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第11話:嫉妬と策略
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「……あら? 何かしら、この薄汚い平民たちは? 新しい使用人?」
その言葉が放たれた瞬間、食堂の空気は凍りつきました。
ピンク色のフリル全開のドレスに身を包んだ令嬢――クラウス様の遠縁にあたるというエレナ・フォン・ローズバーグ伯爵令嬢は、扇子で口元を隠しながら、露骨に侮蔑の視線を私とミラに向けています。
私は、手に持っていたカトラリーを静かに置きました。 カチャン、という音がやけに響きます。
自分を侮辱されるのは構いません。慣れていますから。 ですが、ミラを「薄汚い」呼ばわりすることだけは、神が許しても私が許しません。
「……はじめまして。どちらの田舎からいらしたのか存じませんが、ご挨拶もなしに食卓を荒らすのは、マナー違反ですわよ?」
私はニッコリと、最大限の皮肉を込めて微笑み返しました。 すると、エレナ嬢は目を見開き、金切り声を上げました。
「い、田舎ですって!? 失礼な! 私はローズバーグ伯爵家の長女、エレナよ! クラウス様の婚約者(候補)筆頭なのよ!」
「候補、ですか。……括弧書きが随分と強調されているようですけれど」
「なっ……! なんですの、この女は! クラウス様、どうしてこんな無礼な女を屋敷に置いているのですか!?」
エレナ嬢がクラウス様に詰め寄ります。 クラウス様は新聞を畳み、面倒くさそうにため息をつきました。
「エレナ。朝から騒ぐな、食事が不味くなる」
「だ、だって! この女が!」
「彼女はアリア。私の秘書官だ。そして隣にいるのはその妹のミラ。……私の大切な『客』であり『家族』だ。薄汚いなどという暴言は撤回してもらおう」
クラウス様の声は低く、絶対的な威厳に満ちていました。 「家族」という言葉に、私の胸がトクンと跳ねます。 ミラも、不安そうにしていた顔を上げ、クラウス様を尊敬の眼差しで見つめています。
エレナ嬢は悔しそうに唇を噛み締めましたが、すぐに気を取り直したように、ねっとりとした笑みを浮かべました。
「まあ……秘書官、ですの? 没落貴族が食い扶持を求めて入り込んだと聞きましたけれど……ふふ、可哀想に。お金に困ると、プライドも捨てなければならないのですね」
彼女は私の着ている服(秘書官用のシンプルなドレス)を上から下まで眺め、鼻で笑いました。
「いいですわ。私がこの屋敷の女主人になった暁には、メイドとして雇ってあげなくもありませんことよ? もっとも、雑巾がけがお似合いでしょうけれど」
「それはご親切にどうも。ですが、その時が来たら考えさせていただきますわ。……永遠に来ない未来の話をしても、時間の無駄ですから」
「き、キーッ!!」
エレナ嬢がヒステリーを起こしかけたところで、セバスチャンが静かに介入しました。
「エレナ様。旅のお疲れもおありでしょう。お部屋を用意しておりますので、まずはそちらへ」
「ふん! そうね、こんな貧乏臭い空気の場所にはいられないわ!」
エレナ嬢は最後に私を睨みつけ、ドスドスと足音を立てて食堂を出て行きました。 嵐が去った後のような静寂が戻ります。
「……賑やかになりそうだな」
クラウス様がコーヒーを啜りながら呟きました。 私は苦笑して、冷めかけたスープを口に運びました。
「賑やかというより、騒音公害ですわ」
「気に入らないなら追い出すか?」
「いいえ。……向こうから喧嘩を売ってきたのです。買うのが礼儀というものでしょう」
私はナプキンで口元を拭い、目を細めました。 カミロのような暴力的な敵も厄介ですが、こういうタイプは精神的に削ってくるからタチが悪いのです。 でも、ミラとの平穏な生活を守るためなら、受けて立つしかありません。
◇
それから数日間、エレナ嬢による「嫌がらせ」が始まりました。
私が廊下を歩いていると、わざと足を引っ掛けようとする。 私が整理した書類を、わざと床にばら撒く。 ミラが庭で遊んでいると、「邪魔よ」と言ってボールを取り上げる。
どれも子供じみた所業ですが、彼女はあくまで「事故」や「指導」を装っていました。
そして、ある日の午後。 事件は起きました。
「大変ですわ!!」
執務室に、エレナ嬢が血相を変えて飛び込んできました。 クラウス様と私は、ちょうど来月の予算案について話し合っているところでした。
「どうした、エレナ。ノックくらいしろ」
「それどころではありませんの! クラウス様、大変なことが発覚しましたわ!」
エレナ嬢は、勝ち誇ったような顔で私を指差しました。
「この女が……アリアが、屋敷のお金を横領していますわ!!」
「……は?」
私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまいました。 横領? 私が?
