我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第一章

19:眠り

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 学校へ行かなくてもすむのは、とても助かった。
 一日がこんなに長いものなんだと驚き、新鮮な気分だった。
 さらに輪をかけて、居候させてくれるアレンさんの家族が優しく、特にアレンさんが雑事をさせてくれないのが大きかった。
 神音がアレンさんの家は大きいと表現したのは、まさにその通りで、十階建てマンションの最上階がすべて榎本家なのだと聞いて呆れてしまった。
「父さん、この子がオレが言ってた子。ファンがいじめるから、しばらく家で預りたいんだけど、いいでしょう?」
「ああ、もちろんだとも。神音くんとよく似ているから、話に聞いていたけれど驚いたよ。本当に似ているなぁ~では、さっそくだけど響くんと呼ばせてもらうよ」
 いともあっさり、アレンさんのお父さんは俺の居候を承諾してくれた。
 だったら居候の身として、家事を手伝いたいと名乗り出たのに、アレンさんは哀しげな声で肩を落としたのだ。
「オレはそんなに頼りない~?」
 眉を下げて、これ以上なく落ち込んだ風情で言われてしまった。
「い、いえ、そうじゃなくて。置いてもらうのだから、やれることはやらないと、と……」
「だったら」
 と泡立ったスポンジを握った手で、アレンさんがビシリと俺を指した。
「歌の練習をしなさい。他のことはオレに任せて、考えなくてよろしい」
「……そう言うわけには」
「だめ、リーダー権限で命令します。響くんは一秒たりとも他の事に思い悩んではイケマセン」
「…………」
 アレンさんが言う他の事が、家事のことだけではないとわかって、答えに詰まった。
「……オレね、家族に世話を焼かれて育ってきたの。兄さんと年が離れてたし、両親は仕事もしてたくせに子供好きで、無理してでも子供に時間を割いてくれてきたからね。だからだれかを世話できることがうれしいんだよ」
「……でも」
「響くんは少し、だれかに頼ることに慣れた方がいいくらいだ。ね?」
「…………」
 そうだろうかと思ったけれど、これ以上何を言っても聞いてもらえそうになかったので、言葉に甘えることにした。
(機会を見つけて、少しずつ手伝っていこう)
 というわけで、いきなり自由時間が増えた一日の使い方に戸惑いつつも、榎本家での居候生活を送っている。
 まず歌っている途中でバテてしまった情けなさを克服するため、少しずつ食べる物を増やしていった。
 赤身の肉を食べると効率よく体力がつく、と耳にしたアレンさんが、その日から夕食に肉料理を提供してくれるようになった。
 胃が弱っていたせいで、はじめはもたれて気持ち悪くなったけれど、三日目になるとそれもなくなった。
 いまではとてもおいしくいただいている。
 いきなり変わった環境に慣れていないこともあって、何をしたらいいのか困っていた俺に気づいたらしい。
 居候二日目にアレンさんがマンションの地下に連れて行ってくれた。
「元々はマンションを建てる間、作業員の仮眠室に使っていたスペースなんだって。完成後はオレの練習所として使ってきた。防音室並みに音を遮断してくれるし、外に漏れたって駐車場しかないから、気にせずドラム叩けるんだ」
 直通エレベーターの乗降口横に、鍵のかかった扉があって、そこの先が防音室だったのだ。
(う~ん……もう驚き疲れたけどさ、どれだけ恵まれた環境で育ったんだ、この人)
 案内されて入った室内はドラムを置いたら、他に何も入らないだろうなとわかる広さだったけれど、自主練習は好きなだけできそうだ。
「ここなら存分に声を出せるでしょ。この戸棚の下は小さいけど冷蔵庫になっててね、好きなの持ち込んで使っていいから。困ったことがあったら内線がここにあるし……」
 どこまでいたれりつくせりの練習場なんだ、と冷や汗をかいたくらいに、アレンさんが次々と説明してくれる。
 それだけ長い時間を、ここで練習に費やしてきたんだろうと思い至って、喜々として説明するアレンさんの横顔を見上げた。
(みんな、いままでどれくらい苦労して練習してきたんだろう……俺はまだこれからだ。追いつけるだろうか)
 その日からさっそく、俺は防音室にこもって練習に励んだ。
 落ちた筋肉は予想よりも根深く影響してくれて、声がまるで安定しない。以前なら出せていたロングトーンの声も、後半が笑えるくらいに震えてしまう。
(おいおい、俺こんなんでどうするんだ!)
