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第十五話 スローライフ再開……と思ったら、私が救世主指名!?
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ガレリア帝国の首都から少し離れた、静かな湖畔に佇む別荘地。 深い森に囲まれ、朝霧が立ち込めるその場所は、俗世の喧騒から切り離された隠れ家だった。
「……これよ」
私はテラスに出て、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 目の前に広がるのは、鏡のような湖面と、紅葉し始めた木々。 聞こえてくるのは、小鳥のさえずりと、風が葉を揺らす音だけ。
「これが、私が求めていた『凪』の時間……」
私は感動に打ち震えながら、ロッキングチェアに身を沈めた。 アレクセイ殿下が王国の危機によって強制送還されてから、三日が経過していた。 その間、ジークフリートが用意してくれたこの極秘別荘で、私は泥のように眠り、起きては美味しい食事を摂り、また眠るという、ナマケモノも裸足で逃げ出す堕落した生活を送っていた。
「お姉さま、ハーブティーが入りましたよ」
ミナがワゴンを押してやってくる。 彼女もまた、ここでの生活を満喫していた。 王城での激務が嘘のように肌艶が良くなり、最近では庭で家庭菜園まで始めている。
「ありがとう、ミナ。……平和ね」
「はい。夢のようです」
私たちは紅茶を啜り、湖を眺めた。 ここには、追いかけてくる王子もいない。 爆発音もしない。 「愛している」という名の呪詛も聞こえない。 完璧だ。 私の10回目の人生は、ようやくハッピーエンドを迎えたのだ。
……と、思い込みたかった。
「失礼するよ、お二人さん」
優雅な空間に水を差すように、空間が歪み、ジークフリートが現れた。 彼は転移魔法で直接テラスに降り立ったのだ。 その表情は、いつになく険しい。
「ジークフリート? ノックくらいしなさいよ。ここは乙女の花園よ」
「すまない。だが、悠長なことを言っていられない状況でね」
彼は一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。 それは、魔法で転送された最新の『戦況報告書』だった。
「王国の状況だ。……壊滅的だよ」
私はカップを置いた。 見たくない。 聞きたくない。 でも、私の「うっかりミス(封印の閉め忘れ)」が原因である以上、無視もできない。
「……どれくらい酷いの?」
「王都の防衛ラインは維持されているが、それは奇跡に近い。アレクセイ王子が、不眠不休で三日間、最前線で光魔法を放ち続けているからだ」
「三日間、不眠不休?」
「ああ。彼は一歩も退いていないそうだ。食事も摂らず、睡眠も取らず、ただひたすらに魔物の大群を薙ぎ払っている。……だが、限界は近い」
ジークフリートが指差した地図には、王都を中心とした真っ赤な汚染領域が広がっていた。 『厄災の門』から溢れ出した魔気は、生き物を魔物化させ、土地を腐敗させる。 王子の光魔法で浄化してはいるものの、供給源である門が開いたままでは、穴の空いたバケツで水を汲み出すようなものだ。
「門を閉じるには、古代語魔法による再封印が必要だ。しかし、王国の宮廷魔導師たちにはその術式が解析できない。彼らは今、必死に古文書を漁っているそうだが……見つかる頃には、国は更地になっているだろうね」
「…………」
私は無言でクッキーを齧った。 味がしない。
術式なら知っている。 私が作ったオリジナル術式だからだ。 私が戻って、パパッと魔力を流し込めば、5分で閉じる。 そうすれば、魔物の供給は止まり、残党を狩れば終わりだ。