「証拠ならありますわ! これをご覧になって!」
エレナ嬢は、一冊の帳簿をクラウス様のデスクに叩きつけました。 それは、私が管理している屋敷の出納帳簿です。
「ここのページ! 先日の『消耗品費』の項目、金額がおかしいですわ! 市場価格よりも三割も高く計上されています! 差額は金貨五十枚……アリアが懐に入れたに違いありません!」
エレナ嬢は鼻息を荒くしてまくし立てます。
「没落貴族だから、お金に目がくらんだのでしょうね! 妹の学費が欲しかったのかしら? あさましいですわ!」
クラウス様は無言で帳簿を手に取り、該当箇所に目を走らせました。 そして、チラリと私を見ました。
その目は、「どういうことだ?」と問うているのではなく、「どう料理する?」と楽しんでいる目でした。
私はため息をつき、一歩前に進み出ました。
「エレナ様。……よく勉強なさいましたね。私の帳簿を盗み見て、わざわざ市場価格まで調べるとは」
「ぬ、盗み見てなどいませんわ! 屋敷の監査をするのも、次期女主人の務めですもの!」
「そうですか。……ですが、詰めが甘いですわ」
私は懐から、別の書類を取り出しました。 それは、その消耗品――具体的には、最高級の蜜蝋キャンドルと、特殊なハーブの納品書でした。
「確かに、金額は通常の市場価格より高いです。ですが、それは『通常品』の場合です」
「な、なんですって?」
「今回購入したのは、王室御用達の『ルミナス工房』で作られた特注品です。通常のキャンドルよりも燃焼時間が三倍長く、かつ煤が出ないため、屋敷の美術品を傷めません。単価は高いですが、交換頻度と清掃コストを考えれば、トータルでは二割のコスト削減になっています」
私は電卓代わりのそろばん(のような計算機)を弾き、数字を示しました。
「つまり、私は横領どころか、屋敷の経費を節減したのです。……数字は嘘をつきませんわ」
「そ、そんな……! で、でも、こっちはどうかしら!? 『食材費』も高騰していますわ!」
エレナ嬢は食い下がります。
「これも説明がつきます。ミラのために栄養価の高い食材を取り入れたこともありますが、何より……エレナ様、貴女が毎日要求する『最高級のデザート』と『美容のための特別なフルーツ』が原因です」
「えっ……」
「貴女が来てから、食費は一・五倍に跳ね上がっています。私がそれを『交際費』ではなく『食材費』として処理したのは、貴女が『来客』ではなく『居候』だからです。……感謝していただきたいくらいですわ」
「い、居候ですってぇぇ!?」
エレナ嬢の顔が真っ赤に染まりました。 ぐうの音も出ないとはこのことです。
クラウス様が、くっくっ、と笑いを堪えるように肩を震わせました。
「……だそうだ、エレナ。アリアの管理は完璧だ。私ですら文句のつけようがない」
「そ、そんな……クラウス様まで、この女の肩を持つのですか!?」
「肩を持っているのではない。事実を評価しているだけだ。……それに」
クラウス様は表情を引き締め、冷ややかな視線をエレナ嬢に向けました。
「私の選んだ秘書官を侮辱することは、私の人事能力を疑うことと同義だ。……これ以上、アリアの業務を妨害するなら、即刻出て行ってもらう」
「っ……!!」
エレナ嬢は涙目になり、わっと泣き出して部屋を飛び出して行きました。
「……やれやれ。手のかかる子供ですね」
私が帳簿を回収しながら言うと、クラウス様は椅子に深く寄りかかりました。
「だが、ああいう手合いはしつこいぞ。次はもっと陰湿な手を使ってくるかもしれん」
「陰湿、ですか。……望むところです。私の『影の書庫』の知識があれば、彼女の弱点などいくらでも握れますから」
「……お前、本当に悪女の素質があるな」
「閣下の教育の賜物です」
私たちは顔を見合わせて笑いました。 しかし、クラウス様の予感は的中していました。 エレナ嬢の嫉妬心は、私たちの想像を超えて暴走しようとしていたのです。
◇
数日後の夜。 公爵邸で、小規模な夜会が開かれることになりました。 これはエレナ嬢が「私の歓迎パーティーを開いてください!」と泣きついたため、クラウス様が渋々承諾したものです。
