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第一章
17:居場所
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「今日は早く帰って来れるから、夕飯はちゃんと作るからね」
「わかった」
「……まだ顔色悪いわよ、食べられるものを食べて、ちゃんと休むのよ」
「ああ。行ってらっしゃい」
母親の出勤を見送って、リビングに戻ると神音がパンをかじっていた。
「響。今日も登校するの」
「うん」
「……メール見たでしょ。バンドの練習があるんだよ?」
「……みたいだね」
「みたいって……響」
朝食に使った食器をシンクに運び、洗いだした俺の背中に神音が声をぶつけてくる。
「どうしたの、最近響の様子、おかしいよ」
「……そう?」
「これからも歌いたいって、アレンに言ってくれたって聞いた。なのに打ち上げに来なかったし、最近は練習にも来ない。走ってもいないんでしょ? ヒロとも連絡とってないらしいじゃないか」
「ヒロは自分たちの活動で忙しいだろう、プロなんだし」
「そういう問題じゃないっ!」
食器を洗っていたら、神音に肩を掴まれ、強引に振り向かされた。
「何かあったんでしょ、響っ。ひとりで抱えてないで、ぼくにも教えてよ! 仲間でしょ、家族じゃないか!」
陽気で自信家な神音が、悲痛な声で泣きそうになりながら叫んでいる。
俺は無感動な目を神音に向けて、ふわっと微笑んだ。
「何もないよ」
「……響……?」
神音は俺の様子に何を感じたのか。急に声と全身から力が抜けたみたいに呆然となる。
俺は洗い物に戻った。
すべて洗い終えたところで、神音の手がまた肩をつかんで俺を振り向かせる。
「響、もしかして……もう、歌わないつもり?」
「神音」
俺は視線を合わせていられなくて、顔を背けた。
「言ったでしょう。ぼくたちは響がいなければ、解散するつもりだって。確かにぼくはこの業界で生きていくと決めたけれど、パーツが揃わなくて完成しない音楽のために、他のメンバーたちをいつまでも拘束している意味はないからね。響の代わりなんていないんだ。だから何で歌わないと決めたのか、ちゃんと教えてよ」
「……俺は要らないだろう」
本当は歌いたい。手放したくない。
でも、もう苦しかった。何かを考えるのも辛い。
「神音が歌い続ければいい。昔のライブ映像を見たよ、俺が歌う理由がないじゃないか。ファンがついているのがその証拠だろう。未完成の音楽なら、だれも見向きしないはずだ。 何で俺を加入させる必要がある? どこにもないじゃないか!」
一度口を開いたら、止まらなくなっていた。俺を掴んだままの神音の手を、強く振り払った。
「……響……」
俺は神音に声を荒げたことがなかった。でもいまは、俺の中のストッパーが壊れているみたいだ。
(耳元で声がする……神音じゃなくてよかったって)
この頃、浅くなった眠りの終わりに悪夢を見る。
暗いところで、ひとりでいる俺に、何かが近寄ってくる。それがすごく嫌でたまらないのに、体は動かず声も出ない。
俺に覆いかぶさって、何かが言う。
『おまえなんか、いなくなればいい。そうしたらみんなが、しあわせになれる』
声の後に何かが俺に振り下ろされ、灼熱の痛みに俺は叫びたいのに、やっぱり声は出なくて。
気がつくと、また暗い中に俺だけがいた。
そこに母親が歩いてきて、俺を見下して言うのだ。
(神音じゃなくて、よかった……)
