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第一章
18:原点
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スタジオのある駅は、自宅の最寄り駅より手前にあるので定期券の範囲内だ。
改札に定期券を押しつけて、止まることなくホームにたどりつく。
電車を待つ間も足踏みを止められなかった。
やっと来た電車に飛び乗り、空席だらけの車内でひとり立ったまま、窓の外を睨みつける。気が焦って、座ってなんていられなかった。
(まだ戻れるだろうか。まずは謝って、それから須賀原のことを聞いて……)
意味もなく車内を歩き回りたいくらいの衝動を、唇をこらえてやりすごしながら考え続けた。
もどかしいくらいに時間をかけて、目的の駅に辿りついた車体が、扉を開くやいなや飛び出した。
駅からスタジオまでの道のりも、息が乱れていたけれど走り抜けた。
ずいぶんサボッていたけれど、早朝マラソン特訓の成果が、まだ少しは残っていたらしい。
スタジオの扉を開けた直後、息が切れて声が出ないかと思っていたけれど、案外声が出せた。
「いままで、練習さぼってしまい、申し訳ありま、せっ」
アレンさんが無言で近づいてきた。見上げたとたん、容赦なく頬を叩かれる。
メンバーたちが、あっと声をあげた。
「……オレが怒っているのは、練習に来なかったからじゃないよ。わかっている?」
「あ、の……」
叩かれた頬を手で抑え、アレンを見上げる。
いつも微笑んでいるアレンさんが、険しい顔つきになっていた。
はじめて見る表情だった。青色の目までもが冷たく凍りついている。
「オレはね、バンドをはじめる時に親に約束したんだ。一緒に活動する仲間たちを、家族だと思いなさい。それができないなら、バンドを続ける資格はない。何を言おうと辞めさせるってね」
アレンさんは言葉を切った後で、がばっと俺を抱き寄せた。力の限り抱きしめてくる。
まるでモーチンさんが乗り移ったみたいだ。
「オレたちを、何で頼ってくれなかったのっ!」
「っ……アレン、さん」
「一緒に練習した時間は短いけど、これからも一緒に歌いたいと言ってくれたでしょう。オレたちはすごくうれしかったんだよ。同じ気持ちだったから。それなのに、何で……相談してくれなかったの。そんなに頼りない?」
「ち、違いますっ! お、俺が……弱くて」
まともに見せつけられた悪意に、怯えて竦んで、まともに向きあえなかった。
受け止められず、ただなかったことにするしかできなかったんだ。
俺が弱すぎて、神音にすら頼れなかった。
「すべて俺が、俺が悪いんです」
「また、そうやって抱え込んで……神音に聞いた時は、あまりわからなかったけど。いまならよくわかるね。どうしてこうなっちゃったのかな」
アレンさんは俺の体を少し離すと、頭から足先まで何度も見ては、表情を曇らせた。
二の腕を撫でながらため息をつく。
「こんなに痩せて……せっかく歌うための筋肉をつけていた時だったのに」
「……すみません」
「怒ってるんじゃないってば。もう……」
苦笑したアレンさんのとなりに、神音が無言で立つ。こちらもいつもの陽気さはまるでなく、じっと俺を見つめてくる。
「ごめん……怒ってる?」
神音はまぎれもなく家族だ。
それも、親よりも身近に感じていた片割れなのに。
「…………」
神音の叫び声と、俺が神音に言いたい放題浴びせた言葉が蘇る。俺の胸が痛んだ。
誘った張本人だからこそ、責任を感じて落ち込んでいたんだろう。
ただじっと見てくる神音の目が、腫れていて赤く変色している。
「ごめん、神音」
俺は神音へ手を伸ばした。神音は何も言わず、拒絶もしなかった。
肩に頭をのせて、神音の腕をつかみ何度も謝った。
「……ぼくだってね、傷つくことはあるんだよ」
しばらくして、ようやく神音が口を開く。
すごく拗ねた口調と声だった。
「うん、知ってる」
「何だってできるわけじゃない」
「そ、うだった?」
思わず言い淀むと、神音がたたみかけるように言葉をつむいだ。
「そうだよ! 家事はほとんど響任せ。音楽だって作詞能力はからっきし。アレンと文月がいなきゃ、『i-CeL』の曲は一曲も完成してなかったよ。費用の計算やチケット管理は八代、ブログやチラシ作成は文月に任せっぱなしで。今回だって、響が苦しんでるの知ってても、どうしたらいいのかわからなかったんだからっ!」
神音が最後は叫ぶように言って、がばっと俺を抱き返してきた。
いつも輝いていた神音だ。いつの間にか俺の中で何でもできると勝手に決めつけて、身勝手に劣等感を抱いていただけなのかもしれない。
珍しく泣いている様子の片割れを抱きしめていると、ようやく凝り固まっていた何かが溶けていくのがわかった。
あれほど遠かった感覚が、どっと戻ってきた気がする。
サラサラの神音の髪を撫でる。
抱きしめた体温に、冷えきっていた俺の体が温められていくようだった。
八代さんには無言で後頭部を叩かれ、文月さんには頬をつねられた。
どちらも手加減していて、苦笑しながらだから、怒っていると言うより拗ねているんだろう。
「本当に、すみませんでした」
もう一度みんなに頭を下げて謝罪してから、スタジオの中央で車座になった。
みんなの前に立ち直った神音が、見覚えのある封書をぶちまけた。
俺は顔がひきつるのを自覚する。
「響は捨てたと思ってるみたいだけど、母さんが気づいて抜き取ってくれていたんだよ」
「そ……う」
答える声が掠れてしまう。
毎日一通だけ届いていた手紙だ。
ただ一言書かれているだけなのに、いまでも見ると体が震える。そんな俺の手にそっと手が重なって驚いた。