招待客は、エレナ嬢の取り巻きのご令嬢たちと、親交のある若手貴族たち。 いわば、彼女のホームグラウンドです。
私は本来なら裏方に徹するつもりでしたが、クラウス様から「私のパートナーとして参加しろ」との厳命が下りました。
「アリア、今日のドレスも素敵ね」
ミラが、私のドレスの裾を直しながら目を輝かせてくれます。 今日のドレスは、深いワインレッドのベルベット。 大人の落ち着きと、秘めた情熱を感じさせる色です。
「ありがとう、ミラ。……貴女も可愛いわよ」
ミラも、淡いピンクのドレスを着て、お姫様のように可愛らしいです。 今日はミラも夜会に参加します。 社会勉強のためと、クラウス様が許可してくれたのです。
「いい? ミラ。知らない人について行ってはだめよ。困ったことがあったら、すぐに私かセバスチャン様を呼ぶのよ」
「うん、分かってる!」
私たちは手を繋いで会場へと向かいました。
会場に入ると、すでにエレナ嬢を中心とした輪ができていました。 彼女は今夜の主役らしく、派手な金色のドレスを着て、扇子片手に高笑いしています。
「あら、いらっしゃったわね。……ふん、まあまあのドレスじゃない」
エレナ嬢は私を見ると、値踏みするように視線を走らせました。 しかし、その目はどこか泳いでおり、不自然なほどの余裕を感じさせます。 何か企んでいる。 私の直感が警鐘を鳴らしました。
夜会は順調に進みました。 私はクラウス様の隣で、挨拶に来る客たちをあしらい、ミラはセバスチャンが見守る中、同年代の子供たちと大人しくジュースを飲んでいました。
事件が起きたのは、ダンスタイムが始まる直前でした。
「キャアァァァァッ!!」
会場の隅で、エレナ嬢の悲鳴が上がりました。 音楽が止まり、全員の視線が集まります。
「な、ないわ! 私のネックレスが! お祖母様からいただいた、由緒あるダイヤのネックレスがないわ!」
エレナ嬢は首元を押さえて叫んでいます。
「大変だ! 誰かが盗んだのか!?」 「会場を封鎖しろ!」
取り巻きの貴族たちが騒ぎ立てます。 エレナ嬢は涙を流しながら、震える指で一方向を指差しました。
「さっき……さっき、あの子が私の近くにいたわ! ぶつかってきたのよ!」
彼女が指差した先。 そこには、怯えて立ち尽くすミラの姿がありました。
「……え?」
ミラは目を白黒させています。
「ち、ちがうよ……私、ぶつかってないよ……」
「嘘をおっしゃい! 貧乏人の子は手癖が悪いって言うものね! あの子のポケットを調べなさい!」
エレナ嬢が叫ぶと、彼女の取り巻きの男たちがミラを取り囲もうとしました。
「やめて! 私はやってない!」
ミラが泣き叫びます。
私の頭の中で、何かがプツンと切れました。 カミロの時と同じ。 理性の糸が焼き切れる音。
私はグラスをテーブルに叩き置き、ドレスの裾を翻して会場を突っ切りました。
「……そこまでです」
私は男たちの前に立ちはだかり、ミラを背に庇いました。 その声は、地獄の底から響くように低く、冷たいものでした。
「ア、アリア……」
男たちが、私の剣幕に圧されて後ずさります。
「私の妹が、なんだと仰いましたか? 手癖が悪い? ……根拠のない言いがかりをつけるなら、その舌を引き抜きますよ」
「ひっ……!」
「根拠なら出てくるはずよ!」
エレナ嬢が強気に出てきました。
「調べれば分かるわ! さあ、その子のポケットを見せなさい!」
「……いいでしょう」
私はミラの涙を拭い、優しく言いました。
「ミラ、ポケットの中身を出して見せてあげて。大丈夫、お姉ちゃんがついているから」
ミラは泣きじゃくりながら、ドレスのポケットを裏返しました。 中から出てきたのは、ハンカチと、小さなお菓子の包み紙だけ。 ネックレスなど、どこにもありません。
「……ありませんわね」
私は冷ややかにエレナ嬢を見ました。
「あら? おかしいわね……反対側のポケットは!?」
「ありません」
反対側も空っぽです。
会場に、気まずい沈黙が流れます。
「……エレナ様。これは重大な侮辱罪にあたりますわよ」
私が一歩近づくと、エレナ嬢は焦ったように視線を泳がせました。
