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奴隷紋の刻印

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「奴隷紋は、どこに付けますか?」

 にやりと嫌な笑みを浮かべたまま、奴隷商の男がマルガリータを狭い檻から引きずり出し、落札者である黒仮面の男に問いかける。

「顔や手足と言った見える場所に付けて、常に屈辱を晒しておくのも良し。主人にしか見えない位置に付けて、所有物として楽しむも良し。お好みで何処にでも付けられますよ」

 これから付けられる運命にあるマルガリータからすれば、どちらも受け入れがたい碌でもない未来を楽しむようにプレゼンする奴隷商が、悪魔に見える。
 だがマルガリータは、それを変える術を持たない。

(最低な、男)

 黒仮面の男は、奴隷商の言葉を受けて、マルガリータへと目を向けた。
 奴隷商の様ないやらしい視線ではなかった代わりに、仮面の奥から投げられる汚らわしい物でも見る冷たい視線に、それはそれで身体が震える。

 これから先、この黒仮面の男の奴隷として生きていかねばならない現実に逃げ出したくなるが、悲しいことにマルガリータの両足にはその行動を制限する為の拘束具と、到底走り出すことなど叶わない重りがずっしりと存在感を示していた。
 マルガリータは、涙が零れそうになるのを必死で堪えて、前を向く。

(私は、何も悪い事なんてしていないんだから)

 久我真奈美という、前世の記憶を取り戻したからとかじゃない。ゲームの世界を知っているからとかじゃない。
 マルガリータ・フォン・オーゼンハイムとして、胸を張って言える。
 受け入れ難い状況になってしまったけれど、マルガリータは自分のした事を後悔などしていなかった。

 顔を上げたマルガリータの目を見た黒仮面の男が、仮面の下で驚いたように目を見張った様に見えた。
 そして、面白そうにマルガリータを覗き込む。
 先程のような冷たい視線とは違っていたが、好意的ではないそれに対抗する様に、せめてこちらから目を逸らす事だけはしないでいようと心に決めていたマルガリータは、その視線を真っ直ぐ見つめ返す。

「ふむ……。奴隷紋というのは、どうしても付けなければならないのか?」

 暫くマルガリータと視線を絡ませ、一つ頷いた黒仮面の男が奴隷商へ向けて発した問いかけは、意外なものだった。
 もしかしたら、マルガリータの身体に傷を付けるのを惜しいと思ってくれたのだろうか。

 確かに今は奴隷へと堕とされた身ではあるが、マルガリータはほんの数日前まで正真正銘の貴族、伯爵令嬢として生きて来た。
 平民のように日に焼ける事もなく、小さな怪我の一つさえしない様に外出を制限された生活。
 伯爵家の令嬢として、何処に出ても恥ずかしくない様に磨かれた身体は、狭く暗い檻の中に数日入れられた事で薄汚れてはいるものの、良く見ればその肌は玉のように透き通っているとわかる。

 元、伯爵令嬢を奴隷に出来る! という触れ込みで客集めをしたかった奴隷商は、本来の貴族の扱いと比べれば乱雑だったとしか言い様がないが、それでも目立つような傷を付ける乱暴はしなかった。
 温室育ちの令嬢であるマルガリータにしてみれば、それでも充分に恐ろしい体験はしたのだが。
 けれど、ほんの少しのそんな期待はすぐに打ち砕かれた。

「奴隷紋の契約は、必須です。これがなけりゃ、奴隷が主人の下から逃げ出しかねませんからね」
「そうか」
「旦那、奴隷を飼うのは初めてで?」
「あぁ」
「なら、奴隷紋の説明をさせて頂きましょう」

 この世界では、他国にも同じような制度があるのかまでは、マルガリータも真奈美も知らないが、少なくともこの国内においては、奴隷という存在は浸透している。
 マルガリータが生きてきた貴族社会では、使用人もそれなりの身分を持つ者が勤める為に、特殊な趣味を持つ者以外は奴隷を好き好んで利用する者はあまりいなかった。

 だが、爵位が下がるにつれ、厳しい環境で働く使用人達の不満のはけ口として最下層の奴隷を一人わざと飼ったり、財政難できちんとした使用人を雇えなくなった下級貴族が、安く潰しても構わない奴隷を使ったりしているという噂を聞いたことはあった。
 一番奴隷を多く利用するのは、貴族ではなく成り上がりの富裕層だと聞く。
 貴族のように世間体を気にする必要も無く、ただ安く自分の好きなように利用できる奴隷を使う者は多い。

