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第15話:逃亡者たちの絆、そして火に包まれる家
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王宮の地下深くに張り巡らされた隠し通路は、永遠に続くかのような闇に包まれていました。
湿った空気。 どこからともなく聞こえる水滴の音。 そして、荒い息遣いと足音だけが、この閉ざされた空間に響いています。
「……アリア、足は大丈夫か?」
私の手を引いて前を歩くクラウス様が、気遣わしげに声をかけてくれました。
「はい、平気です。……少し靴擦れが痛みますが、走れます」
私は強がって見せました。 実際には、ドレス用のヒールで舗装されていない石畳を歩き続けているため、足の裏は悲鳴を上げています。 けれど、立ち止まるわけにはいきません。 地上では今頃、ギリアード宰相の私兵たちが血眼になって私たちを探しているはずですから。
「嘘をつくな。足音が乱れている」
クラウス様は足を止め、振り返りました。 暗闇の中でも、彼のアイスブルーの瞳だけが薄ぼんやりと光り、私を見据えています。
「……申し訳ありません」
「謝るなと言っただろう。……背中に乗れ」
「えっ? い、いえ! それはさすがに不敬です! 公爵閣下の背中におぶさるなんて……」
「今は公爵ではない。ただの逃亡者だ。それに、お前が潰れて動けなくなる方が、私にとっては荷物だ」
クラウス様は有無を言わせぬ口調で背中を向け、しゃがみ込みました。
「ほら、早くしろ。追っ手が来るぞ」
「……失礼いたします」
私は観念して、彼の広い背中に身を預けました。 クラウス様は軽々と私を持ち上げ、再び歩き出しました。
彼の背中は、驚くほど温かかったです。 「氷の公爵」と呼ばれ、冷徹を装っているけれど、その内側にはこんなにも熱い血が流れている。 その体温に触れているだけで、不安で凍りついていた心が溶けていくようでした。
「……重くはありませんか?」
「羽のようだ。ちゃんと食べているのか? 北へ着いたら、もっと肉を食わせないとな」
「ふふ、太らせて食べる気ですか?」
「ああ。……まあ、食べるのは別の意味だがな」
「っ……! 閣下、セクハラです」
「冗談だ。……少しは気が紛れたか?」
彼の不器用な優しさに、胸が締め付けられます。
「……ねえ、クラウス様」
私は彼の首に腕を回し、耳元で囁きました。
「後悔していませんか? 私なんかに拘ったせいで、地位も名誉も、家も失うことになってしまって」
もし、私を見捨てていれば。 彼は今頃、公爵として優雅に紅茶を飲んでいたはずです。 私という「没落令嬢」に関わったばかりに、彼は反逆者の汚名を着せられ、泥まみれになって地下を這いずり回っている。
「愚問だな」
クラウス様は即答しました。
「地位や名誉など、飾り物に過ぎない。そんなもののために、お前という『魂の半身』を手放す方が、よほど後悔する」
「……魂の半身、ですか」
「そうだ。お前がいない世界など、私にとっては色のない氷原と同じだ。……だからアリア、二度とそんなことを聞くな」
彼の言葉の一つ一つが、私の心に深く刻まれていきます。 この人と一緒なら、地獄の果てまで行ける。 そう確信した瞬間でした。
しかし、その甘い時間は長くは続きませんでした。 通路の前方から、微かに風が吹き込んできたのです。 それと共に、鼻をつく異臭が漂ってきました。
「……焦げ臭い?」
私が呟くと、クラウス様の背中が強張りました。
「出口が近いな。……だが、この匂いは尋常じゃない」
クラウス様は私を降ろし、二人で走り出しました。 出口の鉄格子を蹴破り、地上へと躍り出ます。