「そ、そんなはずはないわ! 確かにあの子が……あ、そうだわ! アリア、貴女よ! 貴女が受け取って隠したんでしょう!?」
「はあ?」
「共犯よ! 姉妹そろって泥棒なのよ! 貴女の身体検査もしなさい!」
もはや言いがかりも甚だしい。 周囲の客たちも、呆れたような顔をし始めています。
その時、パン、パン、パン、と乾いた拍手の音が響きました。
「……見事な茶番だ」
人垣が割れ、クラウス様がゆっくりと歩いてきました。 その表情は絶対零度。 会場の気温が一気に下がった気がしました。
「ク、クラウス様……聞いてください、この姉妹が私のネックレスを……」
「黙れ」
クラウス様の一言で、エレナ嬢は喉を詰まらせました。
「エレナ。お前のネックレスなら、ここにあるぞ」
クラウス様はポケットから、キラキラと輝くダイヤのネックレスを取り出しました。
「えっ……? ど、どうしてクラウス様が……?」
「先ほど、お前が自分で外して、花瓶の中に隠しているのを見たからだ」
「ッ!?」
会場がどよめきました。 自作自演。 最も恥ずべき行為です。
「アリアやミラを陥れるために、自分で隠して罪を擦り付けようとした。……浅はかにも程がある」
クラウス様はネックレスを放り投げました。 それは床に落ち、悲しい音を立てました。
「そ、そんな……ち、違いますわ! 私はただ……」
「言い訳は聞かん」
クラウス様は冷酷に告げました。
「我が家の大切な客人を、泥棒呼ばわりした罪は重い。それに、公爵家の夜会を私的な嫉妬で汚したこともな」
クラウス様はセバスチャンに合図を送りました。
「荷物をまとめさせろ。今夜中に領地へ送り返す。二度と王都の地を踏ませるな」
「い、嫌ぁぁぁ! クラウス様、お許しください! 私はただ、貴方をお慕いして……!」
「その歪んだ愛情が、私には不快だと言っているんだ。……連れて行け」
衛兵たちがエレナ嬢の両脇を抱え、引きずっていきます。 彼女の泣き叫ぶ声が遠ざかり、やがて聞こえなくなりました。
会場はシーンと静まり返っています。
「……皆様、お騒がせいたしました」
私が静かに一礼すると、どこからともなく拍手が起こり、それはすぐに会場全体を包み込みました。
「さすがはアリア様だ」 「あんな言いがかりにも動じないとは」 「妹君を守る姿、美しかったな」
評価は上々。 エレナ嬢の策略は、皮肉にも私の評価をさらに高める結果となったのです。
「……大丈夫か、ミラ」
クラウス様がしゃがみ込み、ミラの頭を撫でました。
「う、うん……お姉ちゃんと、クラウスお兄ちゃんがいてくれたから……」
「お兄ちゃん、か」
クラウス様は苦笑しましたが、満更でもなさそうでした。
「アリア。お前もだ」
クラウス様が立ち上がり、私に向き直りました。
「よく耐えた。……妹を守るその強さ、改めて惚れ直したぞ」
「……惚れ直した、なんて軽々しく言わないでください」
私は顔が熱くなるのを感じて、そっぽを向きました。 でも、その口元が緩んでしまうのは止められませんでした。
こうして、嫉妬に狂ったライバル令嬢は退場し、公爵邸には再び平和が戻りました。 ……いいえ、本当の戦いはこれからです。 私が「国一番の淑女」と呼ばれるためには、まだまだ超えなければならない壁がたくさんあるのですから。
「さあ、ダンスの時間だ。……今夜は私のリードに任せてもらうぞ」
「はい、閣下。……どこまでもついて行きます」
私たちは音楽に合わせて踊り出しました。 そのステップは、前回よりもずっと軽やかで、息の合ったものでした。
シャンデリアの光の下、私たちは確信していました。 この絆は、誰にも壊せないと。
(見ていて、カミロ。そして私を笑った全ての人たち。私は、もっともっと高く登ってみせるわ)
私の胸にある銀のバッジが、誇らしげに輝いていました。
その言葉が放たれた瞬間、食堂の空気は凍りつきました。
ピンク色のフリル全開のドレスに身を包んだ令嬢――クラウス様の遠縁にあたるというエレナ・フォン・ローズバーグ伯爵令嬢は、扇子で口元を隠しながら、露骨に侮蔑の視線を私とミラに向けています。
私は、手に持っていたカトラリーを静かに置きました。 カチャン、という音がやけに響きます。