 奴隷という身分になるのは、貴族や平民の様に生まれた時から決められているのではなく、ほとんどが罪人である事から人権など無いに等しい。
 貴族が道楽に飼う犬や猫の様なペットや、平民が生きていくために飼育する牛や豚よりも、その地位は遙かに下なのだ。
 マルガリータの様に、元貴族が奴隷に堕とされる事など、普通では考えられない。

 そう考えると、元貴族のお嬢様を奴隷として好きに扱いたいと考える者は、確かに多かっただろう。
 マルガリータの暮らしていたオーゼンハイム伯爵家は奴隷とは縁遠く、平和な日本で育った真奈美からすれば、まず奴隷制度と言うものが当然のようにある事自体が、信じられない。
 どうやらマルガリータを買った黒仮面の男も、奴隷を買いあさって使い潰す様な人物ではないようで、マルガリータはその点だけは少しほっとしていた。

 相手が初心者と見た奴隷商は、胡散臭い親切な顔を作って、奴隷紋について契約書を広げながら流暢に説明を始めた。
 曰く、奴隷商が売りたい奴隷に紋を刻み、それに主人となる者が魔力を込めることで、売買契約が締結する。
 奴隷紋は、魔力を込めた主人の命令にだけ効力を発揮し、逃げたり逆らえばその反抗度合いによって、奴隷紋から痛みを与え服従させる手助けとなる。

 主人に逆らい続ければ、やがて奴隷紋の力に生命力を奪われ殺される事さえあるらしい。
 奴隷を野放しにしない為、誰が主人かを明確にする為、そして確かに奴隷が正規の方法で売買された事を示す為にも、奴隷紋の刻印は必須なのだという。

「付けた奴隷紋を、消す方法はあるのか?」
「そんな状況になる事は、まずあり得ませんよ。まぁ、そこんところは奴隷本人に聞かれてはやっかいですからね、後ほど書面をご確認下さい」

 そう話す奴隷商の顔は、相変わらずの嫌な笑みを浮かべていたので、もしあったのだとしてもろくでもない方法に違いない。
 つまり、一度刻まれた奴隷紋を消せる可能性は、かなり低いと考えて良い。
 一度奴隷に堕ちれば、そこから元に戻る事は不可能だという事だ。

「大体わかった」
「では改めて、どこに付けますか?」
「……見えない場所に」
「かしこまりました。そうですね……臍や太もも等も良いですが、若い女の奴隷の場合は、胸もお勧めですよ」

 奴隷商の勧める部位は、どう考えてもよりエロく見えるかを重視した場所ばかりで、聞いているだけでマルガリータの身体は震える。

(そう、よね。こき使われて蔑まれるだけが、奴隷の役割とは限らない……)

 それよりも、マルガリータのような若い娘であれば尚更、労働力というよりも、性的な奴隷という側面に立たされる可能性の方が高い。
 言われてみて初めてその可能性に気付き、せめて気丈に振る舞おうと前を向いていたマルガリータの身体は、否応なしにびくりと恐怖に震える。

「では、胸元に」

 黒仮面の男の非情な声が、マルガリータの頭に響く。
 見えない場所への刻印は、一見するだけでは他人に奴隷とはわからない。
 温情の様にも思えたが、その目的によっては見える場所に付けられるよりもずっと屈辱的なものになる。

 そしてこの黒仮面の男が、マルガリータを性奴隷として扱わないという希望を持てる程、マルガリータの置かれた状況は優しいものではなかった。
 何より「心得た」と言わんばかりの奴隷商のいやらしい顔が、マルガリータによりその立場を鮮明にわきまえさせた。

「それでは、契約を始めさせて頂きます」

 左右どちらに致しますか?
 そう続けながら、マルガリータの薄汚れた服に手をかけようとした奴隷商の動作を、黒仮面の男がやんわりと止めた。
 ぎゅっと固く拳を握り、羞恥に耐えようと決意していたマルガリータの目に、不愉快そうな黒仮面の男の表情が映る。

「私以外の者に、そこを見せたくないのだが。直接触れねば、紋は刻めないのか」
「ですが、魔力を込めて頂く際には直接触れて頂かねばなりません」

 奴隷紋は服の上からでも刻めるが、どうせ見ることになるのだから構わないだろうと言わんばかりの奴隷商に、黒仮面の男が蔑んだ様な視線を向ける。

「魔力が込められたかどうか位、直接見ずともわかるはずだが?」
「……失礼致しました」

 明らかに舌打ちでもしそうな顔で、言葉だけは丁寧に謝罪する奴隷商は、きっと今までもこうやって何人もの奴隷の肌を、下卑た目で見ていたに違いない。
 どうせ相手は人権もない奴隷なのだからと、苦言を呈する主人もいなかったのだろう。
 はっきりと「許さない」と言ってくれる主人に買われた事は、マルガリータにとって不幸中の幸いなのかもしれなかった。

