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第11話 国境の結界が破れそうです(他人事)
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その日の朝、私の部屋――『聖域』には、死のような静寂ではなく、どこか生温かい絶望の空気が漂っていた。 私はベッドの上で膝を抱え、目の前に置かれた新聞を凝視していた。 震える指先で持っているのは、国一番のゴシップ紙『王都毎朝』だ。
一面の見出しは、先日の舞踏会での『聖女の隻腕ダンス』を称賛するものだった。 それはいい。予想の範囲内だ。 問題は、その下の小さな囲み記事である。
『隣国の叡智、ルイス王子。聖女の左腕を「研究材料」として持ち帰る』 『夜な夜な寝室から聞こえる「素晴らしい肌触りだ」「この弾力、計算され尽くしている」という呟き』 『側近の証言:「殿下はあの腕を抱いて眠ると、睡眠効率が20%向上すると仰っています」』
「……ヒッ」
私の喉から、短い悲鳴が漏れた。 気持ち悪い。 生理的に無理だ。 あの左腕は、マリアが夜なべして作ったテディベア生地の中に、最高級の綿を詰め込んだだけのものだ。 それを、あの「氷の計算機」と呼ばれる冷徹な王子が、毎晩抱いて寝ている? しかも「睡眠効率が上がる」とか言って?
想像してしまった。 シルクのパジャマを着た美貌の王子が、真顔で、綿の詰まった布切れ(私の腕の形をしたもの)を抱きしめ、満足げにスヤスヤと眠る姿を。
「……無理。もう無理」
私は頭を抱えた。 この国の男たち(フレデリックとアレクセイ)の「熱血勘違い」も大概だが、隣国の王子(ルイス)の「効率的狂気」は、ベクトルが違いすぎて対処不能だ。 もし彼が「本体(私)の方が、もっと肌触りがいいはずだ」なんて結論に至ったら? 効率化の名の下に、私はアークライド王国へ拉致され、人間抱き枕として管理される未来しか見えない。
「……逃げよう」
私は決意した。 もう、この屋敷での籠城戦は限界だ。 ノアに相談したときは冗談半分だった「亡命」が、今や現実的な選択肢として急浮上している。 いや、亡命なんて生ぬるい。 夜逃げだ。 誰にも見つからない場所へ。 無人島か、あるいは地の底か。
私はベッドから這い出し、トランクに荷物を詰め込み始めた。 愛用の枕。 お気に入りの恋愛小説。 フレデリックから巻き上げた高級クッキーの缶。 そして、父からカツアゲした金貨の袋。
よし、準備完了。 あとは、ノアの手引きでこっそりと……。
ドンドンドンドン!
その時、激しくドアが叩かれた。 ビクッとしてクッキー缶を落としそうになる。
「リズ! リズ様! 大変です!」
マリアだ。 彼女の声は切羽詰まっており、いつもの「お姉様信者」としての能天気さがない。
「どうしたの、マリア。また誰かが変なものを置いていったの? それともルイス王子が『右腕も欲しい』って言ってきたの?」
「違います! もっと深刻な事態です! フレデリック殿下とアレクセイ様がいらっしゃっています! 緊急事態宣言です!」
緊急事態? 嫌な予感がする。 私はトランクをベッドの下に隠し、渋々ドアの前に立った。
「……何事ですか」
私が声をかけると、ドアの向こうから重苦しい声が返ってきた。
「リズ……。すまない。君が体を休めている最中に」
フレデリックの声だ。いつになく沈んでいる。
「だが、報告せねばならない。……北の国境が、破られそうだ」
国境。 その言葉に、私の心臓がドクンと跳ねた。 『1回目の人生』の記憶が蘇る。 魔物の大侵攻。 空を覆う瘴気。 燃える村々。 そして、『2回目の人生』の記憶。 聖女として最前線に立ち、血を吐きながら結界を張り続け、過労死したあの地獄の日々。
「……詳しく聞かせて」
私は努めて冷静に言った。 ドア越しに、アレクセイが報告を始める。
「北部の山岳地帯にある『嘆きの谷』より、高濃度の瘴気が噴出しました。以前から兆候はありましたが、ここ数日で急激に悪化。現地の砦からの報告によれば、魔物の活性化率が通常の50倍を超えているとのこと」
50倍。 それはもう、災害レベルだ。
「現地の結界は?」
「……崩壊寸前です。王宮魔術師団が遠隔で補強を試みていますが、追いつきません。このままでは、あと3日もてば良い方でしょう」
3日。 短い。 もし結界が破れれば、魔物の大群が雪崩れ込み、北部の穀倉地帯(せっかく豆で復活したのに)は壊滅する。 そして、その被害はいずれ王都にも及ぶだろう。 私の安眠も、美味しいお菓子も、全て失われる。
「……そうですか」
私は短く答えた。 内心では「どうしよう」と焦っているが、声には出さない。
「リズ様」
アレクセイの声が震えた。
「我々は愚かでした。貴女があの舞踏会で『腕を切り離す』ほどのパフォーマンスを見せた理由……今になってようやく理解しました」
え? あの話、まだ続くの?
