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第一章
ヒィリカ視点 異変の原因
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「今夜はもう疲れているでしょうけれど、湯浴みだけはしておきましょう。浴室の使いかたを教えます」
わたくしがそう言うと、レインは、光を吸収する真っ黒い石のような瞳を不思議そうに丸くさせてから、微笑みの形に細めて「はい」と返事をしました。
ひとりでの湯浴みは、本当はもっと小さな子供のころに教えることです。
けれども、よその国とマクニオスでは随分と習慣が違うと言いますし、そうでなくとも、レインは記憶を失くしているのです。それがどれだけのものかはわかりませんが、これから一つひとつ埋めていかなくてはいけません。
シルカル様からレインのための湯浴衣と寝衣を受け取り、小さな手を引いて地階へ下ります。
「厠や台所、浴室などの水場はすべて、この地階にあります。地下に大きな水脈があって、そこから水を汲み、また使ったものは別の水脈へ流すようになっているのです」
「……水脈。便利ですね」
傍にある厠の扉を開いてみせると、レインは興味深そうに覗き込みました。荷車にあったものと同じ様式なので、使いかたは教えずともわかるはずです。それなのに、彼女はじっと止まったまま動きません。
どうしたのでしょう――そう思ってレインの顔を見てみると、彼女は耳をすませるように目を閉じています。
はるか下のほうで、ごうごうと音を立てる水脈が気になるのかもしれません。
丸一日ともに過ごしたことでわかったのは、レインはとても聡明で、育てにくいと言われている気立子とはまったく様子が異なるということです。
マカベの儀が次の秋に控えていることを考えると、あまり悠長にはしていられません。けれども、彼女なら簡単にこなしてしまうのではと感じてしまうのは、わたくしの思い違いではないでしょう。
それでも、基本的には落ち着いている彼女が時折見せる無邪気さは、小さな子供ならともかく、感情を抑えるように育てられたマカベの子供には見られないものです。
かと言って「美しくない」と抑えさせるほどでもないのです。
その均衡は絶妙で、むしろ微笑ましささえ感じるのですから、昔から妹を欲しがっていたシユリはどんなに喜ぶかわかりません。
二日前の夜、わたくしはシルカル様の自室へ呼ばれました。
たいていの話は居間か、もしくは一緒に使用している寝室で済ませるので、この部屋――魔法で厳重に守られているジオ・マカベの家の要――に入る機会はそう多くありません。
シルカル様の趣味でもある、飾るように置かれたさまざまな楽器を眺めながら、どのような話をするのか、少しばかりの緊張とともに彼の口が開かれるのを待ちます。
「……南の外縁にて、異常な魔力を感知したと、ジオ・サアレから連絡があった」
「南の外縁……ジオの泉がある辺りでしょうか」
「だろうな。とにかく、ナヒマたちと調査をする。明日の朝灯を終えたら出発できるよう準備しておくように」
「かしこまりました」
不思議な話です。
自然とともに生きるヨナは土地のあちこちに住んでいますが、マカベは神殿の周りに仕事場がありますから、家どころか、中心から離れたところへ行くことすら滅多にないのです。
そして、ヨナは魔力を持っていません。ほかの土地のマカベか、それとも……。
なににしても、シルカル様の調査が必要だということはわかりました。わたくしはすぐに自室へ戻り、明日の早朝に備えて用意をします。
「途中で休憩を挟むつもりはないが、構わないな?」
「この面子なら問題ないだろう」
「ええ、そうですね」
翌朝、ナヒマ様とトヲネ様と合流したわたくしたちは、羽を使い、一直線に南の外縁へと向かいました。
どの土地も外縁は深い森で、そこが境界になっています。ジオの土地はマクニオスの南に位置しているので、南の外縁の向こう側はマクニオスの外です。その手前、いちばん南の森の端に、ジオの泉があります。
ヴウゥゥ――……
昼灯を終えてから、わたくしたちは二手に分かれ、それぞれ東西の入り口からジオの泉へ向かうことにしました。
「魔力の色が濃くなっているな」
その言葉に眼下の森を見下ろすと、なるほど、木々の赤みが増しているように思います。この辺りで大きな魔力が使われたのは間違いなさそうです。
わたくしはいっそう、気を引き締めながら風を操りました。
ジオの泉が近づいたところで高度を下げ、地面に降り立ちます。
泉は古代神の場所ですから、失礼のないようにしなければなりません。
……歌、でしょうか?