そこは、王宮から少し離れた古びた墓地の裏手でした。 時刻は深夜。 本来なら静寂に包まれているはずの時間帯です。
けれど、空が赤く染まっていました。 夕焼けではありません。 王都の一角から立ち上る、猛烈な炎が夜空を焦がしているのです。
そして、その方角は。
「まさか……」
私の全身から血の気が引きました。 心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ちます。
「あの方角は……公爵邸(うち)だ!」
クラウス様が叫びました。
「ギリアードの奴……やりやがったな!」
宰相の言葉が蘇ります。 『公爵邸を焼き払え。妹もろともな』
「ミラ!!」
私は絶叫し、ドレスの裾を掴んで走り出しました。 足の痛みなど、もう感じませんでした。
◇
時間を少し遡ります。
ラインハルト公爵邸。 主の不在を守る執事長、セバスチャンは、不穏な気配を感じ取っていました。
「……鳥が鳴かない」
彼は屋敷の庭を見回りながら、独り言ちました。 夜行性の鳥の声が途絶え、風の音すらしない。 嵐の前の静けさというには、あまりにも人工的な静寂でした。
「総員、第一種戦闘配置」
セバスチャンは懐中時計を確認し、静かに、しかしよく通る声で指示を出しました。
「敵襲の可能性があります。ミラ様を最優先でシェルターへ。……決して、お客様ではありません」
屋敷の使用人たち――その実態は、戦闘訓練を受けた『影』の予備軍たちが、無言で頷き、散らばっていきました。
セバスチャンは本館の正面玄関に立ち、白い手袋を嵌め直しました。 その時、正門が爆音と共に吹き飛びました。
ドォォォン!!
爆炎と共に雪崩れ込んできたのは、王家の紋章をつけた近衛兵たち……に見せかけた、黒ずくめの武装集団でした。 その数、およそ百。 しかも、彼らの目は赤く充血し、口からは涎を垂らしています。 薬物で強化された、『黒蛇』の兵士たちです。
「ヒャハハハ! 燃やせ! 殺せ! 公爵の犬どもを皆殺しにしろ!」
先頭の男が松明を投げ込みます。 美しい庭園の植え込みが、瞬く間に炎に包まれました。
「……野蛮な方々ですね。アポイントメントもなしに」
セバスチャンは杖を構え、優雅に一礼しました。
「当家は現在、あいにく主人が不在にしております。お引き取り願えますか?」
「うるせえ! 死ね、ジジイ!」
兵士の一人が、大剣を振りかざして突っ込んできました。 通常の人間なら反応すらできない速度です。
しかし、セバスチャンは表情一つ変えませんでした。
「……マナーがなっていませんね」
彼は杖を軽く振りました。 パシュッ! 杖の先端から、目に見えないほど細い鋼鉄のワイヤーが射出されました。 ワイヤーは兵士の足首に絡みつき、そのままセバスチャンが手首を返すと、兵士は独楽のように回転して吹き飛びました。
「ぐわぁぁっ!?」
「当家の敷居を跨ぐには、百年早いです」
セバスチャンは冷徹に言い放ちました。
「かかれ! たかが執事一人だ! 数で押し潰せ!」
数十人の兵士が一斉に襲いかかります。 屋敷の窓ガラスが割られ、火矢が次々と撃ち込まれます。 カーテンに火が燃え移り、美しい屋敷があっという間に紅蓮の炎に包まれていきます。
「セバスチャン様!」
屋敷の奥から、ミラが飛び出してきました。 彼女の手を、メイドの一人が必死に引いています。
「ミラ様! 出てきてはいけません!」
「だって、お屋敷が……! お姉ちゃんの帰る場所が燃えちゃう!」
ミラは泣き叫んでいました。 彼女にとって、この屋敷は初めて手に入れた「安心できる家」だったのです。
「くっ……!」
セバスチャンが一瞬、ミラの方へ視線を向けた隙でした。 死角から忍び寄っていた兵士が、毒塗りの短剣を投擲しました。
ザシュッ!
