「君を愛することはない」と言われたので、私も愛しません。次いきます。 〜婚約破棄はご褒美です!

放浪人

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第二十六話 契約更新:条件変更――“愛さない”を削除したい

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 王宮の喧騒が嘘のように遠ざかっていた。

 アシュ・ヴァレンシュタイン宰相に手を引かれ、私が連れてこられたのは、王宮の最奥にある『静寂の空中庭園』だった。  ここは王族と、その許可を得た限られた者しか入れない聖域だ。  夕闇が迫る空には一番星が輝き、眼下には祭り騒ぎの王都の灯りが海のように広がっている。

「……ここなら、誰にも邪魔されない」

 アシュ様は私の手を離すと、パチンと指を鳴らした。  空気が微かに振動し、周囲に『防音結界』と『認識阻害結界』が展開される。  完全な密室空間の完成だ。

 私はゴクリと喉を鳴らした。  この雰囲気。このシチュエーション。  どう考えても、甘い愛の告白が始まる予感しかしない。

 私の心臓は早鐘を打ち、手汗が滲んでくる。  どうしよう。なんて言われるの?  「愛している」? 「一生そばにいてくれ」?  心の準備が! まだ心の準備ができていませんわ!

「リディア。着席してくれ」

 アシュ様が指差したのは、白亜のベンチだった。  私が恐る恐る腰を下ろすと、彼は私の正面に仁王立ちし、懐から分厚い羊皮紙の束を取り出した。  ……羊皮紙?

「これより、リディア・エルヴァインとアシュ・ヴァレンシュタイン間の『婚姻契約書』に関する、第五回修正協議を開始する」

 アシュ様の声は、いつもの宰相モード全開の硬いトーンだった。

「は、はい?」

「議題は、第五条『恋愛感情の禁止』および第十二条『相互不可侵(寝室別)』の撤廃。ならびに、新規条項の追加だ」

 アシュ様は片眼鏡(モノクル)を装着し、ペンを取り出した。  その表情は真剣そのもので、まるで国の予算委員会に臨むかのようだ。  え、嘘でしょう?  こんなロマンチックな場所で、事務手続きから入るんですの?

「まず、現状分析から行う」

 アシュ様は空中に魔法でグラフや数値を投影した。

「契約締結から約一ヶ月。君との共同生活における私のバイタルデータを解析した結果、君への『感情的投資』が当初の予測値を3000パーセント超過していることが判明した」

「さ、三千……」

「具体的には、君が微笑むとドーパミン分泌量が跳ね上がり、君が危機に陥るとコルチゾール(ストレスホルモン)が致死レベルまで上昇する。……これはもはや、システムのエラーではなく、仕様変更(アップデート)を必要とする事態だ」

 アシュ様はポインターでグラフの急上昇部分を指した。

「よって、私は結論付けた。第五条『愛さない』という制約は、現状の実態と乖離しており、私の精神衛生および業務効率に対し、著しい阻害要因となっている」

 彼は私を真っ直ぐに見た。  その左手の薬指にある『真実の誓約印』が、見たこともないほど激しく、ピンク色に発光している。

「したがって、私は第五条の即時削除を提案する。……その上で、以下の新規条項への同意を求める」

 アシュ様は羊皮紙をめくり、早口で読み上げ始めた。

「第一項。甲(私)は乙(君)に対し、独占的かつ永続的な『愛玩権』および『保護権』を行使する。これには、公衆の面前でのスキンシップ、および一メートル以内への接近制限を含む」

「えっ、ちょっと……」

「第二項。乙は甲に対し、日々の『幸福供給義務』を負う。ただし、乙が存在しているだけでこの義務は自動的に履行されたものとみなす」

「存在しているだけでいいんですの!?」

「第三項。これが最重要だ」

 アシュ様は一歩、私に近づいた。  その瞳が、熱を帯びて揺れている。

「甲は乙に対し、全財産、全権力、そして全生涯を捧げることを誓約する。その対価として、乙は甲に対し、ただ一つの権利を許諾しなければならない」

 彼は私の目の前で片膝をついた。  まるで騎士の誓いのように。

「……私の隣で、一生笑っていてくれる権利だ」

 ズキュン。  心臓を撃ち抜かれた音がした。  何それ。  前半の行政用語は意味不明だったけれど、最後の一行だけ、反則級に甘いじゃないですか!