自分を侮辱されるのは構いません。慣れていますから。 ですが、ミラを「薄汚い」呼ばわりすることだけは、神が許しても私が許しません。
「……はじめまして。どちらの田舎からいらしたのか存じませんが、ご挨拶もなしに食卓を荒らすのは、マナー違反ですわよ?」
私はニッコリと、最大限の皮肉を込めて微笑み返しました。 すると、エレナ嬢は目を見開き、金切り声を上げました。
「い、田舎ですって!? 失礼な! 私はローズバーグ伯爵家の長女、エレナよ! クラウス様の婚約者(候補)筆頭なのよ!」
「候補、ですか。……括弧書きが随分と強調されているようですけれど」
「なっ……! なんですの、この女は! クラウス様、どうしてこんな無礼な女を屋敷に置いているのですか!?」
エレナ嬢がクラウス様に詰め寄ります。 クラウス様は新聞を畳み、面倒くさそうにため息をつきました。
「エレナ。朝から騒ぐな、食事が不味くなる」
「だ、だって! この女が!」
「彼女はアリア。私の秘書官だ。そして隣にいるのはその妹のミラ。……私の大切な『客』であり『家族』だ。薄汚いなどという暴言は撤回してもらおう」
クラウス様の声は低く、絶対的な威厳に満ちていました。 「家族」という言葉に、私の胸がトクンと跳ねます。 ミラも、不安そうにしていた顔を上げ、クラウス様を尊敬の眼差しで見つめています。
エレナ嬢は悔しそうに唇を噛み締めましたが、すぐに気を取り直したように、ねっとりとした笑みを浮かべました。
「まあ……秘書官、ですの? 没落貴族が食い扶持を求めて入り込んだと聞きましたけれど……ふふ、可哀想に。お金に困ると、プライドも捨てなければならないのですね」
彼女は私の着ている服(秘書官用のシンプルなドレス)を上から下まで眺め、鼻で笑いました。
「いいですわ。私がこの屋敷の女主人になった暁には、メイドとして雇ってあげなくもありませんことよ? もっとも、雑巾がけがお似合いでしょうけれど」
「それはご親切にどうも。ですが、その時が来たら考えさせていただきますわ。……永遠に来ない未来の話をしても、時間の無駄ですから」
「き、キーッ!!」
エレナ嬢がヒステリーを起こしかけたところで、セバスチャンが静かに介入しました。
「エレナ様。旅のお疲れもおありでしょう。お部屋を用意しておりますので、まずはそちらへ」
「ふん! そうね、こんな貧乏臭い空気の場所にはいられないわ!」
エレナ嬢は最後に私を睨みつけ、ドスドスと足音を立てて食堂を出て行きました。 嵐が去った後のような静寂が戻ります。
「……賑やかになりそうだな」
クラウス様がコーヒーを啜りながら呟きました。 私は苦笑して、冷めかけたスープを口に運びました。
「賑やかというより、騒音公害ですわ」
「気に入らないなら追い出すか?」
「いいえ。……向こうから喧嘩を売ってきたのです。買うのが礼儀というものでしょう」
私はナプキンで口元を拭い、目を細めました。 カミロのような暴力的な敵も厄介ですが、こういうタイプは精神的に削ってくるからタチが悪いのです。 でも、ミラとの平穏な生活を守るためなら、受けて立つしかありません。
◇
それから数日間、エレナ嬢による「嫌がらせ」が始まりました。
私が廊下を歩いていると、わざと足を引っ掛けようとする。 私が整理した書類を、わざと床にばら撒く。 ミラが庭で遊んでいると、「邪魔よ」と言ってボールを取り上げる。
どれも子供じみた所業ですが、彼女はあくまで「事故」や「指導」を装っていました。
そして、ある日の午後。 事件は起きました。
「大変ですわ!!」
執務室に、エレナ嬢が血相を変えて飛び込んできました。 クラウス様と私は、ちょうど来月の予算案について話し合っているところでした。
「どうした、エレナ。ノックくらいしろ」
「それどころではありませんの! クラウス様、大変なことが発覚しましたわ!」
エレナ嬢は、勝ち誇ったような顔で私を指差しました。
「この女が……アリアが、屋敷のお金を横領していますわ!!」
「……は?」
私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまいました。 横領? 私が?