「貴女は、ご自身の体が限界であることを、あのダンスで我々に警告してくださったのですね!」
違います。 縫製が甘かっただけです。
「『腕が取れる』……それはつまり、『国の守り(結界)の一部が欠損する』という予言! そして、『中身が綿(空洞)である』というのは、『今の国の防衛体制はスカスカだ』という痛烈な皮肉!」
深読みしすぎだ。 どうしてそこまでポジティブに解釈できるんだ。
「さらに言えば、貴女の体は、実はもうボロボロなのでしょう? 遠隔地から人知れず国境の結界を維持するために、生命力を削っておられた……。だからあんなに軽く、脆くなっていたのだ!」
フレデリックが号泣し始めた。
「ああ、リズ! なんてことだ! 私は君に『豆を植えろ』などと言われて喜んでいたが、君はその裏で、命を削って魔物を抑えていてくれたのか! 知らなかった! 許してくれ!」
やってない。 私は部屋で漫画を読んでいただけだ。 しかし、否定しても無駄だろう。 彼らの中では、私は「瀕死の体で国を支える聖女」として確定してしまっている。
「だから、決めたのだ」
フレデリックが鼻をすすりながら言った。
「私が現場へ行く。全騎士団を率いて、私の命に変えても国境を死守する。リズ、君はここで休んでいてくれ。もう二度と、君に無理はさせない!」
「私も行きます! リズ様、貴女の作った平和、この命に代えても守り抜いてみせます!」
二人の声には、悲壮な決意が滲んでいた。 ガシャン、と鎧が鳴る音がする。 彼らは本気だ。 死ぬ気だ。
……馬鹿な人たち。 王太子と騎士団長が特攻してどうする。 瘴気の濃い最前線に行けば、彼らとて無事では済まない。 指揮系統が崩壊し、国はもっと早く滅びるだろう。
でも、止める理由がない。 彼らが行ってくれれば、私はここで安全に……いや、待てよ。 もし彼らが死んだら? 国が滅んだら? 私の「引きこもり資金」である公爵家の資産も紙屑になり、美味しい輸入菓子も途絶える。 それどころか、魔物がこの屋敷まで押し寄せてきたら、私の二度寝どころではない。
つまり。 他人事ではないのだ。 巡り巡って、私の安眠に関わる重大な危機なのだ。
どうする? 私が「聖女」として出向く? 嫌だ。 絶対に嫌だ。 寒いし、汚いし、疲れるし。 2周目のトラウマが蘇る。
私が沈黙していると、窓の方からコンコン、と軽い音がした。 ノアだ。 彼はいつものように窓枠に座り、ニヤニヤと笑っていた。
「やあ。困ってるみたいだね、聖女様」
彼は小声で囁いた。ドアの外の二人には聞こえない音量で。
「ノア……盗み聞き?」
「人聞きが悪いな。情報の共有だよ。……で、どうするの? 彼らを行かせる? 全滅するよ?」
「……分かってるわよ」
「彼らを救うには、結界を修復するしかない。でも、今の崩壊しかけた結界を直すには、ただの魔力じゃ足りない。必要なのは『核(コア)』だ」
ノアが指を一本立てる。
「北の国境近くには、古代文明の遺跡がある。そこに眠る『星の聖杯』と呼ばれるアーティファクト。それを使えば、結界を一瞬で再構築できるらしい」
アーティファクト。 ゲームみたいな話になってきた。
「ただし、それを起動できるのは、高純度の聖なる魔力を持つ者だけ。つまり、君だ」
「……結局、私が行かなきゃいけないってこと?」
「そうなるね。でも、リズ。悪い話ばかりじゃないよ」
