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第一章
14:歪み
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受験や就職活動も重なって、クラス内の空気は刺々しい。
小さな悪戯は後を絶たず、おまえたちは小学生かと呆れたくなるような、古典的な悪戯が途切れることなく続いた。
例えば机の中に、毎日違う種類の虫の死骸が入っていたり、校内用シューズを隠されている。
「……片平、待て」
「へ、何……樫部?」
小ホールで別のクラスと合同の授業を終えて帰ってくると、自分の席に座りかけていた樫部が横を通り抜けようとした俺の腕をつかんで止めた。
いつ見ても冷めた表情をしている樫部が、珍しく眉間にしわを寄せて尖った目つきになっている。
(あれ……怒ってる? 俺何かしたか?)
惚れた弱みと言うんだろうか。うろたえる俺を無視して、樫部は俺の席に手を伸ばした。
「見ろ」
指先が示した椅子の背もたれ部分に透明の画びょうが貼りつけてあった。
ひとつ、ふたつじゃない。ほとんど背もたれ部分すべて、余すところなくだ。
「低能なやつらばかりだな。ったく」
「…………」
真横で樫部が低く毒づいた。俺は血の気が引いていて、応えられなかった。
(忙しいはずなのに、こういうことする暇があるなら、真面目に進路と向き合えよな……って、俺が言える立場じゃないか)
痺れたような感情の片すみで、変なところで真面目な見えない犯人に、少しばかり説教したくなった。
「片平~いまから帰り? なら、おれんちに寄ってかないか。おまえたちに負けない、熱いライブ映像を見せてやるから」
月曜日に忠告してくれてしばらくは、巻き込まれないように距離を置いていた様子の真柴だったが、我慢が切れたのかいまではちょくちょく声をかけてきて、行動を共にするようになっている。
小さな、でも悪意に満ちた悪戯が、真柴にも見えているからだろう。
「うん、見てみたいんだけど、今日はこれから練習があるから」
「お、そうか。ならおれも見学に行っていいか?」
「……聞いてみるよ」
真柴と会話しながら廊下を歩き、鞄から携帯を取り出した。メール画面を開いて神音に真柴を連れて行ってもいいかと文章を打とうとしたところで、だれかとすれ違った。
「っ!」
「片平っ」
何もないはずの廊下でつまずいて、俺は盛大に転んでしまった。
すぐに真柴が気づいて支えてくれたおかげで、顔面から激突することにはならなかったものの、予想もしていなかった姿勢の急変に心臓が早鐘を打っていた。
「くそ、だれだっ!」
真柴が俺を助け起こしながら、周囲を見渡して叫んだ。数人の生徒がこちらを見ていたが、だれもが目を背けて走り去った。
「……くっ、性質が悪い悪戯ばかりしやがって!」
「真柴、ありがと……もういいから……帰ろう」
何とか姿勢を立て直して、真柴を促して歩き出した。
足がズキン、と痛んだ気がした。
スタジオでバンド練習をする時間は、歌うことに集中するので、自然と日常の悩みを忘れることができて助かる。
(あ~……樫部のそばにいる時間も捨てがたいけどね)
校内の雰囲気が殺伐としているせいで、最近の樫部は機嫌が悪い。そばにいられるのはうれしいけれど、機嫌が悪い時の樫部は恐いので、心中複雑だったりする。
ライブの後に寝込みながら、アレンさんと顔を合わせるのが恥ずかしいと悩んでいたのに、学校での出来事にこの時まですっかり忘れていた。
「おはよ~」
スタジオのドアを開けて、アレンさんが入ってくるのを見て、ようやく思い出した。
(うっ……しまった、心構えが……)
鞄を置いて、ペットボトルを取り出すアレンさんを見ながら、どうかこちらを振り向かないでと願いつつ、どんな顔をするべきか悩む。