視線を向けると、となりにアレンさんが座っていて、青い目が心配そうに俺を見ていた。
さっきは凍りついていた目が、春の日差しのように輝いていて、俺は肩の力を抜いて、わずかに笑ってみせた。
(大丈夫、ありがとう)
深呼吸をした後で、視線を中央に戻す。
同じ文字が書いてある手紙を次々と文月さんが開いていく。
「調べてみたんだけど、差出人の住所はただの空き地。名前もでたらめだ。筆跡は複数だから、相手はひとりじゃないみたいだけど……くり返し同じ相手が出してきているね」
アレンさんは膝に肘をつき、頬杖をして話をはじめた。
ただの嫌がらせに、仲間たちがこうも親身になってくれるのが嬉しくもあり、申し訳なかった。
「響が大多数のファンに認められるまで、嫌がらせは続くでしょう。いまぼくたちにできることは、響をひとりにしないこと。響の友達の……えっと、なんだっけ、彼が言った通り学校へは行かないこと」
「まさか……神音、真柴とも話したの?」
あいつにまで迷惑をかけたのか、と思ったら神音は違うよと笑った。
「樫部さんがぼくに教えてくれたんだ。彼はバンドやっているらしいし、表立って動くと、巻き込まれるかもしれないからって」
「そう、か」
樫部にはずいぶん助けられたんだな、と思うと情けなくなる。
こんなんじゃ、ますます好きだと言えない。
「ま、もう間もなく卒業するわけだし、最後くらい行かなくても大丈夫でしょ?」
「……出席日数の問題なら、ね」
どうせ行ったところで樫部に会えないのだから、練習を後回しにしてまで行く価値はない。
神音に頷きながら、学校に残してきた樫部のことを想った。
(あんな話、俺にしたくなかっただろうに……ごめんな、ありがとう。絶対に後悔させないから)
心の中で決意をあらたにして、ひとり頷いた俺の耳に、神音のとんでもない台詞が飛び込んできた。
「でもって、響は家を出なよ」
「……なんだって?」
俺ひとり聞き逃したらしく、仲間たちみんなが俺を見ていた。
「この手紙、みんな家に置かれていたんでしょ? 他にも何かされたんじゃないの」
封筒を顔の横にかざして、神音がじろりと俺を見る。
(うっ、言い逃れできそうにないな……)
言わなくてもいいかと思っていたけれど、神音の迫力を見れば、後で言わなかったと知られた時の恐ろしさが想像できた。
「……登校途中に待ち伏せされて、生卵ぶつけられた、けど……」
何かが切れる音がした気がした。
突然神音が叫びだした。
「うがぁーっ、まったく、外野が騒ぎすぎなんだよーっ!」
「まぁまぁ、落ち着けや、神音ちゃん」
頭を抱えて絶叫する神音を、八代さんがなだめようとする。
「落ち着けるかっ。どいつもこいつも、ぼくたちの問題に外から首を突っ込んで、かきまわすだけかきまわしてくれてっ!」
「気持ちはよーわかる。おれかて腹立っとる。でも、まぁ、響ちゃんが驚いとるからな、そろそろ消火しようなぁ」
まだ脳天から煙を吐きながらも、どうにか座り直した神音を、八代さんがよしよしと頭を撫でていた。
ふたりを見ながらアレンさんが話を再開させた。
「もっとひどいことをされるかもしれないからね。事前に打てる手を打っておこうってわけで……オレの実家においで。部屋空いてるから」
「え……でも」
「そうしなよ。大丈夫、アレンの家は大きいから。いままでぼくたちも押しかけて、制作合宿なんて言って、何泊もしてきたんだし」
神音が八代さんの手を振り払い、口を挟んだ。
「そんな迷惑なことを……」
外泊は基本的に許されないんじゃなかったのかと、突っ込みたい気分だったけれど、とりあえず対応策が決まったので、練習をしようと言うことになった。
須賀原に出会ってから、自己練習を中断していたわりには声が出たものの、やっぱり落ちた体力と体重の影響は大きかった。
「……ごめん、休憩、させてもらっていい?」
曲の切れ目で、我慢できずに膝をついてしまった。神音が慌てた様子で駆けよってきた。
「心配しないで、息切れ、しただけ」
「何言ってんの、顔色真っ青だよ。とにかく座って……」
神音に支えられながら腰を下ろす。言われてようやく、眩暈までしていることに気づいた。
(ろくに食べてなかったのに、全力疾走してきて、準備運動もなしに歌ったんだ……こうなっても当然の報いだよな)
本日何度目かの情けなさに身を切られていると、となりで考えこんでいた様子の神音が両手を打ち鳴らした。
「そうだっ、新曲が出来たんだよ。今日はそれをみんなで聞こう。でもって、響は曲につける詞を考えてね」
「……はっ、いま何て?」
乱れた呼吸を整えることに意識が削られていて、神音の台詞を聞きとり損ねた。
「だ、か、ら、新曲の詞を響が作るの」
「……ええ~っ!」
せっかく整いだした呼吸を台無しにするほど、大絶叫してしまった。
「お、俺、作詞したことないんだけど!」
「でも約束したじゃない。響の想いを伝えるために、ぼくがとっておきの曲を作ってあげるって」
「…………」
樫部が好きだと気づいて、でも想いを伝える自信も手段もない俺に、神音が提示してくれた方法が歌うきっかけだった。
あれからいろいろ起きて、思わぬ形で樫部は俺が歌う姿を見てしまっていて、すっかり最初の約束を忘れていた。
「響が想いを伝えるための歌なんだから。響が詞を書かないで、だれが書くのさ」
そう言われてしまえば、頷くしかなかった。
八代さんが近づいてきて、うれしそうに声をかけてきた。
「何なに、響ちゃんが想いを伝えるためにって、ひょっとして、響ちゃん好きなコが?」
凄まれたら心底肝が冷えそうな顔立ちをしているくせに、少女まんがみたいに、目をきらきら輝かせている。
(八代さん、もしかして恋愛話が大好き?)
