我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第一章

11:本番前

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 ついに土曜日が来てしまった。
 ライブハウスで行うライブにも、いろんな形式があるらしい。
「今回は対バンで……出演するバンドが複数あるライブのことなんだけどね。オレたちは二番目の出演。このライブハウスで演奏するのは三カ月ぶりかな? オーナーとオレの母親が馴染みだから、よく声をかけてもらっているんだよ」
「そ、う……ですか」
 生まれてはじめて入ったライブハウスの控室で、俺は半分意識を飛ばしていた。
 せっかくそばについて、あれこれ説明して気を遣ってくれるアレンさんに、ろくな返事もできない状態だった。
「……響くん、昨日は眠れた?」
「少し……」
 アレンさんが俺の顔を覗きこんで、顔を曇らせる。もちろん、俺は数秒たりとも眠れなかった。
「ひどい顔してる。元が美貌なだけに、そんな顔でも色っぽいけどね」
「……?」
 この人いま、勘ちがい発言しませんでしたか。
 その時、首筋にぴとっと冷たい物が押し付けられた。驚いて飛び上がった俺が振り返ると、ソファの後ろに神音がいて意地悪く笑っていた。
 手にはペットボトルが握られていて、それが首に触れたんだとわかる。
「響、不感症はここでは発揮されなかったみたいだねぇ」
 ライブ用の衣装に着替えた神音が、にやにや笑いながら俺を見下ろしてくる。その目に少し心配の色が見えた。
「これ飲んで。少し落ち着けるかもしれない」
「ん……ありがとう」
 差し出されたペットボトルを受け取り、開封して口をつけた。
 飲んでから気づく。体に近い飲料だと宣伝していたアレだ。
「ヴォーカルが歌う前に喉を涸らしたら洒落にならない。こまめに水分はとりなよ」
「ところで、神音……響くんが不感症って、どういうこと?」
 アレンさんが口を挟むタイミングを待っていたらしく、神音の発言に食い付いた。
「不感症どころか、この様子だと敏感そうに見えるんだけど」
「ああ……響は自分の感情に疎いんだよ。たぶんぼくが原因だと思うんだ」
 神音は中学までの生活をアレンさんに語って聞かせた。
「音楽ってお金かかるからね。ただの会社員家庭に金銭的余裕はないし、母さんも働きに出れば、家事に手が回らない。響が学校から帰って代行してくれて、どうにかやってこれた。おかげで響は自分のことを二の次にするようになってしまったわけ」
「なるほど」
 肩をすくめて、神音は話を締めくくった。
 まさか神音が気にしているとは思ってもいなかったので、俺は新鮮な気持ちで神音を見上げた。
「響が思ったように感情を出せないのは、そのせいだよね、たぶん」
「神音……」
 しょぼん、と肩を落としたように見えて、俺は思わず呼びかけていた。
 そこへ遅れて八代さんと文月さんが入ってきた。ふたりは先に会場の様子を見に行っていたんだ。
「ふえ……今夜は客の入りハンパないわ。チケット売りきれとる。おれたちが代打で出演すると告知したの、かなり直前やったはずなんやけど。みんなちゃんと来てくれたみたいやで」
 俺の対面にあるソファにどかっと座った八代さんは汗をかいていて、暑そうに衣装の胸元を煽いでいる。まだ冬なのに。
 八代さんの後から入ってきた文月さんは、メイクのおかげで別人のようだった。
 過去のライブ映像を見て知っていたけれど、実物を目撃するとやはり衝撃具合が強い。
 黒いアイラインにタトゥーシールで頬に稲妻を描いて、剥きだしの肩にも黒い竜のタトゥーをつけている。
 ちなみに俺たち全員の衣装は、八代さんが作ってくれたものだ。
 バンド練習に参加してすぐ、なぜか採寸されたのでおかしいなと思っていたけど。まさか自作だなんて想像してなかった。
「音だけやなくて、見た目も重要やて、姉ちゃんがうるさくてかなわんわ。あぁ、デザインはすべて姉ちゃんやで。おれは服にするだけや。響くんの写真見せたら、姉ちゃん飛び上がって喜んでな、きゃぁきゃぁ言いながら服のデザイン描いとったわ」
 おかげでサイズはぴったり。買うには高くつくだろうな、と一目見てわかるくらいに凝ったデザインの服に、着なれていない俺は七五三の気分だった。
 下手に動いて衣装を傷つけたり、汚したらどうしよう。緊張で動かない体を、よけいに動かせなくなってしまう。
 そんな俺を見かねたらしい。アレンさんは立ち上がって、ちょっと出てくるよとメンバーたちに声をかけた。
 怪我していた方の手がしっかりと俺の腕を掴んでいる。つられて立ち上がった俺は、戸惑う。
「オーナーや出演者への挨拶は済ませておいたから、後は頼むね」
「へいへーい」
 メンバーたちが手を振って俺たちを見送る。
「ちょ、ちょっとアレンさんっ」
「響くん、いまのままじゃ歌えないでしょう? リーダーに任せなさいって」
「で、でもどこへ行くんです。もうすぐ出番なんでしょう?」
「あー大丈夫。はじまって間もないから余裕あるよ」
 アレンさんはぐいぐい俺を引っ張って歩いて行く。怪我をしていた方の手だから、負担をかけるのは忍びなくて、足の長いアレンさんの歩調にあわせ軽く走ることになった。
 ライブハウスを出て、銀のワゴン車に乗せられて連れて行かれたのは、早朝ランニングで通った公園だった。
「ちょっと一服して帰ろっか。少しは気分が落ち着くと思うよ」
 車を降りて夜景を見渡せる展望スペースに行き、アレンさんは柵に腕を乗せた。
 となりに立って、俺は夜風を思いっきり吸い込んでみた。
 冷たい風が肺を満たして、吐き出す息が白く星空に溶けていくのを見ていると、少しずつ体がほぐれていく気がした。
「すぐに帰らないといけないのが惜しいね。響くんとゆっくり夜景を楽しみたいのに」
 夜の街を見下ろしていたアレンさんが、心底悔しそうに言うから笑ってしまった。
「そういう台詞は、好きな女性に言うべきじゃないですか?」
 白色に見える金髪を夜風に揺らし、目を細めていたアレンさんは、ちらりと俺を見た後で口元に何とも言えない笑みを滲ませた。
 まるで何か言いたいことを飲みこんだみたいな、煮え切らない感じだ。
「……きれいなものは、だれと見てもいいものでしょ」
「あっ、えっと……そう、ですね」
 どうもアレンさんを傷つけてしまったような気がする。話題を変えよう。
「……連れてきてくださって、ありがとうございました。すごく落ち着けました」
「そ。よかった……そう言えばコレ、つけてくれたんだね」
 何事もなかったように微笑んで、アレンさんの指が俺の首元に伸びた。
 十八の誕生日にもらったシルバーのネックレスを長い指で弄ぶ。
 用意してくれた衣装があまりにもお洒落だったし、神音にも何かつけたらと言われたんだけど、俺が持っているのはこれだけだったのだ。
「神音もつけてましたよ」
「そう? 似合ってるよ、とてもいい」
 どうでもよさそうに神音の名前を聞き流し、アレンさんが誉めてくれた。
 指がネックレストップから頬に移り、くすぐるように動く。思わず肩をすくめた俺に目を細めて、さてとアレンさんが声を上げた。
「……戻りましょうか、響くん。オレが言える立場じゃないんだけど、今夜は何も考えず、楽しもうね」
 そうできたら、どんなにいいことか。
 俺は笑ってごまかして、アレンさんに背中を押されるがまま車に乗り、ライブハウスに戻った。
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