我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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番外編 裕&聡史編

1-marriage

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※本編に登場していたヒロ視点の話です。
 こちらに本編の登場人物たちはほぼ出ません。
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 玄関を開けるとずらりと並んだ靴が目に入った。
 裕は顔をしかめて居間の方を見る。ちょうど母親がでてきて、玄関で立ち尽くすひろむに気づいた。
「あら遅かったわね、裕」
「……ああ」
「すこし前に叔父さんたちが到着したの。今晩は泊ってもらうから」
 靴の脱ぎ場がないほど散乱した玄関を見下ろして、ため息と一緒に声を放つ。
「わかってる」
 今年の正月は家族揃って海外へ旅行するという叔父一家が、その代わりに遊びに来ることは一昨日聞いていた。
「裕も顔を見せなさい」
「はいはい」
 適当に返事をして靴を脱いだ。
 廊下を歩く間にも叔父たちの楽しそうな声が聞こえる。
(ったく……どいつもこいつも、悩みなんかなさそうでうらやましい)
 ため息をもうひとつ吐き出してから、居間のドアを開くと数人が振り返った。
「おおっ、裕くんじゃないか。久しぶりだな~」
 叔父が気づいて片手をあげた。その手にビールの入ったグラスが握っている。
「お久しぶりです……みんなも」
 軽く頭を下げながら居間を見渡せば、叔父の隣に座った叔母、従姉妹たちと順番に目が合う。
 彼らは陽気に笑ったり、声をあげて挨拶を返してきた。
「裕、ずいぶん背が伸びたな」
 ソファの足元に座った二つ年上の従兄弟が話しかけてくる。
 その隣に座りながら裕は苦笑する。
「前に会った時はまだ中学生だったんだ。伸びてなかったら問題だろ」
「そりゃそうか、あはは」
 従兄弟の笑い声に反応して、他の従姉妹たちが会話に参加してきた。
「ヒロムくんはバンドやってるんだって?」
 名前も忘れた従姉妹ににっこり尋ねられて、裕は頷いた。
 答えたのは戻ってきた母親だ。
「そうなのよ~。お金がかかるからって、バイトもしてるおかげで、ほとんど家にいないの。外泊だけは許さないから、遅くなっても帰ってくるけど、わたしが寝ちゃってるのよね」
 顔を見るなり、毎回のようにくり返す愚痴をここでも言う母親に、裕は苛立ちを隠せない。
 小さく舌打ちした裕を、となりの従兄弟が面白そうにちらりと見てきた。
「じゃぁさ、『NEO・ROMAN』知ってる? 友達がファンなんだって」
 従姉妹が口に出したバンド名は覚えがない。
「あ~……ごめん、知らない」
「ええーっ! 結構有名だって言ってたのにな~。じゃあじゃあ、『i-CeL』なら知ってるでしょ」
 頬を膨らませながら従姉妹があげた名前は、考えるまでもなく聞き知っている。
 裕が頷いて微笑みながら答えた。
「もちろん。俺の友達がそこにいるよ」
 とたんに従姉妹ふたりが歓声をあげた。
 紹介してとうるさく寄ってくるのを、手を振って断りつつ、ため息をつく。
 はじめは路上で演奏していたバンド『i-CeL』は、ライブハウスでも演奏をするようになって間もなく注目を集めた。
 ファンの要望でCDを自主製作して販売したのが三カ月くらい前だったか、他のバンドが嫉妬と共に噂するほど好調に売れたらしい。
 演奏するライブハウスが限られていることもあって、毎回ライブチケットが即完売するほど人気を得ている。
 そのひとりが友達だと言うと、聞いた人間は必ず会いたがる。
 裕は同じバンド活動をする者として友達がうらやましいと思うものの、妬ましいとまでは思っていない。毎回同じ反応をされる友達が哀れだと思う。
(うるさいだろな。音楽のこと、どこまで好きで言ってんだって)
 ただ有名なバンドのメンバーだから会ってみたい、と従姉妹たちが思っていなければいい。
 かしましい従姉妹たちが裕は苦手なので、この話題は打ち切ろうと思ったとき、隣で笑いながら会話を聞いていた従兄弟が口を開いた。
「裕がいるバンドは何て言うんだ?」