「でも、戻りたくない」
私は本音を漏らした。
「戻ったら最後、今度こそ『国を救った聖女』として祀り上げられ、王子と結婚させられ、一生鳥籠の中よ。そんなの、死ぬより辛い」
「だろうね。君の気持ちはわかる」
ジークフリートは頷いた。
「だから、私は君に『行け』とは言わない。帝国としては、王国が弱体化するのは好都合だしね。このまま王国が滅びれば、焼け野原を我が国が接収する計画も動いている」
「……随分とドライね」
「外交とはそういうものさ。……ただ」
ジークフリートは、懐から水晶玉を取り出した。
「一つだけ、君に見せたいものがある。王国の密偵が命懸けで送ってきた、現在の王都の映像だ」
水晶玉が光り、ホログラムが浮かび上がる。 そこには、地獄絵図が映し出されていた。
黒い煙に包まれた王都。 崩れ落ちた城壁。 逃げ惑う人々。 そして、その中心で、黄金の光を放つ一人の男。
『ハァ……ハァ……! 来い! 私が相手だ!』
アレクセイ殿下だ。 あの煌びやかだった黄金の甲冑はボロボロに砕け、顔は血と煤で汚れ、美しい金髪は乱れている。 それでも、彼の瞳だけは燃えていた。
『一歩も通さん! この後ろには、リゼが愛した国があるんだ! リゼが帰ってくる場所なんだ! 私の命に代えても守り抜く!』
彼は剣を振るう。 その一撃ごとに数百の魔物が消し飛ぶが、すぐに次が湧いてくる。 彼の体からは、生命力を削って魔力に変えているような、危うい光が立ち昇っていた。
「……バカなの?」
私は呟いた。 命に代えても? あんたが死んだら、誰が私を追いかけるのよ。 ストーカーが死んだら、私の逃亡劇というエンターテインメントも終わってしまうじゃない。
「それと、ここを見てくれ」
ジークフリートが映像を切り替える。 映し出されたのは、王都の下町にある一軒の店だった。 看板には『王室御用達・陽だまりのベーカリー』とある。
「あ……」
私の目が釘付けになった。 そこは、私がこっそり通っていたパン屋だ。 ここのクロワッサンは世界一だ。 バターの香りと、サクサクの層の重なり具合が神懸かっている。 私は、このクロワッサンのためだけに、辛い王妃教育に耐えていたと言っても過言ではない。
その店が今、魔物の群れに囲まれていた。 店の主人が、デッキブラシを構えて必死に抵抗している。 だが、多勢に無勢だ。 オーガの棍棒が振り上げられる。
「やめて……!」
思わず声が出た。 店が潰れる。 職人が死ぬ。 それはつまり、あの至高のクロワッサンが、この世から永遠に失われることを意味する。
「お姉さま……」
ミナが私の袖を引く。
「私……見ちゃいました」
「え?」
「さっき、夢を見たんです。予知夢かもしれません。……王都が炎に包まれて、誰もいなくなって……真っ黒な灰の中で、王子様だけが、リゼ様の名前を呼びながら石のように固まっている夢を」
ミナの瞳から涙が溢れる。 彼女は聖女だ。 その予言は、高い確率で現実になる。
「……はぁ」
私は大きく、長く、深いため息をついた。 そして、食べかけのクッキーを皿に戻した。
「わかったわよ。負けよ、負け」
私は立ち上がった。
「リゼ?」
ジークフリートが意外そうな顔をする。
「勘違いしないでよね。私は王子を助けるわけじゃないわ。ただ、私の大好きなクロワッサンを守りたいだけよ。食の恨みは恐ろしいってことを、魔物どもに教えてやるの」
「……ふっ、君らしい理由だ」
ジークフリートは口元を緩めた。
「だが、どうやって行く? ここから王都までは、ポチの背に乗っても半日はかかるぞ」
