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第一章
29:ライブ前半
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仲間たちが揃ったステージの中央。
そこだけ空いたスペース、客席に一番近い場所。
神音いわく、ここに仲間たちと一緒に立とうと、いろんな人が挑戦してきたらしい。
彼らにとっても、そして今は俺にとっても憧れの場所になったそこを見据えて、息を整える。
ライブの幕開けを飾る曲は、疾走するようなアップテンポの曲で、短い前奏の後にヴォーカルの声が飛び出して曲を引っ張る。
富岡さんの指示で、俺はステージ脇からその瞬間にステージに出ていくことになっていた。
(もし今夜が最後になったとしても、悔いのないように歌おう)
マイクを手に、目を閉じてネックレスを握りしめる。
灰色に染まった実家から奪い返してきた、まるで勲章のようなネックレス。握りしめる手を包んだ八代さんお手製のアームカバー。
ここに立つまでに起きた出来事や、揺れ動いた心の波の記憶が、どっと押し寄せてくる。
そのすべてが引いて、静かになった暗闇に浮かぶ、たったひとりの後ろ姿。
耳に前奏が届く。
手を離し、マイクを構えながらステージに飛び出した。
一度は否定されて、放棄した歌声を放ちながら、憧れの場所へ歩く。
すれ違う仲間たちと、一瞬視線が交わる。
ウィンクをしてくれるアレンさん。
緊張して引きつっているけど、八代さんは笑ってくれた。
その手前で神音が頷き、反対側で文月さんが鋭い視線で微笑んだ。
彼らと音を合わせるこの瞬間が、たまらなく興奮する。
楽しくて、まるで遠い子供時代に戻ったみたいな心地だった。
ここが俺の行きたかった場所だ。
何で初めてのライブの時には気付けなかったんだろう。不思議でたまらないくらい心が躍り、感覚が体から解き放たれて会場中に広がっていく。
いま、俺は生きている。
俺や仲間たちを照らす照明の向こうに、見上げてくる観客がいた。
彼ら彼女らの視線が、初めてのライブでは高い壁に感じた。それなのにいまは心地よく、むしろもっと高みへ引っ張って行きたいと思うほどだ。
ふいに目の前にレールの幻が浮かんできた。
特訓だとモーチンさんと乗ったジェットコースターが疾走した、あのレールだ。
(楽しませたい、俺を……みんなをっ)
神音に代わって、いきなりよく似た別人が歌いだしたことで、戸惑っていた観客たち。事前に知っていたファンもいるからか、客席は静かだった。
その中に焦がれた姿を見つけ、視線が止まる。
涼しい顔、黒縁の細いフレーム眼鏡をかけた樫部が、うっすら微笑みながらステージを見上げていた。
(来てくれた、樫部)
隣には真柴もいて、嬉しくてつい口元が緩んでしまった。
真柴は楽しんでなるものか、とでも思っているのか、口元を曲げて腕組みをして、難しい顔で俺を見上げていたけれど、指先がリズムをとっているのが見えた。
一曲目のラストが近づく頃には、腕組みがとけて、周囲の観客の空気も変わっていた。
「こんばんは~、『i-CeL』卒業記念ライブに来てくれて、ありがとうっ! ところでみんな気づいたと思うけど、今夜から『i-CeL』のヴォーカルはぼくではなく、このキョウになります。彼こそがぼくたちが待ち望んだ声。今夜が『i-CeL』の真の誕生、これまでのぼくたちからの『卒業』です!」
神音が客席に向けて俺を紹介した後は、まるで俺を見せつけるかのように、立て続けに曲を披露する。
戸惑いと不信に凍りついていた客席が、少しずつ確かに揺れて、浮き上がってくるのが感じられた。
三曲目に突入する頃には、客席が一段上がったんじゃないかと錯覚するくらいだった。
その奥に巨体が揺れていて、目を凝らすとモーチンさんが手を振って飛び上がっているのが見えた。
音を楽しませようと、あれこれ手を尽くしてくれた恩人が、目を輝かせてくれている。
(少しは恩返しできたかな)
樫部たちとは反対側の端に、特徴的な赤い髪が見えて、ヒロが来ているのだと気づいた。
俺と視線が合ったヒロが気づいて、にやりと笑った。その隣にいる黒髪の男性は相方の人だと思う。いつか招待してくれたライブで見た覚えがあった。
ふたりともリズムに乗って、手を前後に振ってくれている。一応サングラスをしているけれど、そんなに動いたら周囲に正体がバレてしまうだろうに。
案の定ヒロたちの隣の観客が、ちらちら見ている。俺たちも見たいけど隣も気になる様子の観客が、少し気の毒だった。
みんながいて、この場所が輝きだす。
俺もこの場所の一部になれて、例えようもなく嬉しくて、少しだけ誇らしい。
(みんな楽しもう。いま、この時を!)
