我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第一章

9:歌声

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 翌日、日曜日。
 神音が連れて行った先は、富岡さんの特訓で使っていたビルだった。
 そのビルは一階は楽器店、二階と三階が音楽教室、四階と五階が練習スタジオになっているらしい。
「ちなみに、このビルの所有者はアレンのお母さんなんだ。アレンの家族は彼が音楽活動するのを全力で応援している。おかげで消耗品とか少し割り引いてもらってるし、練習スタジオも格安で貸してもらえる。持つべきバンドメンバーだよ、アレンは」
「それって、つまりアレンの背後にいる人たちを頼りにしてるってことじゃ……」
「もちろん、それだけじゃないよ。アレンは他のバンドにいたこともあるから、経験豊富で安心して任せていられるリーダーだ……ってことにしといて」
 ちゃっかりしている片割れが、俺にちろっと舌先を出して見せて笑った。
 一緒に育った俺でも神音の本音がどっちなのか、時々わからなくなる。
 苦笑しつつスタジオの中に入る神音について行き、先に来ていたメンバーと合流した。
「ごめん、遅くなったね~」
 神音はすでに用意されていたキーボード脇に鞄を下しながら、みんなに声をかけた。
 八代さんは半袖Tシャツ姿でベースをかまえたまま、俺を見て目を丸くした。
「おぉ、響ちゃんやないか。今日から一緒に練習できるんやな?」
 相変わらず大きな声だ。
「はい、お願いします」
「やった~! ついに『神の声』が聞けるでぇ。なぁ、ダイちゃんよ」
 少し離れた場所でギターを構えていた文月さんがばしばし叩かれて顔をしかめた。
「『神の声』なんて、おおげさですよ」
 そんなに期待されたら歌いたくなくなってしまう。ただでさえライブに出ると聞いて、尻ごみしてるのに。
「それに、響にはまず先にぼくたちの曲を覚えてもらわなきゃならないしね。と言うわけで、これが楽譜。でもって響はあそこに座って、演奏を聞いてて」
 俺に譜面の束を差し出して、神音が場所を示した。
 正面にドラム、左にベースとキーボード、右にギター。
 すべてが見渡せる場所はもちろん何もない床で、アレンさんが慌ててドラムセットから飛び出してきて、スタジオの隅からクッションを持ってきて置いてくれた。
 こう言うところが、頼れるリーダーなのかな。
「なんや、聞いてるだけなんかー。それじゃ、今日は歌声聞けそうにないなぁ」
 あきらかにがっかりしている八代さんに、キーボードに指を添えながら神音は不敵に笑ってみせた。
「……それはどうかな」
 そして練習がはじまった。


 俺は譜面を見つめた。
 音を聞けばすぐに覚えられる神音と違って、俺は楽譜を見ながら聞かないと覚えられない。
 渡された譜面は、学校の授業で見ていたものとは違っていた。富岡さんに渡された教本がなければ、かなり戸惑っていただろう。
(あ~、わかるけど、やっぱり慣れてないから読み解くのに時間がかかるなぁ……うぅ)
 はじめて聞く神音たちの曲は、予想以上にかっこよかった。
 楽器は演奏したことがないからわからないけれど、たぶんかっこいいからこそ、難しい曲なんだと思う。
 ヴォーカルパートは神音が歌うのかと思いきや、キーボードで代用していた。
 音と譜面に集中しすぎていたらしい。いつの間にか演奏が終わっていて、神音が間近にいて俺をつついていた。驚きのあまり飛び上がった俺ににこりと笑いかけてくる。
「え、え?」
 楽譜と神音の顔。現実と二次元の区別がうまくできなくて戸惑う。
「もう一度聞いている? それとも歌ってみる?」
 曲は覚えられたと思うけど、音を追う方を優先したから歌詞までは自信がない。
 迷った末に頷いた。神音が歌わないのなら、これ以上聞くより歌った方が覚えやすいかもしれない。
「そ、うだね……歌ってみてもいいかな」
「わかった。響はそこに立って、ぼくたちの方を向いたまま歌ってね。じゃ、もう一度」
 神音に促されてアレンがリズムをとる。
 もう一度同じ曲を演奏しはじめた彼らを見回して、俺はひとつ息を吐き出した。
 目を閉じると、さっきまで見ていた譜面が広がる。
 歌いはじめるまでに息を合わせ、目を閉じたまま口を開いた。
 神音がバンド活動をはじめてからずいぶん経つけど、俺は神音の曲を聞いたことがない。
 部屋でパソコンやキーボードに向かい合っている間は、神音は常にヘッドフォンを着用していたから、知らない間に聞いていたなんてこともない。
 だからいまは、神音たちが望むように歌おうとは考えず、歌詞の世界を把握することに専念しながら歌うことにした。
 特訓で身につけた発声法を心がけて歌いはじめる。するりと声が出て、その予想外の雰囲気に自分自身が戸惑った。
(俺ってこんな声だったっけ)
 家事の合間に口ずさむのは、鼻歌くらいだったし、特訓では短いフレーズや単音をくり返すばかりだった。
 こうしてちゃんと歌うのはヒロと行ったバーくらいで、あの時はこんな感覚なかったのに。
 気がつくと演奏が乱れはじめていた。
 リズムを刻むドラムが止まり、ベース、ギターの順で音がフェードアウトしてしまった。
(やっぱり、駄目だった?)