暗い中で倒れているのが、俺でよかった。
母親はそう言って微笑み、歩き去るのだ。
一度も振り向いてくれない。
遠ざかる母親の後ろ姿に、幼い神音がどこからともなく現れて歩み寄る。
母親は足を止めて神音に微笑みかけ、しゃがんで目線を合わせて額にキスをする。
そしてふたり、歩いて行くのだ。
俺を残して。
「カノンさま、カノンさまってみんなが言ってる。求めているのは俺なんかじゃない! 俺を立たせたって、ただ邪魔者扱いされるだけだ。だれも俺を求めやしないッ」
叫びながら胸が裂けるかと思った。
痛くて、体中が熱い。それなのに震えるほど寒い。
「何で神音はそこに立たせたがる? 俺を苦しめて、楽しい? 俺の歌う姿を後ろから見て、本当は笑っているんじゃないのか、下手だな、何をしても駄目だなって!」
ああ、駄目なのは俺の方だとぼんやり、頭の片隅で嘆く。
まるで急に視力が落ちたみたいに、神音がいまどんな顔をしているのか、よくわからない。
俺自身が何を言っているのかすら、はっきりしなかった。
「俺は神音に勝てない。神音の影、出来そこない。もうわかってるから、いまさら再確認させないでくれっ!」
呆然と突っ立ったままの神音を残し、俺は鞄を持ち上げ家を出た。
残りわずかな高校生活。登校してくる生徒は稀で、教室は静かなものだった。
「……静かだなぁ」
樫部の後ろの席、俺に与えられた席に座り、頬を机に押しつけて窓の外を見上げた。
陽射しはあたたかく、冬の名残はあるかなしか。
神音が焦るのも無理はない。本当なら時間を惜しんでライブに向けて、練習を重ねるべきなのだから。
「でも……もう、いいんだ」
トイレで意識を失った翌日、登校時に待ち伏せていたファンにもう歌わないと伝えた。
それでも封筒は毎日届き、メールはアドレスを変えても送りつけられた。
校内での嫌がらせも、数は少なくなったものの続いている。
これまでは樫部か真柴がそばについていてくれたが、渡米の準備もあって樫部は学校を休んでいる。
真柴も忙しいらしく、登校しない日が多くなってきていた。
あれから俺は何かがおかしくなったのかもしれない。神音が言った通りだ。
何をされても、何をしても、まるで他の人の身の上に起きているように感じられた。
ひとりの時に悪戯されても、何も感じなくなっていた。
神音が言っていた不感症に、本当になってしまったのだろう。
手指の感覚がよくわからない。料理をしながら包丁で何度も切ってしまった。
味覚も鈍ったようだ。最近の夕食が辛いと言われた。もちろん俺が作ったものだ。
体温もおかしい。春になってもセーターとコート、マフラーに手袋が手放せない。もちろんすべて冬用。
早朝三時には必ず目覚めるし、二度寝できない。十二時前には眠れないので、必然的に睡眠時間は極端に短くなっていた。
気がつくと制服が大きくなっていた。もちろん生地が伸びたとかじゃなく、俺が痩せたんだろう。
いまはほとんど登校する者のないクラスの中で、日が暮れるまでぼうっと過ごしてきた。
(……これが、俺に向いているんだろ、母さん?)
母親が俺の頭を撫でて言った通りに俺は生きている。
人前に出て、歌うことはしない。
樫部とも、このまま会うことなく卒業してしまうんだろう。
穏やかで、何も起きない毎日。
流れるがまま大学に通い、卒業して就職する。
仕事して、食べて、眠って。
やがて新しい恋をして家族を作り、年老いていくのだろう。
(考えただけで、もう疲れた……俺本当に最期までそうやって生きていけるのか?)