内心冷や汗をかきつつも、まぁ、としどろもどろに返答すると、とたんに飛び上がって喜びだした。
「ひぇ~っ、じゃあ、そのコのためにライブで歌おうと思ったわけなん? 何やのそれ、何やのそれっ! めっちゃトキめくやん、エエ話やん!」
「……そ、ですか?」
ばしばし肩を叩かれ、俺は息が詰まった。
鋭い顔つきに似合わない、恋する乙女みたいな八代さんの姿は正直言って、気持ちが悪いです。
「なら歌うのは、そのコのためってことなん? いやぁ~エエ話やないの、照れるやないの!」
「何でヤッシーが照れるんです」
頬に手を添えて身悶えする八代さんに、文月さんが淡々とつっこみをいれていた。
(うぅ……今後絶対に、八代さん相手に恋愛話はしないでおこう)
あまりにもハイテンションに騒ぎまくる八代さんの後頭部に、無言で近づいた文月さんの手刀がきれいに決まったところで、神音は新曲を披露した。
頭を抱え、痛みのあまりスタジオの床で身悶えする八代さんを、メンバーたちは完璧に見えないふりをしていて、思い思いの姿で曲に耳を傾ける。
俺は半分意識を八代さんに引っ張られていたが、曲がはじまるとすぐに意識をからめとられた。
(きれい……湖面を見ているみたいだ)
誘われてから今日まで、すべてではないけれどたくさん神音たちの曲を聞いてきた。
その度に思ったのは、曲調の豊富さだった。
一曲ごとに毎回違った味がして、知るたびに新鮮な驚きと、次は何をしてくれるだろうって子供みたいにワクワクさせられた。
新曲も期待を裏切らない、いままでにはなかった真新しい曲調で、無意識に目を閉じて聞き入ってしまった。
脳内で山林の合間に広がる湖に、春の光が模様を描く風景を見た気がした。
(きらめいて……風が渡り、あたたかさに丸ごと抱きしめられるような……幸せで思わず口元が笑っちゃう感じがする)
曲が余韻を残して終わる。もう終わりかと不満に思いながら目を開けると、アレンさんや文月さんはまだ目を閉じたままだった。
床に転がったままの八代さんは、頬杖をついて真剣な顔をして聞いていた。
(真面目な顔してる八代さんは、やっぱり少し恐い人だよな)
口を開いてしまうと、とたんにみんなのいじられキャラになってしまうけれど、本当はすごく男前なんだなといまになって気づいた。
神音は無言のまま、もう一度新曲を再生させた。
「……ここ、転調させたらどう?」
やがてぽつり、と文月さんが呟いたのをきっかけに、曲の合間に次々と声があがりはじめる。
こうしたら、と言う声だけじゃなくて、ここがいいとか、泣けそうだとか。
二回目の再生を終わったとたん、文月さんはさっそくギターを構えて鳴らしだした。何か旋律が浮かんだらしく、神音もそれを聞いて考えている様子だった。
アレンさんもドラムを叩いてみながら、時々首を捻っては叩き直している。
(やっぱり、俺が作詞することは決定なんだ)
みんなの様子を見ながら、急に責任を感じてしまって、俺は盛大にため息をついた。
「……どしたん、ため息なんてついて」
「八代さん」
まだ床に転がったまま、八代さんが俺を見上げて話しかけてきた。
その目がすごく優しくて、落ち着いていて、そう言えば八代さんも年上だったんだと思い至る。
「こんな風に何かをみんなで作ったことなくて。俺に作詞なんてできるのかって考えたら、不安で……」
「せやな。ひとりじゃ出来へんやろな、初心者なんやし」
八代さんはそう言って、ひょいっと立ち上がった。
「よそはどうか知らんけどな。うちは全員参加が基本やねん。神音が主に作曲しとるから勘違いする奴が多いけど。本当はこんな風に神音の曲にアイディアを出すし、作詞だって同じや。響ちゃんが作ったとしても、アレンやダイが作っても、結局みんなが頭を抱えて、もっとよくしていこうとする」
ぱんぱんっ、と服についた埃を払ってから、八代さんが近づいてきて腰をかがめ、俺と視線をあわせるとにこりと笑った。
ファミレスではじめて会った時のように、愛嬌あふれる人好きのする笑顔だ。
「せやから、響ちゃんは伝えたい想いを言葉にすることだけ考えればええで。そこからはおれたちが力を貸せるけど、一番の根っこは響ちゃんにしか生み出せへんのやから」
「……八代さん」
頭を八代さんの手が撫でた。
「いきなりうまくやろうとせんでええ。響ちゃんは響ちゃんのままで十分や。おれたちは響ちゃんと音楽やろうと思って誘ったんや。音楽の神さまでも、有名歌手でもなく、響ちゃんを仲間やと思うてんねんで」
「……はい」
思わぬ言葉をもらって、照れくささとかうれしいだとか、こみ上げてくる熱い感情をどうしたらいいのか困ってしまって、ただ返事をするのが精一杯だった。
「で、響ちゃんがそのコを好きになったきっかけは?」
