我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第一章

8:冒険

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 選んだ曲は、友人に勧められて見たアニメのエンディングで使われていた。
 ヒロに言わせればこれもアニソンかもしれないけれど、後で友人に聞いたところジャズの名曲なのだそうだから、これで許して欲しい。
 英語の歌詞に自信のなさが倍増するけど、ゆりかごに入って一定リズムで揺らされているような心地になるこの曲は好きで、ひとりで口ずさむこともあった。
 俺がいま歌えるのはこれくらいだ。
 目を閉じてバックバンドの演奏に声を乗せていく。みんなアマチュアだと言っていたけれど、彼らの演奏は上手いと思う。同じステージに立っているからか、音楽の海に全身を包まれる感じがして心地よかった。
 だけど歌っている俺自身に対しては、まるで自信がなくて、ひたすら目を閉じ続けた。
 いまちゃんと歌えているだろうか、聞いている人はどう反応してくれているだろう。そんなことはまるで気にする余裕がない。
 ただ無事に歌いきることだけを考えていたから、歌い終わった後に感じたことは疲労感だった。
 演奏が終わって、店内が静寂に染まる。
 恐るおそる目を開くと、数少ないお客さんはグラスを傾けて、談笑している。
 背後のバッグバンドは、別の曲を小さめの音量で奏ではじめた。
 終わったんだ、と息を吐き出して、俺はマイクを元に戻してステージを降りた。
 足がもつれて転びそうになりながら、重く感じる体をヒロの待つカウンターへ運んだ。
「……何て顔してんだよ」
「え?」
 ヒロの前に立ったとたん、がしっと頭をつかまれた。ぐりぐりかき回される。
「いいじゃん、おまえの声。富岡が肩入れするわけだ。これは俺もうかうかしてらんないわ~」
 すでにプロとして活動しているヒロが、本気でそう思うわけがない。冗談を言って俺の緊張をほぐしてくれたんだろう。
 カウンターにグラスを置いて、店長がオレンジジュースを注ぎ入れた。
「お疲れさま。ヒロの合格点がもらえたみたいだから、お祝いにあげます」
 店長がわずかに目を細めて笑いながら、グラスを俺の前に滑らせた。
「ヒロが誉めるなんて、滅多にない。君、自信を持っていいんだよ……ええっと、何て言いましたか」
 俺はグラスを見下ろして、そっと苦笑する。
 何だかんだ言っても、名前も覚えてもらえていない。所詮、俺の歌声はそれくらいだったんだ。
「響。『i-CeL』の響だよ、店長」
「そうでしたね。また彼らにステージで演奏してもらいたいねぇ……あの時は楽しませてもらいました」
 うんうん、と頷きながら店長が言うのへ、俺は興味を引かれて顔を上げた。
「神音たち、この店でも演奏したことがあるんですか?」
「ええ、そうですよ。彼らはこの辺りだけじゃなく、遠方にまで出向いて演奏しているから、馴染みの店が多いでしょうけれど。うちもよく利用してくれますよ」
「すごいな……神音、こんな高級そうな店でも演奏してたんだ」
 思わず感嘆の声をあげた俺のとなりで、ヒロがミネラルウォーターを吹き出しそうな勢いで笑いだした。
「おまえ、一緒に暮らしてるくせに、何でいまごろ感心してんだよっ」
 ケタケタ、腹を抱えて笑い続けるヒロに、俺は口を尖らせて反論した。
「神音が具体的にどこで何をしているのか、知らなかったんです」
 高校に進学するまでは同じ学校だったから、把握しやすかった。
 神音がピアノを辞めて、別々の高校に進学してからは、バンド活動で帰宅が遅くなり、俺が寝てから帰ってくる日が多かった。
 朝はそれぞれ忙しく、いつもどこで何をして帰ってくるのか、話す機会はほとんどなかったのだ。
「……俺が興味なかったせいも、あるんですけど」
 バンドが演奏する場所がどんなところなのか、いまもほとんど想像できない。
「ふぅん……そんな響が、何で歌おうと思ったわけ?」
 頬杖をついたヒロが問いかけてくる。
(正直に言うのも気が引けるし、かと言ってうそは言いたくない……どうしよう)
 しばらく悩んで、答えを引きだした。
「……冒険、してみたかったから」
 一瞬の間を置いて、またヒロが大爆笑した。