ノアは悪戯っ子のように瞳を輝かせた。
「その遺跡にはね、もう一つ面白い機能があるんだ。『時の揺り籠(クロノ・クレイドル)』。簡単に言えば、コールドスリープ装置さ」
コールドスリープ。 その単語に、私の耳がピクリと反応した。
「中に入れば、肉体の時間を止めたまま、精神だけは夢の世界で永遠に遊んでいられる。年を取ることもない。お腹が空くこともない。もちろん、誰にも邪魔されない」
……!! 衝撃が走った。 それは、究極の『引きこもり』ではないか? 永遠の二度寝。 終わらない夢。 労働も、義務も、人間関係もない、完全なる安息の世界。
「……本当なの?」
「古代文献にはそう書いてあるよ。もし君が国を救ったら、そのご褒美として、その装置を私物化しても文句は言われないんじゃないかな?」
ノアの囁きは、悪魔の契約のように甘美だった。 国を救う。 その対価として、永遠の眠りを手に入れる。 これ以上の好条件があるだろうか。
私は拳を握りしめた。 行くしかない。 国のためではない。 フレデリックやアレクセイのためでもない。 私自身の、究極の理想郷(エデン)を手に入れるために。
私は窓辺から離れ、ドアに向かって力強く宣言した。
「……待ちなさい、二人とも」
ドアの外で、去りかけていた足音が止まる。
「リズ……?」
「貴方たちだけを行かせるわけにはいきません。私も行きます」
「なっ!? 馬鹿な! 君の体はボロボロなはずだ!」
「腕も取れたばかりだぞ!(誤解)」
「いいえ。私の体はどうなっても構いません(本当はどうもなってないけど)。この国の未来と、私の……ええと、愛する民のために、最後の力を振り絞りましょう」
嘘八百だ。 しかし、効果は絶大だった。
「リズゥゥゥゥ――ッ!!」 「なんて……なんて気高い魂なんだ!」
廊下で男たちが泣き崩れる音がする。 マリアも「お姉様……!」と感涙しているようだ。
「ただし!」
私は釘を刺した。 ここからが重要だ。
「条件があります。私は『病弱』なので、普通の馬車での移動は耐えられません。振動も、寒さも、人目も、全てが私の命を削ります」
「も、もちろんだ! 最高級の馬車を用意させよう! クッションを100個詰め込んで!」
「いいえ、それじゃ足りません。私が移動するには、この『部屋』が必要です」
「……部屋?」
「はい。私はこの部屋の環境(結界、ベッド、お菓子)がないと生きていけません。ですから、この部屋ごと北へ移動します」
シン……と廊下が静まり返った。
「へ、部屋ごと……?」
「はい。幸い、アレクセイ騎士団長が先日、クレーンで吊り上げようとしてくださいましたね? あれをヒントに、私が術式を完成させました」
嘘だ。 本当は今からノアの手を借りて即興で作るのだが。
「名付けて、『移動式絶対領域(モバイル・サンクチュアリ)』。この部屋を土台から切り離し、結界で包んで浮遊させ、空路で現地へ向かいます」
これなら、私はパジャマのまま、ベッドの上から一歩も動かずに戦場へ行ける。 外の寒風に晒されることもない。 トイレも完備。 おやつも完備。 完璧だ。
「……空飛ぶ部屋……」
フレデリックが呆然と呟いた。 普通なら「何を言っているんだ」と却下される提案だ。 しかし、彼らのリズ信仰は限界突破している。
「……すごい」
アレクセイが震える声で言った。
