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第9話:元婚約者の影
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王都の下町にある中央市場は、今日も活気に満ちていた。 香辛料のスパイシーな香り、焼き立てのパンの甘い匂い、そして肉を焼く脂の匂いが入り混じり、むせ返るような熱気を作り出している。
私は公爵邸の買い出しリストを片手に、人混みを縫うように歩いていた。 本来なら、秘書官代理という立場の私が、直接買い出しに来る必要はない。 屋敷には専門の料理人も、下働きも大勢いる。
けれど、私はこの時間を大切にしていた。 煌びやかだが息の詰まる貴族社会から離れ、市井の空気を吸うことで、自分が何者であるかを再確認できるからだ。 それに、ここには情報の種が転がっている。
「ねえ、聞いた? あそこのバンデラス子爵家の話」
果物屋の店先で、主婦たちがひそひそ話をしているのが耳に入った。 私はピクリと足を止め、大根を選ぶふりをして聞き耳を立てた。
「ああ、あの成金の? なんでも、事業に失敗して借金まみれらしいじゃない」 「そうなのよ。お屋敷の使用人もみんな解雇されたって話よ。それどころか、夜逃げの準備をしてるって噂も……」 「やだわぁ。貴族様も大変ねぇ」
胸の奥がざわつく。 カミロ。あの男、まだ諦めていなかったのか。 先日の夜会で恥をかかせ、公爵の威光で完全に潰したつもりでいた。 借金も、私が立て替える形で手続きを済ませたはずだ。 それなのに、まだ何かを企んでいる?
私は買い物かごを握りしめ、足早に路地裏へと向かった。 表通りから一本入れば、そこは少し空気が淀んだ裏の世界。 かつて、実家の借金取りから逃げ回っていた頃に覚えた、情報屋のたまり場がある。
「……おや、珍しい客だね。公爵様のお気に入りの嬢ちゃんが、こんな薄暗い場所に何の用だい?」
古びた酒場のカウンターで、眼帯をした男がニヤリと笑った。 情報屋の『片目のジャック』だ。
「情報が欲しいの。カミロ・バンデラスについて」
私は公爵家から支給された小遣い(というには高額な金貨)をカウンターに置いた。 ジャックは金貨を弾き、満足げに頷いた。
「話が早くて助かるよ。……あいつなら、相当焦ってるぜ。公爵家に喧嘩を売って、まともな商売相手からは総スカンだ。銀行も融資を打ち切った」
「それは知っているわ。私が知りたいのは、その先よ。彼が今、どうやって食いつないでいるのか」
「……そこだよ、問題は」
ジャックの声が低くなる。 彼は周囲を警戒するように視線を巡らせてから、身を乗り出した。
「『黒蛇(くろへび)』って組織、知ってるか?」
「……人身売買や暗殺を請け負う、王都の闇組織ね」
「ご名答。バンデラスの坊ちゃん、そこに接触したらしい」
心臓がドクリと跳ねた。 嫌な汗が背筋を伝う。
「まさか……借金の形に、自分を売ったの?」
「まさか。あんなプライドだけの男に、そんな度胸はないさ。奴が売ったのは自分じゃない。『商品』を持ち込む契約をしたんだとよ」
「商品……?」
「ああ。上玉の女を一人、組織に引き渡す。それで借金を帳消しにし、さらに海外への逃亡資金も貰う手はずらしい」
視界が揺れた。 上玉の女。 カミロが知っている、金になる女。 そして、彼が執着している女。
「……ミラ」
私の口から、妹の名前が漏れた。
ジャックは肩をすくめた。
「ターゲットの名前までは知らねえが、奴が『極上のプラチナブロンドだ』って自慢してたそうだ。……心当たり、あるんだろ?」
あるどころではない。 あいつは、まだ諦めていなかったのだ。 私が公爵の庇護下に入り、手出しできなくなったから、今度は直接、物理的な手段で妹を奪おうとしている。
「……ありがとう、ジャック」
私は震える手で追加の金貨を置いた。
「その情報、確かに受け取ったわ」
「おいおい、嬢ちゃん。顔色が悪いぜ? 公爵様に泣きついた方がいいんじゃねえか? 相手は『黒蛇』だ。素人が手を出せる連中じゃねえ」
「ええ、分かっているわ。……忠告、感謝する」
私は酒場を飛び出した。 足がもつれる。 息が上がる。
ミラ。 ミラ。 ミラ!
私の可愛い妹。 私が守らなければならない、たった一つの宝物。 あの子は今、私が用意した隠れ家――実家の地下室に隠れているはずだ。 あそこは安全なはずだ。 でも、もし場所がバレていたら?