「……え?」
それまでの雰囲気を蹴り破る勢いで、八代さんが意気揚々と質問してきた。
さっきと同じ、輝く目に戻っていた。
「何か好きになったきっかけがあったんとちゃうん?」
「え、えっと……その……」
うわ、どうしようと言葉に迷い、視線をさまよわせる俺に、アレンさんが近づいてきた。
助けてくれる、と期待した俺の予想を裏切って、アレンさんがあぐらをかきつつ言い放つ。
「オレも聞きたいな、その話」
ふたりして聞く気で顔を覗きこんでくるので、助けてと神音を見ると、あの天使の笑顔で頷くだけだ。
(裏切り者~。片割れを売り飛ばしたな~)
文月さんはギターを抱いたままだったけど、こちらもまた聞く気でいるらしく、首を傾げて俺を見つめてくるばかりだ。
「……つまらない話ですよ?」
救世主はどこにも存在しないらしい。
俺はあきらめて前置きをした。
相手が同性だと言うことだけは、絶対に秘密にしておかないと、樫部にも迷惑をかけてしまう。
教室で聞いた樫部の過去を思えば、なおさらだ。
(……哀しい想いをさせたくない。もう十分樫部は苦しんできたんだから)
慎重に言葉を選ばないと、と気を引き締めてから話し出した。
去年の初夏。高校二年生の俺たちは、山奥の合宿所へ二泊三日の勉強合宿へ行った。
ほとんど旅行に近い合宿だったけれど、一応午前中は勉強をして、午後からは自由時間として夕食までを過ごせる。
初日は移動と勉強でほとんど自由時間がなく、二日目の昼食後にようやく解放された俺は、近くを散歩しようと思い立った。
山奥の合宿所と言っても、付近は人の手が入っていて歩きやすい。
ほとんど公園を歩いているようで、楽しくて普段見られない草木に目を向けながら、夢中で歩いていた。
気がついた時、ずいぶん合宿所から離れていて、夕食の時間も迫っていた。慌てて来た道を戻ったつもりが、分岐点で道を間違えてしまったらしい。
一時間歩いても、二時間歩いても合宿所が見えなかったのだ。
「おかしい、そんなはずないって歩き続けて。でもどんどん見知らぬ場所に進んでしまって、パニックを起こしていたんでしょうね。まるで見覚えのない場所についてしまった。深い木ばかりで陽は届かず、間もなく陽が落ちて星空が見えました」
間抜けすぎる、といまになれば笑えるけれど、あの時は本当に生きて帰れないかと思った。
初夏の山奥は標高の高さも手伝って、急激に冷えてくる。普段の世界とかけ離れた場所なのだと肌身に沁みた。
「どうしたいいのかわからず、その場で体を抱えて座って、暗がりと寒さに怯えてました。そしたらすぐ近くで茂みが揺れて、足音が聞こえたから野生の獣に襲われるのかと思って、ずいぶんと恐ろしかった」
息を止めて暗闇を見ていたら、灯りが見えて樫部が姿を現した。
夏だからと半袖シャツを着ている俺と違って、長袖シャツに手袋、フードまで被っていたから最初は樫部だとわからなかったけれど。
「ふふ……阿呆がって笑ったんですよ、俺を見つけて。靴も手袋もズボンまで土まみれで、顔中に汗を光らせて、どれだけ俺を探してくれていたのか、そんなこと言わずに。ただ阿呆って言ったんです」
そして冷え切って動けない俺を背後から抱きかかえて、夜明けまで温めてくれた。
『こんな薄着で来る奴がいるとは、呆れたな』
樫部の格好があまりにも本格的なので、試しに聞いてみたら、この付近に珍しいキノコが生えていると聞いて、採取するつもりで用意してきたのだと言った。
『それが片平のせいで台無しだ。せめて珍しいキノコは見なかったか、思い出せ』
『無茶言うなよ……キノコなんて見た覚えない』
『あぁ……残念だ。遺伝子学的に謎の生態をしていると雑誌に載っていたキノコを、実際に目に出来ると期待して来たのだがな』
樫部らしい台詞に思わず吹き出してしまい、樫部をずいぶんと不機嫌にさせてしまったものだ。
笑えることに、翌日合宿所に戻ってようやく、周囲は俺がいなかったことに気づいた。
「たった一晩、道に迷ったくらいでおおげさかもしれませんが。命の恩人だと思ったんです。今度は俺が助けよう、そばにいて支えようって。あの人だけが俺を探してくれたから」
言い終わったとたん、両腕にぞくりと悪寒が走った。
(あれ……何だ?)
なぜか足元の床が抜け落ちたような心許ない感じがして、両腕を擦っているとアレンさんの声が聞こえてきた。
「う~ん、残念。オレがその場にいたなら、その子より先に見つけて、一晩響くんを抱っこする権利を手に入れたところなのに」
「ちょ……アレン、響に手を出したら許さないからねっ」
神音がきゃんきゃん、アレンさんの足元に近づいて騒いだ。
アレンさんは余裕の笑みで神音を見ていた。
(手を出す?)