「……っ!」
セバスチャンの左肩に、短剣が突き刺さりました。 彼は顔をしかめ、ワイヤーでその兵士を切り刻みましたが、動きが鈍りました。
「やったぞ! 執事が手負いだ!」 「あのガキを狙え! 公爵の弱点だ!」
ハイエナのような兵士たちが、一斉にミラへと殺到します。
「させません!」
セバスチャンは負傷した体でミラの前に立ちはだかりました。 杖を捨て、懐から数本の銀製ナイフを取り出します。
「我が主の宝に指一本触れさせはしない。……ここが私の死に場所ですか」
覚悟を決めた老執事の背中は、炎の中でも凛としていました。
「セバスチャン様……!」
ミラが震えながら彼の背中にしがみつきます。 火の手が回る。 敵の包囲網が狭まる。 絶体絶命。
「死ねぇぇぇ!!」
十数本の槍が、セバスチャンとミラを串刺しにしようと迫った、その時でした。
◇
「氷結界(アイス・プリズン)ッ!!」
天空から、怒号と共に極寒の冷気が降り注ぎました。
バキキキキキッ!!
音速で広がった氷の波動が、迫り来る槍を、兵士を、そして燃え盛る炎さえも、一瞬にして凍てつかせました。 紅蓮の世界が、蒼白の氷の世界へと塗り替えられます。
「……え?」
兵士たちが動きを止め、空を見上げました。
屋敷の屋根の上。 月を背に、二つの影が立っていました。 一人は、蒼き剣を構えた、鬼神の如き表情の公爵。 そしてもう一人は、ボロボロのドレスを纏いながらも、女神のように美しいプラチナブロンドの女性。
「……遅くなりました、セバスチャン」
クラウス様が屋根から飛び降りました。 着地の衝撃で、周囲の兵士たちが氷像のように砕け散ります。
「か、閣下……!」
セバスチャンが崩れ落ちそうになるのを、駆け寄った私が支えました。
「セバスチャン様! ご無事ですか!?」
「アリア、様……。……申し訳ありません、お屋敷を守りきれず……」
「いいえ、よく耐えてくださいました。……ミラ!」
私は後ろで震えているミラを抱きしめました。
「お姉ちゃん! クラウスお兄ちゃん!」
ミラが泣きじゃくりながら私の胸に飛び込んできました。 焦げ臭い匂いがしますが、怪我はありません。 生きてる。 間に合った。
「……化け物だ! 逃げろ!」 「公爵が戻ってきたぞ!」
生き残った兵士たちが、クラウス様の圧倒的な力を見て逃げ出そうとします。
「逃がすと思うか?」
クラウス様が剣を振るうと、地面から巨大な氷柱が突き出し、逃走経路を塞ぎました。 屋敷は半壊し、炎と氷が混じり合う異様な光景になっていますが、彼の殺気はそれ以上に凄まじいものでした。
「我が家を焼き、家族を傷つけた罪。……その命で償ってもらう」
それは一方的な蹂躙でした。 公爵家の『影』たちも合流し、残党狩りが始まります。
しかし、状況は予断を許しませんでした。 遠くから、軍靴の音が聞こえてきたのです。 それも、百や二百ではありません。 数千の軍勢が、この屋敷を取り囲もうとしていました。 王宮からの正規軍です。
「……アリア、潮時だ」
敵を斬り伏せたクラウス様が、息を切らせて戻ってきました。
「正規軍が出てきた。これ以上ここに留まれば、包囲されて全滅する」
「でも、屋敷が……!」
私は燃え続ける我が家を見上げました。 ミラの学校の制服も、私が初めて買ってもらったドレスも、みんな燃えてしまいます。 また、失うの? やっと手に入れた安息の場所を。
「家など、また建てればいい」
クラウス様は私の肩を強く掴みました。 「だが、命は代えがきかん。……行くぞ、アリア。北へ」
「……はい」
私は涙を拭い、頷きました。 未練を断ち切るように、私は燃える屋敷に背を向けました。
「セバスチャン、動けるか?」
「はっ。……お供いたします」
手負いのセバスチャンを『影』の部下が支え、私はミラの手を引きました。
