我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第一章

20:落下

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 翌朝、いつものマラソンは俺の都合で中止にしてもらった。
「ひ、ヒロから連絡もらって。久しぶりに会いに行きたいんですけど、練習もあるから早めに行こうと思って……」
 ヒロからメールが届いていたのは本当なので、携帯を見せながら切り出すと、すんなりとアレンさんは頷いた。
「もちろん、構わないよ? オレはそっち方面は疎いし、先輩に学ぶことも多いでしょ」
「……はい」
 客室を出てすぐにアレンさんと顔を合わせてしまい、思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて口を手で塞いだ俺に、アレンさんは首を傾げただけだった。
 いまもアレンさんを正面から見ることができない。
(あんな話、聞かなきゃよかったよ~)
 どうして体が眠っていたのなら、頭も眠っていてくれなかったんだ、と昨夜の自分自身を呪いつつ、いつもより早い朝食をアレンさんと向かい合って食べた。
 トーストと目玉焼きにベーコン、サラダ。
 毎朝アレンさんが手作りしてくれるメニューだ。昨日まではすごく美味しく感じて、パクパク食べられたのに、今朝は味気なくて進まない。
(あ~困った……話題、何か話題を……)
 アレンさんは先に食べ終わって、新聞を読みだした。このまま黙って食べていても不審がられないかな、と考えることに忙しくて、最後まで味はわからないままだった。
 何かされると困るから、とアレンさんはヒロに会いに行くのも送迎すると言って譲らなかった。
「終わったらメールして。ヒロ、オレが迎えに来るまで響くんと待ってて」
「あいよ、わかってるって。お姫さまはかならずお守りしますよ~」
「ヒロッ」
 だれが姫さまだ、と俺がヒロに詰め寄ると、大笑いしながらヒロがアレンさんに手を振った。
「ヒロ、だれに事情を聞いたんです?」
 アレンさんを見送って、並んで歩きだしながら問いかける。
「ん、あぁ……ダイ……文月だよ。昨日までツアーで忙しかったからさ、昨夜におまえさんの出来はどうなってんのか、聞いてみたんだよ。そしたらまぁ、電話で事細かく教えてくれたさ。気がついたら夜明け近かったぜ。よっぽどおまえのこと心配してんのな。電話嫌いなのに語り明かすなんて、女子高生みたいじゃないか」
「……そうでしたか、すみません」
「謝るなっての。一からはじめるのも苦労するけどよ、後から入るってのも苦労するもんなんだな……負けるなよ、響」
「…………」
 肩を叩かれながら、しみじみと言われて、つい泣きそうになった。
 そんな事情なら人目の多いところはやめておこう、と言うヒロに従って、久しぶりにバーへ連れて行ってもらった。
 当然ながら営業時間ではなく、店長だけがいた。
 ずいぶんと早い時間なのに、顔色の悪い店長は笑顔で俺たちを迎え入れてくれた。
 しばらくヒロと話をしていた店長が、突然そうだと手を打った。
「今度響が来たら、見せてあげようと思っていたものがあるんです。いまから行きましょう」
「おっ、あれですか、店長?」
 ヒロと顔を見合わせた店長が、にやりと笑った。何となく嫌な予感がしたけれど、店長に促されて、ヒロとふたり並んで歩きだした。
 店を突っ切り、奥の扉の前に店長が俺たちを誘う。
 従業員専用と書かれた扉を開けると、資材置き場らしき空間に出た。
 その左手にもうひとつ扉があって、そこの鍵を店長が開けた。
「足元に気をつけて。暗いですからね」
 壁のスイッチで照明を灯し、店長が先に扉の向こうへ入った。
 覗いてみると、そこは急な階段になっていた。ずいぶん長い距離を下った先に、もうひとつ扉があって、店長が俺たちを待っていた。
「では、ご覧ください」
 店長が扉を開くと、とてつもなく広い空間がその先に待っていた。
「……うわぁ……すごい」
 まるで倉庫か工場かと思うくらい、広い空間に、いくつもの棚が並び、どこもぎっしりとレコードやCD、雑誌や楽譜が詰め込まれていた。
 並んだ棚の奥のスペースに、巨大アンプのついたステレオデッキがあり、ソファやテーブル、小型の冷蔵庫までついていた。
 正面の壁にはアレンさんの家にあったようなスクリーンがついている。
「ここは私のコレクションルームなんですよ」
 店長のうれしそうな声に我に返る。
 そう言えばバーにはじめて来た時、ヒロがそんなことを言っていたような気がする。
「私がいてもいなくても、好きに使ってくれて構わないよ。出口はいま来た道の他にも、あの扉から外へ出られるから、営業時間でなくても使える」
 説明しながら店長が俺の手に鍵を乗せた。
「え、えっ……あの、でもっ」
「心配すんなって。もらっておけよ、店長は気に入った相手を応援するのが生きがいなんだからさ」
 いま渡された鍵と同じものを、ヒロがポケットから取り出して見せて、にやりと笑った。
「頑張ってくださいね、『i-CeL』の響」
 店長が楽しそうに俺の肩を叩いて、コレクションルームから出て行った。
「さて、せっかくだ。何か聞いてみるか~?」
 ヒロはソファに、俺はその前の床に座って、洋楽のプロモーション映像を見ながら雑談して過ごすことにした。
「こいつ、いい体と声してるけど、最近恋人にフラれたとかで、激太りしたらしいぜ」
「よく知ってますね……」
「俺、結構好きだったんだよ。初期の頃のこいつの歌声、すっげぇ凛々しくてかっこよかったんだぜ。最近の曲はまぁ……ちょっと売れることを意識してるなって感じで、まとまりすぎてるけどな」
 ヒロはコレクションの中から初期の頃の曲を探しだして、聞かせてくれた。
 俺もヒロの意見に賛成だった。初期の曲の方が心に響いてくる気がした。
「どうして……この人もヒロも、こんな風に歌えるんですか?」
 曲を聞きながら、俺はついヒロに聞いていた。
 基礎練習は続けているものの、それだけでは足りないと思うようになっていたし、純粋にもっと歌えるようになりたいと思った。
「あ~……他の奴は知らねぇけど。俺は友人の実家がトレーニングジム経営してるから、そこでメニューを作ってもらってやってるな」
「やるのとやらないのとでは、やっぱり違いますか」
「そりゃ、比べるまでもないって。ただ歌うなら簡単だけどよ、ちゃんと歌うのはまた別モンさ。それにメジャーに行ったら、仕事量が桁違いだ。プロになるつもりなら、何らかの方法を考える必要がある。紹介しようか?」
「えっ、本当ですか! あ……でも、俺ほとんどお金がなくて……」
 所詮は学生の身。所持金なんてたかがしれている。
「ん~……なら、俺がやってる方法をこっそり教えてやるよ。全部は無理だけど、家にあるものでもできるやつなら、すぐにできるだろ?」
「ありがとうございますッ!」
 いくつかトレーニング方法を実践しながら教えてもらった。軽くやっただけなのに、暖房もつけていない冬の地下室で汗だくになってしまった。
「先生が言うには、筋肉に負荷をかけるのと、有酸素運動を組み合わせるのが効率的なんだってさ。走るだけ、筋トレだけじゃなくて、両方バランスよく。後は呼吸を止めないこと」
 そうこうするうちに昼が過ぎていて、どこかに食べに行こうとヒロが言いだした。
「……俺が行けるのはハンバーガー屋くらいですよ」
 財布を開けて確認しながら言うと、ヒロが顔をしかめた。
「んなもん、食えるかよ。おごってやるからついて来い」
 プロらしく食事にも気をつけているみたいだ。
「高いもん食えとは言わないけどよ、安いファーストフードはやめとけ。せめて素材にこだわってるとこにしろよ。値段にはちゃんと理由があるんだぜ」
 俺たちは体が資本なんだから、と説教しながらヒロは俺を連れて店を出た。
 階段を上ったところで、通り過ぎようとしていた女子高生たちが振り返って、歓声を上げた。
「やだっ、ヒロじゃん!」
「本当? うそでしょ~ッ」
 きゃあきゃあと抱き合うようにして騒ぐふたりに、ヒロは苦笑しながら軽く手を振った。
「どうも」
 そう言って歩き出そうとしたヒロを、ふたりが呼びとめて駆け寄った。
「すみません、サインもらえませんか? 私たち『聖白』の『恋人』が大好きなんです!」
 ヒロは上着をつかまれるようにして引きとめられて、少しだけ眉を寄せたけれど、すぐに向き直って微笑んだ。
「ありがと、何に書いたらいい?」
 またきゃぁっ、と歓声を上げながら女子高生たちが鞄の中を漁る。サインしてもらうものを探しているんだろう。
 ヒロは俺に背を向けた形で、女子高生たちを見守っている。
 その様子を少し離れて見ていた俺に、だれかが近づいてきたけれど、そのまま通り過ぎていくだろうと思っていた。ただの通行人だろうって。
 視界の端でトレンチコートが翻った。