私は市場を抜け、人目を避けて実家の方角へと走った。 公爵邸とは逆方向だ。 まずいとは分かっている。 護衛もつけずに単独行動など、公爵に知られたら大目玉では済まない。
けれど、居ても立ってもいられなかった。 せめて、あの子が無事かどうか、遠くからでも確認しなければ。
実家であるベルンシュタイン伯爵邸は、すでに廃墟のように静まり返っていた。 使用人は解雇し、門は閉ざされている。 雑草が生い茂る庭。
私は裏手の森に身を隠し、地下室への入り口がある納屋を監視した。
(……変わった様子はない)
納屋の扉は閉ざされ、私がかけた偽装の枯草もそのままだ。 周囲に人の気配もない。 ホッとして、膝から力が抜けた。
その時だった。 納屋の近くにある古木の洞(うろ)。 そこは、私とミラが決めた秘密のポストだ。 そこに、白い紙切れが見えた。
ミラからの手紙だ。 定期連絡は三日に一度と決めていたはず。 今日はその日ではない。
緊急事態?
私は周囲を警戒しつつ、素早く木に近づき、手紙を抜き取った。 そして、再び森の中へ戻り、震える手で封を開いた。
『お姉ちゃんへ
怖いです。 昨日の夜から、庭の方で変な音がします。 誰かが歩き回っているような、ザッ、ザッという音。 それから、納屋の扉をガタガタと揺らす音も聞こえました。 息を殺して震えていたら、男の人の声が聞こえたの。
「ここじゃねえのか?」 「いや、誰もいねえよ。ただのボロ屋だ」
行ってしまったみたいだけど、また来るかもしれません。 お姉ちゃん、会いたいです。 ここから出して。 でも、私が出たら、お姉ちゃんに迷惑がかかるよね。 だから我慢します。 カミロ様に見つかりたくない。 助けて、お姉ちゃん。
ミラより』
文字が乱れている。 涙の跡が滲んでいる。 どれほどの恐怖の中で、これを書いたのだろう。
「……ッ」
私は手紙を握りつぶした。 ギリリ、と奥歯が鳴る音が自分でも聞こえた。
見つかりかけている。 「黒蛇」の手先か、それともカミロ本人か。 いずれにせよ、ここはもう安全ではない。
今すぐ連れ出したい。 扉を開けて、ミラを抱きしめて、公爵邸に連れて行きたい。
でも、それは危険すぎる。 もし近くに見張りがいたら? 私がここに来たことで、逆に場所を特定させてしまったら? 帰り道で襲われたら、私一人ではミラを守りきれない。
(冷静になれ、アリア……!)
私は自分の太ももを爪で突き立てた。 痛みでパニックを抑え込む。
今の私には力がある。 「氷の公爵」という最強のカードがある。 私情で公爵を巻き込むことを躊躇っている場合ではない。 これは契約だ。 私は私の全てを彼に差し出した。 ならば、彼にもその対価を払ってもらう権利があるはずだ。
「……戻らなきゃ」
私は涙を拭い、振り返ることなく走り出した。 背中に、ミラの怯える気配を感じながら。
◇
公爵邸に戻ったのは、夕暮れ時だった。 息を切らして玄関をくぐると、セバスチャンが仁王立ちで待っていた。
「アリア。遅いですね。買い出しに何時間かけているのですか」
彼のモノクルが冷たく光る。 いつもなら、適当な言い訳をしてかわすところだ。 「市場の野菜が高くて値切り交渉をしていました」とか、「迷子の子猫を助けていました」とか。
でも、今の私には嘘をつく余裕も、軽口を叩く気力も残っていなかった。
「……申し訳ありません」
短く謝罪し、私は彼の横を通り抜けようとした。
「……アリア?」
セバスチャンが私の腕を掴んだ。 その力は優しかったが、逃がさないという意思が込められていた。
「顔色が悪いですよ。泥だらけですし、靴も汚れている。……市場に行っただけでは、そうはなりません」
「……放してください。閣下に報告があります」
「閣下なら執務室におられますが、今の貴女の状態でお通しするわけには……」
「緊急なのです!!」
私が叫ぶと、広間の空気が凍りついた。 通りかかったメイドたちが、驚いて足を止める。 セバスチャンが目を見開いた。
私は唇を噛み、声を震わせながら言った。
「お願いです、セバスチャン様。……一分一秒を争うのです」
セバスチャンは私の目を見て、それからゆっくりと手を離した。
「……分かりました。ですが、まずは深呼吸をなさい。乱れた心のままでは、閣下の前で正しい判断ができませんよ」
「……はい」
私は大きく息を吸い込んだ。 肺に酸素が行き渡り、少しだけ視界がクリアになる。