十八の誕生日直前からの日々が、まるで嘘のようだった。
みんなとはじめて会ったファミレスも。
富岡さんに拉致られ、モーチンさんに振り回された遊園地も。
はじめて歌ったライブハウスさえ、すべてこの世には存在していないような気がした。
目を開けば消えてしまう、幻だったように。
夜景を見下ろす車内で、強くアレンさんに抱きしめられて泣いた、恥ずかしくも嬉しかった一夜の記憶も、薄れていく。
静かで、何もない教室。
ただ座っていると、まるで抜けがらになったような気分だった。
(俺が、消えていく……)
教室での日々、今日までの記憶。すべてがこの場所で生まれては消えていく、学生生活と同じように、消えてしまうようだ。
その時、ことんと音がした。
何だろうと思ったけれど、億劫で動けない。
「……片平」
樫部の声だ。ついに聴覚までおかしくなったか、と俺はふっと笑った。
「片平、そのままでいいから聞いてくれ」
「……かし、べ?」
「ああ」
なぜいま、ここに樫部がいるんだと、鈍い思考がようやく疑問にたどりつく。
渡米する準備で忙しく、登校していないはずなのに。
「前にここで、僕が『i-CeL』と出会った話をしたことを覚えているだろう」
「……もちろん」
そんなこともあったな、とぼんやり思い返していると、樫部が少し強張った声で割り込んできた。
「僕はあの頃まで、売春をしていたのだ」
ふたりきりの教室で、時間が止まったようだった。
俺は聞いた言葉をうまく理解できなかった。
樫部は次をどう言えばいいのか、まだ迷っているようだった。
遠くで教師の声が聞こえる。何の授業だろうか。
「両親は僕が幼い頃に離婚して、母親が僕を引き取った。数年後に出来た義理の父が、僕に手を出すようになって……よくある話だろう。数回相手をさせられたが抵抗したら、他の人間に回された」
「……かし、べ」
顔をあげようとした俺の頭を、樫部の手がそっと押し留めた。
「家に帰っても意に染まぬ行為を強制させられるなら、相手を選んでホテルでも渡り歩いた方が気が楽だった。誘った男の家やマンション、ホテルに寝泊まりして、また次を探す毎日に……いい加減疲れていた頃に、彼に出会った」
「…………」
「彼は僕を一度も抱かなかった。けれど自宅に招き入れた。学校へ行け、家に帰れと説教してね。料理や洗濯など家事一通りを教えてくれた。はじめてだった……穏やかで満ち足りた毎日だった」
樫部がどんな顔で語っているのか、顔を上げたくてもできない。
手に力は入っていないけど、樫部が見られたくないと思っていることは、十分伝わってくるから。
「家族とは……こう言うものなのかと、思うたびに怯えた。失うことを恐れるほど、そこは居心地が良すぎた。彼に好きだと、本当は抱きたいのだと打ち明けられた時、僕は恐怖で混乱した。彼が嫌だからじゃない。僕が彼を汚してしまう、義理の父親と同じにしてしまうと思ったから」
馬鹿だろう、笑ってくれて構わない。と樫部は冗談めかして小声で言った。
「彼と肉体関係を持ったら、家族でいられなくなると思った。せっかく手に入れた温かい場所を失うと……僕は彼を信じられなかったんだ。僕は逃げ出した。その時昔の客と出会った。誘いを断りもめたところで、『i-CeL』に出会ったのだよ」
彼らの音楽に救われた。樫部はそう言っていた。はじめて穏やかな場所を見つけて、失った樫部はその時どんな気持ちだったのか、想像もできない。
「彼らの音楽に触発されて、久しぶりに家に帰った。母親はまた離婚していた。帰ってきた僕を抱きしめて泣いた。どこで何をしていたとも聞かず、ただ泣いた。母親とふたりで暮らせるようになって、うれしくて彼の部屋に報告に戻ったら、彼はいなくなっていた」
「……かし、べ」
何と声をかけるべきか、未熟な俺には思いつかず、ただ名前を呼ぶしかない。
「空になった部屋に、家に帰りなさいとだけ書いた紙が落ちていた。僕は失ったものの大きさに耐えきれない思いだったが、唯一残された彼の想いだけは裏切れないと思った。それからは母親と暮らし、真面目に学校へ通い、『i-CeL』の演奏を楽しみにしてきたわけだ……片平」
頭を押さえていた樫部の手が消えた。
「片平にも失くしたくない場所ができたのではないかね。このまま手放すつもりなのか。あの頃の僕のように」