「裏門から抜ける! 馬車を用意してある!」
私たちは燃え落ちる公爵邸を背に、闇の中へと走り出しました。 背後で、轟音と共に屋根が崩落するのが聞こえました。 それは、私たちが「王都の貴族」としての生活と決別する音でした。
◇
王都の城門は、すでに封鎖されていました。 検問所には松明が焚かれ、兵士たちが目を光らせています。 手配書には、私とクラウス様の人相書きが回っていました。
「どうしますか、閣下。正面突破は不可能です」
路地裏に隠れた馬車の中で、セバスチャンが尋ねました。 傷の手当はしましたが、顔色は蒼白です。
「……下水道を使う」
クラウス様が苦渋の決断を下しました。
「下水道、ですか?」
ミラが嫌そうな顔をしました。
「ああ。王都の地下には、建設途中で放棄された旧排水路がある。そこを通れば、城壁の外まで出られるはずだ」
「……泥だらけになるのは、慣れっこです」
私はミラの頭を撫でて言いました。
「行きましょう。自由になるために、少し汚れるくらい何でもありません」
私たちは馬車を捨て、マンホールから地下へと潜りました。 悪臭と汚泥にまみれた道なき道。 ドレスの裾は泥だらけになり、綺麗な靴は汚れていきます。
かつて「国一番の淑女」と呼ばれた私が、今は下水道を這いずり回る逃亡者。 でも、不思議と惨めではありませんでした。 私の手は、前を歩くクラウス様としっかり繋がれていたからです。
数時間後。 私たちは王都の外、北の街道沿いの森の中へ這い出しました。 朝霧が立ち込める中、振り返ると、遠くに王都の城壁が見えました。 あの中に、私たちの敵がいる。 そして、私たちが取り戻すべき名誉と真実がある。
「……必ず、戻ってくる」
クラウス様が、王都を見据えて誓うように呟きました。
「ああ。その時は、ギリアードの首を洗って待たせておこう」
彼は私の方を向き、泥だらけになった私の頬を指で拭いました。
「すまないな、アリア。こんな汚れた姿にさせてしまって」
「あら、意外と悪くありませんわ」
私は強がって笑いました。
「泥中のタンポポ、でしたでしょう? 泥にまみれてこそ、私は強く咲けるのです」
「……違いない」
クラウス様は優しく微笑み、そして北の方角を指差しました。
「ここから先は、私の領地『ノースランド』だ。雪と氷に閉ざされた、過酷な土地だ。……ついて来れるか?」
「愚問ですね」
私はミラの手を握り直し、一歩を踏み出しました。
「貴方の行くところなら、地獄の釜の底でも、極寒の氷河でも。……私たちは家族ですから」
朝日が昇り始めました。 私たちの長い逃避行と、反撃への旅路が、ここから始まります。
湿った空気。 どこからともなく聞こえる水滴の音。 そして、荒い息遣いと足音だけが、この閉ざされた空間に響いています。
「……アリア、足は大丈夫か?」
私の手を引いて前を歩くクラウス様が、気遣わしげに声をかけてくれました。
「はい、平気です。……少し靴擦れが痛みますが、走れます」
私は強がって見せました。 実際には、ドレス用のヒールで舗装されていない石畳を歩き続けているため、足の裏は悲鳴を上げています。 けれど、立ち止まるわけにはいきません。 地上では今頃、ギリアード宰相の私兵たちが血眼になって私たちを探しているはずですから。
「嘘をつくな。足音が乱れている」
クラウス様は足を止め、振り返りました。 暗闇の中でも、彼のアイスブルーの瞳だけが薄ぼんやりと光り、私を見据えています。
「……申し訳ありません」
「謝るなと言っただろう。……背中に乗れ」
「えっ? い、いえ! それはさすがに不敬です! 公爵閣下の背中におぶさるなんて……」
「今は公爵ではない。ただの逃亡者だ。それに、お前が潰れて動けなくなる方が、私にとっては荷物だ」
クラウス様は有無を言わせぬ口調で背中を向け、しゃがみ込みました。