見渡す客席に来てくれた人たち。
彼らに最高の音を届けようと苦難を重ねてきた仲間たち。
ステージで演奏できるように支えてくれているスタッフの人たち。
すべての人たちに声が届けばいい、と願いながら仲間の音に身を沈めて、俺は歌った。
もし音が目に見えたなら、きっといま会場は花火でいっぱいだろう。
弾ける音、舞い上がる心と吐息。
ふさわしくないと、突き落とされて。
怯えて逃げ出したけれど、俺は想像したことさえない、大勢の観客の前で歌っている。
この声は、やっぱり期待に応えられていないだろうか。
だけどそんな迷いも不安も、いまここではすぐに吹き飛んで、燃やし尽くされてしまう。
ここに立ちたいと願った人たちに、妬まれたって仕方ない。
ここは本当に気持ちがいいんだから。
(ヒロの言ってたこと、ようやくわかったよ)
真柴は根負けしたらしい。渋い顔を脱ぎ捨てて、情熱家の本質をさらけだして、ライブを楽しんでくれていた。
いつも澄ました顔の樫部も、真柴と競うように手を振っている。
(どうか俺を、見て行ってくれ。ここに俺がいたって、何年か後になってでもいいから、思い出してくれるように)
会場中がステージと一体になった錯覚がした。
きっと、俺はこの瞬間を最期まで忘れないだろう。
ライブの中盤にさしかかり、神音に歌い手が代わる。俺はステージの後方へ下がった。
声を重ねながら、ドラムのすぐ前にまで後退したところで、右足首に違和感が弾けた。
「……っ」
思わず顔をしかめてしまい、右足にかけていた体重を左足へ移す。
中盤で幸いだった。痛みのあまり声を飲んでしまったことに気づかれずに済んだ。
右足を庇いながらその曲を歌いきり、神音と文月さんのトークになる。
「響くん、一度下がって」
「え……わっ」
素早く仲間たちに視線を配り、アレンさんが立ち上がると俺をステージ脇に連れ出した。
話しながらも神音たちは気づいたらしく、客席には見えないように神音が手を振ってアレンさんに合図していた。
「カノンが三分、アドリブ入れて時間稼いでくれるって。予定では二分間のトークだったから五分間もらえたね……さ、そこに座りなさい」
雑然としたステージ脇に容赦なく座らされて、右足を掴まれた。
逸美さんが用意してくれたブーツをさっさとアレンさんが脱がして、違和感に疼く右足首を空気に晒した。
「……本当は父さんに見せるべきなんだろうけどね」
赤みを帯びて、腫れてきている足首を見て、眉を寄せアレンさんが呟く。
(だれにも気づかれなかったと思ったのに)
立ち位置がまずかった。アレンさんの前まで下がっていた時に、痛みに襲われた。
目敏いリーダーはしっかり気づいてしまったのだ。
俺は手を伸ばしてすがりついた。
「俺は最後までやります。何があっても、やり遂げてみせますっ」
「響くん……」
まだライブは終わっていない。
樫部に最後までやりとげた姿を見せないまま、ステージを降りるなんて絶対に嫌だった。
「行けるか」
そこへ富岡さんの沈着な声が割り込んできた。
見上げる先に無表情なプロデューサーがいて、アレンさんが肩をすくめた。
俺はふたりを交互に見上げて、押し殺していても強い声で言葉を重ねた。
「大丈夫ですから。少し変な感じがするだけです。痛みもほとんどありません。俺は最後まで歌えます」
「……ハイになってるから、痛まないと思ってるだけだよ」
アレンさんは何とも言えない表情で、苦く言う。
その隣に立ったままの富岡さんは、俺の右足を無表情に見下ろしたままだ。
「お願いです。俺はいまここから降りるわけにはいかないんです、何があっても!」
時間はどんどん経ってしまう。
もし俺がステージに戻らなかったら、ライブはどうなるんだろう。神音に歌い手を戻して続けるのか、それともここで終わるのか。
どちらにしても海を渡ってしまう樫部の心に、中途半端にしか俺の姿を刻めずに終わってしまう。
「こんなのたいしたことない。二度と立ち上がれなくなる怪我でもない。少し腫れてるだけです。歌に支障もありません」