「証拠ならありますわ! これをご覧になって!」
エレナ嬢は、一冊の帳簿をクラウス様のデスクに叩きつけました。 それは、私が管理している屋敷の出納帳簿です。
「ここのページ! 先日の『消耗品費』の項目、金額がおかしいですわ! 市場価格よりも三割も高く計上されています! 差額は金貨五十枚……アリアが懐に入れたに違いありません!」
エレナ嬢は鼻息を荒くしてまくし立てます。
「没落貴族だから、お金に目がくらんだのでしょうね! 妹の学費が欲しかったのかしら? あさましいですわ!」
クラウス様は無言で帳簿を手に取り、該当箇所に目を走らせました。 そして、チラリと私を見ました。
その目は、「どういうことだ?」と問うているのではなく、「どう料理する?」と楽しんでいる目でした。
私はため息をつき、一歩前に進み出ました。
「エレナ様。……よく勉強なさいましたね。私の帳簿を盗み見て、わざわざ市場価格まで調べるとは」
「ぬ、盗み見てなどいませんわ! 屋敷の監査をするのも、次期女主人の務めですもの!」
「そうですか。……ですが、詰めが甘いですわ」
私は懐から、別の書類を取り出しました。 それは、その消耗品――具体的には、最高級の蜜蝋キャンドルと、特殊なハーブの納品書でした。
「確かに、金額は通常の市場価格より高いです。ですが、それは『通常品』の場合です」
「な、なんですって?」
「今回購入したのは、王室御用達の『ルミナス工房』で作られた特注品です。通常のキャンドルよりも燃焼時間が三倍長く、かつ煤が出ないため、屋敷の美術品を傷めません。単価は高いですが、交換頻度と清掃コストを考えれば、トータルでは二割のコスト削減になっています」
私は電卓代わりのそろばん(のような計算機)を弾き、数字を示しました。
「つまり、私は横領どころか、屋敷の経費を節減したのです。……数字は嘘をつきませんわ」
「そ、そんな……! で、でも、こっちはどうかしら!? 『食材費』も高騰していますわ!」
エレナ嬢は食い下がります。
「これも説明がつきます。ミラのために栄養価の高い食材を取り入れたこともありますが、何より……エレナ様、貴女が毎日要求する『最高級のデザート』と『美容のための特別なフルーツ』が原因です」
「えっ……」
「貴女が来てから、食費は一・五倍に跳ね上がっています。私がそれを『交際費』ではなく『食材費』として処理したのは、貴女が『来客』ではなく『居候』だからです。……感謝していただきたいくらいですわ」
「い、居候ですってぇぇ!?」
エレナ嬢の顔が真っ赤に染まりました。 ぐうの音も出ないとはこのことです。
クラウス様が、くっくっ、と笑いを堪えるように肩を震わせました。
「……だそうだ、エレナ。アリアの管理は完璧だ。私ですら文句のつけようがない」
「そ、そんな……クラウス様まで、この女の肩を持つのですか!?」
「肩を持っているのではない。事実を評価しているだけだ。……それに」
クラウス様は表情を引き締め、冷ややかな視線をエレナ嬢に向けました。
「私の選んだ秘書官を侮辱することは、私の人事能力を疑うことと同義だ。……これ以上、アリアの業務を妨害するなら、即刻出て行ってもらう」
「っ……!!」
エレナ嬢は涙目になり、わっと泣き出して部屋を飛び出して行きました。
「……やれやれ。手のかかる子供ですね」
私が帳簿を回収しながら言うと、クラウス様は椅子に深く寄りかかりました。
「だが、ああいう手合いはしつこいぞ。次はもっと陰湿な手を使ってくるかもしれん」
「陰湿、ですか。……望むところです。私の『影の書庫』の知識があれば、彼女の弱点などいくらでも握れますから」
「……お前、本当に悪女の素質があるな」
「閣下の教育の賜物です」
私たちは顔を見合わせて笑いました。 しかし、クラウス様の予感は的中していました。 エレナ嬢の嫉妬心は、私たちの想像を超えて暴走しようとしていたのです。
◇
数日後の夜。 公爵邸で、小規模な夜会が開かれることになりました。 これはエレナ嬢が「私の歓迎パーティーを開いてください!」と泣きついたため、クラウス様が渋々承諾したものです。
