
 それでも、わたしの意識は一本の道を示しはじめた。消極的で、けれども、絶対的な道である。
 結局、向かうところは同じなのだ。

 ……わたしは、自分の、日本の家に帰ることだけを考えよう。

 なにもできないけれど、帰るためなら、きっと。少しくらい頑張れるから。
 だから、わたしは自覚する。
 目標を見失うことがないように。
 あり得ないような神隠しの話から、一人の子供の身体を奪ってしまったという事実から、目を逸らすことがないように。

 すなわち、違う世界に来てしまったのだということを。



 それからしばらくの間、ヒィリカたちは言葉を発しなかった。
 記憶を失ったことに混乱した様子のわたしを見て、そっとしておいてくれたようだ。実際の理由は異なるが、混乱しているのは本当のことだ。

 窓の外を眺めていると、ここには広大な畑と草原、森しかないことがわかった。畑があるということは、人が住んでいるということだ。それなのに、人っ子一人見当たらない。

 綺麗に整備された道を、わたしたちを乗せた荷車だけが進む。
 時どき、空の高いところを、それでも大きく見える鳥が飛んでいく。

 そうして景色を見ているうちに、わたしの心は少しずつ落ち着いてきて、代わりに、ずんと重くなった。

 夜になると、操縦者が鍋を振舞ってくれたらしい。らしい、というのも、わたしは彼と一度も顔を合わせていないのだ。
 出発前のジオ・マカベたちの口ぶりからは、わたしたちを関わらせないようにしたいということが読み取れたので、きっとそういうことなのだろう。それが「ヨナの文官」だからなのか、彼が「変わり者」だからなのか、はたまた別の理由からなのかは、わからないけれど。

 とにかく、わたしが濡らした布で身体を拭いている間、彼は夕食の用意をしていてくれたようだ。外に出ていたヒィリカたちが、鍋と食器を持って荷車の中に乗り込んでくる。
 渡された、ほんわりと湯気の立つ椀からはとても良い匂いがして、お腹の空気がきゅるりと動いた。どんなに気が重くても、お腹は空くのだ。

 そしてこれは、この世界で初めて食べる「調理された」ご飯である。

 難しい作法があっては困ると思い、ちらりと向かいの席を見てみると、ヒィリカたちはただ微笑みながら食べていた。その所作が驚くほど美しいというほか、特段変わったところはなさそうだ。安心して、わたしも食べはじめる。

 鍋は思ったよりも具だくさんであった。キノコや野菜、肉まで入っている。
 肉はともかく、キノコも野菜も見たことのない種類だ。しかし口に運んでみると、そのどれもが知っている味に近いような、どこか違うような味がして、やはり違う世界に来たのだと実感する。
 匙ですくった汁を飲む。味付けはかなり薄めの塩味。素材の味を生かしました、といった感じだ。
 ファストフードに慣れた舌には物足りなさもあったが、キノコの旨味が染みた出汁はほっとする美味しさである。

「……ごちそうさまでした。美味しかったです」

 食べ終えたわたしがそう言うと、ヒィリカとトヲネは顔を見合わせた。もしかして、反応を間違えたのだろうか。

「これはこれで美味しいことは認めますけれど……」
「あと三食はいただくことになりますが、これに慣れてはいけませんよ。ヨナの料理は美しくありませんから」

 ……美しくない。まぁ、家に着けば、嫌でも意味がわかるか。

 この世界の感覚に慣れるのは大変そうだ。そう思って、わたしはそっと溜め息をついた。
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