「地上を移動すれば、魔物の襲撃を受ける可能性がある。だが、空ならば! 敵の攻撃を回避しつつ、最短距離で国境へ到達できる! しかも、リズ様の聖なる結界が空を飛べば、その軌跡がそのまま浄化のラインとなり、国土を清めることになる!」
さすがアレクセイ。 勝手に素晴らしい解釈をつけてくれた。
「採用だ! すぐに準備にかかろう! リズ、君の部屋を『天空の要塞』に改造するのだ!」
「了解しました! 全工兵部隊、再結集! 今度は吊るすのではなく、飛ばすための補強を行う!」
ドタバタと彼らが動き出す。 話が早い。
私は窓辺のノアを振り返った。 彼は「やれやれ」といった顔で肩をすくめている。
「君って本当に、自分の欲望のためなら手段を選ばないね。部屋ごと飛ぶなんて、前代未聞だよ」
「褒め言葉として受け取っておくわ。ノア、手伝ってくれるわよね? 貴方の国の『浮遊石』の技術、提供してちょうだい」
「はいはい。乗りかかった船……いや、乗りかかった部屋だ。最後まで付き合うよ」
こうして。 私の『引きこもり』は、新たなステージへと突入することになった。 部屋から出ないのではない。 部屋が動くのだ。
翌日。 王都の民衆は、信じられない光景を目撃することになる。 地響きとともに、公爵邸の一部――私の部屋がある離れが、バリバリと音を立てて地面から切り離され、ゆっくりと空へと舞い上がったのだ。
「うおぉぉぉぉ!!」 「リズ様の部屋が飛んだ!」 「天空の城だ! 聖女様の天空城だ!」
部屋の下部には、アークライド王国製の『浮遊機関』と、私の魔力を増幅する『結界魔法陣』が輝いている。 周囲には、アレクセイ率いる『安眠守護騎士団』が、ワイバーン(先日アレクセイが狩ってきたやつの仲間を調教したらしい)に騎乗して護衛についている。 フレデリックは、私の部屋のベランダの下あたりに張り付き、「リズ! 寒くはないか!?」と叫んでいる(うるさい)。
私は部屋の中で、揺れるティーカップを押さえながら、窓の外に広がる雲海を見下ろした。
「……悪くない眺めね」
これぞ、究極の出不精。 パジャマのまま世界を救う旅の始まりだ。
目指すは北の国境。 そして、その先にある『古代遺跡(永遠のベッド)』。
待っていて、私のコールドスリープ。 邪魔する魔物は、部屋の結界(物理反射)ですべて弾き飛ばしてあげるから。
しかし。 私は一つだけ計算違いをしていた。 「空を飛ぶ」ということは、地上だけでなく、「空からの客」も招き入れる可能性があるということを。
例えば、隣国から飛竜に乗って追いかけてくる、執念深い「氷の計算機」とか。
ゴンッ。
部屋の屋根に、何かが着地する音がした。 「……やあ、エリザベート嬢。空中散歩とは優雅だね」
天井の換気口から聞こえてくる、あのアークライド王子の声。
「私の計算では、この浮遊要塞のエネルギー効率は極めて悪い。……だが、改良の余地はある。同行させてもらおうか」
……嘘でしょ。 屋根に乗ってるの? 王子様が?
「降りてください! 定員オーバーです!」
「断る。君の左腕(人形)だけでは満足できなくなった。やはり本体を解析させてもらわなくては」
変態だ。 空飛ぶ変態が住み着いてしまった。
私の安息の旅は、開始5分で乱気流に巻き込まれようとしていた。 前途多難。 でも、もう戻れない。 行くぞ、マイルーム! 邪魔者は振り落とせ!