招待客は、エレナ嬢の取り巻きのご令嬢たちと、親交のある若手貴族たち。 いわば、彼女のホームグラウンドです。
私は本来なら裏方に徹するつもりでしたが、クラウス様から「私のパートナーとして参加しろ」との厳命が下りました。
「アリア、今日のドレスも素敵ね」
ミラが、私のドレスの裾を直しながら目を輝かせてくれます。 今日のドレスは、深いワインレッドのベルベット。 大人の落ち着きと、秘めた情熱を感じさせる色です。
「ありがとう、ミラ。……貴女も可愛いわよ」
ミラも、淡いピンクのドレスを着て、お姫様のように可愛らしいです。 今日はミラも夜会に参加します。 社会勉強のためと、クラウス様が許可してくれたのです。
「いい? ミラ。知らない人について行ってはだめよ。困ったことがあったら、すぐに私かセバスチャン様を呼ぶのよ」
「うん、分かってる!」
私たちは手を繋いで会場へと向かいました。
会場に入ると、すでにエレナ嬢を中心とした輪ができていました。 彼女は今夜の主役らしく、派手な金色のドレスを着て、扇子片手に高笑いしています。
「あら、いらっしゃったわね。……ふん、まあまあのドレスじゃない」
エレナ嬢は私を見ると、値踏みするように視線を走らせました。 しかし、その目はどこか泳いでおり、不自然なほどの余裕を感じさせます。 何か企んでいる。 私の直感が警鐘を鳴らしました。
夜会は順調に進みました。 私はクラウス様の隣で、挨拶に来る客たちをあしらい、ミラはセバスチャンが見守る中、同年代の子供たちと大人しくジュースを飲んでいました。
事件が起きたのは、ダンスタイムが始まる直前でした。
「キャアァァァァッ!!」
会場の隅で、エレナ嬢の悲鳴が上がりました。 音楽が止まり、全員の視線が集まります。
「な、ないわ! 私のネックレスが! お祖母様からいただいた、由緒あるダイヤのネックレスがないわ!」
エレナ嬢は首元を押さえて叫んでいます。
「大変だ! 誰かが盗んだのか!?」 「会場を封鎖しろ!」
取り巻きの貴族たちが騒ぎ立てます。 エレナ嬢は涙を流しながら、震える指で一方向を指差しました。
「さっき……さっき、あの子が私の近くにいたわ! ぶつかってきたのよ!」
彼女が指差した先。 そこには、怯えて立ち尽くすミラの姿がありました。
「……え?」
ミラは目を白黒させています。
「ち、ちがうよ……私、ぶつかってないよ……」
「嘘をおっしゃい! 貧乏人の子は手癖が悪いって言うものね! あの子のポケットを調べなさい!」
エレナ嬢が叫ぶと、彼女の取り巻きの男たちがミラを取り囲もうとしました。
「やめて! 私はやってない!」
ミラが泣き叫びます。
私の頭の中で、何かがプツンと切れました。 カミロの時と同じ。 理性の糸が焼き切れる音。
私はグラスをテーブルに叩き置き、ドレスの裾を翻して会場を突っ切りました。
「……そこまでです」
私は男たちの前に立ちはだかり、ミラを背に庇いました。 その声は、地獄の底から響くように低く、冷たいものでした。
「ア、アリア……」
男たちが、私の剣幕に圧されて後ずさります。
「私の妹が、なんだと仰いましたか? 手癖が悪い? ……根拠のない言いがかりをつけるなら、その舌を引き抜きますよ」
「ひっ……!」
「根拠なら出てくるはずよ!」
エレナ嬢が強気に出てきました。
「調べれば分かるわ! さあ、その子のポケットを見せなさい!」
「……いいでしょう」
私はミラの涙を拭い、優しく言いました。
「ミラ、ポケットの中身を出して見せてあげて。大丈夫、お姉ちゃんがついているから」
ミラは泣きじゃくりながら、ドレスのポケットを裏返しました。 中から出てきたのは、ハンカチと、小さなお菓子の包み紙だけ。 ネックレスなど、どこにもありません。
「……ありませんわね」
私は冷ややかにエレナ嬢を見ました。
「あら? おかしいわね……反対側のポケットは!?」
「ありません」
反対側も空っぽです。
会場に、気まずい沈黙が流れます。