「参りましょう」
セバスチャンが先導してくれる。 その背中が、今は頼もしく見えた。
◇
執務室の扉が開く。 クラウス様は、いつものように書類の山と格闘していた。
「戻ったか。遅かったな。待ちくたびれて、紅茶が冷めてしまったぞ」
彼は顔を上げずに言った。 その声はいつも通り平坦で、冷たい。 でも、それが今の私には救いだった。 変わらない日常が、ここにあるという事実。
「……申し訳ありません、閣下」
私が声を出すと、クラウス様の手がピタリと止まった。
「……その声は、なんだ」
彼はペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。 私を見るアイスブルーの瞳が、スッと細められる。
「誰に泣かされた? 市場の商人がまけなかったか? それとも、カラスにでもつつかれたか?」
冗談めかしているが、その目は笑っていない。 私の異変を一瞬で見抜いている。
私は一歩前に進み、ミラからの手紙をデスクの上に置いた。 くしゃくしゃになった、涙の跡がついた手紙。
「これを……読んでください」
クラウス様は無言で手紙を手に取り、目を通した。 読み進めるにつれて、部屋の温度が下がっていくのを感じた。 物理的な温度ではない。 彼から発せられる、凍てつくような殺気が空気を冷やしているのだ。
読み終えたクラウス様は、手紙を丁寧に畳み、机の上に置いた。
「……状況は?」
「情報屋の話では、カミロは闇組織『黒蛇』と手を組み、ミラを誘拐して海外へ売り飛ばそうとしています。……この手紙を見る限り、隠れ家の場所が特定されるのも時間の問題です」
私は拳を握りしめ、言葉を絞り出した。
「閣下。……お願いがあります」
「言ってみろ」
「私に、力を貸してください。ミラを救い出すための戦力と、カミロを……あの男を、二度と再起不能にするための権限を」
私は床に膝をつき、頭を垂れた。
「これは私的な復讐です。公爵家の利益にはなりません。ですが……もしミラになにかあれば、私は私でいられなくなります。閣下の『道具』として機能できなくなります。ですから……!」
必死だった。 プライドも何もかも捨てて、ただ妹のために乞う。
長い沈黙があった。 私の頭上で、衣擦れの音がする。
「……顔を上げろ、アリア」
言われて顔を上げると、クラウス様が私の目の前に立っていた。 彼は私の頬に手を添え、親指で涙を拭った。
「……馬鹿な女だ」
その声は、驚くほど優しかった。
「私的な復讐? 利益にならない? 何を言っている」
「え……?」
「お前は私の秘書官であり、私の所有物だ。そのお前の妹に手を出すということは、私の所有物に傷をつけようとする行為に等しい。……それは、ラインハルト公爵家への宣戦布告だ」
クラウス様の瞳に、青白い炎が宿る。 それは氷の炎。 静かだが、触れれば全てを焼き尽くす激しい怒り。
「私の庭を荒らす害虫は、徹底的に駆除する。それが私の流儀だ。……カミロ・バンデラス。一度は見逃してやったが、どうやら死に急ぎたいらしいな」
「閣下……」
「泣くな。お前の涙は安くない。あんなゴミのために流すな」
クラウス様は私の手を引き、立ち上がらせた。
「セバスチャン!」
「はッ、ここに」
控えていたセバスチャンが即座に応じる。
「『影の部隊』を動かせ。レベル3だ。ベルンシュタイン邸周辺を完全封鎖。ネズミ一匹逃がすな」
「承知いたしました。……ただちに」
セバスチャンが一礼して部屋を出て行く。 レベル3。それがどれほどの規模か分からないが、セバスチャンの緊張した面持ちからして、ただ事ではないのだろう。
「アリア、お前も行け」
「えっ? 私も、ですか?」
「当然だ。妹を安心させられるのは、お前しかいないだろう。それに……」
クラウス様は、壁にかかっていた剣を手に取り、腰に佩いた。
「お前自身の落とし前だ。自分の手で決着をつけてこい」
「閣下も……来てくださるのですか?」
「私が現場に出るなど稀だが、今回は特別だ。……お前が暴走して死なないように、首輪を握っておいてやる」
憎まれ口を叩きながらも、彼は私を守ろうとしてくれている。 その不器用な優しさに、胸が熱くなった。
「ありがとうございます。……一生、ついていきます」
「一生こき使ってやるから覚悟しておけ。行くぞ」
◇
馬車の中、私はミラの手紙を胸に抱いていた。
(待ってて、ミラ。今行くから……!)
