我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第一章

16:決壊

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 結局俺は高校へ行かず、須賀原と名乗った男性と喫茶店に入っていた。
 彼を信用したわけじゃない。それでも聞き流せなかったのは、ひそかに胸の奥底にくすぶっていた不審感のせい。
 俺の加入には、何か裏があるんじゃないかって。
 制服姿の俺がいるからか、須賀原は通学路から外れた静かな喫茶店に案内してくれた。
テーブル席に座り、コートを脱いで須賀原が切り出した。
「私の声がおかしいと思っただろう?」
 サングラスをしたままでも端正な顔立ちをしているのがわかる須賀原の声は、外見を裏切るほどしゃがれていた。
 頷いていいものか、迷いながら小さく頷くと須賀原は笑った。
「気にならないわけがない。風邪を引きました程度の声ではないからな。私の声はね、四年前に失われたのだ。治療をして、ようやくこの声が出せるようになったんだよ」
「声が、失われた?」
 ちょうど店員がオーダーをとりに来たので、須賀原はホットミルクを頼んだ。俺は須賀原の注文に意外性を感じつつ、ホットコーヒーを選んだ。
 店員が去った後で、頬杖をついた須賀原が苦く笑いながら聞いてきた。
「子供じゃあるまいし、喫茶店でミルクかよとでも思っているだろう?」
「えっ……いえ、そんなことは」
 本心を見抜かれて、たじろぐ俺を意地悪く笑いながら須賀原が見ていた。
「私は声を失うまで、コーヒーをこよなく愛していた。この店のコーヒーはお気に入りのひとつだったな。だから期待していい」
 そう言われても、須賀原と向かい合っているのは気まずい。
 沈黙ばかりがふたりの間に降り積もっていく。
(な、何か話があるって言ったじゃないか)
 見ず知らずの相手に、何を話していいやら見当もつかず、ただじっとテーブルの木目を見つめていると、ようやく店員が注文の品を置いてくれた。
「どうぞ、ごゆっくり」
 そう言い置いて店員が去っても、須賀原は何も言わない。
 これじゃまるで、富岡二号だと内心でため息をつきつつ、コーヒーを一口すすった。
「うまいだろ?」
 須賀原がようやく口を開いた。
 確かにコーヒーはおいしい。その場の空気も忘れてつい笑顔になってしまう。
「はい、おいしいです」
「くっそ……一口くらいなら飲んでもバレないかな……いや、あの医者なら気付くか。ったく、好物の匂いしか味わえないなんて、拷問でしかないな」
 須賀原はぶつぶつ毒つきながら、ホットミルクをすすって顔をしかめた。
「物足りん……気づいているとは思うが、私は声の治療中ゆえ、刺激物の摂取を禁止されている。おかげでコーヒーや紅茶と無縁の生活を続けているわけだ。ああ、気にせず飲んでくれ。せっかくのコーヒーだからな」
「……はい、すみません」
 サングラスをかけていても、物欲しそうに見ているのがわかるので、コーヒーを飲むのが申し訳なく感じてしまう。
「私の声を奪ったのは、煉だ」
 いきなり須賀原が話し出したので、俺は一瞬聞き取れずまばたきをした。
「煉のせいで、私はこんな声になってしまったのだよ。そして次は君の番だ……煉は気に入った相手を利用しつくす。身も心も」
「…………」
「優しく、さも相手を心から慈しんでいるように振る舞いながら、巧妙に自分の利になるように仕向けるのだ。おかげで煉は有名になれただろう。メジャーデビュー寸前に謎の解散をしたバンドのドラマーだ、とな」
 須賀原の声と空気が、一段と冷ややかになった。
 その場の空気が重みを増した気がする。
 俯いた視線の先で、コーヒーの褐色に映る自分の姿が揺れていた。
「四年前まで、私たちは輝く未来を夢見て、必死に走っていた。私と幼なじみとではじめた『ラダフ』に煉が参加したのは、もう六年も前になるのか……。最年少メンバーだった煉は、それを感じさせない演奏をする奴だった」