「……え、俺? 聞いてわかるのかよ」
 ビールを一口飲んで、従兄弟が穏やかに笑った。
「わからないけど、知りたいじゃん」
「そう言うもんか……まぁ、いいけど。『SunGlow』って言うバンドで歌ってる」
「へぇ、裕はヴォーカルなのか」
「まぁね」
「確かに見た目きれいだもんな」
「いや、見た目だけで納得されても」
 どこか掴みどころのない従兄弟との会話は、突然聞こえてきた別の話題に変わって行く。
聡史さとしが結婚するんだって?」
 叔父の声に裕がどきり、と体を揺らした。
 その様子に従兄弟が不審そうな顔になった。
 ほろよく酔っているらしい赤い顔の叔父に、父親が答えるのが耳に飛び込んでくる。
 耳を手で塞いでしまいたい衝動をこらえて、裕はリビングの床に視線を落とした。
「来年の二月に挙式する予定だとさ。三十路を過ぎてようやく、あいつにも春が来たな~」
「あははは、ジジィ臭い言い方だ~。でもまったくだな。浮いた話のひとっつもなかった、万年引きこもりがどうやって相手の女性と出会ったのか、ここはぜひ本人に聞いてみたいところだ」
 そのまま浮かれて話続ける両親や叔父たちの声が、耳に入るたびに心臓が切り刻まれるようだった。
(……人の気も知らないで、うれしそうに話しやがって。ちくしょう)
 いつの間にか膝を強くつかんでいた。痛みに我に返った裕は、両手を開いて息を吐き出す。
 叔父たちが話題にしているもうひとりの叔父、聡史は作曲の仕事をしている。
 年がら年中、曲作りの為にパソコンやキーボードなどの機材に囲まれて、その部屋からほとんど出ない。
「裕がしょっちゅう掃除しに行ってくれてんだよ。バンドに曲を作ってもらってるからとか言ってたが、俺には音楽のことはわからないからなぁ。むしろ聡史がちゃんと生きてるか、裕が確認してくれることの方がありがたい」
 いきなり自分の名前が飛び出して、裕は驚いた。
「そうなの? 裕くん、聡史は元気でやってるか?」
 叔父に聞かれて、慌てて裕は姿勢を正して頷いた。
「あ、はい」
「聡史は炊事とか出来ないだろ。毎日どうしてるんだい?」
 曲作りしか頭にない叔父のことは従兄弟たちも聞き知っているようで、その場にいる全員が苦笑した。
 裕も彼らと同感だと苦笑しながら答える。
「母が作ってくれた惣菜を持って行くことが多いですね。俺が出来る時は作ってます。残ったら冷蔵して置いてくるんですけど……だれかに言われないとそれすら食べないみたいで。だいたい残ったままです」
 庇ってあげたい気持ちはあるけれど、食事すら忘れて制作に没頭されて困っていることは事実なのだ。
 ありのままを伝えると、叔父はやっぱりなという表情で何度も頷いた。
「聡史は聡史のままだな。そんなんでよく彼女を見つけたモンだ。結婚したとしても愛想尽かされなきゃいいが」
「聡史叔父さんのことだから、自分の結婚式を忘れちまうんじゃないの?」
 従兄弟の台詞に全員が声を上げて笑った。
「ありえるな。自分の卒業式を忘れた奴だしな」
 父が苦笑いしながら頭をかく。
 聞いた話によると、聡史叔父はいつの間にか高校を卒業していたらしい。
 式にも出ず、友達に呆れられながら、卒業証書を持ってきてもらったのだと言っていた。
「あいつは今日という日が、何年の何月何日なのか。全然考えずに生きてやがる」
「それでも作曲家なんてやってられるんだから、世の中わからないもんだな」
 穏やかに笑いあう父たちから視線を外した時、母親が見慣れたバッグを持って裕の横にしゃがんだ。
「裕、これから聡史さんのところに行ってちょうだい」
「え……」
「お母さん、昨日忙しくて行けなかったのよ。あんたも行ってないでしょ? そろそろ作り置きも心配になってくるから」
 冷蔵保存して置いてきた食事を、たぶん聡史叔父は忘れているが、気が向いて食べたとして痛んでいなければいい。
 まるで我が子のように心配している母親に、裕はいいよと答えてバッグを受け取った。
 このバッグはいつも使っている物で、今日は保存用タッパーが三つ重ねて入っていた。 
「ついでに手伝ってくるのよ。結婚式の準備で忙しいだろうから」
「……俺も忙しいんだけど」
 母親が心外だと言う顔になった。
「何言ってんのよ、午前中でバイト終わりでしょ?」
「夕方からライブがあるんだよ」