外はすでに夜の帳が下りていた。 月明かりが雲に隠れ、世界は闇に包まれている。
公爵家の精鋭部隊は、すでに現地へ向かっているはずだ。 私たちが到着する頃には、カミロたちを包囲できているだろうか。 それとも、もう手遅れなのか。
悪い想像ばかりが頭をよぎる。 「黒蛇」はプロの犯罪集団だ。 公爵家の介入を察知して、強硬手段に出るかもしれない。
「アリア」
向かいに座るクラウス様が、私の膝の上で震えている手に、自分の手を重ねた。 その手は大きく、温かかった。
「焦るな。恐怖は思考を鈍らせる」
「……はい。分かっています。でも、手が勝手に……」
「なら、私の手を握っていろ。私の氷の魔力で、少しは頭が冷えるだろう」
「……ふふ、閣下の手、温かいですよ」
「……気のせいだ」
クラウス様はそっぽを向いたが、手は離さなかった。 その温もりが、私の震えを少しずつ止めてくれた。
馬車が速度を上げる。 車輪の音が、戦いのドラムのように響く。
◇
一方その頃。 ベルンシュタイン邸の裏手にある森の中。
数人の男たちが、闇に紛れて蠢いていた。 黒い装束に身を包んだ男たち。 その中心に、場違いなほど豪奢なスーツを着た男がいた。 カミロ・バンデラスだ。
「おい、まだか! まだ見つからないのか!」
カミロが苛立ちを隠せずに叫ぶ。
「静かにしろ、バカ野郎」
隣に立つ、顔に大きな傷のある男がドスの利いた声で制した。 「黒蛇」のリーダー格、ガストンだ。
「声を出せば、気づかれるぞ。……ったく、こんなボロ屋敷のどこに隠れてるんだか」
「地下室だと言っただろう! 納屋の下にあるはずなんだ!」
カミロは汗だくで、目を血走らせていた。 もう後がないのだ。 借金取りは待ってくれない。 公爵への復讐も果たしたい。 そのためには、何としてもミラを手に入れなければならない。
「へっ、見つけたぜ」
部下の一人が、枯草の下から地下室の扉を発見した。
「ここだ! 鍵がかかってやがる!」
「よし、壊せ!」
ガストンが命じる。 男が斧を振り上げ、扉の蝶番に叩きつけた。
ガシャアン!! 鈍い音が響く。
「ひっ……!」
中から、微かな悲鳴が聞こえた。
「いたぞ! 中にいる!」
カミロが歓喜の声を上げる。
「ミラ! 僕だよ、カミロだよ! 迎えに来てやったぞ! さあ、出ておいで!」
狂気じみた笑顔で、カミロが扉に手をかける。
「いやぁぁぁッ! 来ないでぇぇッ!!」
ミラの絶叫が響き渡った。
「泣き叫んでも無駄だぜ、お嬢ちゃん。……おい、引きずり出せ!」
ガストンの部下たちが、暗い穴の中へと侵入していく。
◇
その時。
ヒュンッ!!
風を切り裂く音がして、何かが飛んできた。 それは、正確にガストンの足元に突き刺さった。
「なっ……!?」
ガストンが飛び退く。 地面に突き刺さっていたのは、氷で作られた鋭利な矢だった。
「誰だ!?」
男たちが一斉に振り返る。
森の闇の中から、数台の馬車のライトが、まるで猛獣の目のように輝いた。 そして、冷徹な声が響き渡った。
「……随分と賑やかだな。私の許可なく、夜会でも開いているのか?」
闇を割って現れたのは、漆黒のコートを翻したクラウス様。 そして、その隣に立つ、私。
「アリア……!?」
カミロが呆然と私を見る。
「こんばんは、カミロ様」
私は氷のような微笑みを浮かべた。 手には、クラウス様から借りた護身用の短剣を握りしめている。
「私の大事な妹に、何の用かしら? ……その汚い手を、今すぐ離してくれない?」
「く、来るな……!」
カミロが後ずさる。 だが、もう遅い。 森の周囲には、すでに公爵家の「影の部隊」が展開し、逃げ道を塞いでいた。
「総員、構え!」
セバスチャンの号令と共に、無数の剣と弓がカミロたちに向けられる。
「さて……」
クラウス様が一歩前に出た。 その周囲の気温が、急激に下がり始める。 地面の草が凍りつき、パリパリと音を立てる。
「掃除の時間だ、アリア。……存分にやれ」
「はい、閣下」
私は短剣を構え、地面を蹴った。 恐怖はもうない。 あるのは、燃え上がるような怒りと、妹を守り抜くという決意だけ。