 サングラス越しに須賀原は店の天井を見上げた。けれど彼が見ているのは、きっと過去のアレンさんの姿なんだろう。
「メジャーデビューの話を持ちかけられるまで、私たちはうまくやっていたんだよ。ところがバンド内がおかしくなった」
「……何が、あったんですか」
 文月さんが憧れるバンドの解散秘話が聞けると期待して聞いたのではなく、俺の知るアレンさんの姿が正しいと思いたくて須賀原を促した。
 須賀原はちらりと俺を見てから、ミルクをすすって間を置いた。
「メジャーデビューするのは私だけだ、と煉が偽の情報を仲間たちに流したのだ。私はみなを騙していて、デビュー寸前まで言わないつもりでいると」
「そんな……こと」
「私だけがそれを知らず、バンド内をまとめようと奔走したが……ある日幼なじみが私に薬を飲ませた。それが『ラダフ』解散の真相だよ」
「…………」
「持ち歩いていたマイボトルの中に薬を混ぜられていて、気付かなかった私は声を失ったわけだ」
 背筋に氷水が流れ落ちたような気分だった。
 最後に行ったスタジオで飲んだ水を思い出す。あれが塩水でなかったなら、と考えてしまう。
「次は、君だ」
 須賀原がサングラスを外した。
「なぜ素人の君を、いま参加させるのか疑問に思っただろう? 富岡プロデューサーが声をかけたのが一年前なのに、なぜずっと待っているのか、疑問じゃないか? 君が期待されているのは声なんかじゃない。私のようにスキャンダルの的にするためだけだ」
 しゃがれた須賀原の声が、その時だけ鋭く研ぎ澄まされた刃のようだった。
「この声を聞け」
 須賀原がテーブルに身を乗り出した。
「君はいつか私のような目にあわされる。煉は悲劇に見舞われたが、乗り越えたバンドとして話題にするために君を加入させたのだよ」
「う……そ、です……そんな」
 須賀原は乗りだしていた体を戻し、憐れむように笑った。
「信じないのは君の自由だ。だが、後悔する時がすぐに来る。君が失うものが小さいことを祈っているよ、私は」
「…………」
 褐色の水面に揺れる影を見下ろしたまま、声も出せない俺を残して、須賀原は立ち上がった。
 気がつくと伝票が消えていて、ドアの向こうに須賀原の背中が見えた。
「ま……」
 待って、と言おうとしたところで、携帯が震えてメール受信を知らせた。
 アレンさんから、打ち上げに再度誘うメールだった。
「……どうしたら、いいんだろう。俺は」
 須賀原の声がまるで呪詛のように、脳内を暗く重くしている。
 本当に俺の声は神音に、仲間たちに必要なのか、疑問は深まっていくばかりで。
 連日の悪戯やファンに投げつけられた言葉に、俺の中から力が抜けていく。
 また歌いたい。あの情けなかった初ライブを無駄にしないためにも、思い描いたようには歌えなくても、近づけるように。
 そう思っていた心が、色あせて溶けていくようだ。
 女子高生たちの声が俺を責める。
 毎日届く、たった三文字だけの便せんが、目の前にひるがえる。
 遠く形のない小さな影が、俺の声を笑う。
 夜景を見ながら抱きしめてくれた腕のあたたかさや、冗談に隠されてても俺を認めてくれた想いが打算だったと思いたくないのに。
 何を信じたらいいのか、何を聞き流すべきなのか。もう、訳がわからない。
 震える指でアレンさんからのメールを削除した。
 いまは、彼らと顔を合わせたくなかった。


 須賀原に会った日から、俺は自宅に戻るとトイレに直行するようになっていた。
 連日の悪戯や迷惑メールに、少しずつ心が削られていたようだ。ほとんど固形物を食べられなくなっていて、吐いても出てくるのは胃液だけで喉が痛んで、さらに気持ち悪さが増してしまう。
 吐くたびに全身に悪寒がして、頭から血が音を立てて落ちていく。
 その日もトイレにうずくまっていると、いつもよりも意識がもうろうとしだした。
 体に力が入らない。便器によりかかったまま眠ってしまったのか、気がつくとだれかに体を揺すられていた。