「……樫部」
「毎日学校へ来ていると真柴が教えてくれたのだ。いままで片平が何をしてきたのか、僕はもちろん知っている。あのライブは行けなかったが、『i-CeL』のブログは欠かさず見ている。ライブ映像も見た」
「そうだったのか……」
樫部に想いを伝えたい、と思ったのがきっかけで、流れに流された結果があのライブだった。
予想しないところで、樫部はあのライブを見てしまった。歌った曲は既存の曲で、神音が俺のために用意する曲じゃなかったけれど。
もう歌う理由はなくなった。
そう理解したとたんに、なぜか俺は哀しさに襲われ、泣きたくなった。
「……あの時僕は言っただろう。海を越えるほど大きくなってほしいと。片平はどんな気持ちで歌っていたんだね? 軽い気持ちでカノンさまと入れ替わって歌ったわけじゃないんだろう? それなら、なぜ毎日ここに来て、一日中座っているんだ」
俺は何も言えなかった。
カノンさまと呼ぶほど、『i-CeL』の音楽を好きな樫部は、けれど神音の位置を奪った俺を責めない。
その重みが、少しずつ痺れた頭に沁みていく。
「片平。おまえが見つけた場所は、おまえにしか守ることはできないんだ。おまえ自身が見限って、怯えて、手放してしまったら、もう二度と手の届かない場所になってしまう」
「…………」
「おまえはそれでいいのか?」
だれに何を言われるよりも、痛烈な言葉だった。
何も持っていなかった俺を、可能性だけを信じて誘ってくれた仲間たち。
きっといまもスタジオで練習しているだろう。忙しくても時間を調節して集まり、練習を欠かさない彼らの姿を、短い間だけど俺も見て知っている。
彼らとの縁を切って、このまま静かに暮らして、俺が満足できるわけがない。
樫部の中で俺は逃げ出した奴だと、見下されてしまうのだから。
すべてどうでもよく感じていたけど、樫部の中の俺と言う場所までは捨てられない。
(俺が信じるべきなのは、俺が樫部に認められたいって言う想いじゃないのか?)
がたん、と立ち上がった俺を、樫部は自分の席に座って、輝く目で見上げてきた。
まるでおまえはそういう奴だと信じていたよ、とでも言いそうな目だった。
「ありがと、樫部。何か……いろいろ間違っていた気がする」
「ふっ……片平が正しかった時は、いままでにいくつあったかね」
ずいぶんな言いようだな、と苦笑しながら俺は樫部に別れを告げて、教室を飛び出した。
わからないことはまだ多い。
本当に俺が『i-CeL』に必要なのかも、自信が持てないままだ。
(……でも、みんなとやりたい。まだ上手くなれるはずなんだ、俺はっ)
不甲斐なかった俺自身に唇を噛みながら、携帯を取り出す。
相も変わらず嫌がらせメールがすし詰めだったが、無視して神音へ電話をかけた。
『なに、響?』
「いままで、本当にごめんなさいっ! もう一度練習に参加させてください!」
授業中の教室が並ぶ廊下を走る。きっと教師や生徒たちが顔をしかめているだろうけど、気にしていられない。
俺は神音にひどいことを言ってしまった。バンドの練習にも行っていない。
いまさら謝っても、あの場所へは戻れないかもしれない。
だけど戻りたい。もう一度やり直したい。だからいまは、なりふり構っていられない。
『……はぁ~、もう……やっぱり樫部さんの力は偉大だね。ちょっと妬けちゃうな』
「な、何だよ……ってことは、樫部に何か言ったのか、神音?」
『ん……? ぼくはただ、樫部さんに本気なのかって聞かれたから、本気だよって答えただけだよ』
樫部が何について聞いたのか、わからないほど馬鹿じゃない。
『樫部さんから学校での様子は聞いた。いまそのことで話しあってたところだったんだ。待ってるから……いつものスタジオにおいでよ』
「わかった、すぐに行く」
最寄駅までの道のりが、こんなにもどかしく感じたことはない。
須賀原の忠告を忘れることはできないけれど、アレンさんに直接彼のことを聞いて確かめるべきなんじゃないかと思えてきた。
(お願いだ、間に合ってくれッ)
人生ではじめて好きになった人に、情けない奴だと思われたまま、会えなくなるのは我慢できない。
残っている体力をすべてかきあつめて、駅までを疾走した。
「わかった」
「……まだ顔色悪いわよ、食べられるものを食べて、ちゃんと休むのよ」