「覚悟なさい、カミロ!!」
私の絶叫と共に、最後の戦いが幕を開けた。
私は公爵邸の買い出しリストを片手に、人混みを縫うように歩いていた。 本来なら、秘書官代理という立場の私が、直接買い出しに来る必要はない。 屋敷には専門の料理人も、下働きも大勢いる。
けれど、私はこの時間を大切にしていた。 煌びやかだが息の詰まる貴族社会から離れ、市井の空気を吸うことで、自分が何者であるかを再確認できるからだ。 それに、ここには情報の種が転がっている。
「ねえ、聞いた? あそこのバンデラス子爵家の話」
果物屋の店先で、主婦たちがひそひそ話をしているのが耳に入った。 私はピクリと足を止め、大根を選ぶふりをして聞き耳を立てた。
「ああ、あの成金の? なんでも、事業に失敗して借金まみれらしいじゃない」 「そうなのよ。お屋敷の使用人もみんな解雇されたって話よ。それどころか、夜逃げの準備をしてるって噂も……」 「やだわぁ。貴族様も大変ねぇ」
胸の奥がざわつく。 カミロ。あの男、まだ諦めていなかったのか。 先日の夜会で恥をかかせ、公爵の威光で完全に潰したつもりでいた。 借金も、私が立て替える形で手続きを済ませたはずだ。 それなのに、まだ何かを企んでいる?
私は買い物かごを握りしめ、足早に路地裏へと向かった。 表通りから一本入れば、そこは少し空気が淀んだ裏の世界。 かつて、実家の借金取りから逃げ回っていた頃に覚えた、情報屋のたまり場がある。
「……おや、珍しい客だね。公爵様のお気に入りの嬢ちゃんが、こんな薄暗い場所に何の用だい?」
古びた酒場のカウンターで、眼帯をした男がニヤリと笑った。 情報屋の『片目のジャック』だ。
「情報が欲しいの。カミロ・バンデラスについて」
私は公爵家から支給された小遣い(というには高額な金貨)をカウンターに置いた。 ジャックは金貨を弾き、満足げに頷いた。
「話が早くて助かるよ。……あいつなら、相当焦ってるぜ。公爵家に喧嘩を売って、まともな商売相手からは総スカンだ。銀行も融資を打ち切った」
「それは知っているわ。私が知りたいのは、その先よ。彼が今、どうやって食いつないでいるのか」
「……そこだよ、問題は」
ジャックの声が低くなる。 彼は周囲を警戒するように視線を巡らせてから、身を乗り出した。
「『黒蛇(くろへび)』って組織、知ってるか?」
「……人身売買や暗殺を請け負う、王都の闇組織ね」
「ご名答。バンデラスの坊ちゃん、そこに接触したらしい」
心臓がドクリと跳ねた。 嫌な汗が背筋を伝う。
「まさか……借金の形に、自分を売ったの?」
「まさか。あんなプライドだけの男に、そんな度胸はないさ。奴が売ったのは自分じゃない。『商品』を持ち込む契約をしたんだとよ」
「商品……?」
「ああ。上玉の女を一人、組織に引き渡す。それで借金を帳消しにし、さらに海外への逃亡資金も貰う手はずらしい」
視界が揺れた。 上玉の女。 カミロが知っている、金になる女。 そして、彼が執着している女。
「……ミラ」
私の口から、妹の名前が漏れた。
ジャックは肩をすくめた。
「ターゲットの名前までは知らねえが、奴が『極上のプラチナブロンドだ』って自慢してたそうだ。……心当たり、あるんだろ?」
あるどころではない。 あいつは、まだ諦めていなかったのだ。 私が公爵の庇護下に入り、手出しできなくなったから、今度は直接、物理的な手段で妹を奪おうとしている。
「……ありがとう、ジャック」
私は震える手で追加の金貨を置いた。
「その情報、確かに受け取ったわ」
「おいおい、嬢ちゃん。顔色が悪いぜ? 公爵様に泣きついた方がいいんじゃねえか? 相手は『黒蛇』だ。素人が手を出せる連中じゃねえ」
「ええ、分かっているわ。……忠告、感謝する」
私は酒場を飛び出した。 足がもつれる。 息が上がる。
ミラ。 ミラ。 ミラ!
私の可愛い妹。 私が守らなければならない、たった一つの宝物。 あの子は今、私が用意した隠れ家――実家の地下室に隠れているはずだ。 あそこは安全なはずだ。 でも、もし場所がバレていたら?