 富岡さんやモーチンさんに叩きこまれた基礎が、体からほとんど抜け落ちてしまっている。これでは歌うどころではない。
(うわ~一からやり直し? 振り出しに戻るなんて、時間が足りないよっ)
 内心で頭を抱えたけれど、そうしていても歌えるようになるわけではないので、翌日からアレンさんに頼んで一緒に走ってもらうことにした。
 本当はひとりで走るつもりだったんだけど、夕食の時に何気なく打ち明けたところ、絶対にひとりじゃだめだと猛反対されたのだ。
「いまはまだ響くんがうちにいることを知らないかもしれないけど、毎朝走るようになったら、気づく人だって出てくるでしょう。何もされないかもしれないけど、何かされるかもしれない。それなのにひとりで走らせるわけにはいかないよ。何のためにうちで預かってるのって話になるでしょ?」
(あぁ~……そう言えば、いやがらせから逃れるためにここに来たんだっけ)
 アレンさんの言い分は最もなので、申し訳ないけれど、『i-CeL』に誘われた直後のようにふたりで走った。
 ストレッチも同じようにこなして、帰宅後は防音室にこもって基礎練習。午後に数時間、作詞に向かい合い、また基礎練習に戻る。
 居候開始から一週間が過ぎる頃には、俺の日課がだいたい定着してきた。
(それにしても、ただ座ってただけだった、あの時間がもったいなかったなぁ~)
 アレンさんに借りた国語辞典をぺらり、とめくりため息をついた。
 作詞に使うために用意したノートは、一週間経ってもらくがきだけが色を変えている有様だった。
 無意味に学校の教室で過ごしていた時間が、いまここで使えたらいいのにと思わずにいられない。
(数千、数万……眩暈がしそうなくらい数多ある言葉の中から、これだって思える言葉を見つけるなんて。アレンさんたち、いままでどうやってきたんだろう)
 樫部と過ごした夜を書いてみたらと助言してくれたものの、そのための言葉がどれも違う気がして進まない。
 ノートと睨みあいをしていても仕方がないので、プレーヤーに手を伸ばした。
 居候初日に、神音が着替えや身の周りの小物と一緒に持って来てくれた物だ。
 元々は神音の物だったけれど、初ライブの前から俺に貸してくれている。
 あの時よりも中身が増えていて、『i-CeL』の曲がほとんどすべて入れてあるそうだ。
 参考までに、と過去の曲を聞きながら、神音にプリントアウトしてもらった歌詞を見ては、またため息をつく。
(なんでこの旋律に、この言葉が浮かんでくるんだよ~)
 差を見せつけられるばかりで、何の参考にもならない気がした。
 気をとりなおして、新曲だけをリピート再生させる。
 スタジオで聞いた時よりも変わっている部分がある。八代さんが言った通り、神音ひとりで作曲しているわけじゃないって、こういうことかと納得した。
(はぁ~……何度聞いても浮かばない~)
 よりにもよって神音が俺のために作ってくれた曲は、もったいないくらいにきれいだ。
 リピート再生する新曲にあわせてハミングしながら、もういっそのこと歌詞無しにしたらどうだろう、と真剣に考えるようになっていた。


 居候開始から十四日目の朝。
 マラソンを終えて帰宅後、アレンさんと向かい合って朝食をとりながら、アレンさんが話しかけてきた。
「調子はどう?」
「え、あ……はい、だいぶ元に戻ってきたと思います」
 トーストをかじり、アレンさんが頷いた。
「それはよかった。作詞の方は進んでる?」
「……そっちは触れて欲しくないです」
 両肩を落とした俺を見て、アレンさんが盛大に笑ってくれた。
「俺に作詞は無理ですよ。アレンさんたちが、どうして作詞できるのか、不思議でなりません」
「あはは……響くんは歌もそうだけど、作詞も頭で考えすぎなんだろうね」
「……考えすぎ、ですか?」
 急に真面目な顔に戻って言われた台詞に、思わぬヒントが隠れているような気がした。
「アレンさんたちは考えないんですか?」
「あぁ、そう言うわけじゃなくってね。響くんは譜面を見ながら曲を聞くと、間違いなく覚えて忘れないでしょう?」
 たいした特技じゃないと思うけど、一応頷いた。するとアレンさんが苦笑する。
「勘ちがいしないで聞いて欲しいんだけど、そのせいで頭でっかちな歌になってると思うんだよね。作詞も同じかなって想像したんだけど」