「半日もかけてたら店が潰れるわ。……ジークフリート、あんた『帝国の転移ゲート』の使用権限、持ってるわよね?」
「!?」
ジークフリートが目を見開いた。 転移ゲート。 帝国の軍事機密であり、主要都市間を一瞬で結ぶ戦略兵器。 他国の人間、それも王国の令嬢に使わせるなど、反逆罪に問われかねない。
「君……それを知っていて頼むのかい? 私が首を縦に振るとでも?」
「振るわよ。だってあんた、私に恩を売りたいんでしょ?」
私は不敵に笑った。
「今回、私が王国を救えば、帝国にとってもメリットがあるはずよ。『帝国が技術協力して王国を救った』という事実にすれば、王国に対して大きな外交カードを持てる。違う?」
「……恐ろしいお嬢さんだ。政治家になれるよ」
ジークフリートは降参するように両手を上げた。
「いいだろう。私の首を賭けて、ゲートを開けよう。ただし、表向きは『迷い込んだ民間人を人道的配慮で送還した』ことにするからね」
「話が早くて助かるわ。ミナ、行くわよ!」
「はい! お姉さま!」
私は庭で寝ていたポチ(ドラゴン形態)を叩き起こした。
「ポチ! 出勤よ! 残業手当は弾むから!」
「ええぇ……今いい夢見てたのに……。王子様と追いかけっこする夢……」
「現実に連れて行ってあげるわよ。さあ、乗りなさい!」
◇
数十分後。 帝国の軍事基地にある巨大な転移ゲートの前。
「準備はいいかい?」
ジークフリートが操作盤の前で振り返る。 ゲートがブゥンと低い唸りを上げ、空間を歪ませている。
「ええ。……あ、そうだ。ジークフリート」
私はポチの背中から彼を見下ろした。
「週休5日の契約、まだ生きてるわよね?」
「もちろん。君が戻ってくるなら、いつでも歓迎するよ」
「言質は取ったわよ。じゃあ、行ってくる!」
「武運を」
光が弾けた。 私とミナ、そしてポチを乗せた光の塊が、次元の彼方へと射出された。 目指すは、地獄と化した故郷、王都のど真ん中だ。
◇
王都、中央広場。 そこは、最終防衛ラインの激戦区だった。
「グオオオオオッ!!」 「守れ! 一歩も下がるな!」
騎士たちの怒号と、魔物の咆哮が入り混じる。 地面は血と汚泥にまみれ、美しい石畳は見る影もない。
その最前線で、アレクセイは膝をついていた。
「はぁ……はぁ……」
視界が霞む。 剣を持つ手が震える。 魔力は枯渇し、今は自身の生命力を燃やして光を生み出している状態だ。 意識が飛びそうだ。
(限界か……。すまない、リゼ……。君の国を守れなかった……)
目の前に、巨大なサイクロプスが迫る。 棍棒が振り上げられる。 避ける力は残っていない。 アレクセイは目を閉じた。 最期に思い浮かべるのは、やはりあの愛しい笑顔だった。 怒った顔も、呆れた顔も、全部愛おしい。
(愛しているよ、リゼ……)
ドォォォォォォォォン!!!!!
その時。 上空から、落雷のような衝撃音が響いた。 サイクロプスが、見えない圧力によって地面にめり込み、圧死した。
「……な?」
アレクセイが目を開ける。 空を見上げる。 そこには、王都の暗雲を切り裂いて、真紅のドラゴンが降臨していた。 そして、その背中に仁王立ちする、一人の少女。
プラチナブロンドの髪を風になびかせ、アメジストの瞳を宝石のように輝かせた、世界で一番美しい「悪役令嬢」。
「待たせたわね、バカ王子!」
上空から、凛とした声が降ってくる。
「リ、リゼ……?」
アレクセイは我が目を疑った。 幻覚か? 死に際の走馬灯か?
「ポチ! 『広範囲殲滅ブレス(ナパーム・モード)』!」
「合点だワン!」
ドラゴンが口を開く。 吐き出されたのは、ただの炎ではない。 私の魔力で強化され、制御された、魔物だけを焼き尽くす浄化の炎だ。
ゴオオオオオオオッ!!