「……あれ? なんか、人が増えてる?」
ここまで来て疲れたのか、取り出したペットボトルを開封して飲みだしたアレンさんが、壁際に立っていた真柴を見つけて動きを止めた。
真柴が目を輝かせて、気をつけの姿勢になった。
「はじめまして! 片平響君のクラスメートで、真柴尚之と言います。今日は練習の見学を許可していただき、ありがとうございます!」
はじめて見る、興奮した真柴の言動に俺は目が離せなかった。
(クールな奴だと思ってたけど……真柴もアレンさんのファンだったのか。文月さんも尊敬してたって言うし)
アレンさんはペットボトルから口を離して、あははと笑った。
「いいな~、やっぱり若いなぁ。うんうん、元気がよくていいよ。何だか今日はオレもはりきれちゃいそうだよ」
よしよし、とまるで犬を撫でるみたいに真柴の頭を撫でて、アレンさんが定位置へ歩き出した。
すれ違いざまに視線が合って、思わず俺は硬直した。
「うん、顔色合格」
「…………?」
ぽん、と頭に手のひらを乗せて、アレンさんはたった一言言っただけだった。
間もなく八代さんも駆けつけ、メンバー揃って練習がはじまった。
真柴がいるから多少の緊張があったものの、ライブの時よりは平常心で歌うことができた。
あの時の悔しさを胸に、俺なりにこうしてみようと思っていたことを試してみたので、一曲目を歌い終わった後で神音に言われた言葉がうれしかった。
「どうしたの、響。何だか声が変わったみたい……すごくいいよ」
「ありがと。でも、まだまだ練習不足だから」
謙遜じゃなくて、本当にそう思うんだ。
本番で歌うにはまだ足りない。だからこう歌いたいと思い描く力も足りず、その通りに歌うこともできない。
ただ流され続けた結果が、あの日のステージだったんだ。
(あれが俺の冒険の終着地だったなんて嫌なんだよ)
まだはっきりと形になったわけじゃないけれど、胸の奥で熱い渦がある。
歌う力をつけながら、俺がしないといけないのは、その熱をちゃんと明確に意識することなんだと思う。
「響ちゃんは偉いな~」
八代さんが汗を拭きつつ笑って言う。
その隣に近寄って、文月さんが一言で一刀両断した。
「ヤッシーは練習不足すぎ。響君を見習いなさい」
「んなっ……おれかてやってんねんで!」
「へぇ~なのに、この前のライブで二回外したんだ?」
神音までもが夫婦けんかみたいな八代さんたちの会話に加わる。
ふたりに責められる形になった八代さんは、冷や汗を流しはじめた。
「いやな、おれ、鹿のハートやねん……緊張に弱いんよ。だからベースやってんねんから」
「八代のせいで、響が歌いにくかったんだから、十二分に反省してよね」
「同感です。参加したての響君が気づくようなミスを、ベテランがしてどうするんです」
文月さんが盛大にため息をついてみせた。
「と言うわけ。リズムを外したのは、響くんのせいじゃないの。八代がミスったんだよ」
ドラムの縁に手をついて、事の成り行きを見ていたアレンさんが、苦笑しながら話を俺に振った。
(え? じゃ、じゃあ……あの時)
ステージで音につまづいた瞬間を思い出しながら、アレンさんを振り向くと、俺に頷いてみせた。
「鹿でも兎でも、何でもいいから。ベースの腕と一緒に心臓も鍛えてよ」
「んな、無茶なっ」
神音の要求に八代さんが叫んだところで、真柴が壁際でこらえきれず笑った。
アレンさんが苦笑して、神音は渋い顔になった。八代さんは頭をかき、そこへ文月さんが軽く手刀をお見舞いしていた。
少しだけ心が軽くなった気がした。
俺たちの雰囲気を見守っていた真柴が、会話の切れ目で控え目に声をかけてきた。
「悪い、そろそろ帰るわ」
「あっ……真柴」
「バイトがあるんだよ。あんたらの演奏聞いてたら、おれたちも張り切らねぇとって思ったし。今日もしっかり稼いでくるぜ。んじゃ、また明日な」