「頭でっかち?」
 疑問符をまき散らす俺の手を取って、アレンさんが立ち上がった。
「新曲の譜面はまだ見てないね?」
「あ、はい」
「ちょうどいい」
 そう言って、アレンさんは新曲のリズムを手拍子で刻みはじめた。
「歌ってみて」
 促されて主旋律をハミングしようとしたら、握られた手を引っ張られて、まるで社交ダンスを踊るみたいに抱き寄せられた。
「そのまま歌い続けて」
「えっ、うわ……」
 そのままの姿勢で歌にあわせて、体を揺らされる。足が自然に動いて、くるりとターンをしたり、手を伸ばして離れたかと思うとまた引き寄せられる。
 合間に手拍子を挟んだり、アレンさんのリードがリズムに乗っていることに気づいてからは、だんだん楽しくなってきた。
 新曲を歌い終わる頃には、息切れしそうだったけれど、すごく楽しくてふたりでいつまでも笑っていた。
「響くん、わかった? いまのが音楽だよ」
「……え……っと」
 踊ることがだろうか、と目を丸くする俺に、アレンさんがまた笑った。
「譜面を再現するのが音楽じゃない。音を感じて楽しむものだよ、音楽ってのは」
「……あ……」
 ようやくアレンさんが言いたかったことがわかって、俺は思わず声をもらしていた。
(頭でっかちって、そう言うことか)
 なまじ譜面を覚えてしまうから、その通りに歌わなければと引っ張られていたのだ。
「もちろんまるっきり無視しろって言っているわけじゃないんだけどね。響くんは真面目さんだから、無視するくらいでちょうどいいかも」
「…………」
 まだ弾んだままの鼓動を数えながら、ふと特訓で連れて行かれた遊園地を思い出した。
(俺……あの頃から、全然進歩してなかったんだ)
 肝心なことを教えようとしてくれていたのに、わかったつもりでいて本当はわからないまま、気づかずにいままで来てしまった。
「作詞もね、曲を聞いていると、自然と言葉が浮かんでくることがあるからね。頭で考えすぎて、行き詰ってしまったなら、純粋に聞いてみるといいかもしれないよ」
「……はい、ありがとうございます」
 朝食の残りを片づけて、早速俺は地下室にこもって新曲を聞いた。
 何も考えずに、樫部と過ごした夜の思い出も忘れて、ただひたすら曲を聞き続けた。
 どれくらいの時間聞いていただろう。
 ふいに頭の片すみで音が弾けた。
(いまの……)
 慌ててプレーヤーを操作して巻き戻し、再生させる。特に気に入っている旋律の部分で、また別の音が共鳴した。
(この音、これ……言葉だっ)
 ノートを開くのももどかしい。せっかく言葉になってくれた音が、消えてしまいそうで、焦りながらノートに書きつづる。
 ひとつ形になると、不思議と次の言葉が浮かんできて、物語を描きだした。
(うわ~アレンさんの言う通りだった。俺、考えすぎてたのかもしれない)
 いい曲をもらったから、いい詞をつけたいだとか、想いを伝えるためにはどんな言葉がいいだろうだとか。
 雑音が多すぎて、本当に言いたかった言葉が出て来られなかったんだ。
 そのまま詞は最後まで消えることなく浮かんできて、すべてノートに書き残せた。
「……出来たっ!」
 らくがきだらけだったノートが嘘のように、新たなページに汚れもなく、言葉がきれいに並んでいる。
 頭上に掲げて、それを見ながら感慨にふけってから、立ち上がって歌ってみることにした。
(歌いにくかったら、変えないといけないし)
 喜びはまだ深かったけれど、真面目にやろうと気を取り直し、深く息を吸い込んだ。


 新曲の詞が完成した喜びで、興奮しすぎていたのかもしれない。
 内線でアレンさんに呼び戻されるまで、休む間もなく防音室で練習に没頭していた。
「響くん、真面目なのはいいけど、適度に休まないと喉を傷めるよ?」
 部屋に戻ると、キッチンでエプロンをつけたアレンさんが顔を曇らせて立っていた。
「す、すみません。詞が出来て、ちゃんと歌えるか確かめてみたくって……」
 渋面を振り払い、アレンさんはテーブルを指さしながら笑った。
「そう。出来たんだ、それは明日が楽しみだ」
「明日?」
 言われた通りに座りながら問い返すと、夕食のビーフシチューを俺の前に置いたアレンさんが頷いた。
「みんな集まれそうだから、スタジオで練習することに決まったの」