首を傾げた俺に、文月さんが笑う。
「その思い出を詞に書いてみたらどうでしょう? きらめく星を、抱かれて見上げ夜を明かす……ロマンティックです」
「あ、はは……俺男なのに、抱かれた方なんで、情けないですけどね」
話し終わってから恥ずかしさがこみあげてきて、照れ笑いをしてごまかした。
また全員で新曲を聞きながら詞を検討して過ごした。
俺はすっかり、はじめて曲を作る現場に居合わせて、興奮して夢中になっていた。
(楽しいっ……歌うのもいいけど、みんなで何かを作るのって、こんなに楽しいんだ)
相手が樫部だと言うことだけは、絶対に明かせないけれど、好きな相手に歌いたい気持ちは嘘じゃない。
それをメンバーが応援してくれているようで、なおさら楽しかった。
改札に定期券を押しつけて、止まることなくホームにたどりつく。
電車を待つ間も足踏みを止められなかった。
やっと来た電車に飛び乗り、空席だらけの車内でひとり立ったまま、窓の外を睨みつける。気が焦って、座ってなんていられなかった。
(まだ戻れるだろうか。まずは謝って、それから須賀原のことを聞いて……)
意味もなく車内を歩き回りたいくらいの衝動を、唇をこらえてやりすごしながら考え続けた。
もどかしいくらいに時間をかけて、目的の駅に辿りついた車体が、扉を開くやいなや飛び出した。
駅からスタジオまでの道のりも、息が乱れていたけれど走り抜けた。
ずいぶんサボッていたけれど、早朝マラソン特訓の成果が、まだ少しは残っていたらしい。
スタジオの扉を開けた直後、息が切れて声が出ないかと思っていたけれど、案外声が出せた。
「いままで、練習さぼってしまい、申し訳ありま、せっ」
アレンさんが無言で近づいてきた。見上げたとたん、容赦なく頬を叩かれる。
メンバーたちが、あっと声をあげた。
「……オレが怒っているのは、練習に来なかったからじゃないよ。わかっている?」
「あ、の……」
叩かれた頬を手で抑え、アレンを見上げる。
いつも微笑んでいるアレンさんが、険しい顔つきになっていた。
はじめて見る表情だった。青色の目までもが冷たく凍りついている。
「オレはね、バンドをはじめる時に親に約束したんだ。一緒に活動する仲間たちを、家族だと思いなさい。それができないなら、バンドを続ける資格はない。何を言おうと辞めさせるってね」
アレンさんは言葉を切った後で、がばっと俺を抱き寄せた。力の限り抱きしめてくる。
まるでモーチンさんが乗り移ったみたいだ。
「オレたちを、何で頼ってくれなかったのっ!」
「っ……アレン、さん」
「一緒に練習した時間は短いけど、これからも一緒に歌いたいと言ってくれたでしょう。オレたちはすごくうれしかったんだよ。同じ気持ちだったから。それなのに、何で……相談してくれなかったの。そんなに頼りない?」
「ち、違いますっ! お、俺が……弱くて」
まともに見せつけられた悪意に、怯えて竦んで、まともに向きあえなかった。
受け止められず、ただなかったことにするしかできなかったんだ。
俺が弱すぎて、神音にすら頼れなかった。
「すべて俺が、俺が悪いんです」
「また、そうやって抱え込んで……神音に聞いた時は、あまりわからなかったけど。いまならよくわかるね。どうしてこうなっちゃったのかな」
アレンさんは俺の体を少し離すと、頭から足先まで何度も見ては、表情を曇らせた。
二の腕を撫でながらため息をつく。
「こんなに痩せて……せっかく歌うための筋肉をつけていた時だったのに」
「……すみません」
「怒ってるんじゃないってば。もう……」
苦笑したアレンさんのとなりに、神音が無言で立つ。こちらもいつもの陽気さはまるでなく、じっと俺を見つめてくる。
「ごめん……怒ってる?」
神音はまぎれもなく家族だ。
それも、親よりも身近に感じていた片割れなのに。
「…………」
神音の叫び声と、俺が神音に言いたい放題浴びせた言葉が蘇る。俺の胸が痛んだ。
誘った張本人だからこそ、責任を感じて落ち込んでいたんだろう。
ただじっと見てくる神音の目が、腫れていて赤く変色している。
「ごめん、神音」
俺は神音へ手を伸ばした。神音は何も言わず、拒絶もしなかった。
肩に頭をのせて、神音の腕をつかみ何度も謝った。
「……ぼくだってね、傷つくことはあるんだよ」
しばらくして、ようやく神音が口を開く。
すごく拗ねた口調と声だった。
「うん、知ってる」
「何だってできるわけじゃない」
「そ、うだった?」
思わず言い淀むと、神音がたたみかけるように言葉をつむいだ。
「そうだよ! 家事はほとんど響任せ。音楽だって作詞能力はからっきし。アレンと文月がいなきゃ、『i-CeL』の曲は一曲も完成してなかったよ。費用の計算やチケット管理は八代、ブログやチラシ作成は文月に任せっぱなしで。今回だって、響が苦しんでるの知ってても、どうしたらいいのかわからなかったんだからっ!」
神音が最後は叫ぶように言って、がばっと俺を抱き返してきた。
いつも輝いていた神音だ。いつの間にか俺の中で何でもできると勝手に決めつけて、身勝手に劣等感を抱いていただけなのかもしれない。
珍しく泣いている様子の片割れを抱きしめていると、ようやく凝り固まっていた何かが溶けていくのがわかった。
あれほど遠かった感覚が、どっと戻ってきた気がする。
サラサラの神音の髪を撫でる。
抱きしめた体温に、冷えきっていた俺の体が温められていくようだった。
八代さんには無言で後頭部を叩かれ、文月さんには頬をつねられた。
どちらも手加減していて、苦笑しながらだから、怒っていると言うより拗ねているんだろう。
「本当に、すみませんでした」
もう一度みんなに頭を下げて謝罪してから、スタジオの中央で車座になった。
みんなの前に立ち直った神音が、見覚えのある封書をぶちまけた。
俺は顔がひきつるのを自覚する。
「響は捨てたと思ってるみたいだけど、母さんが気づいて抜き取ってくれていたんだよ」