「うん……ありがとな、真柴」
メンバー全員に丁寧に礼を言って帰っていく背中を見送った。
真柴がいなくなると、練習を中断して前回のライブ映像を見ることになった。
「ヤッシーのミスを再確認」
「勘忍してな~」
ニヤニヤ笑いながら文月さんが準備を済ませて、映像を再生させはじめる。
プレーヤーの画面の前で、俺もドキドキ鳴る胸を抑えていた。
やがて映しだされた映像の中に、俺が映っていた。
(やばい……見てられないっ)
反射的に目を閉じてしまった。
演奏のはざまに、歌声が飛び出したところで、違和感に思考が止まる。
「……あ、れ」
「どうしたの、響?」
となりに座って映像を見ていた神音が気づいて声をかけてくる。
まだ心臓がうるさく鳴っていたけれど、俺は目を開いて映像を確認した。
「これ……本当にあの日の映像?」
「そうだよ。ああ……響はまだ知らなかったっけ。一年前から久遠さんが毎回ライブに来て、動画を残してくれるんだよ。富岡さんの奥さんで、八代のお姉さん」
「へっ? お姉さん?」
出会ったばかりの頃、富岡さんはもうすぐお父さんになるんだと言っていたはずだ。
「響ちゃんの写真を見て、きゃあきゃあ言いながらデザイン描いて、おれに服作らせた、あの姉ちゃんや。でっかくなった腹抱えて、ライブやろうもんなら、どこまでも付いてきてカメラ構えとる。たまらんわ~」
八代さんが心底困ったように言うけれど、その口元が抑えきれない幸福感をにじませていた。
「その映像を再編集して、ブログで公開するのが文月の担当なんだ」
神音が説明をそう締めくくると、文月さんがちらりと俺を見て目を細めた。
「細工はしていませんよ。そんな時間があったらギターの練習をしていますから」
「…………」
俺は文月さんに言葉を返すことができなかた。
食い入るように見つめる画面の中で、明るく照らされたステージ上で演奏する仲間たち。
その中央に立ち、目を閉じたまま歌う俺がいた。
見慣れない服装で、はじめての場所に立って歌う姿は、まるで俺自身じゃないみたいだった。
(声も違って聞こえる……俺こんな声だったっけ?)
神音たちが選んだライブの演奏曲が、バラード調が多いせいだろうか。緊張しすぎて固まっている姿が、それほど悪目立ちしていない。
むしろ感情をこめて歌っているように見えた。本当にこれが俺自身なんだろうか。
「練習時間がほとんどなかったから、昔の曲から選曲したんだよ。八代が弾き慣れていて失敗しないだろうって曲ばかりにしたんだけどなぁ」
「ひぃぃ~」
神音がまた八代さんをいじめる。体を小さく縮めて、八代さんは画面を一心に見つめていた。
問題のところまできて一瞬、画面の中の俺が顔をしかめたけれど、演奏は何もなかったように流れた。
ステージで歌っていた時は、めちゃくちゃだと思っていたが、その後も演奏は滞ることなく流れていく。
歌声も淀みなく、切々と曲を彩っていた。
映像を終わりまで見て、一同はため息をついた。
「これで八代がミスってなきゃね」
神音が眉間を指先で揉みながら言う。
「『i-CeL』史上、最高のライブになりましたよ、ヤッシーがミスらなければ」
文月さんがプレーヤーを操作しつつ、呟いた。
「せっかく響くんが頑張ってくれたのにねぇ~ヤッシー?」
アレンさんが小さくなって頭を抱えている八代さんの肩に腕を回して、寄りかかりながら笑って言った。
「んがぁああ~っ! おれが悪かったから、もういじめんといて! 響ちゃん、すまんかった。堪忍してや」
ついに八代さんが切れて、泣きながら両手を合わせて詰め寄ってきた。
「今度、美味い中華まん買ってくるから、許してぇな」
「食べ物で済まそうとするなよな、恥ずかしい」
「そうですよ。次こそ名誉挽回、練習に励みますと言えばいいんですよ」