「……言い切れるのか」
富岡さんの視線が俺の視線と重なった。
「何の障りもなく、自ら持てるすべてを披露できると、言い切れるのか」
その足で、と言葉の代わりに視線が右足首に移る。
(確かに……声を出すのは喉だけど、支えるのは体で、足で、それが大切だと教わった。俺もそう思っている。でも)
手が無意識にネックレスを握っていた。
「歌えます。ライブの前に言った通り、神音じゃなくてよかったと、みんなに言わせてみせます」
負けてなるかと富岡さんを睨みつける。
痛んだって支えてみせる。さっきはまだ弱さの残っていた甘い心が怯んだせいで、ためらっただけだ。
三人の頭上に神音と文月さんの声が通り過ぎる。
しばらくして、富岡さんが息を吐き出した。
「……これを貼っておけ。気休めにしかならんだろうがな」
アレンさんに富岡さんが手渡したのは湿布薬だった。
こうなるかもしれないと見越していたのか、固定テープまで揃っている。
受け取ったアレンさんが自分の膝の上に俺の右足を置いて固定して、湿布を貼り、はがれないようにテープで止めた。
ブーツを元通りに履かせて、立ち上がる俺に手を貸しながら、アレンさんがそっと囁いた。
「そんなにまでして、姿を見せたい相手に妬けちゃうよ」
「……アレンさん」
心がぎゅっと縮んで音を立てた。
愛しいと想うのは樫部なのに、こうして手を伸ばしてすがってしまうのはアレンさんで、助けられているばかりの俺は、何も返すことができない。
「ごめん、何でもないからね」
アレンさんはすぐに笑顔で振り切ったみたいだけれど。
ステージに戻りながら、支えてくれる手の温度に足よりも胸の奥の方が痛む気がした。
そこだけ空いたスペース、客席に一番近い場所。
神音いわく、ここに仲間たちと一緒に立とうと、いろんな人が挑戦してきたらしい。
彼らにとっても、そして今は俺にとっても憧れの場所になったそこを見据えて、息を整える。
ライブの幕開けを飾る曲は、疾走するようなアップテンポの曲で、短い前奏の後にヴォーカルの声が飛び出して曲を引っ張る。
富岡さんの指示で、俺はステージ脇からその瞬間にステージに出ていくことになっていた。
(もし今夜が最後になったとしても、悔いのないように歌おう)
マイクを手に、目を閉じてネックレスを握りしめる。
灰色に染まった実家から奪い返してきた、まるで勲章のようなネックレス。握りしめる手を包んだ八代さんお手製のアームカバー。
ここに立つまでに起きた出来事や、揺れ動いた心の波の記憶が、どっと押し寄せてくる。
そのすべてが引いて、静かになった暗闇に浮かぶ、たったひとりの後ろ姿。
耳に前奏が届く。
手を離し、マイクを構えながらステージに飛び出した。
一度は否定されて、放棄した歌声を放ちながら、憧れの場所へ歩く。
すれ違う仲間たちと、一瞬視線が交わる。
ウィンクをしてくれるアレンさん。
緊張して引きつっているけど、八代さんは笑ってくれた。
その手前で神音が頷き、反対側で文月さんが鋭い視線で微笑んだ。
彼らと音を合わせるこの瞬間が、たまらなく興奮する。
楽しくて、まるで遠い子供時代に戻ったみたいな心地だった。
ここが俺の行きたかった場所だ。
何で初めてのライブの時には気付けなかったんだろう。不思議でたまらないくらい心が躍り、感覚が体から解き放たれて会場中に広がっていく。
いま、俺は生きている。
俺や仲間たちを照らす照明の向こうに、見上げてくる観客がいた。
彼ら彼女らの視線が、初めてのライブでは高い壁に感じた。それなのにいまは心地よく、むしろもっと高みへ引っ張って行きたいと思うほどだ。
ふいに目の前にレールの幻が浮かんできた。
特訓だとモーチンさんと乗ったジェットコースターが疾走した、あのレールだ。
(楽しませたい、俺を……みんなをっ)
神音に代わって、いきなりよく似た別人が歌いだしたことで、戸惑っていた観客たち。事前に知っていたファンもいるからか、客席は静かだった。