「ああ。行ってらっしゃい」
母親の出勤を見送って、リビングに戻ると神音がパンをかじっていた。
「響。今日も登校するの」
「うん」
「……メール見たでしょ。バンドの練習があるんだよ?」
「……みたいだね」
「みたいって……響」
朝食に使った食器をシンクに運び、洗いだした俺の背中に神音が声をぶつけてくる。
「どうしたの、最近響の様子、おかしいよ」
「……そう?」
「これからも歌いたいって、アレンに言ってくれたって聞いた。なのに打ち上げに来なかったし、最近は練習にも来ない。走ってもいないんでしょ? ヒロとも連絡とってないらしいじゃないか」
「ヒロは自分たちの活動で忙しいだろう、プロなんだし」
「そういう問題じゃないっ!」
食器を洗っていたら、神音に肩を掴まれ、強引に振り向かされた。
「何かあったんでしょ、響っ。ひとりで抱えてないで、ぼくにも教えてよ! 仲間でしょ、家族じゃないか!」
陽気で自信家な神音が、悲痛な声で泣きそうになりながら叫んでいる。
俺は無感動な目を神音に向けて、ふわっと微笑んだ。
「何もないよ」
「……響……?」
神音は俺の様子に何を感じたのか。急に声と全身から力が抜けたみたいに呆然となる。
俺は洗い物に戻った。
すべて洗い終えたところで、神音の手がまた肩をつかんで俺を振り向かせる。
「響、もしかして……もう、歌わないつもり?」
「神音」
俺は視線を合わせていられなくて、顔を背けた。
「言ったでしょう。ぼくたちは響がいなければ、解散するつもりだって。確かにぼくはこの業界で生きていくと決めたけれど、パーツが揃わなくて完成しない音楽のために、他のメンバーたちをいつまでも拘束している意味はないからね。響の代わりなんていないんだ。だから何で歌わないと決めたのか、ちゃんと教えてよ」
「……俺は要らないだろう」
本当は歌いたい。手放したくない。
でも、もう苦しかった。何かを考えるのも辛い。
「神音が歌い続ければいい。昔のライブ映像を見たよ、俺が歌う理由がないじゃないか。ファンがついているのがその証拠だろう。未完成の音楽なら、だれも見向きしないはずだ。 何で俺を加入させる必要がある? どこにもないじゃないか!」
一度口を開いたら、止まらなくなっていた。俺を掴んだままの神音の手を、強く振り払った。
「……響……」
俺は神音に声を荒げたことがなかった。でもいまは、俺の中のストッパーが壊れているみたいだ。
(耳元で声がする……神音じゃなくてよかったって)
この頃、浅くなった眠りの終わりに悪夢を見る。
暗いところで、ひとりでいる俺に、何かが近寄ってくる。それがすごく嫌でたまらないのに、体は動かず声も出ない。
俺に覆いかぶさって、何かが言う。
『おまえなんか、いなくなればいい。そうしたらみんなが、しあわせになれる』
声の後に何かが俺に振り下ろされ、灼熱の痛みに俺は叫びたいのに、やっぱり声は出なくて。
気がつくと、また暗い中に俺だけがいた。
そこに母親が歩いてきて、俺を見下して言うのだ。
(神音じゃなくて、よかった……)
暗い中で倒れているのが、俺でよかった。
母親はそう言って微笑み、歩き去るのだ。
一度も振り向いてくれない。
遠ざかる母親の後ろ姿に、幼い神音がどこからともなく現れて歩み寄る。
母親は足を止めて神音に微笑みかけ、しゃがんで目線を合わせて額にキスをする。
そしてふたり、歩いて行くのだ。
俺を残して。
「カノンさま、カノンさまってみんなが言ってる。求めているのは俺なんかじゃない! 俺を立たせたって、ただ邪魔者扱いされるだけだ。だれも俺を求めやしないッ」
叫びながら胸が裂けるかと思った。
痛くて、体中が熱い。それなのに震えるほど寒い。
「何で神音はそこに立たせたがる? 俺を苦しめて、楽しい? 俺の歌う姿を後ろから見て、本当は笑っているんじゃないのか、下手だな、何をしても駄目だなって!」
ああ、駄目なのは俺の方だとぼんやり、頭の片隅で嘆く。
まるで急に視力が落ちたみたいに、神音がいまどんな顔をしているのか、よくわからない。
俺自身が何を言っているのかすら、はっきりしなかった。
「俺は神音に勝てない。神音の影、出来そこない。もうわかってるから、いまさら再確認させないでくれっ!」
呆然と突っ立ったままの神音を残し、俺は鞄を持ち上げ家を出た。