神音と文月さんに止めをさされて、八代さんはスタジオの床に倒れ伏した。
とたんにアレンさんが笑いだして、神音と文月さん、つられて俺まで笑ってしまって、八代さんは憮然となりつつも最後は苦笑していた。
「さて今夜はお開きにしよう。神音と響くんは明日も学校があるでしょ」
アレンさんが八代さんに手を差し出し、助け起こしながら言って、その日は散会することになった。
片づけを適当に済ませて、最後にもう一口水を飲もうと、持参していたペットボトルに口をつけた。
一瞬、違和感を抱いたものの、気のせいかな、とあまり深く考えずに、残っていた中身を口に含んだ。
「っ……、けほっ!」
「響?」
汗を拭くために持ってきていたタオルに、慌てて中身を吐き出し、それでも喉は意志に反して咳きこみ続ける。
そばにいた神音が慌てて駆けつけて、背中をさすってくれた。
「っ、なんでも、ない……ちょっと、飲みそこなっただけだから」
生理的に湧きだしてきた涙を拭い、乱れた呼吸をどうにか整えて神音に伝えた。
不審感丸出しの神音の背後から、アレンさんがひょいっと現れて、止める間もなく俺の手からペットボトルを取り上げた。
「あっ」
ぐいっと中身を口に入れて、すぐに自分のタオルに吐き出していた。
「最近の夏は異常に熱いからって、塩分入りの飲料が増えたけどね。いまは冬だし、これは天然水のはずでしょ……響くん、何か入れてきたの」
「あはは……ちょっと、塩を……」
そんなはずはない。学校帰り、スタジオに入る直前にコンビニに立ち寄って買ったものなのだ。
だけど心配はかけたくなくて、嘘をついた。
アレンさんも神音も、しばらく俺を見ていたが、俺は視線を反らさないように努力した。
「……倒れるよりマシかもしれないけど、これは入れすぎだよ、響くん」
「はい、すみません」
心休まるはずの時間にさえも、日常の歪みが浸食してきている。
仲間と別れ、神音と帰宅する電車内で、俺は重く冷えていく胸の内と葛藤していた。
小さな悪戯は後を絶たず、おまえたちは小学生かと呆れたくなるような、古典的な悪戯が途切れることなく続いた。
例えば机の中に、毎日違う種類の虫の死骸が入っていたり、校内用シューズを隠されている。
「……片平、待て」
「へ、何……樫部?」
小ホールで別のクラスと合同の授業を終えて帰ってくると、自分の席に座りかけていた樫部が横を通り抜けようとした俺の腕をつかんで止めた。
いつ見ても冷めた表情をしている樫部が、珍しく眉間にしわを寄せて尖った目つきになっている。
(あれ……怒ってる? 俺何かしたか?)
惚れた弱みと言うんだろうか。うろたえる俺を無視して、樫部は俺の席に手を伸ばした。
「見ろ」
指先が示した椅子の背もたれ部分に透明の画びょうが貼りつけてあった。
ひとつ、ふたつじゃない。ほとんど背もたれ部分すべて、余すところなくだ。
「低能なやつらばかりだな。ったく」
「…………」
真横で樫部が低く毒づいた。俺は血の気が引いていて、応えられなかった。
(忙しいはずなのに、こういうことする暇があるなら、真面目に進路と向き合えよな……って、俺が言える立場じゃないか)
痺れたような感情の片すみで、変なところで真面目な見えない犯人に、少しばかり説教したくなった。
「片平~いまから帰り? なら、おれんちに寄ってかないか。おまえたちに負けない、熱いライブ映像を見せてやるから」
月曜日に忠告してくれてしばらくは、巻き込まれないように距離を置いていた様子の真柴だったが、我慢が切れたのかいまではちょくちょく声をかけてきて、行動を共にするようになっている。
小さな、でも悪意に満ちた悪戯が、真柴にも見えているからだろう。
「うん、見てみたいんだけど、今日はこれから練習があるから」
「お、そうか。ならおれも見学に行っていいか?」