一面の見出しは、先日の舞踏会での『聖女の隻腕ダンス』を称賛するものだった。 それはいい。予想の範囲内だ。 問題は、その下の小さな囲み記事である。
『隣国の叡智、ルイス王子。聖女の左腕を「研究材料」として持ち帰る』 『夜な夜な寝室から聞こえる「素晴らしい肌触りだ」「この弾力、計算され尽くしている」という呟き』 『側近の証言:「殿下はあの腕を抱いて眠ると、睡眠効率が20%向上すると仰っています」』
「……ヒッ」
私の喉から、短い悲鳴が漏れた。 気持ち悪い。 生理的に無理だ。 あの左腕は、マリアが夜なべして作ったテディベア生地の中に、最高級の綿を詰め込んだだけのものだ。 それを、あの「氷の計算機」と呼ばれる冷徹な王子が、毎晩抱いて寝ている? しかも「睡眠効率が上がる」とか言って?
想像してしまった。 シルクのパジャマを着た美貌の王子が、真顔で、綿の詰まった布切れ(私の腕の形をしたもの)を抱きしめ、満足げにスヤスヤと眠る姿を。
「……無理。もう無理」
私は頭を抱えた。 この国の男たち(フレデリックとアレクセイ)の「熱血勘違い」も大概だが、隣国の王子(ルイス)の「効率的狂気」は、ベクトルが違いすぎて対処不能だ。 もし彼が「本体(私)の方が、もっと肌触りがいいはずだ」なんて結論に至ったら? 効率化の名の下に、私はアークライド王国へ拉致され、人間抱き枕として管理される未来しか見えない。
「……逃げよう」
私は決意した。 もう、この屋敷での籠城戦は限界だ。 ノアに相談したときは冗談半分だった「亡命」が、今や現実的な選択肢として急浮上している。 いや、亡命なんて生ぬるい。 夜逃げだ。 誰にも見つからない場所へ。 無人島か、あるいは地の底か。
私はベッドから這い出し、トランクに荷物を詰め込み始めた。 愛用の枕。 お気に入りの恋愛小説。 フレデリックから巻き上げた高級クッキーの缶。 そして、父からカツアゲした金貨の袋。
よし、準備完了。 あとは、ノアの手引きでこっそりと……。
ドンドンドンドン!
その時、激しくドアが叩かれた。 ビクッとしてクッキー缶を落としそうになる。
「リズ! リズ様! 大変です!」
マリアだ。 彼女の声は切羽詰まっており、いつもの「お姉様信者」としての能天気さがない。
「どうしたの、マリア。また誰かが変なものを置いていったの? それともルイス王子が『右腕も欲しい』って言ってきたの?」
「違います! もっと深刻な事態です! フレデリック殿下とアレクセイ様がいらっしゃっています! 緊急事態宣言です!」
緊急事態? 嫌な予感がする。 私はトランクをベッドの下に隠し、渋々ドアの前に立った。
「……何事ですか」
私が声をかけると、ドアの向こうから重苦しい声が返ってきた。
「リズ……。すまない。君が体を休めている最中に」
フレデリックの声だ。いつになく沈んでいる。
「だが、報告せねばならない。……北の国境が、破られそうだ」
国境。 その言葉に、私の心臓がドクンと跳ねた。 『1回目の人生』の記憶が蘇る。 魔物の大侵攻。 空を覆う瘴気。 燃える村々。 そして、『2回目の人生』の記憶。 聖女として最前線に立ち、血を吐きながら結界を張り続け、過労死したあの地獄の日々。
「……詳しく聞かせて」
私は努めて冷静に言った。 ドア越しに、アレクセイが報告を始める。
「北部の山岳地帯にある『嘆きの谷』より、高濃度の瘴気が噴出しました。以前から兆候はありましたが、ここ数日で急激に悪化。現地の砦からの報告によれば、魔物の活性化率が通常の50倍を超えているとのこと」
50倍。 それはもう、災害レベルだ。
「現地の結界は?」
「……崩壊寸前です。王宮魔術師団が遠隔で補強を試みていますが、追いつきません。このままでは、あと3日もてば良い方でしょう」
3日。 短い。 もし結界が破れれば、魔物の大群が雪崩れ込み、北部の穀倉地帯(せっかく豆で復活したのに)は壊滅する。 そして、その被害はいずれ王都にも及ぶだろう。 私の安眠も、美味しいお菓子も、全て失われる。
「……そうですか」
私は短く答えた。 内心では「どうしよう」と焦っているが、声には出さない。
「リズ様」
アレクセイの声が震えた。
「我々は愚かでした。貴女があの舞踏会で『腕を切り離す』ほどのパフォーマンスを見せた理由……今になってようやく理解しました」
え? あの話、まだ続くの?