 笑いが治まったヒロに、さんざんからかわれて遊ばれた後、俺は夕食の支度があるからとヒロと別れて店を出た。
 慣れない道を駅まで小走りでたどり、帰り道の途中のスーパーに立ち寄る。
 帰宅すると、すでに母親が帰ってきていた。
「ただいま~」
「……今日も遅いお帰りねぇ」
「あ、うん……ごめん」
 リビングに入ると、キッチンから母親が顔をしかめながら出てきた。
 エプロンをしているから、今日は夕食の支度ができたらしい。
「最近、いつも忙しそうね。学校はまだ休みなんでしょう?」
「……うん、まぁ」
 食材を冷蔵庫に納めながら、返事を濁らせる。
 富岡さんが家に来た時の反応を思い出す。
 母親は俺がバンド活動することを、素直に喜んでいないのだ。
「年始が終わったと言ってもね、仕事まだ忙しいのよ。響が手伝ってくれないと、お母さん正直辛いわ」
「……うん、ごめん。出来るだけ手伝うから」
「お願いね。響が頼りなのよ」
「うん……」
 特訓がはじまってから、俺はほとんど家事をする時間がなくなってしまっている。
 もうすぐ高校の授業が再開されるから、なおさら時間が限られてしまう。
 この状況に苛立っているのが肌で感じられて、居たたまれなかった。
(……ごめん、でも、どこまでやれるかやってみたいんだ)
 ヒロの質問に答えたことは、まるきりうそじゃない。
 俺は母親の視線を避けるように俯いたまま、食材をすべて納めてリビングを飛び出した。
 部屋に入ると、作曲用パソコンの前に座っていた神音が電話していた。
 俺と目が合った神音が、通話しながら悪戯っ子みたいに笑う。
 なんだか、すごく嫌な予感がしてきた。
 上着を脱いで片づけている間に通話は終わり、神音がさてと話しかけてきた。
「お帰り、響。ずいぶんと楽しんできたらしいじゃん」
「……いまの電話、ヒロ?」
「そ。ぼくも聞きたかったよ、響の歌。ここでもう一回歌ってよ」
「え……いま、ここで? やだよ、恥ずかしい」
 聞いているのが神音ひとりだと思うと、気楽さより痛烈な羞恥心を感じる。おまけに深夜に近い時間帯、住宅街の部屋で声を出すことすら気遅れしてしまう。
 すると神音は口を尖らせ、床を軽く蹴った。
 何度も足を上下させて、床を蹴りながら言う。
「いいよ、じゃあ代わりに明日からバンド練習に参加してね。富岡さんにも許可もらったし、特訓は一応今日までってことで。明日から響に任せるってさ。つまり自分で必要だと思ったことを続ければいいってさ」
 そう言われると、ほっとするような寂しいような、不思議な感覚だった。
 迷惑と手間をかけているのは自覚していたから、申し訳ないなと思わなくてすむけど、彼らに会えなくなるのは寂しかった。
(勝手だな、俺……けどモーチンさんは特訓じゃなければ会えなかったくらい、すごい人なんだろうし。良い機会をもらってたんだなぁ)
 アレンさんの早さには追いつけないままだけど、初日みたいに家に倒れ着くこともなくなり、マラソンの合間の会話も楽しくなってきたところだった。
 特訓じゃなくても一緒に走ってくれるかな、なんて考えていた俺は、次に耳に飛び込んできた神音の台詞に凍りついた。
「でもって来週にライブやろう」
「……はいぃ?」
 ちなみに今日は土曜日だ。
「来週の土曜に何組かのバンドが共同でライブをすることになってたんだけど、そのうち一組が出られなくなって、代わりにどうだって声をかけてもらってたんだ。響の用意ができてないから、どうしようか迷ってたんだけど、ヒロの話聞いて決めた。明日からみんなと練習しよ」
「勝手に決めないでよ~……ライブって、ヒロがやってたようなやつだろ? 出来ないってば」
「今日はステージで歌ってきたじゃん。出来るよ、代わりないって」
「あれとこれは違うよ」
 バーの客席は数が知れてる。俺はヒロのライブしか見たことないから、ライブと聞くとあの時のホールを思い出してしまって、尻ごみする。
「いける、歌えるって。大は小を兼ねるって言うじゃん」
「……意味がよくわからない使い方しないでくれないかな、神音」
 どんより肩を落とした俺の声なんて、神音は聞いてくれなかった。
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