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第6話 母上という呼び方
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翌朝。
私が目を覚ますと、ソファに寝かせていたはずのルカの姿はすでになかった。
きちんと畳まれた毛布だけが、彼がそこにいたことを示している。
おそらく、私が眠っている間に目を覚まし、使用人に急かされて自分の部屋に戻ったのだろう。
「……おはようございます、奥様。朝食の準備が整っております」
冷ややかな声とともに、侍女頭のオルタンシアが入ってきた。
彼女の目は、昨日よりもさらに険しい。私が夜中にルカを部屋に連れ込んだことが、すでに耳に入っているのだろう。
「ええ、すぐに行くわ」
私はガウンを脱ぎ、手早くドレスに着替えて食堂へと向かった。
♦︎♦︎♦︎
食堂の扉を開けると、いつものように広すぎるテーブルの端と端に、レオンハルトとルカが座っていた。
「おはようございます、お義母様」
私が席につくより早く、ルカが椅子から降りて完璧なカーテシーをして見せた。
背筋はピンと伸び、両手は体の前で綺麗に組まれている。
顔には、一枚の絵画のように美しい、天使の微笑みが張り付いていた。
「昨夜は、誠にありがとうございました。わたくしの身勝手な行動で、お義母様の貴重な睡眠を妨げてしまい、深く反省しております。今後このようなことがないよう、己を厳しく律する所存です」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がギュッと締め付けられた。
すらすらと口をついて出る、大人のような謝罪の言葉。
昨夜、暖炉の前で見せてくれたあの無防備な寝顔の面影は、微塵も残っていない。
「……ルカ」
私は努めて声のトーンを落とし、優しく呼びかけた。
「そんなに畏まらなくていいのよ。昨夜のことは、私が勝手にやったことなんだから。礼も謝罪もいらないわ」
「いいえ、お義母様」
ルカは薄青の瞳を私に向けたまま、微笑みを崩さなかった。
「ヴァレンティス公爵家の嫡男たる者、受けた恩に対して礼を欠くことは許されません。オルタンシアからも、常に正しくあるようにと教えられておりますので」
その言葉の裏に、『だから、どうかぼくを叱らないでください』という悲痛な叫びが隠れているのが、私には痛いほどわかった。
「……家族なのだから、もっと普通にしていいのよ。ね?」
私が歩み寄り、彼の手を取ろうとした瞬間だった。
ルカはビクッと肩を震わせ、ほんの半歩だけ、後ろに下がったのだ。
「……っ」
伸ばしかけた私の手が、空を切る。
ルカの瞳の奥に、明確な『困惑』と『恐怖』が浮かんでいた。
彼にとって、「いい子」でいることこそが、この冷たい家で生き延びるための唯一の鎧なのだ。
私の言葉は、彼からその鎧を無理やり剥ぎ取ろうとする、暴力に等しいのかもしれない。
「ヴィオレッタ」
不意に、上座からレオンハルトの低い声が響いた。
「ルカを困らせるな。あの子は、自分がなすべきことを理解している。君の甘い言葉は、あの子の規律を乱すだけだ」
「規律……? これが規律だと言うのですか?」
私はレオンハルトを睨みつけた。
氷のように冷たい彼の目は、相変わらず私を『厄介者』としてしか見ていない。
「旦那様、あなたは——」
「食事中に大声を出すな。不快だ」
取り付く島もないレオンハルトの態度に、私は唇を噛み締めた。
私がここで声を荒げれば、ルカをさらに怯えさせることになる。
「……失礼いたしました」
私は怒りを腹の底に押し込め、自分の席に座った。
カチャ、カチャという、銀の食器が陶器に当たる乾いた音だけが食堂に響く。
ルカは再び自分の皿に視線を落とし、感情を殺した機械のように、静かにスープをすくっていた。
(空回りしているわ……)
私は自分の無力さに歯噛みした。
ルカを守りたい。その気持ちは嘘ではない。
けれど、私が不器用に距離を詰めようとすればするほど、彼は「正解」がわからなくなり、より深く心を閉ざしてしまう。
王都で悪女として振る舞うのは簡単だった。
嫌われることには慣れている。
だが、傷ついた子どもの心を溶かす方法を、私は知らないのだ。