炎の波が広場を埋め尽くす。 数百体の魔物が、断末魔を上げる間もなく灰へと還る。 騎士たちは無傷だ。 完璧なコントロール。
「ミナ! 結界!」
「はい! 『聖女の慈悲(ホーリー・フィールド)』!」
ポチの後ろからミナが杖を振るう。 黄金の光が広がり、傷ついた兵士たちの傷を癒し、体力を回復させていく。
「な、なんだこれは……」 「奇跡だ……! ドラゴンと、聖女様だ!」 「いや、あの方は……リーゼロッテ様!?」
兵士たちが歓声を上げる。
ポチが広場の中央に着地する。 ズシン、と地面が揺れる。 私は背中から飛び降り、呆然としているアレクセイ殿下の前に立った。
ボロボロの甲冑。 血だらけの顔。 でも、私を見る瞳だけは、いつものように――いや、いつも以上に熱く濡れていた。
「リゼ……。なぜ……」
彼は震える手を伸ばした。
「逃げたんじゃなかったのか? 私から……」
「逃げたわよ。今も逃走中よ」
私は腕を組んで、ふんと鼻を鳴らした。
「でもね、私の大好きなパン屋が潰れそうだったから、ちょっと寄り道しただけ。勘違いしないでよね」
ベタなツンデレ台詞だ。 自分でも寒気がするが、こうでも言わないとやってられない。
「パン屋……?」
アレクセイは瞬きをした。 そして、次の瞬間、彼の顔がくしゃりと歪んだ。 泣き笑いのような、子供のような表情。
「そうか……パン屋か……。ふふ、君らしいな」
彼はよろめきながら立ち上がり、私に向かって倒れ込んできた。
「ちょっ、汚い! 血がつく!」
私が支えようとすると、彼は私を力強く抱きしめた。 汗と鉄と、そして彼の匂いが私を包む。
「ありがとう、リゼ。戻ってきてくれて……ありがとう」
耳元で囁かれる声。 心臓の鼓動が、痛いほど伝わってくる。
「……今回だけよ」
私は抵抗するのを諦め、溜息をついた。 少しだけ、本当に少しだけだが、この温もりに安心している自分がいた。
「さあ、殿下。感動の再会は後にして」
私は彼の胸を押し返した。
「元凶を断つわよ。私が開けっ放しにした『厄災の門』、責任を持って閉めてくるわ」
「ああ。一緒に行こう」
アレクセイは剣を拾い上げた。 その体から、先ほどまでの疲労が嘘のように消え、全盛期以上の魔力が溢れ出している。 リゼ成分を補給したことで、完全復活したようだ。 単純すぎる。
「我らが王国の最強カップル、再結成だ!」
「カップルじゃないわよ! 臨時チームよ!」
「ふふ、照れるな」
私たちは並んで走り出した。 目指すは王城の地下。 全ての災厄の根源へ。
周囲の騎士たちが、私たちに道を開ける。 「行けぇぇ! 殿下! リーゼロッテ様!」 「我らの希望だ!」
大歓声の中、私は思った。 ああ、またやってしまった。 目立たずひっそりと生きるはずが、ド派手に救世主として凱旋してしまった。 これでは、引退後の隠居生活がますます遠のく。
「……これよ」
私はテラスに出て、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 目の前に広がるのは、鏡のような湖面と、紅葉し始めた木々。 聞こえてくるのは、小鳥のさえずりと、風が葉を揺らす音だけ。
「これが、私が求めていた『凪』の時間……」
私は感動に打ち震えながら、ロッキングチェアに身を沈めた。 アレクセイ殿下が王国の危機によって強制送還されてから、三日が経過していた。 その間、ジークフリートが用意してくれたこの極秘別荘で、私は泥のように眠り、起きては美味しい食事を摂り、また眠るという、ナマケモノも裸足で逃げ出す堕落した生活を送っていた。
「お姉さま、ハーブティーが入りましたよ」
ミナがワゴンを押してやってくる。 彼女もまた、ここでの生活を満喫していた。 王城での激務が嘘のように肌艶が良くなり、最近では庭で家庭菜園まで始めている。
「ありがとう、ミナ。……平和ね」
「はい。夢のようです」
私たちは紅茶を啜り、湖を眺めた。 ここには、追いかけてくる王子もいない。 爆発音もしない。 「愛している」という名の呪詛も聞こえない。 完璧だ。 私の10回目の人生は、ようやくハッピーエンドを迎えたのだ。
……と、思い込みたかった。