「ほら、早くしろ。追っ手が来るぞ」
「……失礼いたします」
私は観念して、彼の広い背中に身を預けました。 クラウス様は軽々と私を持ち上げ、再び歩き出しました。
彼の背中は、驚くほど温かかったです。 「氷の公爵」と呼ばれ、冷徹を装っているけれど、その内側にはこんなにも熱い血が流れている。 その体温に触れているだけで、不安で凍りついていた心が溶けていくようでした。
「……重くはありませんか?」
「羽のようだ。ちゃんと食べているのか? 北へ着いたら、もっと肉を食わせないとな」
「ふふ、太らせて食べる気ですか?」
「ああ。……まあ、食べるのは別の意味だがな」
「っ……! 閣下、セクハラです」
「冗談だ。……少しは気が紛れたか?」
彼の不器用な優しさに、胸が締め付けられます。
「……ねえ、クラウス様」
私は彼の首に腕を回し、耳元で囁きました。
「後悔していませんか? 私なんかに拘ったせいで、地位も名誉も、家も失うことになってしまって」
もし、私を見捨てていれば。 彼は今頃、公爵として優雅に紅茶を飲んでいたはずです。 私という「没落令嬢」に関わったばかりに、彼は反逆者の汚名を着せられ、泥まみれになって地下を這いずり回っている。
「愚問だな」
クラウス様は即答しました。
「地位や名誉など、飾り物に過ぎない。そんなもののために、お前という『魂の半身』を手放す方が、よほど後悔する」
「……魂の半身、ですか」
「そうだ。お前がいない世界など、私にとっては色のない氷原と同じだ。……だからアリア、二度とそんなことを聞くな」
彼の言葉の一つ一つが、私の心に深く刻まれていきます。 この人と一緒なら、地獄の果てまで行ける。 そう確信した瞬間でした。
しかし、その甘い時間は長くは続きませんでした。 通路の前方から、微かに風が吹き込んできたのです。 それと共に、鼻をつく異臭が漂ってきました。
「……焦げ臭い?」
私が呟くと、クラウス様の背中が強張りました。
「出口が近いな。……だが、この匂いは尋常じゃない」
クラウス様は私を降ろし、二人で走り出しました。 出口の鉄格子を蹴破り、地上へと躍り出ます。
そこは、王宮から少し離れた古びた墓地の裏手でした。 時刻は深夜。 本来なら静寂に包まれているはずの時間帯です。
けれど、空が赤く染まっていました。 夕焼けではありません。 王都の一角から立ち上る、猛烈な炎が夜空を焦がしているのです。
そして、その方角は。
「まさか……」
私の全身から血の気が引きました。 心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ちます。
「あの方角は……公爵邸(うち)だ!」
クラウス様が叫びました。
「ギリアードの奴……やりやがったな!」
宰相の言葉が蘇ります。 『公爵邸を焼き払え。妹もろともな』
「ミラ!!」
私は絶叫し、ドレスの裾を掴んで走り出しました。 足の痛みなど、もう感じませんでした。
◇
時間を少し遡ります。
ラインハルト公爵邸。 主の不在を守る執事長、セバスチャンは、不穏な気配を感じ取っていました。
「……鳥が鳴かない」
彼は屋敷の庭を見回りながら、独り言ちました。 夜行性の鳥の声が途絶え、風の音すらしない。 嵐の前の静けさというには、あまりにも人工的な静寂でした。
「総員、第一種戦闘配置」
セバスチャンは懐中時計を確認し、静かに、しかしよく通る声で指示を出しました。
「敵襲の可能性があります。ミラ様を最優先でシェルターへ。……決して、お客様ではありません」
屋敷の使用人たち――その実態は、戦闘訓練を受けた『影』の予備軍たちが、無言で頷き、散らばっていきました。
セバスチャンは本館の正面玄関に立ち、白い手袋を嵌め直しました。 その時、正門が爆音と共に吹き飛びました。
ドォォォン!!