ルカが小さな口でパンを齧るのを横目で見ながら、私は冷めた紅茶を胃に流し込んだ。
喉の奥に、苦い味が残った。
私が目を覚ますと、ソファに寝かせていたはずのルカの姿はすでになかった。
きちんと畳まれた毛布だけが、彼がそこにいたことを示している。
おそらく、私が眠っている間に目を覚まし、使用人に急かされて自分の部屋に戻ったのだろう。
「……おはようございます、奥様。朝食の準備が整っております」
冷ややかな声とともに、侍女頭のオルタンシアが入ってきた。
彼女の目は、昨日よりもさらに険しい。私が夜中にルカを部屋に連れ込んだことが、すでに耳に入っているのだろう。
「ええ、すぐに行くわ」
私はガウンを脱ぎ、手早くドレスに着替えて食堂へと向かった。
♦︎♦︎♦︎
食堂の扉を開けると、いつものように広すぎるテーブルの端と端に、レオンハルトとルカが座っていた。
「おはようございます、お義母様」
私が席につくより早く、ルカが椅子から降りて完璧なカーテシーをして見せた。
背筋はピンと伸び、両手は体の前で綺麗に組まれている。
顔には、一枚の絵画のように美しい、天使の微笑みが張り付いていた。
「昨夜は、誠にありがとうございました。わたくしの身勝手な行動で、お義母様の貴重な睡眠を妨げてしまい、深く反省しております。今後このようなことがないよう、己を厳しく律する所存です」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がギュッと締め付けられた。
すらすらと口をついて出る、大人のような謝罪の言葉。
昨夜、暖炉の前で見せてくれたあの無防備な寝顔の面影は、微塵も残っていない。
「……ルカ」
私は努めて声のトーンを落とし、優しく呼びかけた。
「そんなに畏まらなくていいのよ。昨夜のことは、私が勝手にやったことなんだから。礼も謝罪もいらないわ」
「いいえ、お義母様」
ルカは薄青の瞳を私に向けたまま、微笑みを崩さなかった。
「ヴァレンティス公爵家の嫡男たる者、受けた恩に対して礼を欠くことは許されません。オルタンシアからも、常に正しくあるようにと教えられておりますので」
その言葉の裏に、『だから、どうかぼくを叱らないでください』という悲痛な叫びが隠れているのが、私には痛いほどわかった。
「……家族なのだから、もっと普通にしていいのよ。ね?」
私が歩み寄り、彼の手を取ろうとした瞬間だった。
ルカはビクッと肩を震わせ、ほんの半歩だけ、後ろに下がったのだ。
「……っ」
伸ばしかけた私の手が、空を切る。
ルカの瞳の奥に、明確な『困惑』と『恐怖』が浮かんでいた。
彼にとって、「いい子」でいることこそが、この冷たい家で生き延びるための唯一の鎧なのだ。
私の言葉は、彼からその鎧を無理やり剥ぎ取ろうとする、暴力に等しいのかもしれない。
「ヴィオレッタ」
不意に、上座からレオンハルトの低い声が響いた。
「ルカを困らせるな。あの子は、自分がなすべきことを理解している。君の甘い言葉は、あの子の規律を乱すだけだ」
「規律……? これが規律だと言うのですか?」
私はレオンハルトを睨みつけた。
氷のように冷たい彼の目は、相変わらず私を『厄介者』としてしか見ていない。
「旦那様、あなたは——」
「食事中に大声を出すな。不快だ」
取り付く島もないレオンハルトの態度に、私は唇を噛み締めた。
私がここで声を荒げれば、ルカをさらに怯えさせることになる。
「……失礼いたしました」
私は怒りを腹の底に押し込め、自分の席に座った。
カチャ、カチャという、銀の食器が陶器に当たる乾いた音だけが食堂に響く。
ルカは再び自分の皿に視線を落とし、感情を殺した機械のように、静かにスープをすくっていた。
(空回りしているわ……)
私は自分の無力さに歯噛みした。
ルカを守りたい。その気持ちは嘘ではない。
けれど、私が不器用に距離を詰めようとすればするほど、彼は「正解」がわからなくなり、より深く心を閉ざしてしまう。
王都で悪女として振る舞うのは簡単だった。
嫌われることには慣れている。
だが、傷ついた子どもの心を溶かす方法を、私は知らないのだ。
ルカが小さな口でパンを齧るのを横目で見ながら、私は冷めた紅茶を胃に流し込んだ。
喉の奥に、苦い味が残った。
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