ふと、幼い子供の声が聞こえたような気がして、二人一緒に足を止めます。
互いに顔を見合わせて、そろそろと木陰から泉を覗き込みました。
そこに見えたのは、泉のほうを向いた、黒髪の少女の後ろ姿。
『――譛医�髱吶°縺ォ蠕ョ隨代∩縲∫�ゅr縺励→繧翫→豼。繧峨☆……』
なんとうたっているのでしょう。古代語でも、よその国の訛り言葉でもないその歌詞は上手く聞き取れず、雑音が混じっているように聞こえました。
けれども、その不快感を凌ぐほどに美しく澄み渡る、旋律と歌声。溢れる膨大な魔力は、まさしく神のためのものであると理解させられます。
魔力の光が、次々と泉に吸い寄せられては広がっていきます。
そして泉からは、少女のために水がもたらされたようです。
魔力を使って歌を披露し、そのお返しを受け取る。
確かにそれは魔法に違いなく、神も、彼女のことを歓迎しているように思えました。
自然、手が拍手の型をとります。
慌てたふうにこちらに振り向いた少女の瞳は、はっとするほどに深い穴のようで。
「とても素敵な歌ですね。……それに、本当に綺麗な声」
浴室の脇で湯浴衣の纏いかたを教えてから、濡れた床で滑らないように気をつけつつ水瓶の前にレインを立たせました。その縁にある薄青色の魔法石を指差します。
「この石に触れてください」
「……はい」
レインはマクニオスへ来るまでに魔法を見たことがなかったようで、魔法石に触れるよう指示すると、わかりやすくおどおどしはじめます。可愛らしい仕草でもあるのですけれど、早いうちに直さなくてはいけませんね。
水瓶の中が温まると、自動的に浴槽へとお湯が流れていきます。この間に身体を清めておくのです。わたくしは、「わぁ」と喜ぶレインの前に、石鹸が何種類か入った軽石の箱を置きました。
「レインはどの香りが好みですか?」
問いかけると、レインはさっそく鼻をすんすんとさせながら、箱に顔を近づけます。小さく頷いたり、首を傾げたりした彼女が最終的に選んだのは、やわらかな空の色をした石鹸でした。
「これがいちばん、好きです」
「ケッラの花の香りですね。甘すぎるものよりも、爽やかなほうが良いのかしら」
ケッラの花の石鹸を我が家で使っているのはバンルしかいません。わたくしもシユリも、そして友人やその子供たちもみんな、女性は甘い香りを好みます。
珍しい、と思っていると、レインがこちらの顔色を窺うようにして、小さく「はい」と答えました。
身体の汚れを落としたあとは、浴槽に入ります。踏み台を使ったレインは、一度その足をちょん、とお湯につけ、それからゆっくりと浸かっていきました。
お湯がゆらゆらと湯浴衣を揺らすのを見ながら、わたくしはルシヴと一緒に湯浴みをしていたころのことを思いだします。
彼は昔から身体を動かすことが好きで、それは浴室でも変わりませんでした。お湯をぱしゃぱしゃと跳ねさせたり、浴槽の中で泳ごうとしたり……ルシヴ自身にマカベとしての自覚が芽生えるまで、それはそれは大変だったのです。
レインはそのようなことをしないでしょう。けれども、マカベとしての自覚を持っていないこともまた、事実なのです。
「……レイン。先ほども言いましたが、わたくしたちはこれから家族になります。マカベの娘として、ふさわしく振舞えるようにしなくてはなりません。慣れるまでは大変でしょう」
レインの瞳には、お湯だけではなく、不安で揺れる光が映っています。
「そんなときは、わたくしたちを頼ることを、忘れてはいけませんよ」
ジオの泉にて、あの異常なほどに美しい光景を生み出した、気立子の不思議な娘。
この子がどのように育っていくのか、しっかり見守ろうと思います。
……そしてできることなら、一緒に音楽を奏でてみたいものですね。
わたくしがそう言うと、レインは、光を吸収する真っ黒い石のような瞳を不思議そうに丸くさせてから、微笑みの形に細めて「はい」と返事をしました。
ひとりでの湯浴みは、本当はもっと小さな子供のころに教えることです。