「失礼するよ、お二人さん」
優雅な空間に水を差すように、空間が歪み、ジークフリートが現れた。 彼は転移魔法で直接テラスに降り立ったのだ。 その表情は、いつになく険しい。
「ジークフリート? ノックくらいしなさいよ。ここは乙女の花園よ」
「すまない。だが、悠長なことを言っていられない状況でね」
彼は一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。 それは、魔法で転送された最新の『戦況報告書』だった。
「王国の状況だ。……壊滅的だよ」
私はカップを置いた。 見たくない。 聞きたくない。 でも、私の「うっかりミス(封印の閉め忘れ)」が原因である以上、無視もできない。
「……どれくらい酷いの?」
「王都の防衛ラインは維持されているが、それは奇跡に近い。アレクセイ王子が、不眠不休で三日間、最前線で光魔法を放ち続けているからだ」
「三日間、不眠不休?」
「ああ。彼は一歩も退いていないそうだ。食事も摂らず、睡眠も取らず、ただひたすらに魔物の大群を薙ぎ払っている。……だが、限界は近い」
ジークフリートが指差した地図には、王都を中心とした真っ赤な汚染領域が広がっていた。 『厄災の門』から溢れ出した魔気は、生き物を魔物化させ、土地を腐敗させる。 王子の光魔法で浄化してはいるものの、供給源である門が開いたままでは、穴の空いたバケツで水を汲み出すようなものだ。
「門を閉じるには、古代語魔法による再封印が必要だ。しかし、王国の宮廷魔導師たちにはその術式が解析できない。彼らは今、必死に古文書を漁っているそうだが……見つかる頃には、国は更地になっているだろうね」
「…………」
私は無言でクッキーを齧った。 味がしない。
術式なら知っている。 私が作ったオリジナル術式だからだ。 私が戻って、パパッと魔力を流し込めば、5分で閉じる。 そうすれば、魔物の供給は止まり、残党を狩れば終わりだ。
「でも、戻りたくない」
私は本音を漏らした。
「戻ったら最後、今度こそ『国を救った聖女』として祀り上げられ、王子と結婚させられ、一生鳥籠の中よ。そんなの、死ぬより辛い」
「だろうね。君の気持ちはわかる」
ジークフリートは頷いた。
「だから、私は君に『行け』とは言わない。帝国としては、王国が弱体化するのは好都合だしね。このまま王国が滅びれば、焼け野原を我が国が接収する計画も動いている」
「……随分とドライね」
「外交とはそういうものさ。……ただ」
ジークフリートは、懐から水晶玉を取り出した。
「一つだけ、君に見せたいものがある。王国の密偵が命懸けで送ってきた、現在の王都の映像だ」
水晶玉が光り、ホログラムが浮かび上がる。 そこには、地獄絵図が映し出されていた。
黒い煙に包まれた王都。 崩れ落ちた城壁。 逃げ惑う人々。 そして、その中心で、黄金の光を放つ一人の男。
『ハァ……ハァ……! 来い! 私が相手だ!』
アレクセイ殿下だ。 あの煌びやかだった黄金の甲冑はボロボロに砕け、顔は血と煤で汚れ、美しい金髪は乱れている。 それでも、彼の瞳だけは燃えていた。
『一歩も通さん! この後ろには、リゼが愛した国があるんだ! リゼが帰ってくる場所なんだ! 私の命に代えても守り抜く!』
彼は剣を振るう。 その一撃ごとに数百の魔物が消し飛ぶが、すぐに次が湧いてくる。 彼の体からは、生命力を削って魔力に変えているような、危うい光が立ち昇っていた。
「……バカなの?」
私は呟いた。 命に代えても? あんたが死んだら、誰が私を追いかけるのよ。 ストーカーが死んだら、私の逃亡劇というエンターテインメントも終わってしまうじゃない。
「それと、ここを見てくれ」
ジークフリートが映像を切り替える。 映し出されたのは、王都の下町にある一軒の店だった。 看板には『王室御用達・陽だまりのベーカリー』とある。
「あ……」
私の目が釘付けになった。 そこは、私がこっそり通っていたパン屋だ。 ここのクロワッサンは世界一だ。 バターの香りと、サクサクの層の重なり具合が神懸かっている。 私は、このクロワッサンのためだけに、辛い王妃教育に耐えていたと言っても過言ではない。