爆炎と共に雪崩れ込んできたのは、王家の紋章をつけた近衛兵たち……に見せかけた、黒ずくめの武装集団でした。 その数、およそ百。 しかも、彼らの目は赤く充血し、口からは涎を垂らしています。 薬物で強化された、『黒蛇』の兵士たちです。
「ヒャハハハ! 燃やせ! 殺せ! 公爵の犬どもを皆殺しにしろ!」
先頭の男が松明を投げ込みます。 美しい庭園の植え込みが、瞬く間に炎に包まれました。
「……野蛮な方々ですね。アポイントメントもなしに」
セバスチャンは杖を構え、優雅に一礼しました。
「当家は現在、あいにく主人が不在にしております。お引き取り願えますか?」
「うるせえ! 死ね、ジジイ!」
兵士の一人が、大剣を振りかざして突っ込んできました。 通常の人間なら反応すらできない速度です。
しかし、セバスチャンは表情一つ変えませんでした。
「……マナーがなっていませんね」
彼は杖を軽く振りました。 パシュッ! 杖の先端から、目に見えないほど細い鋼鉄のワイヤーが射出されました。 ワイヤーは兵士の足首に絡みつき、そのままセバスチャンが手首を返すと、兵士は独楽のように回転して吹き飛びました。
「ぐわぁぁっ!?」
「当家の敷居を跨ぐには、百年早いです」
セバスチャンは冷徹に言い放ちました。
「かかれ! たかが執事一人だ! 数で押し潰せ!」
数十人の兵士が一斉に襲いかかります。 屋敷の窓ガラスが割られ、火矢が次々と撃ち込まれます。 カーテンに火が燃え移り、美しい屋敷があっという間に紅蓮の炎に包まれていきます。
「セバスチャン様!」
屋敷の奥から、ミラが飛び出してきました。 彼女の手を、メイドの一人が必死に引いています。
「ミラ様! 出てきてはいけません!」
「だって、お屋敷が……! お姉ちゃんの帰る場所が燃えちゃう!」
ミラは泣き叫んでいました。 彼女にとって、この屋敷は初めて手に入れた「安心できる家」だったのです。
「くっ……!」
セバスチャンが一瞬、ミラの方へ視線を向けた隙でした。 死角から忍び寄っていた兵士が、毒塗りの短剣を投擲しました。
ザシュッ!
「……っ!」
セバスチャンの左肩に、短剣が突き刺さりました。 彼は顔をしかめ、ワイヤーでその兵士を切り刻みましたが、動きが鈍りました。
「やったぞ! 執事が手負いだ!」 「あのガキを狙え! 公爵の弱点だ!」
ハイエナのような兵士たちが、一斉にミラへと殺到します。
「させません!」
セバスチャンは負傷した体でミラの前に立ちはだかりました。 杖を捨て、懐から数本の銀製ナイフを取り出します。
「我が主の宝に指一本触れさせはしない。……ここが私の死に場所ですか」
覚悟を決めた老執事の背中は、炎の中でも凛としていました。
「セバスチャン様……!」
ミラが震えながら彼の背中にしがみつきます。 火の手が回る。 敵の包囲網が狭まる。 絶体絶命。
「死ねぇぇぇ!!」
十数本の槍が、セバスチャンとミラを串刺しにしようと迫った、その時でした。
◇
「氷結界(アイス・プリズン)ッ!!」
天空から、怒号と共に極寒の冷気が降り注ぎました。
バキキキキキッ!!