「貴女は、ご自身の体が限界であることを、あのダンスで我々に警告してくださったのですね!」
違います。 縫製が甘かっただけです。
「『腕が取れる』……それはつまり、『国の守り(結界)の一部が欠損する』という予言! そして、『中身が綿(空洞)である』というのは、『今の国の防衛体制はスカスカだ』という痛烈な皮肉!」
深読みしすぎだ。 どうしてそこまでポジティブに解釈できるんだ。
「さらに言えば、貴女の体は、実はもうボロボロなのでしょう? 遠隔地から人知れず国境の結界を維持するために、生命力を削っておられた……。だからあんなに軽く、脆くなっていたのだ!」
フレデリックが号泣し始めた。
「ああ、リズ! なんてことだ! 私は君に『豆を植えろ』などと言われて喜んでいたが、君はその裏で、命を削って魔物を抑えていてくれたのか! 知らなかった! 許してくれ!」
やってない。 私は部屋で漫画を読んでいただけだ。 しかし、否定しても無駄だろう。 彼らの中では、私は「瀕死の体で国を支える聖女」として確定してしまっている。
「だから、決めたのだ」
フレデリックが鼻をすすりながら言った。
「私が現場へ行く。全騎士団を率いて、私の命に変えても国境を死守する。リズ、君はここで休んでいてくれ。もう二度と、君に無理はさせない!」
「私も行きます! リズ様、貴女の作った平和、この命に代えても守り抜いてみせます!」
二人の声には、悲壮な決意が滲んでいた。 ガシャン、と鎧が鳴る音がする。 彼らは本気だ。 死ぬ気だ。
……馬鹿な人たち。 王太子と騎士団長が特攻してどうする。 瘴気の濃い最前線に行けば、彼らとて無事では済まない。 指揮系統が崩壊し、国はもっと早く滅びるだろう。
でも、止める理由がない。 彼らが行ってくれれば、私はここで安全に……いや、待てよ。 もし彼らが死んだら? 国が滅んだら? 私の「引きこもり資金」である公爵家の資産も紙屑になり、美味しい輸入菓子も途絶える。 それどころか、魔物がこの屋敷まで押し寄せてきたら、私の二度寝どころではない。
つまり。 他人事ではないのだ。 巡り巡って、私の安眠に関わる重大な危機なのだ。
どうする? 私が「聖女」として出向く? 嫌だ。 絶対に嫌だ。 寒いし、汚いし、疲れるし。 2周目のトラウマが蘇る。
私が沈黙していると、窓の方からコンコン、と軽い音がした。 ノアだ。 彼はいつものように窓枠に座り、ニヤニヤと笑っていた。
「やあ。困ってるみたいだね、聖女様」
彼は小声で囁いた。ドアの外の二人には聞こえない音量で。
「ノア……盗み聞き?」
「人聞きが悪いな。情報の共有だよ。……で、どうするの? 彼らを行かせる? 全滅するよ?」
「……分かってるわよ」
「彼らを救うには、結界を修復するしかない。でも、今の崩壊しかけた結界を直すには、ただの魔力じゃ足りない。必要なのは『核(コア)』だ」
ノアが指を一本立てる。
「北の国境近くには、古代文明の遺跡がある。そこに眠る『星の聖杯』と呼ばれるアーティファクト。それを使えば、結界を一瞬で再構築できるらしい」
アーティファクト。 ゲームみたいな話になってきた。
「ただし、それを起動できるのは、高純度の聖なる魔力を持つ者だけ。つまり、君だ」
「……結局、私が行かなきゃいけないってこと?」
「そうなるね。でも、リズ。悪い話ばかりじゃないよ」
ノアは悪戯っ子のように瞳を輝かせた。