「……聞いてみるよ」
真柴と会話しながら廊下を歩き、鞄から携帯を取り出した。メール画面を開いて神音に真柴を連れて行ってもいいかと文章を打とうとしたところで、だれかとすれ違った。
「っ!」
「片平っ」
何もないはずの廊下でつまずいて、俺は盛大に転んでしまった。
すぐに真柴が気づいて支えてくれたおかげで、顔面から激突することにはならなかったものの、予想もしていなかった姿勢の急変に心臓が早鐘を打っていた。
「くそ、だれだっ!」
真柴が俺を助け起こしながら、周囲を見渡して叫んだ。数人の生徒がこちらを見ていたが、だれもが目を背けて走り去った。
「……くっ、性質が悪い悪戯ばかりしやがって!」
「真柴、ありがと……もういいから……帰ろう」
何とか姿勢を立て直して、真柴を促して歩き出した。
足がズキン、と痛んだ気がした。
スタジオでバンド練習をする時間は、歌うことに集中するので、自然と日常の悩みを忘れることができて助かる。
(あ~……樫部のそばにいる時間も捨てがたいけどね)
校内の雰囲気が殺伐としているせいで、最近の樫部は機嫌が悪い。そばにいられるのはうれしいけれど、機嫌が悪い時の樫部は恐いので、心中複雑だったりする。
ライブの後に寝込みながら、アレンさんと顔を合わせるのが恥ずかしいと悩んでいたのに、学校での出来事にこの時まですっかり忘れていた。
「おはよ~」
スタジオのドアを開けて、アレンさんが入ってくるのを見て、ようやく思い出した。
(うっ……しまった、心構えが……)
鞄を置いて、ペットボトルを取り出すアレンさんを見ながら、どうかこちらを振り向かないでと願いつつ、どんな顔をするべきか悩む。
「……あれ? なんか、人が増えてる?」
ここまで来て疲れたのか、取り出したペットボトルを開封して飲みだしたアレンさんが、壁際に立っていた真柴を見つけて動きを止めた。
真柴が目を輝かせて、気をつけの姿勢になった。
「はじめまして! 片平響君のクラスメートで、真柴尚之と言います。今日は練習の見学を許可していただき、ありがとうございます!」
はじめて見る、興奮した真柴の言動に俺は目が離せなかった。
(クールな奴だと思ってたけど……真柴もアレンさんのファンだったのか。文月さんも尊敬してたって言うし)
アレンさんはペットボトルから口を離して、あははと笑った。
「いいな~、やっぱり若いなぁ。うんうん、元気がよくていいよ。何だか今日はオレもはりきれちゃいそうだよ」
よしよし、とまるで犬を撫でるみたいに真柴の頭を撫でて、アレンさんが定位置へ歩き出した。
すれ違いざまに視線が合って、思わず俺は硬直した。
「うん、顔色合格」
「…………?」
ぽん、と頭に手のひらを乗せて、アレンさんはたった一言言っただけだった。
間もなく八代さんも駆けつけ、メンバー揃って練習がはじまった。
真柴がいるから多少の緊張があったものの、ライブの時よりは平常心で歌うことができた。
あの時の悔しさを胸に、俺なりにこうしてみようと思っていたことを試してみたので、一曲目を歌い終わった後で神音に言われた言葉がうれしかった。
「どうしたの、響。何だか声が変わったみたい……すごくいいよ」
「ありがと。でも、まだまだ練習不足だから」
謙遜じゃなくて、本当にそう思うんだ。
本番で歌うにはまだ足りない。だからこう歌いたいと思い描く力も足りず、その通りに歌うこともできない。
ただ流され続けた結果が、あの日のステージだったんだ。
(あれが俺の冒険の終着地だったなんて嫌なんだよ)
まだはっきりと形になったわけじゃないけれど、胸の奥で熱い渦がある。
歌う力をつけながら、俺がしないといけないのは、その熱をちゃんと明確に意識することなんだと思う。
「響ちゃんは偉いな~」
八代さんが汗を拭きつつ笑って言う。
その隣に近寄って、文月さんが一言で一刀両断した。