 叔父のところに行くのは構わないが、あまりゆっくりしていられない。
 壁の時計をちらりと見て言う裕に、母親は片眉を上げた。
「なぁに、クリスマス前なのにライブなんてやるの?」
「クリスマス前だからだよ。いまの時期が稼ぎ時なの」
「素人のくせに、一人前の口ね」
 呆れながらも頼むわよ、と言う母親の言葉を背に、裕は立ち上がった。
 話を聞いていたらしい従兄弟たちが、ライブどこでやるの~と言っているのが聞こえたが、苦笑で答えて部屋から逃げ出した。
(俺が聞いて欲しいのは、あんたたちじゃないんだ。悪いけど)
 こんな気持ちで歌うのは、仲間や観客によくないと思うけれど、裕の譲れない本心だった。
 裕は手に握りしめたバッグの取っ手を、力を込めて握りしめた。


 高層マンションの聡史叔父の部屋にたどりついて、裕はため息をついた。
(はぁ……気が重いな)
 無機質なドアを睨みつける。
 ここを開けて入っていくだけなのに苦行のように感じる。
(あの人いたら嫌だな……)
 裕の頭の中に、ひとりの女性の笑顔が浮かぶ。
 一週間前だった。
 いつものように合鍵でドアを開けて、台所へ向かった裕は先客と遭遇したのだ。
『あら、可愛い子』
 セミロングの焦げ茶色の髪を揺らして、首を傾げた女性がキッチンに立っていた。
 白い肌とアーモンド型の目が印象的な女性で、清楚な雰囲気を持っていた。
 思いがけない出来事に裕は硬直したまま、何も言えないでいた。
『ああ……来てたか、ヒロ』
 女性の背後に聡史叔父が近づいた。
 いつもは手入れしない顎をきれいに剃って、へらへら笑っていた。
 アイロンのかかったシャツを着ていたその姿は、まるで知らない人のようだった。
『ご、ごめん……俺、これ、届けに来ただけだから。かか帰るなっ』
『ヒロッ』 
 キッチンテーブルに差し入れの惣菜バッグを投げるように置いて、彼らの顔も見ずに部屋から飛び出した。
 あれからここに来ていない。
 母親はそれに気づいているだろうか。
(よく考えてみれば……あの人が来てるなら、もう差し入れる必要もないんだよな)
 ドアの前に立ったまま、バッグを見下ろす。
 叔父たちが来て忙しいだろうに、わざわざ作った母親の心が、そこには詰まっている気がする。
 いつもより重く感じるそれを見たまま、どうしようか悩んだ。
 母親は結婚相手の女性が来ていることを知らないんだろうか。
 それともたまたまあの日だけここにいて、普段はいないのかもしれない。
(だとしても、クリスマス前だから来てるよな)
 母親に言った自分の台詞が、いまになって胸に沁みる。
 結婚が決まったと言う叔父の部屋に、前と同じように踏み込むべきじゃない。
 無機質なドアの向こうにいるはずの叔父を、とてつもなく遠くに感じた。
(……もう、いままで通りには振る舞えないんだ)
 もうひとつため息をついて、ポケットから合鍵を取り出して鍵を外す。
 ゆっくりドアを開く。
 静まり返った玄関に脱いだままの靴はない。
 こういうところにだけこだわる叔父の性格が伺えて、ふっと裕の顔に笑みがあふれた。
「……お邪魔します」
 実家とはまるで違う玄関に靴を脱いで、音を立てないようにキッチンへ向かう。
 リビングとキッチンが一体になった部屋に入り、作曲に使う部屋の方を見ると、ドアは閉まっていた。
 ドアの手前のソファセットのテーブルに、乱雑にパンフレットが置かれているのが目に入った。
(あれを片づけて、洗濯をする時間はあるかな)
 テーブルに惣菜の入ったバッグを置いた時だった。
 リビングの隣の部屋に続くドアが開いて、聡史叔父が出てきた。
「ヒロ」
「叔父さん……」
 くたびれたパーカーと破れたジーンズ。無精ひげが散らばったままの顔で、裕を見ていた。
 疲れた表情の男性にしか見えない姿なのに、愛しさに裕の胸が締めつけられた。
「……今晩ライブがあるから。もう行かないと」
 本当はもう少し時間があるけど、顔を合わせてしまったらそばに近づきたくて、たまらない。
 すぐにでも帰らないと、何かとんでもない行動をとってしまいそうだった。
 じっと見てくる叔父の視線から顔を背けると、キッチンテーブルの上に見慣れない書類が置いてあった。
(え? これって……)
 白い紙にきっちりと仕切られた枠が並ぶ。
 生まれてから一度も現物を見たことはないが、存在は知っていた。