「アシュ様……」

「回答を求める、リディア」

 アシュ様は私の手を取り、指輪に口づけをした。

「私は君を愛している。……非合理で、計算不能で、どうしようもないほどに。君なしの世界など、もう考えられない」

 『嘘がつけない契約』。  その制約があるからこそ、この言葉には一点の曇りもない。  彼が一生懸命に並べた難しい理屈も、結局は照れ隠しでしかなくて、その芯にあるのは、不器用で真っ直ぐな愛だけだ。

 私の目から、ポロリと涙がこぼれた。  嬉しい。  本当に、心から嬉しい。  でも。

「……無理です」

 私の口から出たのは、拒絶の言葉だった。

「え?」

 アシュ様が凍りついた。  顔色がサッと青ざめる。

「な、なぜだ? 条件が不服か? 慰謝料が足りないか? それとも……やはり私では、君のパートナーとして力不足か?」

 彼は狼狽し、私の手を握る力を強めた。  指輪が赤く明滅する。彼の不安が伝わってくる。

「違います! そうじゃなくて……!」

 私は顔を真っ赤にして叫んだ。

「キャパオーバーなんです! いきなり『独占権』だの『全生涯』だの、重すぎますわ! 私、まだ心の準備ができていないんです!」

 そう。私は『鉄薔薇』と呼ばれた女。  戦いや交渉ならどんと来いだけれど、こんな直球ど真ん中の、しかも特大質量の愛をぶつけられた経験がない。  乙女回路がショート寸前なのだ。

「重い? ……愛とは、質量を伴うものだろう?」

「そういう物理的な話ではありません! とにかく、一度持ち帰って検討させてください! このままでは私、心臓が爆発して死んでしまいます!」

 私はアシュ様の手を振りほどき、ベンチから立ち上がった。

「り、リディア!?」

「今日のところは撤退します! 戦略的撤退です!」

 私はドレスの裾を掴み、脱兎のごとく走り出した。  結界の出口へと向かう。

「待て! 契約交渉はまだ終わっていない! 逃げるなリディア!」

「聞こえませーん! 本日は閉店ガラガラですー!」

 私は結界を抜け、王宮の廊下を全力疾走した。  背後から「リディアァァァ!」という、悲痛な(そしてちょっと残念な)宰相様の叫び声が聞こえたけれど、振り返らない。

 顔が熱い。  心臓がうるさい。  嬉しいけれど、恥ずかしい。  あんな風に愛されるなんて、聞いてない!

 私はそのまま、迷うことなく『ある場所』へと向かった。  こんな時、私が逃げ込める場所は一つしかない。  私の最強の味方たちが待っている、あそこへ。

 ◇

 王都の一角にある、お菓子と紅茶の香りが漂う小さな館。  私が息を切らせて飛び込むと、そこには驚いた顔の二人がいた。

「お嬢様!? どうされたんですか、そんなに真っ赤な顔をして!」 「リディア様? もしかして、また敵襲ですか?」

 メイドのニナと、聖女ミレイユ様だ。  彼女たちは今、私のプロデュースで、新しい「お菓子工房」の開店準備をしていたのだ。

 私はドアを閉め、鍵をかけ、その場にへたり込んだ。

「……敵襲よ。とんでもなく強力な、愛の爆撃を受けたわ」

「は?」

 二人は顔を見合わせ、それからニヤニヤと笑い出した。

「あらあら。ついに宰相様がデレましたか」 「まあ! 詳しく聞かせてください!」

 ニナが紅茶を淹れ、ミレイユ様がクッキーを持ってきた。  私は甘いお菓子をかじりながら、先ほどの「行政文書のようなプロポーズ」の一部始終を語った。

 話し終えると、二人はお腹を抱えて笑った。

「さすが宰相様! 『愛玩権』って、ペットじゃないんですから!」 「でも、『私の隣で一生笑っていてほしい』なんて……素敵です。レオンハルト殿下には絶対に言えないセリフですね」

 ミレイユ様がうっとりと頬を染める。

「素敵だけど……重いのよ! あんなの受け止めたら、私、一生彼から逃げられなくなるじゃない!」

「逃げるつもりがあるんですか?」

 ニナが意地悪く聞いてきた。  私は口ごもり、それから小さく首を横に振った。

「……ないわよ。逃げるわけないじゃない」

 だって、私も彼のことがどうしようもなく好きなのだから。

「じゃあ、覚悟を決めるしかありませんね」

 ニナが私の背中をバンと叩いた。

「お嬢様。いつまでも『契約』なんて言葉に甘えていないで、ちゃんと『素直な言葉』で返してあげてください。……宰相様、きっと今頃、胃薬を飲んで落ち込んでますよ?」

 その光景が目に浮かびすぎて、私は苦笑した。  そうだ。  彼があんなに不器用に、一生懸命に伝えてくれたんだもの。  私が逃げたままじゃ、契約違反以前に、女として格好悪い。

「……わかったわ。少しだけ時間をちょうだい。心の冷却期間が必要なの」

「ふふ。わかりました。今日はここで『乙女の作戦会議』としましょう!」

 その夜、王都では祭りの花火が上がっていた。  私は窓からそれを見上げながら、明日の決戦――本当の意味での「契約更新」に向けて、心を整えていた。

 待っていて、アシュ様。  あなたのその重たくて面倒くさい愛、私が全部受け止めてあげるから。  ただし、私の条件(ワガママ)も、たっぷりと聞いてもらいますわよ!
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