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前編

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19歳 大学1年生 三兄弟の末っ子 ゲイ

両親に暴露したら罵られたこのセクシャリティも、東京という有象無象をごった煮したような街ではすんなりと受け入れてくれるものだ。

「お疲れ様でした!」
「はいお疲れ。また次のシフトも頼んだよ、柚葵くん」

店長に挨拶をして帰路に着く。居酒屋のバイトは時給は良いが、帰る時間が遅くなるのが難点だ。締め作業を頼まれて、閉店準備を終わらせる頃にはもう日付が変わってしまっていた。ひんやりと冷えた空気が頬を刺し、思わず身が震える。

「はぁ~さっむいな~」

声と一緒に白い息が闇夜に溶けていく。気休めだが、両手をゴシゴシと擦って僅かな暖をとった。今年の冬は例年より寒いと言われていたが、特に今日は一段と冷える気がする。なるべく「寒い」という言葉を浮かべないようにとにかく足を動かそう。身を震わせながら早足でボロアパートを目指す。

今日は"あれ"無いと良いな。そう考えて気持ちが沈む。

両手を擦りながら、家に着いてからやることを頭にまとめる。まずは風呂を沸かす。店長から余った料理を戴いたので、沸かしてる間に少しつまんで、残りは朝ご飯にしよう。風呂に入って温まった後は課題をしなきゃ。

長時間のバイトでもはや体力はゼロに近いが、締め切りの近づいてる課題が多いのだ。おまけに今日の講義でまたレポート課題を出されてしまった。あまりの量に目を背けたくもなるが、体力を振り絞ってでも少しは進めないと後々困るのは自分だ。そう承知しているからには、また今夜も徹夜をせざるを得ない。

「うぅ 頑張ろ」

バイト先が居酒屋のため、帰り道は飲み屋街をしばらく歩くことになる。この時間でもやってる店はまだまだ多く、キラキラとしたネオンが夜道を照らしていた。

少し前まで住んでいた田舎では、真夜中でこんなに明るい道などなかったな、と思い返す。街頭すらしぶられた、田んぼに挟まれた真っ暗な道を歩くのは不気味でしょうがなかったのを覚えている。

東京に住み始めてもうすぐ一年。高校を卒業したその日に、ほぼ家出のような形で田舎を飛び出してきたが、今のところ案外なんとかなっている。

なぜ家出のような形なのかというと、実家から勘当されたからだ。俺自身そのことには1ミリも悲しさを感じていない。

高校2年のときに、自分が抱く性愛が周りと違うということに気付き、俺はかなり戸惑った。何せ前時代的なクソ田舎だったもので、男女は早いうちに結婚し、たくさんの子を持つのが”良いこと”であり当然だと住民みんなが信じ込んでいる。

いや、その考え自体に文句はないのだ。どう逆立ちしても異性愛者は圧倒的なマジョリティだし、子を産み育てるというのも尊ぶべきことである。それに異存はない。

ただ、女性と恋愛ができない、子も作れないと自分でわかってるだけに「クラスメイトによさそうな女の子はいないの?」「高校を卒業したら見合い相手を見繕ってやろうか」と聞かれるのにうんざりしていたのだ。俺の幸せを真剣に考えてくれているだけに、罪悪感のようなもので身を潰されそうだった。

よって、自分が同性愛だと家族に伝えることを決意するようになったのだ。それが失敗だった。いや、今思うと成功とも言えるのか?