「……エレナ様。これは重大な侮辱罪にあたりますわよ」
私が一歩近づくと、エレナ嬢は焦ったように視線を泳がせました。
「そ、そんなはずはないわ! 確かにあの子が……あ、そうだわ! アリア、貴女よ! 貴女が受け取って隠したんでしょう!?」
「はあ?」
「共犯よ! 姉妹そろって泥棒なのよ! 貴女の身体検査もしなさい!」
もはや言いがかりも甚だしい。 周囲の客たちも、呆れたような顔をし始めています。
その時、パン、パン、パン、と乾いた拍手の音が響きました。
「……見事な茶番だ」
人垣が割れ、クラウス様がゆっくりと歩いてきました。 その表情は絶対零度。 会場の気温が一気に下がった気がしました。
「ク、クラウス様……聞いてください、この姉妹が私のネックレスを……」
「黙れ」
クラウス様の一言で、エレナ嬢は喉を詰まらせました。
「エレナ。お前のネックレスなら、ここにあるぞ」
クラウス様はポケットから、キラキラと輝くダイヤのネックレスを取り出しました。
「えっ……? ど、どうしてクラウス様が……?」
「先ほど、お前が自分で外して、花瓶の中に隠しているのを見たからだ」
「ッ!?」
会場がどよめきました。 自作自演。 最も恥ずべき行為です。
「アリアやミラを陥れるために、自分で隠して罪を擦り付けようとした。……浅はかにも程がある」
クラウス様はネックレスを放り投げました。 それは床に落ち、悲しい音を立てました。
「そ、そんな……ち、違いますわ! 私はただ……」
「言い訳は聞かん」
クラウス様は冷酷に告げました。
「我が家の大切な客人を、泥棒呼ばわりした罪は重い。それに、公爵家の夜会を私的な嫉妬で汚したこともな」
クラウス様はセバスチャンに合図を送りました。
「荷物をまとめさせろ。今夜中に領地へ送り返す。二度と王都の地を踏ませるな」
「い、嫌ぁぁぁ! クラウス様、お許しください! 私はただ、貴方をお慕いして……!」
「その歪んだ愛情が、私には不快だと言っているんだ。……連れて行け」
衛兵たちがエレナ嬢の両脇を抱え、引きずっていきます。 彼女の泣き叫ぶ声が遠ざかり、やがて聞こえなくなりました。
会場はシーンと静まり返っています。
「……皆様、お騒がせいたしました」
私が静かに一礼すると、どこからともなく拍手が起こり、それはすぐに会場全体を包み込みました。
「さすがはアリア様だ」 「あんな言いがかりにも動じないとは」 「妹君を守る姿、美しかったな」
評価は上々。 エレナ嬢の策略は、皮肉にも私の評価をさらに高める結果となったのです。
「……大丈夫か、ミラ」
クラウス様がしゃがみ込み、ミラの頭を撫でました。
「う、うん……お姉ちゃんと、クラウスお兄ちゃんがいてくれたから……」
「お兄ちゃん、か」
クラウス様は苦笑しましたが、満更でもなさそうでした。
「アリア。お前もだ」
クラウス様が立ち上がり、私に向き直りました。
「よく耐えた。……妹を守るその強さ、改めて惚れ直したぞ」
「……惚れ直した、なんて軽々しく言わないでください」
私は顔が熱くなるのを感じて、そっぽを向きました。 でも、その口元が緩んでしまうのは止められませんでした。
こうして、嫉妬に狂ったライバル令嬢は退場し、公爵邸には再び平和が戻りました。 ……いいえ、本当の戦いはこれからです。 私が「国一番の淑女」と呼ばれるためには、まだまだ超えなければならない壁がたくさんあるのですから。
「さあ、ダンスの時間だ。……今夜は私のリードに任せてもらうぞ」
「はい、閣下。……どこまでもついて行きます」
私たちは音楽に合わせて踊り出しました。 そのステップは、前回よりもずっと軽やかで、息の合ったものでした。
シャンデリアの光の下、私たちは確信していました。 この絆は、誰にも壊せないと。
(見ていて、カミロ。そして私を笑った全ての人たち。私は、もっともっと高く登ってみせるわ)
私の胸にある銀のバッジが、誇らしげに輝いていました。
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