けれども、よその国とマクニオスでは随分と習慣が違うと言いますし、そうでなくとも、レインは記憶を失くしているのです。それがどれだけのものかはわかりませんが、これから一つひとつ埋めていかなくてはいけません。
シルカル様からレインのための湯浴衣と寝衣を受け取り、小さな手を引いて地階へ下ります。
「厠や台所、浴室などの水場はすべて、この地階にあります。地下に大きな水脈があって、そこから水を汲み、また使ったものは別の水脈へ流すようになっているのです」
「……水脈。便利ですね」
傍にある厠の扉を開いてみせると、レインは興味深そうに覗き込みました。荷車にあったものと同じ様式なので、使いかたは教えずともわかるはずです。それなのに、彼女はじっと止まったまま動きません。
どうしたのでしょう――そう思ってレインの顔を見てみると、彼女は耳をすませるように目を閉じています。
はるか下のほうで、ごうごうと音を立てる水脈が気になるのかもしれません。
丸一日ともに過ごしたことでわかったのは、レインはとても聡明で、育てにくいと言われている気立子とはまったく様子が異なるということです。
マカベの儀が次の秋に控えていることを考えると、あまり悠長にはしていられません。けれども、彼女なら簡単にこなしてしまうのではと感じてしまうのは、わたくしの思い違いではないでしょう。
それでも、基本的には落ち着いている彼女が時折見せる無邪気さは、小さな子供ならともかく、感情を抑えるように育てられたマカベの子供には見られないものです。
かと言って「美しくない」と抑えさせるほどでもないのです。
その均衡は絶妙で、むしろ微笑ましささえ感じるのですから、昔から妹を欲しがっていたシユリはどんなに喜ぶかわかりません。
二日前の夜、わたくしはシルカル様の自室へ呼ばれました。
たいていの話は居間か、もしくは一緒に使用している寝室で済ませるので、この部屋――魔法で厳重に守られているジオ・マカベの家の要――に入る機会はそう多くありません。
シルカル様の趣味でもある、飾るように置かれたさまざまな楽器を眺めながら、どのような話をするのか、少しばかりの緊張とともに彼の口が開かれるのを待ちます。
「……南の外縁にて、異常な魔力を感知したと、ジオ・サアレから連絡があった」
「南の外縁……ジオの泉がある辺りでしょうか」
「だろうな。とにかく、ナヒマたちと調査をする。明日の朝灯を終えたら出発できるよう準備しておくように」
「かしこまりました」
不思議な話です。
自然とともに生きるヨナは土地のあちこちに住んでいますが、マカベは神殿の周りに仕事場がありますから、家どころか、中心から離れたところへ行くことすら滅多にないのです。
そして、ヨナは魔力を持っていません。ほかの土地のマカベか、それとも……。
なににしても、シルカル様の調査が必要だということはわかりました。わたくしはすぐに自室へ戻り、明日の早朝に備えて用意をします。
「途中で休憩を挟むつもりはないが、構わないな?」
「この面子なら問題ないだろう」
「ええ、そうですね」
翌朝、ナヒマ様とトヲネ様と合流したわたくしたちは、羽を使い、一直線に南の外縁へと向かいました。
どの土地も外縁は深い森で、そこが境界になっています。ジオの土地はマクニオスの南に位置しているので、南の外縁の向こう側はマクニオスの外です。その手前、いちばん南の森の端に、ジオの泉があります。
ヴウゥゥ――……
昼灯を終えてから、わたくしたちは二手に分かれ、それぞれ東西の入り口からジオの泉へ向かうことにしました。
「魔力の色が濃くなっているな」
その言葉に眼下の森を見下ろすと、なるほど、木々の赤みが増しているように思います。この辺りで大きな魔力が使われたのは間違いなさそうです。
わたくしはいっそう、気を引き締めながら風を操りました。
ジオの泉が近づいたところで高度を下げ、地面に降り立ちます。
泉は古代神の場所ですから、失礼のないようにしなければなりません。
……歌、でしょうか?