その店が今、魔物の群れに囲まれていた。 店の主人が、デッキブラシを構えて必死に抵抗している。 だが、多勢に無勢だ。 オーガの棍棒が振り上げられる。
「やめて……!」
思わず声が出た。 店が潰れる。 職人が死ぬ。 それはつまり、あの至高のクロワッサンが、この世から永遠に失われることを意味する。
「お姉さま……」
ミナが私の袖を引く。
「私……見ちゃいました」
「え?」
「さっき、夢を見たんです。予知夢かもしれません。……王都が炎に包まれて、誰もいなくなって……真っ黒な灰の中で、王子様だけが、リゼ様の名前を呼びながら石のように固まっている夢を」
ミナの瞳から涙が溢れる。 彼女は聖女だ。 その予言は、高い確率で現実になる。
「……はぁ」
私は大きく、長く、深いため息をついた。 そして、食べかけのクッキーを皿に戻した。
「わかったわよ。負けよ、負け」
私は立ち上がった。
「リゼ?」
ジークフリートが意外そうな顔をする。
「勘違いしないでよね。私は王子を助けるわけじゃないわ。ただ、私の大好きなクロワッサンを守りたいだけよ。食の恨みは恐ろしいってことを、魔物どもに教えてやるの」
「……ふっ、君らしい理由だ」
ジークフリートは口元を緩めた。
「だが、どうやって行く? ここから王都までは、ポチの背に乗っても半日はかかるぞ」
「半日もかけてたら店が潰れるわ。……ジークフリート、あんた『帝国の転移ゲート』の使用権限、持ってるわよね?」
「!?」
ジークフリートが目を見開いた。 転移ゲート。 帝国の軍事機密であり、主要都市間を一瞬で結ぶ戦略兵器。 他国の人間、それも王国の令嬢に使わせるなど、反逆罪に問われかねない。
「君……それを知っていて頼むのかい? 私が首を縦に振るとでも?」
「振るわよ。だってあんた、私に恩を売りたいんでしょ?」
私は不敵に笑った。
「今回、私が王国を救えば、帝国にとってもメリットがあるはずよ。『帝国が技術協力して王国を救った』という事実にすれば、王国に対して大きな外交カードを持てる。違う?」
「……恐ろしいお嬢さんだ。政治家になれるよ」
ジークフリートは降参するように両手を上げた。
「いいだろう。私の首を賭けて、ゲートを開けよう。ただし、表向きは『迷い込んだ民間人を人道的配慮で送還した』ことにするからね」
「話が早くて助かるわ。ミナ、行くわよ!」
「はい! お姉さま!」
私は庭で寝ていたポチ(ドラゴン形態)を叩き起こした。
「ポチ! 出勤よ! 残業手当は弾むから!」
「ええぇ……今いい夢見てたのに……。王子様と追いかけっこする夢……」
「現実に連れて行ってあげるわよ。さあ、乗りなさい!」
◇
数十分後。 帝国の軍事基地にある巨大な転移ゲートの前。
「準備はいいかい?」
ジークフリートが操作盤の前で振り返る。 ゲートがブゥンと低い唸りを上げ、空間を歪ませている。
「ええ。……あ、そうだ。ジークフリート」
私はポチの背中から彼を見下ろした。
「週休5日の契約、まだ生きてるわよね?」
「もちろん。君が戻ってくるなら、いつでも歓迎するよ」
「言質は取ったわよ。じゃあ、行ってくる!」
「武運を」
光が弾けた。 私とミナ、そしてポチを乗せた光の塊が、次元の彼方へと射出された。 目指すは、地獄と化した故郷、王都のど真ん中だ。
◇
王都、中央広場。 そこは、最終防衛ラインの激戦区だった。
「グオオオオオッ!!」 「守れ! 一歩も下がるな!」
騎士たちの怒号と、魔物の咆哮が入り混じる。 地面は血と汚泥にまみれ、美しい石畳は見る影もない。
その最前線で、アレクセイは膝をついていた。
「はぁ……はぁ……」
視界が霞む。 剣を持つ手が震える。 魔力は枯渇し、今は自身の生命力を燃やして光を生み出している状態だ。 意識が飛びそうだ。
(限界か……。すまない、リゼ……。君の国を守れなかった……)
目の前に、巨大なサイクロプスが迫る。 棍棒が振り上げられる。 避ける力は残っていない。 アレクセイは目を閉じた。 最期に思い浮かべるのは、やはりあの愛しい笑顔だった。 怒った顔も、呆れた顔も、全部愛おしい。
(愛しているよ、リゼ……)
ドォォォォォォォォン!!!!!