「その遺跡にはね、もう一つ面白い機能があるんだ。『時の揺り籠(クロノ・クレイドル)』。簡単に言えば、コールドスリープ装置さ」
コールドスリープ。 その単語に、私の耳がピクリと反応した。
「中に入れば、肉体の時間を止めたまま、精神だけは夢の世界で永遠に遊んでいられる。年を取ることもない。お腹が空くこともない。もちろん、誰にも邪魔されない」
……!! 衝撃が走った。 それは、究極の『引きこもり』ではないか? 永遠の二度寝。 終わらない夢。 労働も、義務も、人間関係もない、完全なる安息の世界。
「……本当なの?」
「古代文献にはそう書いてあるよ。もし君が国を救ったら、そのご褒美として、その装置を私物化しても文句は言われないんじゃないかな?」
ノアの囁きは、悪魔の契約のように甘美だった。 国を救う。 その対価として、永遠の眠りを手に入れる。 これ以上の好条件があるだろうか。
私は拳を握りしめた。 行くしかない。 国のためではない。 フレデリックやアレクセイのためでもない。 私自身の、究極の理想郷(エデン)を手に入れるために。
私は窓辺から離れ、ドアに向かって力強く宣言した。
「……待ちなさい、二人とも」
ドアの外で、去りかけていた足音が止まる。
「リズ……?」
「貴方たちだけを行かせるわけにはいきません。私も行きます」
「なっ!? 馬鹿な! 君の体はボロボロなはずだ!」
「腕も取れたばかりだぞ!(誤解)」
「いいえ。私の体はどうなっても構いません(本当はどうもなってないけど)。この国の未来と、私の……ええと、愛する民のために、最後の力を振り絞りましょう」
嘘八百だ。 しかし、効果は絶大だった。
「リズゥゥゥゥ――ッ!!」 「なんて……なんて気高い魂なんだ!」
廊下で男たちが泣き崩れる音がする。 マリアも「お姉様……!」と感涙しているようだ。
「ただし!」
私は釘を刺した。 ここからが重要だ。
「条件があります。私は『病弱』なので、普通の馬車での移動は耐えられません。振動も、寒さも、人目も、全てが私の命を削ります」
「も、もちろんだ! 最高級の馬車を用意させよう! クッションを100個詰め込んで!」
「いいえ、それじゃ足りません。私が移動するには、この『部屋』が必要です」
「……部屋?」
「はい。私はこの部屋の環境(結界、ベッド、お菓子)がないと生きていけません。ですから、この部屋ごと北へ移動します」
シン……と廊下が静まり返った。
「へ、部屋ごと……?」
「はい。幸い、アレクセイ騎士団長が先日、クレーンで吊り上げようとしてくださいましたね? あれをヒントに、私が術式を完成させました」
嘘だ。 本当は今からノアの手を借りて即興で作るのだが。
「名付けて、『移動式絶対領域(モバイル・サンクチュアリ)』。この部屋を土台から切り離し、結界で包んで浮遊させ、空路で現地へ向かいます」
これなら、私はパジャマのまま、ベッドの上から一歩も動かずに戦場へ行ける。 外の寒風に晒されることもない。 トイレも完備。 おやつも完備。 完璧だ。
「……空飛ぶ部屋……」
フレデリックが呆然と呟いた。 普通なら「何を言っているんだ」と却下される提案だ。 しかし、彼らのリズ信仰は限界突破している。
「……すごい」
アレクセイが震える声で言った。