 俺は不安にかられ、目を開けた。
「……あ、の……俺ひどかったですか?」
 知らなかった曲だ。覚えたつもりだけど、間違っていたかもしれない。
 それとも聞いていられないほど、ひどい歌だった?
 正面に見えるアレンさんが、眉間にしわを寄せている。
 八代さんは口を開けて、ヒロよりも間抜けな顔になっていて、文月さんは二の腕をさすりながら渋い顔をしていた。
(俺の声、期待外れ……だったかな)
 沈黙する三人と落ち込む俺。
 ただひとり残った神音が、ふふふっ、と低く笑いはじめた。
 全員が神音を見る。肩を揺らし俯いた神音はまだ笑い続けていた。
「ぼくの耳は、やっぱり正しかった……」
「神音?」
 気でもおかしくなったかと心配した俺の声に、ばっと顔を上げた神音がキーボードから離れ、俺に駆け寄り抱きついてきた。
「間違いないっ、響の声が最後のパーツだったんだ! いまこそ、本当の『i-CeL』誕生だっ」
「な……えっ、俺、間違えたとか、期待外れとかじゃなかったの?」
「そんなわけないでしょ、ねぇ、リーダー?」
 抱きついたまま神音がアレンさんを見る。つられて視線を向けると、目尻を下げて笑っているアレンさんがいた。
 さっきまでのしわは、きれいさっぱり消えている。
「……やれやれ、また神音にしてやられた。よくもまぁ……昔聞いただけの声を覚えていたねぇ」
 手首をさすりながらアレンさんがしみじみと言って首を軽く振った。
「響くんの声に、オレたちの音が高みへ引っ張られていくみたいだったよ。神音には悪いけれど、いままでのオレたちの音楽は、薄っぺらい贋作で、この音楽こそが本物なんだって直感が教えてくれて。思わず興奮しちゃったよ。不覚にも打ち損ないました、すみません」
 おどけた風を装いアレンさんが頭を下げてみせる。年上でリーダーでもある彼に、そんなことされる理由なんて、俺にはないのに。
「ちょ、アレンさん?」
「ははっ、おれも弾きそこなってもうたわ。こんな音色出せるんかおれたちって、驚いてしもうてなぁ……信じられへんかってん」
「……ヤッシーのはただ単に、練習不足でしょう」
「何やて~、ダイ。ならおまえは何も感じんかったんか?」
 文月さんは俺を見て、満面の笑顔になった。
 あまり表情がない方だと思っていたけど、こんな風に表情全開で笑うこともできるんだな。
「先輩の言う通り、響君の声で僕たちの音が昇華されていくようでした。鳥肌が立って、意識がどこかに飛ばされそうな気がしました」
「……それって、良い事、ですか?」
 彼らが言ってくれるように歌えた自覚はまるでない。俺に抱きついたままだった神音が、耳元で叫んだ。
 片割れがこんな風に興奮することは滅多にない。基本的に陽気で元気だけど、大声をだしてはしゃぐのは珍しい。
「あったりまえじゃんか~、ぼくが言ったでしょう! 響の声はぼくが覚えている、ぼくの音楽に足りないものだって。ぼくたちはすごいんだ、そんなぼくたちに求められている響もすごいんだって!」
「ちょ、ちょっと……痛いよ、神音」
 抱きついたまま俺を揺らす神音の体を離そうともがく。
 そんな俺たちに笑いながらアレンさんが近づいてきた。
「それにしても響くん、この曲知ってたの?」
「え……いいえ」
「ここに来て、覚えて、すぐ歌ったんだ?」
「す、すみません」
 俺はアレンさんに問い詰められていると勘違いして、慌てて頭を下げた。
 やっぱり真剣に作った曲なんだから、半端な気持ちで歌って欲しくないよな。
 ところが両手を振ってアレンさんは否定した。
「責めてるんじゃないの、驚いているんだよ。まだ全部は聞いてないけど、歌いだしからしてはじめてとは思えなかったから」