「……警告、しただろう?」

「えっ」
 耳元で囁き声が聞こえた気がして、振り返ろうとしたところを、突き飛ばされる。
 体が宙に浮いた。
 ヒロの前にいた女子高生たちが、あっと小さく声を上げて、俺の方を見る。
 慌ててヒロが振り返ろうとしたところまでは見えたけれど、俺の視界はぐるりと回転してしまって、バーの入口から地上へ続く階段の天井だけが視界を埋めた。
 体が落下しはじめる。
(……落ちる)
 間抜けなことに、それしか考えられなかった。
 だんっ、と音が聞こえて、全身にものすごい衝撃が襲いかかる。脳が揺れて、意識が途切れそうになった。
 後は何が何だかわからないほど、体がもみくちゃになって回転して、ようやく止まった。
 音が消えて、静かだった。
 感覚は麻痺したみたいに何も感じない。
 痛みとか、自分の体の感覚もない。
 慌てて駆けおりてくるヒロの姿も、ぼんやりとしか見えなかった。特徴的な赤い髪がなければ、ヒロだとわからなかっただろう。
 ヒロが俺を覗きこんで、何かを言っているけれど聞こえなかった。
(ごめん、ヒロ……俺が、ぼっとしてたから。ヒロは悪くない、気にしないで欲しい)
 そう言いたかったのに、口が動いたかどうかもわからなかった。
 だんだん目を開けている力もなくなってきた。
 目を閉じると、すぐに意識も無限の闇に飲み込まれてしまった。


 おまえがきえれば、みんながしあわせになる。
 女の人が泣きながら笑っている。
 その顔が母親の顔に見えた。
 神音じゃなくて、よかったわ。
 おまえでよかったわ、出来損ないのおまえは、それくらいしか役に立たないのだから。
 暗闇の中でずっとその声が響いていた。
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