私は市場を抜け、人目を避けて実家の方角へと走った。 公爵邸とは逆方向だ。 まずいとは分かっている。 護衛もつけずに単独行動など、公爵に知られたら大目玉では済まない。
けれど、居ても立ってもいられなかった。 せめて、あの子が無事かどうか、遠くからでも確認しなければ。
実家であるベルンシュタイン伯爵邸は、すでに廃墟のように静まり返っていた。 使用人は解雇し、門は閉ざされている。 雑草が生い茂る庭。
私は裏手の森に身を隠し、地下室への入り口がある納屋を監視した。
(……変わった様子はない)
納屋の扉は閉ざされ、私がかけた偽装の枯草もそのままだ。 周囲に人の気配もない。 ホッとして、膝から力が抜けた。
その時だった。 納屋の近くにある古木の洞(うろ)。 そこは、私とミラが決めた秘密のポストだ。 そこに、白い紙切れが見えた。
ミラからの手紙だ。 定期連絡は三日に一度と決めていたはず。 今日はその日ではない。
緊急事態?
私は周囲を警戒しつつ、素早く木に近づき、手紙を抜き取った。 そして、再び森の中へ戻り、震える手で封を開いた。
『お姉ちゃんへ
怖いです。 昨日の夜から、庭の方で変な音がします。 誰かが歩き回っているような、ザッ、ザッという音。 それから、納屋の扉をガタガタと揺らす音も聞こえました。 息を殺して震えていたら、男の人の声が聞こえたの。
「ここじゃねえのか?」 「いや、誰もいねえよ。ただのボロ屋だ」
行ってしまったみたいだけど、また来るかもしれません。 お姉ちゃん、会いたいです。 ここから出して。 でも、私が出たら、お姉ちゃんに迷惑がかかるよね。 だから我慢します。 カミロ様に見つかりたくない。 助けて、お姉ちゃん。
ミラより』
文字が乱れている。 涙の跡が滲んでいる。 どれほどの恐怖の中で、これを書いたのだろう。
「……ッ」
私は手紙を握りつぶした。 ギリリ、と奥歯が鳴る音が自分でも聞こえた。
見つかりかけている。 「黒蛇」の手先か、それともカミロ本人か。 いずれにせよ、ここはもう安全ではない。
今すぐ連れ出したい。 扉を開けて、ミラを抱きしめて、公爵邸に連れて行きたい。
でも、それは危険すぎる。 もし近くに見張りがいたら? 私がここに来たことで、逆に場所を特定させてしまったら? 帰り道で襲われたら、私一人ではミラを守りきれない。
(冷静になれ、アリア……!)
私は自分の太ももを爪で突き立てた。 痛みでパニックを抑え込む。
今の私には力がある。 「氷の公爵」という最強のカードがある。 私情で公爵を巻き込むことを躊躇っている場合ではない。 これは契約だ。 私は私の全てを彼に差し出した。 ならば、彼にもその対価を払ってもらう権利があるはずだ。
「……戻らなきゃ」
私は涙を拭い、振り返ることなく走り出した。 背中に、ミラの怯える気配を感じながら。
◇
公爵邸に戻ったのは、夕暮れ時だった。 息を切らして玄関をくぐると、セバスチャンが仁王立ちで待っていた。
「アリア。遅いですね。買い出しに何時間かけているのですか」
彼のモノクルが冷たく光る。 いつもなら、適当な言い訳をしてかわすところだ。 「市場の野菜が高くて値切り交渉をしていました」とか、「迷子の子猫を助けていました」とか。
でも、今の私には嘘をつく余裕も、軽口を叩く気力も残っていなかった。
「……申し訳ありません」
短く謝罪し、私は彼の横を通り抜けようとした。
「……アリア?」
セバスチャンが私の腕を掴んだ。 その力は優しかったが、逃がさないという意思が込められていた。
「顔色が悪いですよ。泥だらけですし、靴も汚れている。……市場に行っただけでは、そうはなりません」
「……放してください。閣下に報告があります」
「閣下なら執務室におられますが、今の貴女の状態でお通しするわけには……」
「緊急なのです!!」
私が叫ぶと、広間の空気が凍りついた。 通りかかったメイドたちが、驚いて足を止める。 セバスチャンが目を見開いた。
私は唇を噛み、声を震わせながら言った。
「お願いです、セバスチャン様。……一分一秒を争うのです」
セバスチャンは私の目を見て、それからゆっくりと手を離した。
「……分かりました。ですが、まずは深呼吸をなさい。乱れた心のままでは、閣下の前で正しい判断ができませんよ」
「……はい」
私は大きく息を吸い込んだ。 肺に酸素が行き渡り、少しだけ視界がクリアになる。