その時の俺は考えが甘かったのだ。最近の、いわゆるLGBTをテーマにしたドラマのように優しく受け入れてくれるかも、などと期待を抱いてしまったのが間違いだった。

ここまで言ったらもうお察しだが、カミングアウトした後の家族の態度は、それはもうひどいものであった。ちゃぶ台返しから始まり、罵られ、泣かれ、殴られ、最終的には「勘当だ!」とあちらから縁を切られてしまった。父親の怒声を浴びながら、ドラマはドラマでも昭和ドラマのほうだったか~と少し前までの自分の楽観さを恨んだ。

最初は豹変した家族の反応にショックを受けていたが、長々と罵倒され続ければじわじわと怒りが湧いてくるものである。高校を卒業したらすぐ家を出ていけという言葉を最後に説教は終わった。その後、自分の部屋に戻るころにはもう俺の中で決意は固まっていた。


こんな家、こっちから捨ててやるよ…


それからの俺の行動は早かった。もともとは県内の国立大学を受けるつもりだったが、東京の国公立大学を受験することに舵を切った。

なぜ東京かというと、とにかく自分を受け入れてくれる場所に行きたいという願いからだ。家族から大反発をくらっただけに、俺だって自由に生きたい、いつかは素敵な恋人を見つけて幸せになりたいという気持ちが膨れ上がっていた。でも理解のない場所で暮らし続けても、自分の心が憔悴するだけだ。じゃあどうすればいいか?そうだ、東京行こう。

我ながら単純な考えだったと思うが、その時の俺はもう大都会東京への憧れを止めることはできなかったのだ。担任の先生にすぐ資料を取り寄せてもらい、自分でもインターネットで様々な大学を調べた。自分の学びたい分野に特化した大学はみな、もともとの志望大学より偏差値が高かった。しかし、実家から離れられる、ということを天秤にかけたら諦める理由にはちっともならなかった。

父親も、俺に早く家を出て行って欲しかったのだろう。保護者のサインが必要な書類は、寝る前に食卓の上に置いておいたら、朝起きた時には記入が済んでいた。

都内の大学の受験が確定してからは机に噛り付く勢いで勉強しまくった。諦めそうになった時は家族からの罵倒を思い出し、再びやる気を燃やした。怒りは人の原動力とはよく言ったものだ。
そして寿命を縮めるような日々の果てに、なんとか今の大学に受かることができたのである。回想終わり。



大学に入学してからしばらくして気付く。東京という目まぐるしい街で暮らすのは想像以上に楽しく、想像以上に厳しかった。

大学生活を過ごすうちに友人はたくさんできた。実家での出来事がトラウマになっていたようで、入学当初はまた同性愛者とバレたら村八分になるのではないかという怯えも若干あったが、杞憂だった。都会に住んでおり、かつ若者となれば、みな素晴らしいほどに理解があった。そのおかげで、俺は信頼している人には少しずつ自分のことを話せるようになったのが嬉しかった。

講義の内容も面白く、自分が学びたかったことに全力で取り組めるのは気持ちが良かった。課題が多いのは大変だったが、良く言えばやりがいがあった。自分が精一杯臨んだレポートがそれなりの評価で返ってくるのは、達成感がある。大学で過ごす時間には何の文句もなかった。

では何が大変かというと、主に金銭面だ。

東京はとにかく物価が高い。特に野菜なんかは、前住んでいた田舎との差がやばい。倍近くある。駅前のスーパーの野菜売り場に行ったときは、目が飛び出るかと思った。都民にとっては通常価格であっても、貧乏学生にはそうほいほいと買える値段ではない。

いくらシフトを大量に入れて貰っているからと言って、学生がバイトで得られる金額には限界がある。ただでさえ学費の支払いにひぃひぃ言ってているのだ。エンゲル係数をむやみに上げる訳にはいかない。ので最近はもっぱら8枚切食パンにお世話になっている。一食につきペラペラの食パン一枚では正直言って物足りないが、文句を言っても現状は変わらないので涙を飲んで噛み締める。

実家からの仕送りなんぞある訳ない。まあ俺だってそもそも頼りにしていないし、無心する気もない。流石に入学金は親から出費してもらざるを得なかったが、それも就職してからなんとか働いて返したいと思っている。