 これに答えたのは神音だった。
「響は演奏を聞きながら見た楽譜はすぐに覚えられるし、忘れないんだ」
「神音が自慢するところじゃないでしょうが」
 アレンさんが苦笑している。
「最初に気づいたのはぼくだからいいでしょ。いまでも変わらないと知って安心したよ」
「いまでも、てことは昔も?」
 ベースを置いて八代さんも近づいてきた。
「ピアノ教室に一緒に通ってた頃にさ、一度見ただけの印刷ミスをしてた楽譜の通りに歌ってみせたことがあってねぇ。先生は気づいてなかったけど、ぼくは一度聞いた音は全部覚えているから」
 みんな俺のことで驚いているみたいだけど、神音の方がすごいと思う。
 本人が言った通り、神音はどこで聞いた音でも一度で全部覚えて忘れないんだ。
「へぇ……ほんなら、双子そろって音楽の才能に恵まれとるってことやなぁ~。どっちもすごいことやで、なぁ?」
 八代さんが振り返った先で文月さんが頷いていた。アレンさんは笑顔で、温かい目をして俺を見ていた。何だかとても照れる。
「そう言うわけだから、今週末のライブに響も間に合う。代打だけど、真正『i-CeL』の初披露になるライブだ。気を引き締めて」
 神音の一言で練習は再開された。時々アレンさんよりもリーダーっぽい。
 それから俺が覚えたてなので、本当に歌えるのか確かめるためにも曲の最後まで通して演奏してみた。
 メンバーたちより、俺自身が自信が持てなかったから、歌い終わったとたんみんなの顔色を伺ってしまった。ヒロが見たらまた笑われてしまうな。
 神音がにこりと笑って頷いた。
 ほっとしたのも束の間、すぐにでもと神音が言葉を続ける。
「譜面に書ききれてない部分がまだ足りてないね。ココロの部分」
「ココロ……?」
「感情、と言ったらわかる? 歌はただ定められた音程で、指示の通りの声量で歌えばいいものじゃないんだ。特訓でも教わったでしょう?」
 そう言えば、モーチンさんも同じ部分で渋い顔していた。
 ヒロについて回って、少しは克服できたと俺は思っていたんだけど。
 肩を落とす俺に、アレンさんが笑いながら励ましてくれた。
「響くんが想像以上に歌ってくれたから、神音は欲張りになっているんだよ。いまよりもっとよくなるって、神音にそう思わせるなんてすごいことだ。自信を持っていいよ、響くん」
「はぁ……そうだといいんですけど」
 それからは他の曲の練習になった。俺は覚えることが先決なので、また中央に座って楽譜を睨んでいた。
 覚えた後で歌ってみて、神音の評価を聞いて、歌い直してみる。
覚書を付け加えたり、問題の場所だけを演奏してもらって歌ってみては、神音に駄目だしされる。
他のメンバーが各々バイトや用事で抜けるまで、三曲練習して終わった。
 自宅に帰りつくなり、俺はベッドに倒れ込んで意識を失ってしまった。
 夕食だと神音に起こされたそうだけど記憶にない。それなのにちゃんと夕食をとったそうだから、気持ちが悪い。
 月曜日、神音は前日の様子を見て、曲を覚えるのは一日一曲までと制限した。
「自覚しているよりも疲弊するんだよ。覚えることばかりに力を入れすぎて、肝心の歌の方に意識が残ってなかったら本末転倒だ」
 今朝も椅子に座っていられないほど、ふらふらだったところを見られているから反論できない。
「ライブでは五曲歌う。昨日は三曲覚えたでしょ、毎日一曲ずつ覚えて仕上げていっても十分に間に合う。いいね?」
 ファンサイトのアンケートで、ライブで歌って欲しい曲の一位に挙げられる人気の曲が、その日の練習曲だった。