「だが、そうか……私は触れねばならないのか」

 黒仮面の男が呟いた言葉はぼそりと小さすぎて、マルガリータには困惑している気配しか感じられなかった。
 それは奴隷商も同じだった様子で、僅かに首を傾げている。

「どうかされましたか?」
「いや……。では、紋はそこに」

 手を口元に当てながら、暫く何か考えている仕草をした後、黒仮面の男はマルガリータの頭から足先へと視線を動かし、ふくよかな胸の谷間の少し上、ふくらみには触れない場所の大きく胸の開いたドレスでも着ない限りギリギリ見えないであろう首元、と言った方が正しい箇所を指さした。

「本当にそこで、よろしいので?」
「構わない」

 もっと楽しめる場所は沢山ある、そう言いたげな奴隷商の再確認に、黒仮面の男はきっぱりと頷いた。
 胸や腹、太ももやお尻と言った明らかに性的所有物を示す様な箇所ではない事は、マルガリータにとっては有り難いと言う他なかった。
 だが、先程奴隷商に胸を触られそうな所から守ってくれた事と言い、奴隷を買うような人にしては、やけに紳士的過ぎて戸惑いが先に来る。

「それでは、契約を始めましょう」

 面白くなさそうに言う奴隷商の反応の方が、この場に置いては普通の反応なのではないかとさえ感じた。
 もちろん、マルガリータに文句などあるはずはないけれど。

 奴隷商が黒仮面の男の指定した辺りに手をかざし、契約の呪文を唱える。
 じんわりと胸に近い首元が熱くなり、やがてジュっと焼けるような音と共に、引き攣るような痛みが走った。

「痛っ……!」

 「何があっても声を出すな」と、この数日の間に奴隷商から鞭打たれ恐怖を与えられていたマルガリータの記憶が、思わず飛び出してしまった声を抑えようと反射的に口を手で覆う。
 痛みに耐えているマルガリータの首元に、黒仮面の男の手がそっと添えられた。
 びくりと身体が震えるが、それを拒む事は許されない。

「すぐに済ませる」

 奴隷商の視線からマルガリータを守るような位置に立ち、首元の服をほんの少しだけずらして肌を露わにされる。
 刻まれた奴隷紋を見て眉間に皺を寄せながら、マルガリータの耳元で囁かれた言葉は何故かとても優しい。
 そして、その言葉通りに苦痛をもたらしていた場所は、熱を冷ますようにひんやりとした黒仮面の男の手の感覚をもたらすと同時に、すぐに痛みを消してくれた。

 黒仮面の男が、マルガリータの肌に直接触れていた時間はほんの一瞬で、嫌だとか気持ち悪いとか怖いとか、そんな感覚が生まれるまもなくすぐに離れていった。
 マルガリータの記憶にも、真奈美の記憶にも、こんなに短時間で魔力を発動し人に込められるなんて見たことも聞いたことも無い。
 もしかしたらこの黒仮面の男は、かなりの魔力の持ち主なのかもしれなかった。

 この世界では、一般的に誰でもそれは貴族だけではなく平民であっても、魔力を持っている。
 ほとんどの人はその力は微弱で、俗に言う『魔法』の様に、実際として武器としての使用はもちろん生活の一助としてさえも使いこなせる程の魔力を持った人はとても少ない。

 貴族階級にはそれなりに使える者も増えるが、それでもランプに火を付けたり、桶に水を入れたり程度のものだ。
 しかも、魔力を発動させる為に集中する時間をかなり要するから、気軽に使えるものでもない。
 魔力を自由自在に使えるのは、膨大な魔力を持つ者が集められるという、王宮魔道士くらいのはずだ。

 奴隷商が刻印する奴隷紋も魔法の一種だが、片手に持つ契約書の力と、無駄にじゃらじゃらと指や腕、首や足等に過剰に付けている趣味の悪いアクセサリーで、魔力増幅や奴隷紋を刻むのに特化した補助の力を得ているに違いない。

 刻んだ紋に魔力を込める行程を主人となる者にさせるのも、そこまで完結させる力が奴隷商にはないからというのも大きいのかもしれない。
 奴隷商と主人になる者との間の契約、という形に組み込むことで扱いやすくしているのだろう。

 黒仮面の男がほんの一瞬で魔力を込め終わった事に、何人もの主人と契約を交わしてきた奴隷商が随分驚いている様子なのが、規格外である何よりの証拠と言えた。
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