大変とは言ったが、課題とバイトに追われる生活も良いように言えば充実した日々である。なかなか慣れないが、節約しながらもなんとか暮らし続けることができている。

大都会東京で初めての一人暮らし(しかもまだ十代)だなんて、もし女性だったら物騒だと周りから止められるかもしれない。だが俺は男だ。そりゃあ狙われる可能性がゼロとは言いきれないが、そうそうそんな犯罪まがいのことには会わないだろうと高を括っていた。自分が人に一目置かれる容姿をしているとも思ってない。こんな平凡顔の自分を狙う奴なんていないだろ。大丈夫大丈夫そんな用心しなくていいって。





「そう、思ってたんだけどなあ…」

玄関ドアのポストの口から見える写真の端に、またかとため息をつく。キーケースから家の鍵を取り出し、中に入る。内側からポストを開けると、ざばあと大量の写真が落ちてきて足元に散らばった。

玄関のタイルにばらまかれたそれは、一見普通の風景写真に見える。大学のキャンパス、コーヒーショップの店内、電車のホーム。プロのものかと思うほど綺麗に撮られたその写真たちは、額に入れて飾られてたらそれなりのインテリア商品に見えるのではないだろうか。

しかし、それらの大量の写真にはある共通点があった。まぐれとはとても思えない、最悪の共通点。

見切れたり、とても小さく映っているものもあるが、全ての写真に共通して写り込んでる"それ"。ある写真では人ごみに紛れており、またある写真ではモデルかのように中心を陣取っている。そして、"その人物"は決して目線をこちらに向けない。つまり、隠し撮り。

最初は見間違いかと思った。というより、確信を得ることを脳が拒否していた。しかし、見れば見る程に疑う余地が消えていく。この顔、この髪色、この服装。見間違えられるわけが無い。

大量に落ちている写真のうち、一枚を拾い上げて写り込んでる男をじっと見つめた。

自分で染めたブラウンの髪。右目の下にある黒子。最近セールで買ったダウンジャケット。黒いリュック。

「やっぱ俺だよなあ、これ」

はあ。二度目の溜息をつきながら散らばった写真を片付け始めた。



初めてこの写真が届いたのは1ヶ月程前。今日と同じように、バイトから帰ったらドアポストに写真が詰められていた。

一瞬、どこかの商業カメラマンが写真の送り先を間違えたのかと思ったがそれなら封筒に入っているはずだとすぐ気づく。ファイリングされてる訳でもなく、輪ゴムに留められている訳でもない。裸のままぎっしりと詰め込まれた写真に、犯人であろう人間の狂気と執着を感じて気分が悪くなった。この最悪の届け物は週に二回ほどの頻度でポストに届くようになった。

特に何が最悪かと言うと、全て違う写真なのだ。何回も送られてきているキャンパスでの写真も、差し込む日の色、カメラワークの角度、俺の服装、周りに居る人など、少しずつ違う。それはつまり、毎日ずっと撮られ続けていることを意味している。こんなにも大量の写真を、俺が気付かない内に、知らない人間に撮られているのだ。言葉に表せない恐怖を感じて吐き気を催す。

「はぁもう、なんで俺なんだよぉ~!こんな男ストーカーしても何も楽しくねぇだろうがよぉ~!」

手当たり次第に写真を拾って、ゴミ袋に突っ込んでいく。百枚以上はあるだろうか。

勇気を出して、一度だけ交番に相談しに行ったこともある。しかし、思うような成果は得られなかった。

暴力を振るわれたなどの被害も無い、ただただ写真を送られているだけ。怪しい人間の目星もついてないため、犯人への警告もしようが無い。付け加えて俺が男となれば、交番のおじさんはあまり真剣に取り入ってはくれなかった。ストーカー被害に関するパンフレットをと共に、未然防止策や自衛手段を教示されたが、正直身になったとは思えない。

そこらへんに居るような男子大学生のストーカー犯を一から探し出せるほど警察は暇じゃないようだ。そう考えると何とも虚しい気持ちが湧いてきて、それからは警察へ相談しようとは思えなくなった。

普通だったらすぐに引っ越しをするのだろう。俺だってすぐにでもこのアパートを引き払って、別の部屋を借りたいと心の底から願っている。しかし、俺の通帳残高がそれを許してくれない。