その中に焦がれた姿を見つけ、視線が止まる。
涼しい顔、黒縁の細いフレーム眼鏡をかけた樫部が、うっすら微笑みながらステージを見上げていた。
(来てくれた、樫部)
隣には真柴もいて、嬉しくてつい口元が緩んでしまった。
真柴は楽しんでなるものか、とでも思っているのか、口元を曲げて腕組みをして、難しい顔で俺を見上げていたけれど、指先がリズムをとっているのが見えた。
一曲目のラストが近づく頃には、腕組みがとけて、周囲の観客の空気も変わっていた。
「こんばんは~、『i-CeL』卒業記念ライブに来てくれて、ありがとうっ! ところでみんな気づいたと思うけど、今夜から『i-CeL』のヴォーカルはぼくではなく、このキョウになります。彼こそがぼくたちが待ち望んだ声。今夜が『i-CeL』の真の誕生、これまでのぼくたちからの『卒業』です!」
神音が客席に向けて俺を紹介した後は、まるで俺を見せつけるかのように、立て続けに曲を披露する。
戸惑いと不信に凍りついていた客席が、少しずつ確かに揺れて、浮き上がってくるのが感じられた。
三曲目に突入する頃には、客席が一段上がったんじゃないかと錯覚するくらいだった。
その奥に巨体が揺れていて、目を凝らすとモーチンさんが手を振って飛び上がっているのが見えた。
音を楽しませようと、あれこれ手を尽くしてくれた恩人が、目を輝かせてくれている。
(少しは恩返しできたかな)
樫部たちとは反対側の端に、特徴的な赤い髪が見えて、ヒロが来ているのだと気づいた。
俺と視線が合ったヒロが気づいて、にやりと笑った。その隣にいる黒髪の男性は相方の人だと思う。いつか招待してくれたライブで見た覚えがあった。
ふたりともリズムに乗って、手を前後に振ってくれている。一応サングラスをしているけれど、そんなに動いたら周囲に正体がバレてしまうだろうに。
案の定ヒロたちの隣の観客が、ちらちら見ている。俺たちも見たいけど隣も気になる様子の観客が、少し気の毒だった。
みんながいて、この場所が輝きだす。
俺もこの場所の一部になれて、例えようもなく嬉しくて、少しだけ誇らしい。
(みんな楽しもう。いま、この時を!)
見渡す客席に来てくれた人たち。
彼らに最高の音を届けようと苦難を重ねてきた仲間たち。
ステージで演奏できるように支えてくれているスタッフの人たち。
すべての人たちに声が届けばいい、と願いながら仲間の音に身を沈めて、俺は歌った。
もし音が目に見えたなら、きっといま会場は花火でいっぱいだろう。
弾ける音、舞い上がる心と吐息。
ふさわしくないと、突き落とされて。
怯えて逃げ出したけれど、俺は想像したことさえない、大勢の観客の前で歌っている。
この声は、やっぱり期待に応えられていないだろうか。
だけどそんな迷いも不安も、いまここではすぐに吹き飛んで、燃やし尽くされてしまう。
ここに立ちたいと願った人たちに、妬まれたって仕方ない。
ここは本当に気持ちがいいんだから。
(ヒロの言ってたこと、ようやくわかったよ)
真柴は根負けしたらしい。渋い顔を脱ぎ捨てて、情熱家の本質をさらけだして、ライブを楽しんでくれていた。
いつも澄ました顔の樫部も、真柴と競うように手を振っている。
(どうか俺を、見て行ってくれ。ここに俺がいたって、何年か後になってでもいいから、思い出してくれるように)
会場中がステージと一体になった錯覚がした。
きっと、俺はこの瞬間を最期まで忘れないだろう。
ライブの中盤にさしかかり、神音に歌い手が代わる。俺はステージの後方へ下がった。
声を重ねながら、ドラムのすぐ前にまで後退したところで、右足首に違和感が弾けた。
「……っ」
思わず顔をしかめてしまい、右足にかけていた体重を左足へ移す。
中盤で幸いだった。痛みのあまり声を飲んでしまったことに気づかれずに済んだ。
右足を庇いながらその曲を歌いきり、神音と文月さんのトークになる。
「響くん、一度下がって」
「え……わっ」
素早く仲間たちに視線を配り、アレンさんが立ち上がると俺をステージ脇に連れ出した。