「うわ~、久しぶりですね、みんなと演奏を合わせるのは。俺も楽しみです」
「だから今夜はちゃんと食べて、しっかり眠ること。練習はこれまでだよ」
 また渋面に戻ったアレンさんに、俺は苦笑するしかなかった。
 仕事から帰ってきたお父さんも一緒に、三人での夕食を終えてから、俺はリビングのソファでもう一度新曲を聞きながら歌詞を見直していた。
 自覚していなかったけれど、アレンさんの言う通り練習しすぎたのかもしれなかった。
 気がつくと手から力が抜けて、ソファの肘置き部分に寄りかかり、ほとんど目が開かなくなっていた。
(うぅ~眠い……ここで眠ってはいけないのに……眠い、すごく)
 指先が少しも動かせないくらい、体が脱力しきっているのに、意識はまだ完全には眠っていない。その中途半端さと格闘していると、アレンさんのお父さんが気づいた。
「おや、響くん……?」
 優しい声が聞こえたけれど、返事はとてもできなかった。心の中だけで呻り声をあげて、どうにか体を動かそうとするのに、力は風よりも素早く通り抜けて消えてしまう。
「……頑張り屋さん、眠ってしまった?」
 頭上から今度はアレンさんの声が降ってきた。まだ眠ってませんと答えたかったけど、唇は震えることも拒んだ。
 ふふっ、と笑った吐息が額に触れた。
「そんな無防備な顔をして……困ったな」
 体を抱き起こされるのがわかったけれど、まぶたは重く閉じたままだった。
「今度こそ、幸せになれそうかい、アレン?」
 不意に少し低くなったお父さんの声が聞こえた。アレンさんの手が動きを止めた。
「……その子はとてもいい子だね。見ていてもわかる」
「駄目だよ、父さん。この子の心にはね、別の子が住んでいるから」
 アレンさんが静かに、優しく、切なげな声で答えた後に、体が浮き上がった。
「そうか……私はおまえの父親だからね、いい加減に一途なおまえが、幸せを掴んでくれたらと願わずにはいられないよ」
 抱き上げてくれた腕が、力をこめて俺を抱き直した。
「……オレは、想っても叶わない、報われない人に惹かれてしまうんだ。もう悪癖だね、どうしようもない」
 そう言い残して、アレンさんが歩き出したらしい。ふわふわと体が揺れて運ばれていく。
 客室のベッドに下ろされて、間近から顔を覗かれている気配がした。
(いまは絶対に動くな、俺の体ッ)
 さっきまでは一ミリも動きそうになかった体が、いまは意志と関係なく動いてしまいそうだ。眠気が覚めてきているらしい。
 必死の覚悟で息を潜めていると、気配が動いた。頭をあたたかい何かが撫でていく。
「いっそ歌わせないで、閉じ込めてしまいたいよ……オレもいい加減にしておけばいいのにね。他の人のために変わろうとする君を、見ないではいられないんだから」
 そっと額に触れたぬくもりが、すぐに離れた。
「……おやすみ」
「…………」
 客室のドアが閉まる音が聞こえるまで、俺の鼓動が聞こえてしまわないか、そればかりを気にしていた。
「……ぷはっ」
 息まで止めていたから、さすがに苦しくなってきて思いっきり息を吸い込んだ。
(な、なな……何だったんだ、いまの……夢。なわけないよな?)
 心臓が早鐘を打つ、と言う言葉を実感しながらも、たったいま身に起きた出来事を振り返る。
 全身が異常に熱くなってきた。眠りかけていたはずなのに、早朝マラソンから帰って来た直後みたいな熱さだ。
 俺は確かに樫部を好きだと思った。
 ためらいはあったけれど、わりとすんなり気持ちは俺の中で形になり、落ち着いた。
 だけどそれは俺自身の気持ちだったからだ。
 他のだれかが俺に向けて、想いを抱く日がくるとは想像もしていなかった。
(あ、あ、あ……あれは、その……家族として、とか?)
 親が子供にする、おやすみのキスを無理やり思い出す。
(そうだ、きっと、そうだ……うん、そうにしておこう)
 無理がある、と思わなくもなかったけれど。
 認めてしまうには、まだ心臓が邪魔をする。
 体を丸めて、耳を塞いだ。
 聞いたばかりの声が、延々とくり返し囁き続けているようで。
 疲れていたはずなのに、その夜はなかなか眠れなかった。
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