ただでさえ家賃の高い東京だ。俺が払えるような低い家賃の家はなかなか見つからない。そもそもこのアパートが、汗水垂らして不動産屋を駆け回り、大学入学までにやっと探し出せた掘り出し物なのだ。このアパート以外で、俺がなんとか毎月捻り出せる金額の家賃、かつ大学に通える距離の物件を探すとなるとかなり厳しい。

それに、住む場所を移すには金がかかる。敷金、礼金、物件代、業者代…考えるだけで頭痛がしてくる。学費は少しでも遅れたらアウトなのだ。引っ越し代に手間取られて払い遅れた時のことを考えると、中々前向きには考えにくい。

もちろん引っ越すのを諦めているわけではない。今でも空き時間に良さそうな物件を調べたりはしている。だが、講義、バイト、課題と目まぐるしいスケジュールをこなしていては不動産屋へ行く暇もない。

金も無い、縁も無い、ないない尽くしの俺はこうして今日も泣き寝入りするしかないのだ。





それから、また一ヶ月が経った。相変わらず写真は送られ続ける。しかし、俺の心境に変化が現れた。ストーカー野郎への恐怖心はまだあるが、慣れた、というのが正直なところだ。ただただひたすら数日おきに写真がポストに入れられているだけ。それに何回も遭遇するうちに、もはや驚愕は薄くなっていた。

慣れてしまったことを悲しむべきなのだろうが、余計なことを考える時間が減ってきたことに喜んでいる俺も随分と毒されているかもしれないな、と考えたところでため息をつく。

「なーに難しい顔してんの?」
「ッ京吾」

講義が終わり教授も生徒も退出する中、そのまま席で考え込んでいた俺に後ろから肩を押される。明るい茶髪が視界に映り込む。その犯人…京吾は、机をぐるっと回って俺の隣の席に座った。彼は俺の恋人だ。

京吾とは、同じ学科の同級生で、入学してすぐに友人となった。驚く程に趣味や好みが合致し、日を待たずにお互い親友と呼べるレベルで打ち解け合うことができた。それからは大学の外でも会うようになった。

京吾は明るく、そして優しかった。東京での一人暮らしに慣れない俺に、都会育ちの彼は色々なことを教えてくれたことは今になっても感謝している。

付き合うことになったのは今から二ヶ月ほど前。お互いゲイだとわかってから暫くしないうちに京吾から告白された。俺も、一緒に大学生活を過ごすうちに京吾に惹かれていたため、間を置くことなくよろしくお願いしますと返事をした。それからずっと、喧嘩することもなく恋人関係を維持したまま今に至る。

今まで友人はいれども恋人など居なかった俺に、好きになってくれた人ができたなど夢のようだった。京吾と恋人という関係になってからは浮足立つような日々だった。俺に彼氏が居るんだ、という事実は忙しい日々を生きる俺にとっての大きな糧となった。高校時代の悩める俺に、お前にはこんな優しい彼氏ができるんだから安心しろと伝えに行きたいくらいだ。

隣に落ち着いた彼は、少し眉をひそめて俺の顔を覗く。

「で、どうしたん?なんかあった?」
「いや別に…今日出された課題も難しそうだなって」
「あーねぇ。まあ根性でこなすしかねえよなー」

よし。なんとかごまかせた。
京吾にはストーカー被害のことは伝えてない。というか、伝えられてない。
京吾は俺に対して底なしに優しい。毎日なにかしら俺を気にかけてくれて、甘やかしてくる。自意識過剰かもしれないけど、俺がストーカー被害に会ってるなどと知ったら酷く狼狽えるだろう。そして、きっと何とかして犯人を突き止めようとするはずだ。京吾も俺ほどではないが、結構バイトのシフトを入れている。決して暇のある生活を送っているわけではないのだ。余計な心配はかけられない。そこまで深刻な被害も無いので、付き合って二ヶ月経ってる今でも口は噤んだままだ。