残りわずかな高校生活。登校してくる生徒は稀で、教室は静かなものだった。
「……静かだなぁ」
樫部の後ろの席、俺に与えられた席に座り、頬を机に押しつけて窓の外を見上げた。
陽射しはあたたかく、冬の名残はあるかなしか。
神音が焦るのも無理はない。本当なら時間を惜しんでライブに向けて、練習を重ねるべきなのだから。
「でも……もう、いいんだ」
トイレで意識を失った翌日、登校時に待ち伏せていたファンにもう歌わないと伝えた。
それでも封筒は毎日届き、メールはアドレスを変えても送りつけられた。
校内での嫌がらせも、数は少なくなったものの続いている。
これまでは樫部か真柴がそばについていてくれたが、渡米の準備もあって樫部は学校を休んでいる。
真柴も忙しいらしく、登校しない日が多くなってきていた。
あれから俺は何かがおかしくなったのかもしれない。神音が言った通りだ。
何をされても、何をしても、まるで他の人の身の上に起きているように感じられた。
ひとりの時に悪戯されても、何も感じなくなっていた。
神音が言っていた不感症に、本当になってしまったのだろう。
手指の感覚がよくわからない。料理をしながら包丁で何度も切ってしまった。
味覚も鈍ったようだ。最近の夕食が辛いと言われた。もちろん俺が作ったものだ。
体温もおかしい。春になってもセーターとコート、マフラーに手袋が手放せない。もちろんすべて冬用。
早朝三時には必ず目覚めるし、二度寝できない。十二時前には眠れないので、必然的に睡眠時間は極端に短くなっていた。
気がつくと制服が大きくなっていた。もちろん生地が伸びたとかじゃなく、俺が痩せたんだろう。
いまはほとんど登校する者のないクラスの中で、日が暮れるまでぼうっと過ごしてきた。
(……これが、俺に向いているんだろ、母さん?)
母親が俺の頭を撫でて言った通りに俺は生きている。
人前に出て、歌うことはしない。
樫部とも、このまま会うことなく卒業してしまうんだろう。
穏やかで、何も起きない毎日。
流れるがまま大学に通い、卒業して就職する。
仕事して、食べて、眠って。
やがて新しい恋をして家族を作り、年老いていくのだろう。
(考えただけで、もう疲れた……俺本当に最期までそうやって生きていけるのか?)
十八の誕生日直前からの日々が、まるで嘘のようだった。
みんなとはじめて会ったファミレスも。
富岡さんに拉致られ、モーチンさんに振り回された遊園地も。
はじめて歌ったライブハウスさえ、すべてこの世には存在していないような気がした。
目を開けば消えてしまう、幻だったように。
夜景を見下ろす車内で、強くアレンさんに抱きしめられて泣いた、恥ずかしくも嬉しかった一夜の記憶も、薄れていく。
静かで、何もない教室。
ただ座っていると、まるで抜けがらになったような気分だった。
(俺が、消えていく……)
教室での日々、今日までの記憶。すべてがこの場所で生まれては消えていく、学生生活と同じように、消えてしまうようだ。
その時、ことんと音がした。
何だろうと思ったけれど、億劫で動けない。
「……片平」
樫部の声だ。ついに聴覚までおかしくなったか、と俺はふっと笑った。
「片平、そのままでいいから聞いてくれ」
「……かし、べ?」
「ああ」
なぜいま、ここに樫部がいるんだと、鈍い思考がようやく疑問にたどりつく。
渡米する準備で忙しく、登校していないはずなのに。
「前にここで、僕が『i-CeL』と出会った話をしたことを覚えているだろう」
「……もちろん」
そんなこともあったな、とぼんやり思い返していると、樫部が少し強張った声で割り込んできた。
「僕はあの頃まで、売春をしていたのだ」
ふたりきりの教室で、時間が止まったようだった。
俺は聞いた言葉をうまく理解できなかった。
樫部は次をどう言えばいいのか、まだ迷っているようだった。
遠くで教師の声が聞こえる。何の授業だろうか。
「両親は僕が幼い頃に離婚して、母親が僕を引き取った。数年後に出来た義理の父が、僕に手を出すようになって……よくある話だろう。数回相手をさせられたが抵抗したら、他の人間に回された」
「……かし、べ」
顔をあげようとした俺の頭を、樫部の手がそっと押し留めた。