「ヤッシーは練習不足すぎ。響君を見習いなさい」
「んなっ……おれかてやってんねんで!」
「へぇ~なのに、この前のライブで二回外したんだ?」
神音までもが夫婦けんかみたいな八代さんたちの会話に加わる。
ふたりに責められる形になった八代さんは、冷や汗を流しはじめた。
「いやな、おれ、鹿のハートやねん……緊張に弱いんよ。だからベースやってんねんから」
「八代のせいで、響が歌いにくかったんだから、十二分に反省してよね」
「同感です。参加したての響君が気づくようなミスを、ベテランがしてどうするんです」
文月さんが盛大にため息をついてみせた。
「と言うわけ。リズムを外したのは、響くんのせいじゃないの。八代がミスったんだよ」
ドラムの縁に手をついて、事の成り行きを見ていたアレンさんが、苦笑しながら話を俺に振った。
(え? じゃ、じゃあ……あの時)
ステージで音につまづいた瞬間を思い出しながら、アレンさんを振り向くと、俺に頷いてみせた。
「鹿でも兎でも、何でもいいから。ベースの腕と一緒に心臓も鍛えてよ」
「んな、無茶なっ」
神音の要求に八代さんが叫んだところで、真柴が壁際でこらえきれず笑った。
アレンさんが苦笑して、神音は渋い顔になった。八代さんは頭をかき、そこへ文月さんが軽く手刀をお見舞いしていた。
少しだけ心が軽くなった気がした。
俺たちの雰囲気を見守っていた真柴が、会話の切れ目で控え目に声をかけてきた。
「悪い、そろそろ帰るわ」
「あっ……真柴」
「バイトがあるんだよ。あんたらの演奏聞いてたら、おれたちも張り切らねぇとって思ったし。今日もしっかり稼いでくるぜ。んじゃ、また明日な」
「うん……ありがとな、真柴」
メンバー全員に丁寧に礼を言って帰っていく背中を見送った。
真柴がいなくなると、練習を中断して前回のライブ映像を見ることになった。
「ヤッシーのミスを再確認」
「勘忍してな~」
ニヤニヤ笑いながら文月さんが準備を済ませて、映像を再生させはじめる。
プレーヤーの画面の前で、俺もドキドキ鳴る胸を抑えていた。
やがて映しだされた映像の中に、俺が映っていた。
(やばい……見てられないっ)
反射的に目を閉じてしまった。
演奏のはざまに、歌声が飛び出したところで、違和感に思考が止まる。
「……あ、れ」
「どうしたの、響?」
となりに座って映像を見ていた神音が気づいて声をかけてくる。
まだ心臓がうるさく鳴っていたけれど、俺は目を開いて映像を確認した。
「これ……本当にあの日の映像?」
「そうだよ。ああ……響はまだ知らなかったっけ。一年前から久遠さんが毎回ライブに来て、動画を残してくれるんだよ。富岡さんの奥さんで、八代のお姉さん」
「へっ? お姉さん?」
出会ったばかりの頃、富岡さんはもうすぐお父さんになるんだと言っていたはずだ。
「響ちゃんの写真を見て、きゃあきゃあ言いながらデザイン描いて、おれに服作らせた、あの姉ちゃんや。でっかくなった腹抱えて、ライブやろうもんなら、どこまでも付いてきてカメラ構えとる。たまらんわ~」
八代さんが心底困ったように言うけれど、その口元が抑えきれない幸福感をにじませていた。
「その映像を再編集して、ブログで公開するのが文月の担当なんだ」
神音が説明をそう締めくくると、文月さんがちらりと俺を見て目を細めた。
「細工はしていませんよ。そんな時間があったらギターの練習をしていますから」
「…………」
俺は文月さんに言葉を返すことができなかた。
食い入るように見つめる画面の中で、明るく照らされたステージ上で演奏する仲間たち。
その中央に立ち、目を閉じたまま歌う俺がいた。
見慣れない服装で、はじめての場所に立って歌う姿は、まるで俺自身じゃないみたいだった。
(声も違って聞こえる……俺こんな声だったっけ?)