 呆然と見下ろす裕の視線の先に何があるのか気づいて、叔父は慌てて書類を掴んだ。
 裕の網膜に焼きついて離れない、婚姻届の文字。
(わかってた……つもりだった)
「……叔父さんも、いろいろ準備があるでしょ」
 惣菜バッグをぼんやりと眺めながら、裕の口が勝手にしゃべり続ける。
「ここに置いとくよ。それとも冷蔵庫の中がいい?」
 レンジで温めるくらいはするから、とりあえずここに食べる物があるんだと伝えればいい。
「そこでいい……今晩も歌うのか」
 ぼそりと答えた後に続いた叔父の声に、裕は苦笑しながら頷く。
「前もって言っておいたじゃない。今晩も来れそうにないの」
 裕がバンドをはじめて、およそ一年半の間、叔父は一度もライブを見に来てくれていない。
 どれだけしつこく言って聞かせても、チケットを渡しておいても、忘れてただとか忙しいの一言で流されてきた。
 諦め半分と未練がましい期待半分の視線で叔父を見ると、叔父の方が後ろめたそうに顔を背けた。
「締め切りがある。あと二曲作るんだ……すまないな」
「そっか。大変だね」
 歩きはじめたばかりの子供みたいな会話が、もどかしい空気を生んでいる。
 空気を変えたいと思ったのは叔父も同じだったようで、珍しく叔父が話を続けた。
「大変だと思うなら、手伝ってくれ」
「何を? 結婚式の準備なら嫌だよ」
 強ばった笑顔と一緒に軽く言ってのけて、しまった、と裕は唇を噛んだ。
 好きだと思う人が、別の人と幸せになるための手伝いなんて、大金を積まれたってしたくなんてない。
 もし意固地に手伝いを拒否し続けて、叔父にその理由を問われたら、どう答えたらいい?
 正直な気持ちを伝えるわけにもいかない。
 でも想いをなかったことにも、したくない。
 だから結婚に関わる話題は、しない。
 ただの逃げだとわかっていても。 
「……俺そろそろ行くわ」
 やりきれない思いをため息で吐き捨てる。
 じゃあね、とわざと軽く言ってみせて、手を振って背中を向けた。
 今晩のライブが不発に終わりそうだと予感していたが、そんな気配を感じさせたくない。
「新曲が出来そうになったら教えてね」
「……わかった」
 努めて明るく振る舞って、玄関へ向かう裕を珍しく叔父が見送りに出てくれた。
 ドアの前で一度振り返った。
「…………」
 何かが言いたかったわけでもないから、言葉を見失って裕はただ叔父を見上げた。
 疲れた雰囲気の叔父が、それでも優しく裕を見てくれている。
(あなたが見ているのは甥の裕だけ? 少しは俺自身を見てくれてる?)
 優しさを勘ちがいしたくなる。
「……叔父さん」
 仕事の時だけかける眼鏡の奥にある、叔父の瞳を見つめていると胸が苦しくなってきた。
(あなたに抱きつきたい。好きだって言いたい……もっと近くで見たい)
 いますぐ出て行かないと、とんでもない台詞を言ってしまいそうだった。
 裕は目を閉じて、叔父へと飛んで行きそうな胸の中を押さえつけた。
「……ちゃんと、食べてよ……それじゃ」
「ああ」
 短い叔父の声にすら、頭が歓喜で痺れる。
「……行くね」
「ヒロ」
 ドアの取っ手をなかなか押せない。
 後ろ髪が引かれて、振り向くのも辛い。
 行くと言いながらドアを開けない裕に、叔父が裸足のまま降りて近づいた。
「お守り」
 裕を抱きしめるようにして、叔父が頭頂部にキスをする。
 ライブのたびに、行けない叔父はこうしてキスをする。
 行けないお詫びと、がんばってこいと言う激励のキス。
「……ありがと」
 残酷なくらいに優しい、裕の胸を締めつける甘いお守りも、あと何度もらえるだろう。
 そう気づいたら泣けてきて、裕は慌てて唇を噛みしめた。
 震える声で何とかお礼を言って、ドアを開ける。
 離れていく叔父の体温に心が悲鳴を上げている気がした。
(俺の歌を聞いて欲しいのは、ただあなただけなのに)
 今夜も本当に待っているお客のいないステージで、裕は歌う。
 ドアが静かに閉まった。
 背後で途切れた気配を、名残惜しくて探した。
 叔父はもうすぐ裕ではない人と歩き出す。
「……メリー・クリスマスなんて言いたくないよ」
 雪が降りそうな曇り空を見上げて、裕はひとり呟いた。 
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