「参りましょう」
セバスチャンが先導してくれる。 その背中が、今は頼もしく見えた。
◇
執務室の扉が開く。 クラウス様は、いつものように書類の山と格闘していた。
「戻ったか。遅かったな。待ちくたびれて、紅茶が冷めてしまったぞ」
彼は顔を上げずに言った。 その声はいつも通り平坦で、冷たい。 でも、それが今の私には救いだった。 変わらない日常が、ここにあるという事実。
「……申し訳ありません、閣下」
私が声を出すと、クラウス様の手がピタリと止まった。
「……その声は、なんだ」
彼はペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。 私を見るアイスブルーの瞳が、スッと細められる。
「誰に泣かされた? 市場の商人がまけなかったか? それとも、カラスにでもつつかれたか?」
冗談めかしているが、その目は笑っていない。 私の異変を一瞬で見抜いている。
私は一歩前に進み、ミラからの手紙をデスクの上に置いた。 くしゃくしゃになった、涙の跡がついた手紙。
「これを……読んでください」
クラウス様は無言で手紙を手に取り、目を通した。 読み進めるにつれて、部屋の温度が下がっていくのを感じた。 物理的な温度ではない。 彼から発せられる、凍てつくような殺気が空気を冷やしているのだ。
読み終えたクラウス様は、手紙を丁寧に畳み、机の上に置いた。
「……状況は?」
「情報屋の話では、カミロは闇組織『黒蛇』と手を組み、ミラを誘拐して海外へ売り飛ばそうとしています。……この手紙を見る限り、隠れ家の場所が特定されるのも時間の問題です」
私は拳を握りしめ、言葉を絞り出した。
「閣下。……お願いがあります」
「言ってみろ」
「私に、力を貸してください。ミラを救い出すための戦力と、カミロを……あの男を、二度と再起不能にするための権限を」
私は床に膝をつき、頭を垂れた。
「これは私的な復讐です。公爵家の利益にはなりません。ですが……もしミラになにかあれば、私は私でいられなくなります。閣下の『道具』として機能できなくなります。ですから……!」
必死だった。 プライドも何もかも捨てて、ただ妹のために乞う。
長い沈黙があった。 私の頭上で、衣擦れの音がする。
「……顔を上げろ、アリア」
言われて顔を上げると、クラウス様が私の目の前に立っていた。 彼は私の頬に手を添え、親指で涙を拭った。
「……馬鹿な女だ」
その声は、驚くほど優しかった。
「私的な復讐? 利益にならない? 何を言っている」
「え……?」
「お前は私の秘書官であり、私の所有物だ。そのお前の妹に手を出すということは、私の所有物に傷をつけようとする行為に等しい。……それは、ラインハルト公爵家への宣戦布告だ」
クラウス様の瞳に、青白い炎が宿る。 それは氷の炎。 静かだが、触れれば全てを焼き尽くす激しい怒り。
「私の庭を荒らす害虫は、徹底的に駆除する。それが私の流儀だ。……カミロ・バンデラス。一度は見逃してやったが、どうやら死に急ぎたいらしいな」
「閣下……」
「泣くな。お前の涙は安くない。あんなゴミのために流すな」
クラウス様は私の手を引き、立ち上がらせた。
「セバスチャン!」
「はッ、ここに」
控えていたセバスチャンが即座に応じる。
「『影の部隊』を動かせ。レベル3だ。ベルンシュタイン邸周辺を完全封鎖。ネズミ一匹逃がすな」
「承知いたしました。……ただちに」
セバスチャンが一礼して部屋を出て行く。 レベル3。それがどれほどの規模か分からないが、セバスチャンの緊張した面持ちからして、ただ事ではないのだろう。
「アリア、お前も行け」
「えっ? 私も、ですか?」
「当然だ。妹を安心させられるのは、お前しかいないだろう。それに……」
クラウス様は、壁にかかっていた剣を手に取り、腰に佩いた。
「お前自身の落とし前だ。自分の手で決着をつけてこい」
「閣下も……来てくださるのですか?」
「私が現場に出るなど稀だが、今回は特別だ。……お前が暴走して死なないように、首輪を握っておいてやる」
憎まれ口を叩きながらも、彼は私を守ろうとしてくれている。 その不器用な優しさに、胸が熱くなった。
「ありがとうございます。……一生、ついていきます」
「一生こき使ってやるから覚悟しておけ。行くぞ」
◇
馬車の中、私はミラの手紙を胸に抱いていた。
(待ってて、ミラ。今行くから……!)