話しながらも神音たちは気づいたらしく、客席には見えないように神音が手を振ってアレンさんに合図していた。
「カノンが三分、アドリブ入れて時間稼いでくれるって。予定では二分間のトークだったから五分間もらえたね……さ、そこに座りなさい」
雑然としたステージ脇に容赦なく座らされて、右足を掴まれた。
逸美さんが用意してくれたブーツをさっさとアレンさんが脱がして、違和感に疼く右足首を空気に晒した。
「……本当は父さんに見せるべきなんだろうけどね」
赤みを帯びて、腫れてきている足首を見て、眉を寄せアレンさんが呟く。
(だれにも気づかれなかったと思ったのに)
立ち位置がまずかった。アレンさんの前まで下がっていた時に、痛みに襲われた。
目敏いリーダーはしっかり気づいてしまったのだ。
俺は手を伸ばしてすがりついた。
「俺は最後までやります。何があっても、やり遂げてみせますっ」
「響くん……」
まだライブは終わっていない。
樫部に最後までやりとげた姿を見せないまま、ステージを降りるなんて絶対に嫌だった。
「行けるか」
そこへ富岡さんの沈着な声が割り込んできた。
見上げる先に無表情なプロデューサーがいて、アレンさんが肩をすくめた。
俺はふたりを交互に見上げて、押し殺していても強い声で言葉を重ねた。
「大丈夫ですから。少し変な感じがするだけです。痛みもほとんどありません。俺は最後まで歌えます」
「……ハイになってるから、痛まないと思ってるだけだよ」
アレンさんは何とも言えない表情で、苦く言う。
その隣に立ったままの富岡さんは、俺の右足を無表情に見下ろしたままだ。
「お願いです。俺はいまここから降りるわけにはいかないんです、何があっても!」
時間はどんどん経ってしまう。
もし俺がステージに戻らなかったら、ライブはどうなるんだろう。神音に歌い手を戻して続けるのか、それともここで終わるのか。
どちらにしても海を渡ってしまう樫部の心に、中途半端にしか俺の姿を刻めずに終わってしまう。
「こんなのたいしたことない。二度と立ち上がれなくなる怪我でもない。少し腫れてるだけです。歌に支障もありません」
「……言い切れるのか」
富岡さんの視線が俺の視線と重なった。
「何の障りもなく、自ら持てるすべてを披露できると、言い切れるのか」
その足で、と言葉の代わりに視線が右足首に移る。
(確かに……声を出すのは喉だけど、支えるのは体で、足で、それが大切だと教わった。俺もそう思っている。でも)
手が無意識にネックレスを握っていた。
「歌えます。ライブの前に言った通り、神音じゃなくてよかったと、みんなに言わせてみせます」
負けてなるかと富岡さんを睨みつける。
痛んだって支えてみせる。さっきはまだ弱さの残っていた甘い心が怯んだせいで、ためらっただけだ。
三人の頭上に神音と文月さんの声が通り過ぎる。
しばらくして、富岡さんが息を吐き出した。
「……これを貼っておけ。気休めにしかならんだろうがな」
アレンさんに富岡さんが手渡したのは湿布薬だった。
こうなるかもしれないと見越していたのか、固定テープまで揃っている。
受け取ったアレンさんが自分の膝の上に俺の右足を置いて固定して、湿布を貼り、はがれないようにテープで止めた。
ブーツを元通りに履かせて、立ち上がる俺に手を貸しながら、アレンさんがそっと囁いた。
「そんなにまでして、姿を見せたい相手に妬けちゃうよ」
「……アレンさん」
心がぎゅっと縮んで音を立てた。
愛しいと想うのは樫部なのに、こうして手を伸ばしてすがってしまうのはアレンさんで、助けられているばかりの俺は、何も返すことができない。
「ごめん、何でもないからね」
アレンさんはすぐに笑顔で振り切ったみたいだけれど。
ステージに戻りながら、支えてくれる手の温度に足よりも胸の奥の方が痛む気がした。
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