ふと、幼い子供の声が聞こえたような気がして、二人一緒に足を止めます。
互いに顔を見合わせて、そろそろと木陰から泉を覗き込みました。
そこに見えたのは、泉のほうを向いた、黒髪の少女の後ろ姿。
『――譛医�髱吶°縺ォ蠕ョ隨代∩縲∫�ゅr縺励→繧翫→豼。繧峨☆……』
なんとうたっているのでしょう。古代語でも、よその国の訛り言葉でもないその歌詞は上手く聞き取れず、雑音が混じっているように聞こえました。
けれども、その不快感を凌ぐほどに美しく澄み渡る、旋律と歌声。溢れる膨大な魔力は、まさしく神のためのものであると理解させられます。
魔力の光が、次々と泉に吸い寄せられては広がっていきます。
そして泉からは、少女のために水がもたらされたようです。
魔力を使って歌を披露し、そのお返しを受け取る。
確かにそれは魔法に違いなく、神も、彼女のことを歓迎しているように思えました。
自然、手が拍手の型をとります。
慌てたふうにこちらに振り向いた少女の瞳は、はっとするほどに深い穴のようで。
「とても素敵な歌ですね。……それに、本当に綺麗な声」
浴室の脇で湯浴衣の纏いかたを教えてから、濡れた床で滑らないように気をつけつつ水瓶の前にレインを立たせました。その縁にある薄青色の魔法石を指差します。
「この石に触れてください」
「……はい」
レインはマクニオスへ来るまでに魔法を見たことがなかったようで、魔法石に触れるよう指示すると、わかりやすくおどおどしはじめます。可愛らしい仕草でもあるのですけれど、早いうちに直さなくてはいけませんね。
水瓶の中が温まると、自動的に浴槽へとお湯が流れていきます。この間に身体を清めておくのです。わたくしは、「わぁ」と喜ぶレインの前に、石鹸が何種類か入った軽石の箱を置きました。
「レインはどの香りが好みですか?」
問いかけると、レインはさっそく鼻をすんすんとさせながら、箱に顔を近づけます。小さく頷いたり、首を傾げたりした彼女が最終的に選んだのは、やわらかな空の色をした石鹸でした。
「これがいちばん、好きです」
「ケッラの花の香りですね。甘すぎるものよりも、爽やかなほうが良いのかしら」
ケッラの花の石鹸を我が家で使っているのはバンルしかいません。わたくしもシユリも、そして友人やその子供たちもみんな、女性は甘い香りを好みます。
珍しい、と思っていると、レインがこちらの顔色を窺うようにして、小さく「はい」と答えました。
身体の汚れを落としたあとは、浴槽に入ります。踏み台を使ったレインは、一度その足をちょん、とお湯につけ、それからゆっくりと浸かっていきました。
お湯がゆらゆらと湯浴衣を揺らすのを見ながら、わたくしはルシヴと一緒に湯浴みをしていたころのことを思いだします。
彼は昔から身体を動かすことが好きで、それは浴室でも変わりませんでした。お湯をぱしゃぱしゃと跳ねさせたり、浴槽の中で泳ごうとしたり……ルシヴ自身にマカベとしての自覚が芽生えるまで、それはそれは大変だったのです。
レインはそのようなことをしないでしょう。けれども、マカベとしての自覚を持っていないこともまた、事実なのです。
「……レイン。先ほども言いましたが、わたくしたちはこれから家族になります。マカベの娘として、ふさわしく振舞えるようにしなくてはなりません。慣れるまでは大変でしょう」
レインの瞳には、お湯だけではなく、不安で揺れる光が映っています。
「そんなときは、わたくしたちを頼ることを、忘れてはいけませんよ」
ジオの泉にて、あの異常なほどに美しい光景を生み出した、気立子の不思議な娘。
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