今日の講義は全部終わったので、京吾と話しながらノートと資料を片付けて帰る準備をする。夕方にはまたバイトに行かねばならない。今日のシフトまではまだ少し時間があるので、何か胃に入れてから行こうか。スマホをカバンに入れようと手に握った瞬間、ちょうどバイブレーションが鳴った。待ち受け画面を見ると、バイト先のグループラインで店長から連絡がきていた。

「ごめんちょっと待ってて」
「おっけ~」

バイト関連の連絡はすぐに見とかねば心が落ち着かない。京吾に了承を得てその場でトーク画面を開く。

絵文字や記号がふんだんに使われている店長のメッセージをじっと読み込む。要約すると、開店準備の最中に利き手に火傷を負ってしまい今から病院に行くので、今日は店を開けられそうにない、申し訳ないが今日シフトが入ってる人は来なくていい。とのことだった。

「うわまじか」

読んだ感想が口からポロリと零れる。店長には申し訳ないが、正直言って貰えるはずの給金が貰えないことになったというのはとても堪える。今日のシフトは長めに入っていたので、かなりの損失になるだろう。超金欠の俺にとってはめちゃくちゃキツい。今日打ち消しになったシフトの分、どこか入れないか店長に聞いてみようか。

スマホを持って固まった俺に、隣に座っていた京吾が不思議そうに身を寄せてきたのでトーク画面を向ける。俺の動作に察した京吾は、店長の長文ラインをじっと見つめた。

「なるほどねー。そういうことってあるもんだな」
「んー、稼ぎそこねた…つらい…」

うなだれる俺に京吾は苦笑いをして背中をさすってくれた。傷心に京吾の優しさが染みる。こういうとこが好きなのだ。

「まあさ、休暇だと思えばいいじゃん。柚葵ここ最近ずっと連日でシフト入れてたし。家でゆっくり休みなよ」
「う~ん。家にもあんま居たくないんだよな~…」

お馴染みとなったドアポストの光景が脳裏に過る。いくら慣れてきたと言っても、あの部屋に帰らなきゃと思うとやはり憂鬱になるものだ。

自習室でレポートでも進めようか。一緒にやってくんないかな。ちらりと隣の恋人を見ると、何かを考え込んでいるようだった。

「じゃあさ」

京吾が意を決したように言う。

「俺んち泊まりにこない?」
「え」

恋人の家に泊まるということは、それを誘うということは、つまりそういうことか?

戸惑う俺に、京吾は慌てて付け足す。

「いや別に下心はないよ。いやあるんだけどさ」

あるんかい。目を細めた俺を見て、顔を赤くした彼は言葉を続ける。

「俺も今日明日はバイトないし。俺の家で柚葵がゆっくり羽伸ばしてくれればなって思って…だめ?」

緊張した様子で問いかけてくる。

急な話に驚きはしたが、確かに悪い話でもない。連日働きづめで疲れていたのも事実。京吾の家に行ってみたいという好奇心があるのも事実である。そう前置きしてくれてるならば、変な緊張もする必要がない。

断る理由も無いので、お言葉に甘えさせてもらうわ、と伝えると目の前の男は子供みたいに喜んだ。





京吾の家は、俺の所のアパートとは比べ物にならない程立派なマンションの一室だった。物は多いが、綺麗に整頓されていて感嘆する。自分ちとは違う匂いに、今更ながら恋人の家に来ているんだと実感が湧いてきて少し恥ずかしくなった。

それからは、京吾の家の大きいテレビで映画を観て、京吾の作ってくれた炒飯を食べて(めちゃくちゃにおいしかった)、また映画を観て。だらだらとした時間を存分に堪能させてもらった。

京吾は事ある毎に俺の頭や頬を撫でてきた。俺もそれが心地よくて、甘んじて受け入れた。恋人とのゆっくりとした時間がこんなにも楽しいものだと、俺は初めて知った。

夜になって、風呂に入った後は京吾のスウェットを借りた。着替えた俺を見て、なぜか京吾がめちゃくちゃにはしゃいでいたのが謎だった。満面の笑みの彼においでおいでと手招きされたので、恥ずかしかったがソファに座った京吾の脚の間に収まるように座り、ドライヤーで髪を乾かしてもらった。