「そ……う」
答える声が掠れてしまう。
毎日一通だけ届いていた手紙だ。
ただ一言書かれているだけなのに、いまでも見ると体が震える。そんな俺の手にそっと手が重なって驚いた。
視線を向けると、となりにアレンさんが座っていて、青い目が心配そうに俺を見ていた。
さっきは凍りついていた目が、春の日差しのように輝いていて、俺は肩の力を抜いて、わずかに笑ってみせた。
(大丈夫、ありがとう)
深呼吸をした後で、視線を中央に戻す。
同じ文字が書いてある手紙を次々と文月さんが開いていく。
「調べてみたんだけど、差出人の住所はただの空き地。名前もでたらめだ。筆跡は複数だから、相手はひとりじゃないみたいだけど……くり返し同じ相手が出してきているね」
アレンさんは膝に肘をつき、頬杖をして話をはじめた。
ただの嫌がらせに、仲間たちがこうも親身になってくれるのが嬉しくもあり、申し訳なかった。
「響が大多数のファンに認められるまで、嫌がらせは続くでしょう。いまぼくたちにできることは、響をひとりにしないこと。響の友達の……えっと、なんだっけ、彼が言った通り学校へは行かないこと」
「まさか……神音、真柴とも話したの?」
あいつにまで迷惑をかけたのか、と思ったら神音は違うよと笑った。
「樫部さんがぼくに教えてくれたんだ。彼はバンドやっているらしいし、表立って動くと、巻き込まれるかもしれないからって」
「そう、か」
樫部にはずいぶん助けられたんだな、と思うと情けなくなる。
こんなんじゃ、ますます好きだと言えない。
「ま、もう間もなく卒業するわけだし、最後くらい行かなくても大丈夫でしょ?」
「……出席日数の問題なら、ね」
どうせ行ったところで樫部に会えないのだから、練習を後回しにしてまで行く価値はない。
神音に頷きながら、学校に残してきた樫部のことを想った。
(あんな話、俺にしたくなかっただろうに……ごめんな、ありがとう。絶対に後悔させないから)
心の中で決意をあらたにして、ひとり頷いた俺の耳に、神音のとんでもない台詞が飛び込んできた。
「でもって、響は家を出なよ」
「……なんだって?」
俺ひとり聞き逃したらしく、仲間たちみんなが俺を見ていた。
「この手紙、みんな家に置かれていたんでしょ? 他にも何かされたんじゃないの」
封筒を顔の横にかざして、神音がじろりと俺を見る。
(うっ、言い逃れできそうにないな……)
言わなくてもいいかと思っていたけれど、神音の迫力を見れば、後で言わなかったと知られた時の恐ろしさが想像できた。
「……登校途中に待ち伏せされて、生卵ぶつけられた、けど……」
何かが切れる音がした気がした。
突然神音が叫びだした。
「うがぁーっ、まったく、外野が騒ぎすぎなんだよーっ!」
「まぁまぁ、落ち着けや、神音ちゃん」
頭を抱えて絶叫する神音を、八代さんがなだめようとする。
「落ち着けるかっ。どいつもこいつも、ぼくたちの問題に外から首を突っ込んで、かきまわすだけかきまわしてくれてっ!」
「気持ちはよーわかる。おれかて腹立っとる。でも、まぁ、響ちゃんが驚いとるからな、そろそろ消火しようなぁ」
まだ脳天から煙を吐きながらも、どうにか座り直した神音を、八代さんがよしよしと頭を撫でていた。
ふたりを見ながらアレンさんが話を再開させた。
「もっとひどいことをされるかもしれないからね。事前に打てる手を打っておこうってわけで……オレの実家においで。部屋空いてるから」
「え……でも」
「そうしなよ。大丈夫、アレンの家は大きいから。いままでぼくたちも押しかけて、制作合宿なんて言って、何泊もしてきたんだし」
神音が八代さんの手を振り払い、口を挟んだ。
「そんな迷惑なことを……」
外泊は基本的に許されないんじゃなかったのかと、突っ込みたい気分だったけれど、とりあえず対応策が決まったので、練習をしようと言うことになった。
須賀原に出会ってから、自己練習を中断していたわりには声が出たものの、やっぱり落ちた体力と体重の影響は大きかった。
「……ごめん、休憩、させてもらっていい?」
曲の切れ目で、我慢できずに膝をついてしまった。神音が慌てた様子で駆けよってきた。
「心配しないで、息切れ、しただけ」
「何言ってんの、顔色真っ青だよ。とにかく座って……」
神音に支えられながら腰を下ろす。言われてようやく、眩暈までしていることに気づいた。
(ろくに食べてなかったのに、全力疾走してきて、準備運動もなしに歌ったんだ……こうなっても当然の報いだよな)
本日何度目かの情けなさに身を切られていると、となりで考えこんでいた様子の神音が両手を打ち鳴らした。
「そうだっ、新曲が出来たんだよ。今日はそれをみんなで聞こう。でもって、響は曲につける詞を考えてね」
「……はっ、いま何て?」
乱れた呼吸を整えることに意識が削られていて、神音の台詞を聞きとり損ねた。
「だ、か、ら、新曲の詞を響が作るの」
「……ええ~っ!」
せっかく整いだした呼吸を台無しにするほど、大絶叫してしまった。
「お、俺、作詞したことないんだけど!」
「でも約束したじゃない。響の想いを伝えるために、ぼくがとっておきの曲を作ってあげるって」
「…………」
樫部が好きだと気づいて、でも想いを伝える自信も手段もない俺に、神音が提示してくれた方法が歌うきっかけだった。
あれからいろいろ起きて、思わぬ形で樫部は俺が歌う姿を見てしまっていて、すっかり最初の約束を忘れていた。
「響が想いを伝えるための歌なんだから。響が詞を書かないで、だれが書くのさ」
そう言われてしまえば、頷くしかなかった。
八代さんが近づいてきて、うれしそうに声をかけてきた。
「何なに、響ちゃんが想いを伝えるためにって、ひょっとして、響ちゃん好きなコが?」
凄まれたら心底肝が冷えそうな顔立ちをしているくせに、少女まんがみたいに、目をきらきら輝かせている。
(八代さん、もしかして恋愛話が大好き?)