「……響、どうしたの? 響……ちょっと、響っ!」
 母親の声が聞こえて、そう言えば今日は母親が休みだったと気づいて、しまったなと考えたところで、また意識を失った。
 気がつくとまた二段ベッドの下段に寝かされていた。
「……あれ……?」
「気がついたの……よかったわ。ちょうどお父さんが帰ってきてくれて、運んでくれたのよ」
 さすがに高校生にもなった息子を、上段まで運ぶのは無理だからだろう。神音用の下段に運んでくれた父親に、心の中でお礼を言った。
「よく休みなさい……神音が教えてくれたけど、忙しかったんでしょう? 疲れが出たのよ。慣れないことして」
「……かも、しれない」
 確かに慣れないことをした。
 人前に出るなんて、だれかに強制されなければ俺は絶対にしなかった。
「そうよ。あんたは静かに穏やかにしてればいいの。過激なことは、あんたには向いてないわ」
「…………」
 母親は俺の頭を撫でてから部屋を出て行った。その仕草にライブ後のアレンさんを思い出した。
 はぁ、と息を吐き出して俺は目を閉じた。
(こんな想いをしてまで、どうして俺は歌いたかったんだっけ……)
 きっかけは神音の提案からだった。
 せめて気持ちだけでも音楽に紛れさせて伝えれば、とバンドに臨時で加入することを誘われて。
 だけど本当はずっと歌って欲しいと言われ、決心がつかないまま特訓を受けて、ライブを経験させてもらった。
 その結果、ファンは失望して怒り、俺を排除しようとしている。
(だったら俺は抜けるべきなのに……なのに、もう歌わないと言えないのは、何でだろう)
 はじめてステージで歌った時、恐ろしさで震え、まともに歌えなかった。
 それを悔しく思うのは、俺が歌いたいと思っていたからで。
「……樫部、あの場にいなかっただろうに」
 いつのまにか、俺は歌いたいと思うようになっていた。
 だれかのように、とかじゃなくて、俺自身の歌を。
「……何だか疲れたな……」
 勉強机の上に載せられた鞄の中で、また携帯が震えたのが聞こえた。
「……電源、落とさないと」
 視線をそちらに向けると、鞄の他にも何かが載っているのが見えた。
 ごそりと起き上がり、立ち上がる。ふらつくこともなく、歩くことができた。
 安心しながら勉強机に近づくと、いつもの封筒だった。
 ついに両親にバレてしまった。幸い中身までは見られていないようで、胸を撫で下ろす。
 スマホが普及した今の世に、わざわざ手書きで送りつけてくるなんて、ある意味貴重だよな、と痺れた頭の片隅で思う。
「……き、えろ……か」
 中身が変わっているかもしれない、と開いてみたものの、便せんには同じ文字が書かれていた。
 呆然と呟いた時、また携帯が震えた。
 ぼんやりと鞄を見て、のろのろと腕を差し入れる。
 取り出した携帯を開くと、着信メール件数は二桁を越えていた。
「また……こんなに……」
 たった一通、アレンさんから次の練習日の連絡メールが入っていた以外は、すべて知らないアドレスからだった。
「ははっ……何だよ、何で俺……こんなことしてんだろ」
 何かが俺の中で吹っ切れてしまったようだ。
 笑いがこみあげてきて、止まらない。
 いままで続けてきたことすべてが、どうしようもなく滑稽に思えてきた。
「……静かに、穏やかにしていればいいの、か……」
 母親の言葉を思い出して、くすくす笑い続ける。引き出しを開けて、毎日届いていた封書を隠していたものを、すべてゴミ箱に投げ入れた。
 知らないアドレスのメールは削除して、受信拒否の設定をする。
 一晩よく眠って元気を取り戻したら、アドレスを変えてしまおう。
 何でこんな単純な手段を思いつかなかったんだ、とまた自分自身を笑いながらベッドに戻り、俺は目を閉じた。
 今度こそちゃんと、上段のベッドで眠りながらも笑いが止まらなかった。
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