寝るときは京吾のベッドに二人で寝転がった。息がかかるほどの距離に流石にドキドキしたが、京吾が言っていたいたようにそういう雰囲気に移行することはなく、ゆっくり頭を撫でられているうちにすぐ寝てしまった。心地よい眠りだった。



翌日は土曜だったので、昼前まで寝坊して課題を一緒に進めた。二人だと進みが早く、相談しながら書き進めていたらお互いかなりの量を終わらせることができた。

京吾は脚の間に俺を収めて座るのが気に入ったらしく、課題が一区切りついてからはずっとその格好でダラダラとした時間を過ごすことになった。



初めての恋人とのお泊まりは想像以上に楽しかった。しかしそんな時間も長くは続かない。夕方になり、ぼちぼち今日のバイトの時間が迫っていた。スマホを手に取り、バイトのグループラインを確認する。店長の火傷はたいしたことはなかったらしく、今日はちゃんと店を開けれるよ、シフト入ってる人は来てね、という旨が書かれていた。軽くため息をつく。バイトが嫌という訳じゃないが、この空間から抜け出さなければと思うと名残惜しい。

「そろそろ行かなきゃなあ」
「やだあーずっとここに居ろよ柚葵ぃ」

ぐりぐりと肩に頭を擦りつけられる。正直まんざらでもないが、彼氏といちゃついてて遅刻しましたなんてことになれば悔やんでも悔やみきれない。

まだ時間に余裕はあるが、早めに支度をしといた方がいいだろう。京吾の脚の間から立ち上がって、散らばってたタブレットやらペンケースやら充電器やらを片付ける。忘れ物がないかを確認して、ダウンを羽織って出発するばっかりの状態を作る。

「泊めてくれてありがとう。楽しかったよ」

玄関前で京吾にそう伝えると、京吾は長い腕で俺を抱き締めてきた。いきなりなんだと顔を覗く。

「俺もすっげえ楽しかった。また泊まりにこいよ」

優しい声色で耳元に囁かれて、鼓動が早くなる。言い終わっても、京吾の目線は俺から外されることは無かった。脳の奥まで見透かされているみたいで、思わず顔を逸らそうとした。その瞬間

「んっ」

唇に柔いものが触れる。京吾の瞳がぐっと近くなる。彼の虹彩に映った自分の目は大きく見開かれていた。

ぷは、と息を吐く。しばらく見つめ合い、またどちらともなく唇を重ねた。

京吾の舌が、俺の唇の狭間を撫でる。入っていい?と聞かれた気がして、いいよ、という意を込めて薄く口を開いた。そこをこじあけるようにして、舌がゆっくりと口内へと侵入してくる。

自分のものでない温度がじわりと滲むのが心地良くて、目を細める。上顎をなぞられて、脳がびりびりとしびれた。

さっきとは違う、長く深いキスに酸欠で苦しくなり、回した腕で京吾の背中を叩く。察したのか、京吾は絡み合っている舌をほどいて、ゆっくりと口を離してくれた。その唇は孤を描いている。その余裕ぶりに少し腹が立った。