「家に帰っても意に染まぬ行為を強制させられるなら、相手を選んでホテルでも渡り歩いた方が気が楽だった。誘った男の家やマンション、ホテルに寝泊まりして、また次を探す毎日に……いい加減疲れていた頃に、彼に出会った」
「…………」
「彼は僕を一度も抱かなかった。けれど自宅に招き入れた。学校へ行け、家に帰れと説教してね。料理や洗濯など家事一通りを教えてくれた。はじめてだった……穏やかで満ち足りた毎日だった」
樫部がどんな顔で語っているのか、顔を上げたくてもできない。
手に力は入っていないけど、樫部が見られたくないと思っていることは、十分伝わってくるから。
「家族とは……こう言うものなのかと、思うたびに怯えた。失うことを恐れるほど、そこは居心地が良すぎた。彼に好きだと、本当は抱きたいのだと打ち明けられた時、僕は恐怖で混乱した。彼が嫌だからじゃない。僕が彼を汚してしまう、義理の父親と同じにしてしまうと思ったから」
馬鹿だろう、笑ってくれて構わない。と樫部は冗談めかして小声で言った。
「彼と肉体関係を持ったら、家族でいられなくなると思った。せっかく手に入れた温かい場所を失うと……僕は彼を信じられなかったんだ。僕は逃げ出した。その時昔の客と出会った。誘いを断りもめたところで、『i-CeL』に出会ったのだよ」
彼らの音楽に救われた。樫部はそう言っていた。はじめて穏やかな場所を見つけて、失った樫部はその時どんな気持ちだったのか、想像もできない。
「彼らの音楽に触発されて、久しぶりに家に帰った。母親はまた離婚していた。帰ってきた僕を抱きしめて泣いた。どこで何をしていたとも聞かず、ただ泣いた。母親とふたりで暮らせるようになって、うれしくて彼の部屋に報告に戻ったら、彼はいなくなっていた」
「……かし、べ」
何と声をかけるべきか、未熟な俺には思いつかず、ただ名前を呼ぶしかない。
「空になった部屋に、家に帰りなさいとだけ書いた紙が落ちていた。僕は失ったものの大きさに耐えきれない思いだったが、唯一残された彼の想いだけは裏切れないと思った。それからは母親と暮らし、真面目に学校へ通い、『i-CeL』の演奏を楽しみにしてきたわけだ……片平」
頭を押さえていた樫部の手が消えた。
「片平にも失くしたくない場所ができたのではないかね。このまま手放すつもりなのか。あの頃の僕のように」
「……樫部」
「毎日学校へ来ていると真柴が教えてくれたのだ。いままで片平が何をしてきたのか、僕はもちろん知っている。あのライブは行けなかったが、『i-CeL』のブログは欠かさず見ている。ライブ映像も見た」
「そうだったのか……」
樫部に想いを伝えたい、と思ったのがきっかけで、流れに流された結果があのライブだった。
予想しないところで、樫部はあのライブを見てしまった。歌った曲は既存の曲で、神音が俺のために用意する曲じゃなかったけれど。
もう歌う理由はなくなった。
そう理解したとたんに、なぜか俺は哀しさに襲われ、泣きたくなった。
「……あの時僕は言っただろう。海を越えるほど大きくなってほしいと。片平はどんな気持ちで歌っていたんだね? 軽い気持ちでカノンさまと入れ替わって歌ったわけじゃないんだろう? それなら、なぜ毎日ここに来て、一日中座っているんだ」
俺は何も言えなかった。
カノンさまと呼ぶほど、『i-CeL』の音楽を好きな樫部は、けれど神音の位置を奪った俺を責めない。
その重みが、少しずつ痺れた頭に沁みていく。
「片平。おまえが見つけた場所は、おまえにしか守ることはできないんだ。おまえ自身が見限って、怯えて、手放してしまったら、もう二度と手の届かない場所になってしまう」
「…………」
「おまえはそれでいいのか?」
だれに何を言われるよりも、痛烈な言葉だった。
何も持っていなかった俺を、可能性だけを信じて誘ってくれた仲間たち。
きっといまもスタジオで練習しているだろう。忙しくても時間を調節して集まり、練習を欠かさない彼らの姿を、短い間だけど俺も見て知っている。
彼らとの縁を切って、このまま静かに暮らして、俺が満足できるわけがない。
樫部の中で俺は逃げ出した奴だと、見下されてしまうのだから。
すべてどうでもよく感じていたけど、樫部の中の俺と言う場所までは捨てられない。
(俺が信じるべきなのは、俺が樫部に認められたいって言う想いじゃないのか?)