外はすでに夜の帳が下りていた。 月明かりが雲に隠れ、世界は闇に包まれている。
公爵家の精鋭部隊は、すでに現地へ向かっているはずだ。 私たちが到着する頃には、カミロたちを包囲できているだろうか。 それとも、もう手遅れなのか。
悪い想像ばかりが頭をよぎる。 「黒蛇」はプロの犯罪集団だ。 公爵家の介入を察知して、強硬手段に出るかもしれない。
「アリア」
向かいに座るクラウス様が、私の膝の上で震えている手に、自分の手を重ねた。 その手は大きく、温かかった。
「焦るな。恐怖は思考を鈍らせる」
「……はい。分かっています。でも、手が勝手に……」
「なら、私の手を握っていろ。私の氷の魔力で、少しは頭が冷えるだろう」
「……ふふ、閣下の手、温かいですよ」
「……気のせいだ」
クラウス様はそっぽを向いたが、手は離さなかった。 その温もりが、私の震えを少しずつ止めてくれた。
馬車が速度を上げる。 車輪の音が、戦いのドラムのように響く。
◇
一方その頃。 ベルンシュタイン邸の裏手にある森の中。
数人の男たちが、闇に紛れて蠢いていた。 黒い装束に身を包んだ男たち。 その中心に、場違いなほど豪奢なスーツを着た男がいた。 カミロ・バンデラスだ。
「おい、まだか! まだ見つからないのか!」
カミロが苛立ちを隠せずに叫ぶ。
「静かにしろ、バカ野郎」
隣に立つ、顔に大きな傷のある男がドスの利いた声で制した。 「黒蛇」のリーダー格、ガストンだ。
「声を出せば、気づかれるぞ。……ったく、こんなボロ屋敷のどこに隠れてるんだか」
「地下室だと言っただろう! 納屋の下にあるはずなんだ!」
カミロは汗だくで、目を血走らせていた。 もう後がないのだ。 借金取りは待ってくれない。 公爵への復讐も果たしたい。 そのためには、何としてもミラを手に入れなければならない。
「へっ、見つけたぜ」
部下の一人が、枯草の下から地下室の扉を発見した。
「ここだ! 鍵がかかってやがる!」
「よし、壊せ!」
ガストンが命じる。 男が斧を振り上げ、扉の蝶番に叩きつけた。
ガシャアン!! 鈍い音が響く。
「ひっ……!」
中から、微かな悲鳴が聞こえた。
「いたぞ! 中にいる!」
カミロが歓喜の声を上げる。
「ミラ! 僕だよ、カミロだよ! 迎えに来てやったぞ! さあ、出ておいで!」
狂気じみた笑顔で、カミロが扉に手をかける。
「いやぁぁぁッ! 来ないでぇぇッ!!」
ミラの絶叫が響き渡った。
「泣き叫んでも無駄だぜ、お嬢ちゃん。……おい、引きずり出せ!」
ガストンの部下たちが、暗い穴の中へと侵入していく。
◇
その時。
ヒュンッ!!
風を切り裂く音がして、何かが飛んできた。 それは、正確にガストンの足元に突き刺さった。
「なっ……!?」
ガストンが飛び退く。 地面に突き刺さっていたのは、氷で作られた鋭利な矢だった。
「誰だ!?」
男たちが一斉に振り返る。
森の闇の中から、数台の馬車のライトが、まるで猛獣の目のように輝いた。 そして、冷徹な声が響き渡った。
「……随分と賑やかだな。私の許可なく、夜会でも開いているのか?」
闇を割って現れたのは、漆黒のコートを翻したクラウス様。 そして、その隣に立つ、私。
「アリア……!?」
カミロが呆然と私を見る。
「こんばんは、カミロ様」
私は氷のような微笑みを浮かべた。 手には、クラウス様から借りた護身用の短剣を握りしめている。
「私の大事な妹に、何の用かしら? ……その汚い手を、今すぐ離してくれない?」
「く、来るな……!」
カミロが後ずさる。 だが、もう遅い。 森の周囲には、すでに公爵家の「影の部隊」が展開し、逃げ道を塞いでいた。
「総員、構え!」
セバスチャンの号令と共に、無数の剣と弓がカミロたちに向けられる。
「さて……」
クラウス様が一歩前に出た。 その周囲の気温が、急激に下がり始める。 地面の草が凍りつき、パリパリと音を立てる。
「掃除の時間だ、アリア。……存分にやれ」
「はい、閣下」
私は短剣を構え、地面を蹴った。 恐怖はもうない。 あるのは、燃え上がるような怒りと、妹を守り抜くという決意だけ。
「覚悟なさい、カミロ!!」
私の絶叫と共に、最後の戦いが幕を開けた。
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