京吾のものが混ざった大量の唾液を、口膣は受け入れきれかったようだ。つぅ、と口の端から零れ、慌ててそれを親指で拭う。

「っ…」
「ふは、かわい」
「うるさいな。こちとらこんな経験いっかいも無いんだよ」

羞恥をごまかすように言い放った。にやにやと頬を緩めていた目の前の男は、少しばかり目を見開く。

「え、初めてだったの?」
「ん…」
「うわ、まじか」
「まじか、ってなんだよ。馬鹿にしてんのか」
「柚葵のファーストキスが俺とか、やばい。めちゃくちゃ嬉しい。」

世辞じゃないんだろう。京吾は紅潮した顔で、心底というふうに呟いた。その顔にこっちまで恥ずかしくなってしまう。更に顔に熱が溜まっていくのを感じた。

そこでようやく時間に気が向く。もうそろそろヤバいのではないか。いい加減バイトへ向かわなければ。玄関ドアへ足を向ける。

しかし、胴体を固定するように絡まった腕にそれを拒まれた。嬉しいやら恥ずかしいやら困るやらで、身をよじって腕の主に訴える。

「流石にもう行かなきゃ…」
「名残惜しいなあ」
「遅れたら怒られるから!」

残念そうな顔をしながらも、漸く緩めてくれた腕から抜け出す。肩からずり落ちたカバンを持ち直して、玄関ドアへ向かう。

「…また連絡するから。お邪魔しました」
「ん。またな」

最後にもう一度だけ、触れるだけのキスをしてもらって俺は京吾の家を発つ。バイトに向かう先、鼓動を収めるのに必死で、ストーカー犯のことなど最早頭に浮かびさえしなかった。





深夜、バイトからの帰り道を歩く。また日付を回ってしまった。今日も今日とて精一杯働いたなあという満足感に満たされながら足を早める。

アパートに着く直前、ポケットに入れといたスマホが震えるのを感じて、歩きながら通知をチラ見した。京吾からだった。

『バイトおつかれ様!』

その一言だけだったが、労りの言葉に頬が緩む。すぐ返信しようと思ったが、家はもうすぐそこなのだ。部屋に入ってからゆっくり返信を打とう。再びポケットにスマホをしまう。

アパートの階段を上り、俺の部屋までの廊下を渡る。恐る恐るドアポストを確認すると、写真は入ってない様子だった。少しばかり安著する。いつも通りキーケースから家の鍵を取り出して鍵穴に差し込み、回した。

がちゃりという音が閑静なアパートに響く。

「あれ」

手が止まる。微かな違和感を感じた。

今の手ごたえ、「鍵を開ける」感覚では無かった。「鍵を閉める」感覚だった。確信は無いけれど、そんな気がした。

もしそれが合っているのならば、つまりは、ドアの鍵は開いていたということになる。背筋を冷たいものが走った。

家の鍵は俺が持ち歩いていたし、合鍵は勉強机の引き出しに保管している。俺以外がこの部屋を開けるなど不可能だ。

管理人さんが?いや無いだろ。家主に無断で侵入など。そうだとしても一体何の用があるというのだ。あり得ない。

そうともなれば、思いつく人物はもう一人しか居なかった。いや、最初から気付いていたのだ。わざとその予感を無視していたが、受け入れざるを得なくなってきた。

手が震える。横隔膜が痙攣しているのを感じた。

ほんの僅かな手ごたえの違いだ。気のせいという可能性も十分にあり得る。しかし、確認するのも怖かった。

とにかく、すぐこの部屋から離れたい。足を動かそうとした瞬間に、背後の気配に気づく。

「っ…!」

背の高い男が後ろに立っていた。いつの間に近づいてきたのだろうか。俺が部屋の前に立つまで誰ともすれ違わなかったのに。

全身黒ずくめの格好をしたそいつは、威圧的に俺を見下していた。マスクで表情はわからないがどう考えても俺に友好的な感情を抱いていないとわかる。えもいえぬ恐怖が体中を支配した。喉がひくついて声が出ない。俺よりも頭一つ高い位置にある黒く濁った瞳が、舐めつけるように俺を見つめていた。間違いない。こいつがストーカー犯だ。

逃げろ、走れ、動け、動け、動け!!!!!

頭では大音量の警報がけたたましく鳴っているのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように俺は一歩も動くことができなかった。脳と体が離縁したようだ。今にも腰が抜けそうな俺に対して、そいつはゆっくりと距離を詰めてきた。いつの間にか、右手には白いハンカチのようなものを握っている。

はは、そんなベタな方法、本当にあるんだ。頭の片隅でそんなことを楽観的に思った。

「ぅ、あ…」

布越しに鼻を抑えられる。酸っぱいような甘いような、そんな匂いを認知した瞬間に俺は意識を失った。

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