 俺は相変わらず自分の声に馴染めなくて、どこか他人が歌っているような、現実離れした感覚があって、練習中も落ち着けなかった。
 休憩中に携帯を確認すると、今日は母親が早く帰宅できるらしく、夕食は任せていいとメールが届いていた。
 俺と神音も学校が再開していたし、八代さんは副業としてパタンナーをしていると言う。   
 文月さんも実家の喫茶店を手伝いながら大学に通っているそうで、メンバー全員が揃う日は貴重らしい。夜遅くまで練習を続けた。
 そろそろ解散しようか、とメンバーが片づけをはじめるなか、キーボードは置いて帰ると言う神音と身軽な俺が先にスタジオを出た。
「どうせ明日も使うし、あのスタジオはぼくたち専用になってるみたいなもんだしね~」
「せ、専用って……ちゃんとお金払ってる?」
 スタジオを借りた経験はないので、相場は知らないけれど、カラオケボックスですら借りるのに費用がかかるのだ。
「もちろん……アレンがね」
「…………」
 一円も払ってない俺が突っ込める話題じゃないので、沈黙を貫きながらも申し訳なさに胃が痛くなる。
「アレンが言いだしたことなんだから、響が気にしなくていいんだよ」
 神音はそう慰めてくれたけども、連日使っているくせに、使用料を払っていない罪悪感はひどく重かった。
 落ち込みながらエレベーターに乗り込んで、一階に下りた時だった。
「いい加減にしてくださいッ」
 扉が開いたとたんに、鋭い声が飛び込んできて、俺たちは動きを止めた。
 ビルの出口へ続く一直線の廊下の先で、人影がふたつ動いているのが見える。
「アレン……?」
 神音が首を傾げて呟いた名前に、俺は驚きながら前方を目を凝らして見た。
 外からの明かりで逆光になった影のひとつは、確かに特徴的な髪の色をしている。
(そう言えば練習が終わったとたん、先に出て行ったけれど、鞄は残ってた。帰ったわけじゃなかったんだ)
 ぼそぼそと断続的に聞こえてくる声も、彼のような気はするけれど、いままで聞いたことのない響きだからまるで別人のようでもあった。
「何してんのかな……だれと話してんだろ」
「さぁ……文月さんたちはまだスタジオに居たよね」
「うん」
 俺たちはエレベーターを降りるのをためらって、扉を開けたまま様子を伺っていた。
 ふたりは何か言い合いながら、揉み合っているようでもあった。
 するとふいに、影がこちらを見て動きを止めた。ふたりとも同時に。
「……響、くん」
 アレンさんがぽつり、と呟いたのが聞こえたとたん、もうひとつの影から敵意のようなものを感じて、俺は一歩後ずさった。
 暗くてよく見えない相手から、睨まれているようだと思った。
 神音も同じことを感じたのか、すいっと影と俺の間に割って入り、隠してくれた。
「神音……」
 するとしばらくしてアレンさんの声が近くで聞こえた。
 神音が俺の腕を掴んでエレベーターを降り、アレンさんの前に立つ。
 視界が晴れた俺は出入り口付近を見た。そこにはだれもいない。
「ごめん、驚かせてしまったね」
 アレンさんの声に慌てて視線を戻す。廊下の薄暗い照明の下で、練習のせいだけではない疲れに満ちた顔が、苦しそうに笑っていた。
「あ、いえ……」
「だれだったの、あれ。知り合い?」
 神音が出入り口を睨みながら問いかけた。
「ん……気にしなくていいよ、もう来ないから」
 アレンさんはそう言って、逃げるように俺たちが降りたエレベーターに乗り込み、手を振った。
「気をつけて帰りなよ。また明日」
 どこか腑に落ちない感覚を持て余しながら、俺たちはビルを出た。
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