内心冷や汗をかきつつも、まぁ、としどろもどろに返答すると、とたんに飛び上がって喜びだした。
「ひぇ~っ、じゃあ、そのコのためにライブで歌おうと思ったわけなん? 何やのそれ、何やのそれっ! めっちゃトキめくやん、エエ話やん!」
「……そ、ですか?」
ばしばし肩を叩かれ、俺は息が詰まった。
鋭い顔つきに似合わない、恋する乙女みたいな八代さんの姿は正直言って、気持ちが悪いです。
「なら歌うのは、そのコのためってことなん? いやぁ~エエ話やないの、照れるやないの!」
「何でヤッシーが照れるんです」
頬に手を添えて身悶えする八代さんに、文月さんが淡々とつっこみをいれていた。
(うぅ……今後絶対に、八代さん相手に恋愛話はしないでおこう)
あまりにもハイテンションに騒ぎまくる八代さんの後頭部に、無言で近づいた文月さんの手刀がきれいに決まったところで、神音は新曲を披露した。
頭を抱え、痛みのあまりスタジオの床で身悶えする八代さんを、メンバーたちは完璧に見えないふりをしていて、思い思いの姿で曲に耳を傾ける。
俺は半分意識を八代さんに引っ張られていたが、曲がはじまるとすぐに意識をからめとられた。
(きれい……湖面を見ているみたいだ)
誘われてから今日まで、すべてではないけれどたくさん神音たちの曲を聞いてきた。
その度に思ったのは、曲調の豊富さだった。
一曲ごとに毎回違った味がして、知るたびに新鮮な驚きと、次は何をしてくれるだろうって子供みたいにワクワクさせられた。
新曲も期待を裏切らない、いままでにはなかった真新しい曲調で、無意識に目を閉じて聞き入ってしまった。
脳内で山林の合間に広がる湖に、春の光が模様を描く風景を見た気がした。
(きらめいて……風が渡り、あたたかさに丸ごと抱きしめられるような……幸せで思わず口元が笑っちゃう感じがする)
曲が余韻を残して終わる。もう終わりかと不満に思いながら目を開けると、アレンさんや文月さんはまだ目を閉じたままだった。
床に転がったままの八代さんは、頬杖をついて真剣な顔をして聞いていた。
(真面目な顔してる八代さんは、やっぱり少し恐い人だよな)
口を開いてしまうと、とたんにみんなのいじられキャラになってしまうけれど、本当はすごく男前なんだなといまになって気づいた。
神音は無言のまま、もう一度新曲を再生させた。
「……ここ、転調させたらどう?」
やがてぽつり、と文月さんが呟いたのをきっかけに、曲の合間に次々と声があがりはじめる。
こうしたら、と言う声だけじゃなくて、ここがいいとか、泣けそうだとか。
二回目の再生を終わったとたん、文月さんはさっそくギターを構えて鳴らしだした。何か旋律が浮かんだらしく、神音もそれを聞いて考えている様子だった。
アレンさんもドラムを叩いてみながら、時々首を捻っては叩き直している。
(やっぱり、俺が作詞することは決定なんだ)
みんなの様子を見ながら、急に責任を感じてしまって、俺は盛大にため息をついた。
「……どしたん、ため息なんてついて」
「八代さん」
まだ床に転がったまま、八代さんが俺を見上げて話しかけてきた。
その目がすごく優しくて、落ち着いていて、そう言えば八代さんも年上だったんだと思い至る。
「こんな風に何かをみんなで作ったことなくて。俺に作詞なんてできるのかって考えたら、不安で……」
「せやな。ひとりじゃ出来へんやろな、初心者なんやし」
八代さんはそう言って、ひょいっと立ち上がった。
「よそはどうか知らんけどな。うちは全員参加が基本やねん。神音が主に作曲しとるから勘違いする奴が多いけど。本当はこんな風に神音の曲にアイディアを出すし、作詞だって同じや。響ちゃんが作ったとしても、アレンやダイが作っても、結局みんなが頭を抱えて、もっとよくしていこうとする」
ぱんぱんっ、と服についた埃を払ってから、八代さんが近づいてきて腰をかがめ、俺と視線をあわせるとにこりと笑った。
ファミレスではじめて会った時のように、愛嬌あふれる人好きのする笑顔だ。
「せやから、響ちゃんは伝えたい想いを言葉にすることだけ考えればええで。そこからはおれたちが力を貸せるけど、一番の根っこは響ちゃんにしか生み出せへんのやから」
「……八代さん」
頭を八代さんの手が撫でた。
「いきなりうまくやろうとせんでええ。響ちゃんは響ちゃんのままで十分や。おれたちは響ちゃんと音楽やろうと思って誘ったんや。音楽の神さまでも、有名歌手でもなく、響ちゃんを仲間やと思うてんねんで」
「……はい」
思わぬ言葉をもらって、照れくささとかうれしいだとか、こみ上げてくる熱い感情をどうしたらいいのか困ってしまって、ただ返事をするのが精一杯だった。
「で、響ちゃんがそのコを好きになったきっかけは?」
「……え?」
それまでの雰囲気を蹴り破る勢いで、八代さんが意気揚々と質問してきた。
さっきと同じ、輝く目に戻っていた。
「何か好きになったきっかけがあったんとちゃうん?」
「え、えっと……その……」
うわ、どうしようと言葉に迷い、視線をさまよわせる俺に、アレンさんが近づいてきた。
助けてくれる、と期待した俺の予想を裏切って、アレンさんがあぐらをかきつつ言い放つ。