「地上を移動すれば、魔物の襲撃を受ける可能性がある。だが、空ならば! 敵の攻撃を回避しつつ、最短距離で国境へ到達できる! しかも、リズ様の聖なる結界が空を飛べば、その軌跡がそのまま浄化のラインとなり、国土を清めることになる!」
さすがアレクセイ。 勝手に素晴らしい解釈をつけてくれた。
「採用だ! すぐに準備にかかろう! リズ、君の部屋を『天空の要塞』に改造するのだ!」
「了解しました! 全工兵部隊、再結集! 今度は吊るすのではなく、飛ばすための補強を行う!」
ドタバタと彼らが動き出す。 話が早い。
私は窓辺のノアを振り返った。 彼は「やれやれ」といった顔で肩をすくめている。
「君って本当に、自分の欲望のためなら手段を選ばないね。部屋ごと飛ぶなんて、前代未聞だよ」
「褒め言葉として受け取っておくわ。ノア、手伝ってくれるわよね? 貴方の国の『浮遊石』の技術、提供してちょうだい」
「はいはい。乗りかかった船……いや、乗りかかった部屋だ。最後まで付き合うよ」
こうして。 私の『引きこもり』は、新たなステージへと突入することになった。 部屋から出ないのではない。 部屋が動くのだ。
翌日。 王都の民衆は、信じられない光景を目撃することになる。 地響きとともに、公爵邸の一部――私の部屋がある離れが、バリバリと音を立てて地面から切り離され、ゆっくりと空へと舞い上がったのだ。
「うおぉぉぉぉ!!」 「リズ様の部屋が飛んだ!」 「天空の城だ! 聖女様の天空城だ!」
部屋の下部には、アークライド王国製の『浮遊機関』と、私の魔力を増幅する『結界魔法陣』が輝いている。 周囲には、アレクセイ率いる『安眠守護騎士団』が、ワイバーン(先日アレクセイが狩ってきたやつの仲間を調教したらしい)に騎乗して護衛についている。 フレデリックは、私の部屋のベランダの下あたりに張り付き、「リズ! 寒くはないか!?」と叫んでいる(うるさい)。
私は部屋の中で、揺れるティーカップを押さえながら、窓の外に広がる雲海を見下ろした。
「……悪くない眺めね」
これぞ、究極の出不精。 パジャマのまま世界を救う旅の始まりだ。
目指すは北の国境。 そして、その先にある『古代遺跡(永遠のベッド)』。
待っていて、私のコールドスリープ。 邪魔する魔物は、部屋の結界(物理反射)ですべて弾き飛ばしてあげるから。
しかし。 私は一つだけ計算違いをしていた。 「空を飛ぶ」ということは、地上だけでなく、「空からの客」も招き入れる可能性があるということを。
例えば、隣国から飛竜に乗って追いかけてくる、執念深い「氷の計算機」とか。
ゴンッ。
部屋の屋根に、何かが着地する音がした。 「……やあ、エリザベート嬢。空中散歩とは優雅だね」
天井の換気口から聞こえてくる、あのアークライド王子の声。
「私の計算では、この浮遊要塞のエネルギー効率は極めて悪い。……だが、改良の余地はある。同行させてもらおうか」
……嘘でしょ。 屋根に乗ってるの? 王子様が?
「降りてください! 定員オーバーです!」
「断る。君の左腕(人形)だけでは満足できなくなった。やはり本体を解析させてもらわなくては」
変態だ。 空飛ぶ変態が住み着いてしまった。
私の安息の旅は、開始5分で乱気流に巻き込まれようとしていた。 前途多難。 でも、もう戻れない。 行くぞ、マイルーム! 邪魔者は振り落とせ!
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