がたん、と立ち上がった俺を、樫部は自分の席に座って、輝く目で見上げてきた。
まるでおまえはそういう奴だと信じていたよ、とでも言いそうな目だった。
「ありがと、樫部。何か……いろいろ間違っていた気がする」
「ふっ……片平が正しかった時は、いままでにいくつあったかね」
ずいぶんな言いようだな、と苦笑しながら俺は樫部に別れを告げて、教室を飛び出した。
わからないことはまだ多い。
本当に俺が『i-CeL』に必要なのかも、自信が持てないままだ。
(……でも、みんなとやりたい。まだ上手くなれるはずなんだ、俺はっ)
不甲斐なかった俺自身に唇を噛みながら、携帯を取り出す。
相も変わらず嫌がらせメールがすし詰めだったが、無視して神音へ電話をかけた。
『なに、響?』
「いままで、本当にごめんなさいっ! もう一度練習に参加させてください!」
授業中の教室が並ぶ廊下を走る。きっと教師や生徒たちが顔をしかめているだろうけど、気にしていられない。
俺は神音にひどいことを言ってしまった。バンドの練習にも行っていない。
いまさら謝っても、あの場所へは戻れないかもしれない。
だけど戻りたい。もう一度やり直したい。だからいまは、なりふり構っていられない。
『……はぁ~、もう……やっぱり樫部さんの力は偉大だね。ちょっと妬けちゃうな』
「な、何だよ……ってことは、樫部に何か言ったのか、神音?」
『ん……? ぼくはただ、樫部さんに本気なのかって聞かれたから、本気だよって答えただけだよ』
樫部が何について聞いたのか、わからないほど馬鹿じゃない。
『樫部さんから学校での様子は聞いた。いまそのことで話しあってたところだったんだ。待ってるから……いつものスタジオにおいでよ』
「わかった、すぐに行く」
最寄駅までの道のりが、こんなにもどかしく感じたことはない。
須賀原の忠告を忘れることはできないけれど、アレンさんに直接彼のことを聞いて確かめるべきなんじゃないかと思えてきた。
(お願いだ、間に合ってくれッ)
人生ではじめて好きになった人に、情けない奴だと思われたまま、会えなくなるのは我慢できない。
残っている体力をすべてかきあつめて、駅までを疾走した。
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東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
ブレスレットが運んできたもの
mahiro
BL
第一王子が15歳を迎える日、お祝いとは別に未来の妃を探すことを目的としたパーティーが開催することが発表された。
そのパーティーには身分関係なく未婚である女性や歳の近い女性全員に招待状が配られたのだという。
血の繋がりはないが訳あって一緒に住むことになった妹ーーーミシェルも例外ではなく招待されていた。
これまた俺ーーーアレットとは血の繋がりのない兄ーーーベルナールは妹大好きなだけあって大いに喜んでいたのだと思う。
俺はといえば会場のウェイターが足りないため人材募集が貼り出されていたので応募してみたらたまたま通った。
そして迎えた当日、グラスを片付けるため会場から出た所、廊下のすみに光輝く何かを発見し………?
新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
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