その時。 上空から、落雷のような衝撃音が響いた。 サイクロプスが、見えない圧力によって地面にめり込み、圧死した。
「……な?」
アレクセイが目を開ける。 空を見上げる。 そこには、王都の暗雲を切り裂いて、真紅のドラゴンが降臨していた。 そして、その背中に仁王立ちする、一人の少女。
プラチナブロンドの髪を風になびかせ、アメジストの瞳を宝石のように輝かせた、世界で一番美しい「悪役令嬢」。
「待たせたわね、バカ王子!」
上空から、凛とした声が降ってくる。
「リ、リゼ……?」
アレクセイは我が目を疑った。 幻覚か? 死に際の走馬灯か?
「ポチ! 『広範囲殲滅ブレス(ナパーム・モード)』!」
「合点だワン!」
ドラゴンが口を開く。 吐き出されたのは、ただの炎ではない。 私の魔力で強化され、制御された、魔物だけを焼き尽くす浄化の炎だ。
ゴオオオオオオオッ!!
炎の波が広場を埋め尽くす。 数百体の魔物が、断末魔を上げる間もなく灰へと還る。 騎士たちは無傷だ。 完璧なコントロール。
「ミナ! 結界!」
「はい! 『聖女の慈悲(ホーリー・フィールド)』!」
ポチの後ろからミナが杖を振るう。 黄金の光が広がり、傷ついた兵士たちの傷を癒し、体力を回復させていく。
「な、なんだこれは……」 「奇跡だ……! ドラゴンと、聖女様だ!」 「いや、あの方は……リーゼロッテ様!?」
兵士たちが歓声を上げる。
ポチが広場の中央に着地する。 ズシン、と地面が揺れる。 私は背中から飛び降り、呆然としているアレクセイ殿下の前に立った。
ボロボロの甲冑。 血だらけの顔。 でも、私を見る瞳だけは、いつものように――いや、いつも以上に熱く濡れていた。
「リゼ……。なぜ……」
彼は震える手を伸ばした。
「逃げたんじゃなかったのか? 私から……」
「逃げたわよ。今も逃走中よ」
私は腕を組んで、ふんと鼻を鳴らした。
「でもね、私の大好きなパン屋が潰れそうだったから、ちょっと寄り道しただけ。勘違いしないでよね」
ベタなツンデレ台詞だ。 自分でも寒気がするが、こうでも言わないとやってられない。
「パン屋……?」
アレクセイは瞬きをした。 そして、次の瞬間、彼の顔がくしゃりと歪んだ。 泣き笑いのような、子供のような表情。
「そうか……パン屋か……。ふふ、君らしいな」
彼はよろめきながら立ち上がり、私に向かって倒れ込んできた。
「ちょっ、汚い! 血がつく!」
私が支えようとすると、彼は私を力強く抱きしめた。 汗と鉄と、そして彼の匂いが私を包む。
「ありがとう、リゼ。戻ってきてくれて……ありがとう」
耳元で囁かれる声。 心臓の鼓動が、痛いほど伝わってくる。
「……今回だけよ」
私は抵抗するのを諦め、溜息をついた。 少しだけ、本当に少しだけだが、この温もりに安心している自分がいた。
「さあ、殿下。感動の再会は後にして」
私は彼の胸を押し返した。
「元凶を断つわよ。私が開けっ放しにした『厄災の門』、責任を持って閉めてくるわ」
「ああ。一緒に行こう」
アレクセイは剣を拾い上げた。 その体から、先ほどまでの疲労が嘘のように消え、全盛期以上の魔力が溢れ出している。 リゼ成分を補給したことで、完全復活したようだ。 単純すぎる。
「我らが王国の最強カップル、再結成だ!」
「カップルじゃないわよ! 臨時チームよ!」
「ふふ、照れるな」
私たちは並んで走り出した。 目指すは王城の地下。 全ての災厄の根源へ。
周囲の騎士たちが、私たちに道を開ける。 「行けぇぇ! 殿下! リーゼロッテ様!」 「我らの希望だ!」
大歓声の中、私は思った。 ああ、またやってしまった。 目立たずひっそりと生きるはずが、ド派手に救世主として凱旋してしまった。 これでは、引退後の隠居生活がますます遠のく。
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