「オレも聞きたいな、その話」
ふたりして聞く気で顔を覗きこんでくるので、助けてと神音を見ると、あの天使の笑顔で頷くだけだ。
(裏切り者~。片割れを売り飛ばしたな~)
文月さんはギターを抱いたままだったけど、こちらもまた聞く気でいるらしく、首を傾げて俺を見つめてくるばかりだ。
「……つまらない話ですよ?」
救世主はどこにも存在しないらしい。
俺はあきらめて前置きをした。
相手が同性だと言うことだけは、絶対に秘密にしておかないと、樫部にも迷惑をかけてしまう。
教室で聞いた樫部の過去を思えば、なおさらだ。
(……哀しい想いをさせたくない。もう十分樫部は苦しんできたんだから)
慎重に言葉を選ばないと、と気を引き締めてから話し出した。
去年の初夏。高校二年生の俺たちは、山奥の合宿所へ二泊三日の勉強合宿へ行った。
ほとんど旅行に近い合宿だったけれど、一応午前中は勉強をして、午後からは自由時間として夕食までを過ごせる。
初日は移動と勉強でほとんど自由時間がなく、二日目の昼食後にようやく解放された俺は、近くを散歩しようと思い立った。
山奥の合宿所と言っても、付近は人の手が入っていて歩きやすい。
ほとんど公園を歩いているようで、楽しくて普段見られない草木に目を向けながら、夢中で歩いていた。
気がついた時、ずいぶん合宿所から離れていて、夕食の時間も迫っていた。慌てて来た道を戻ったつもりが、分岐点で道を間違えてしまったらしい。
一時間歩いても、二時間歩いても合宿所が見えなかったのだ。
「おかしい、そんなはずないって歩き続けて。でもどんどん見知らぬ場所に進んでしまって、パニックを起こしていたんでしょうね。まるで見覚えのない場所についてしまった。深い木ばかりで陽は届かず、間もなく陽が落ちて星空が見えました」
間抜けすぎる、といまになれば笑えるけれど、あの時は本当に生きて帰れないかと思った。
初夏の山奥は標高の高さも手伝って、急激に冷えてくる。普段の世界とかけ離れた場所なのだと肌身に沁みた。
「どうしたいいのかわからず、その場で体を抱えて座って、暗がりと寒さに怯えてました。そしたらすぐ近くで茂みが揺れて、足音が聞こえたから野生の獣に襲われるのかと思って、ずいぶんと恐ろしかった」
息を止めて暗闇を見ていたら、灯りが見えて樫部が姿を現した。
夏だからと半袖シャツを着ている俺と違って、長袖シャツに手袋、フードまで被っていたから最初は樫部だとわからなかったけれど。
「ふふ……阿呆がって笑ったんですよ、俺を見つけて。靴も手袋もズボンまで土まみれで、顔中に汗を光らせて、どれだけ俺を探してくれていたのか、そんなこと言わずに。ただ阿呆って言ったんです」
そして冷え切って動けない俺を背後から抱きかかえて、夜明けまで温めてくれた。
『こんな薄着で来る奴がいるとは、呆れたな』
樫部の格好があまりにも本格的なので、試しに聞いてみたら、この付近に珍しいキノコが生えていると聞いて、採取するつもりで用意してきたのだと言った。
『それが片平のせいで台無しだ。せめて珍しいキノコは見なかったか、思い出せ』
『無茶言うなよ……キノコなんて見た覚えない』
『あぁ……残念だ。遺伝子学的に謎の生態をしていると雑誌に載っていたキノコを、実際に目に出来ると期待して来たのだがな』
樫部らしい台詞に思わず吹き出してしまい、樫部をずいぶんと不機嫌にさせてしまったものだ。
笑えることに、翌日合宿所に戻ってようやく、周囲は俺がいなかったことに気づいた。
「たった一晩、道に迷ったくらいでおおげさかもしれませんが。命の恩人だと思ったんです。今度は俺が助けよう、そばにいて支えようって。あの人だけが俺を探してくれたから」
言い終わったとたん、両腕にぞくりと悪寒が走った。
(あれ……何だ?)
なぜか足元の床が抜け落ちたような心許ない感じがして、両腕を擦っているとアレンさんの声が聞こえてきた。
「う~ん、残念。オレがその場にいたなら、その子より先に見つけて、一晩響くんを抱っこする権利を手に入れたところなのに」
「ちょ……アレン、響に手を出したら許さないからねっ」
神音がきゃんきゃん、アレンさんの足元に近づいて騒いだ。
アレンさんは余裕の笑みで神音を見ていた。
(手を出す?)
首を傾げた俺に、文月さんが笑う。
「その思い出を詞に書いてみたらどうでしょう? きらめく星を、抱かれて見上げ夜を明かす……ロマンティックです」
「あ、はは……俺男なのに、抱かれた方なんで、情けないですけどね」
話し終わってから恥ずかしさがこみあげてきて、照れ笑いをしてごまかした。
また全員で新曲を聞きながら詞を検討して過ごした。
俺はすっかり、はじめて曲を作る現場に居合わせて、興奮して夢中になっていた。
(楽しいっ……歌うのもいいけど、みんなで何かを作るのって、こんなに楽しいんだ)
相手が樫部だと言うことだけは、絶対に明かせないけれど、好きな相手に歌いたい気持ちは嘘じゃない。
それをメンバーが応援してくれているようで、なおさら楽しかった。
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