神音たちが選んだライブの演奏曲が、バラード調が多いせいだろうか。緊張しすぎて固まっている姿が、それほど悪目立ちしていない。
むしろ感情をこめて歌っているように見えた。本当にこれが俺自身なんだろうか。
「練習時間がほとんどなかったから、昔の曲から選曲したんだよ。八代が弾き慣れていて失敗しないだろうって曲ばかりにしたんだけどなぁ」
「ひぃぃ~」
神音がまた八代さんをいじめる。体を小さく縮めて、八代さんは画面を一心に見つめていた。
問題のところまできて一瞬、画面の中の俺が顔をしかめたけれど、演奏は何もなかったように流れた。
ステージで歌っていた時は、めちゃくちゃだと思っていたが、その後も演奏は滞ることなく流れていく。
歌声も淀みなく、切々と曲を彩っていた。
映像を終わりまで見て、一同はため息をついた。
「これで八代がミスってなきゃね」
神音が眉間を指先で揉みながら言う。
「『i-CeL』史上、最高のライブになりましたよ、ヤッシーがミスらなければ」
文月さんがプレーヤーを操作しつつ、呟いた。
「せっかく響くんが頑張ってくれたのにねぇ~ヤッシー?」
アレンさんが小さくなって頭を抱えている八代さんの肩に腕を回して、寄りかかりながら笑って言った。
「んがぁああ~っ! おれが悪かったから、もういじめんといて! 響ちゃん、すまんかった。堪忍してや」
ついに八代さんが切れて、泣きながら両手を合わせて詰め寄ってきた。
「今度、美味い中華まん買ってくるから、許してぇな」
「食べ物で済まそうとするなよな、恥ずかしい」
「そうですよ。次こそ名誉挽回、練習に励みますと言えばいいんですよ」
神音と文月さんに止めをさされて、八代さんはスタジオの床に倒れ伏した。
とたんにアレンさんが笑いだして、神音と文月さん、つられて俺まで笑ってしまって、八代さんは憮然となりつつも最後は苦笑していた。
「さて今夜はお開きにしよう。神音と響くんは明日も学校があるでしょ」
アレンさんが八代さんに手を差し出し、助け起こしながら言って、その日は散会することになった。
片づけを適当に済ませて、最後にもう一口水を飲もうと、持参していたペットボトルに口をつけた。
一瞬、違和感を抱いたものの、気のせいかな、とあまり深く考えずに、残っていた中身を口に含んだ。
「っ……、けほっ!」
「響?」
汗を拭くために持ってきていたタオルに、慌てて中身を吐き出し、それでも喉は意志に反して咳きこみ続ける。
そばにいた神音が慌てて駆けつけて、背中をさすってくれた。
「っ、なんでも、ない……ちょっと、飲みそこなっただけだから」
生理的に湧きだしてきた涙を拭い、乱れた呼吸をどうにか整えて神音に伝えた。
不審感丸出しの神音の背後から、アレンさんがひょいっと現れて、止める間もなく俺の手からペットボトルを取り上げた。
「あっ」
ぐいっと中身を口に入れて、すぐに自分のタオルに吐き出していた。
「最近の夏は異常に熱いからって、塩分入りの飲料が増えたけどね。いまは冬だし、これは天然水のはずでしょ……響くん、何か入れてきたの」
「あはは……ちょっと、塩を……」
そんなはずはない。学校帰り、スタジオに入る直前にコンビニに立ち寄って買ったものなのだ。
だけど心配はかけたくなくて、嘘をついた。
アレンさんも神音も、しばらく俺を見ていたが、俺は視線を反らさないように努力した。
「……倒れるよりマシかもしれないけど、これは入れすぎだよ、響くん」
「はい、すみません」
心休まるはずの時間にさえも、日常の歪みが浸食してきている。
仲間と別れ、神音と帰宅する電車内で、俺は重く冷えていく胸の内と葛藤していた。
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