音速で広がった氷の波動が、迫り来る槍を、兵士を、そして燃え盛る炎さえも、一瞬にして凍てつかせました。 紅蓮の世界が、蒼白の氷の世界へと塗り替えられます。
「……え?」
兵士たちが動きを止め、空を見上げました。
屋敷の屋根の上。 月を背に、二つの影が立っていました。 一人は、蒼き剣を構えた、鬼神の如き表情の公爵。 そしてもう一人は、ボロボロのドレスを纏いながらも、女神のように美しいプラチナブロンドの女性。
「……遅くなりました、セバスチャン」
クラウス様が屋根から飛び降りました。 着地の衝撃で、周囲の兵士たちが氷像のように砕け散ります。
「か、閣下……!」
セバスチャンが崩れ落ちそうになるのを、駆け寄った私が支えました。
「セバスチャン様! ご無事ですか!?」
「アリア、様……。……申し訳ありません、お屋敷を守りきれず……」
「いいえ、よく耐えてくださいました。……ミラ!」
私は後ろで震えているミラを抱きしめました。
「お姉ちゃん! クラウスお兄ちゃん!」
ミラが泣きじゃくりながら私の胸に飛び込んできました。 焦げ臭い匂いがしますが、怪我はありません。 生きてる。 間に合った。
「……化け物だ! 逃げろ!」 「公爵が戻ってきたぞ!」
生き残った兵士たちが、クラウス様の圧倒的な力を見て逃げ出そうとします。
「逃がすと思うか?」
クラウス様が剣を振るうと、地面から巨大な氷柱が突き出し、逃走経路を塞ぎました。 屋敷は半壊し、炎と氷が混じり合う異様な光景になっていますが、彼の殺気はそれ以上に凄まじいものでした。
「我が家を焼き、家族を傷つけた罪。……その命で償ってもらう」
それは一方的な蹂躙でした。 公爵家の『影』たちも合流し、残党狩りが始まります。
しかし、状況は予断を許しませんでした。 遠くから、軍靴の音が聞こえてきたのです。 それも、百や二百ではありません。 数千の軍勢が、この屋敷を取り囲もうとしていました。 王宮からの正規軍です。
「……アリア、潮時だ」
敵を斬り伏せたクラウス様が、息を切らせて戻ってきました。
「正規軍が出てきた。これ以上ここに留まれば、包囲されて全滅する」
「でも、屋敷が……!」
私は燃え続ける我が家を見上げました。 ミラの学校の制服も、私が初めて買ってもらったドレスも、みんな燃えてしまいます。 また、失うの? やっと手に入れた安息の場所を。
「家など、また建てればいい」
クラウス様は私の肩を強く掴みました。 「だが、命は代えがきかん。……行くぞ、アリア。北へ」
「……はい」
私は涙を拭い、頷きました。 未練を断ち切るように、私は燃える屋敷に背を向けました。
「セバスチャン、動けるか?」
「はっ。……お供いたします」
手負いのセバスチャンを『影』の部下が支え、私はミラの手を引きました。
「裏門から抜ける! 馬車を用意してある!」
私たちは燃え落ちる公爵邸を背に、闇の中へと走り出しました。 背後で、轟音と共に屋根が崩落するのが聞こえました。 それは、私たちが「王都の貴族」としての生活と決別する音でした。
◇
王都の城門は、すでに封鎖されていました。 検問所には松明が焚かれ、兵士たちが目を光らせています。 手配書には、私とクラウス様の人相書きが回っていました。
「どうしますか、閣下。正面突破は不可能です」
路地裏に隠れた馬車の中で、セバスチャンが尋ねました。 傷の手当はしましたが、顔色は蒼白です。
「……下水道を使う」
クラウス様が苦渋の決断を下しました。
「下水道、ですか?」
ミラが嫌そうな顔をしました。
「ああ。王都の地下には、建設途中で放棄された旧排水路がある。そこを通れば、城壁の外まで出られるはずだ」
「……泥だらけになるのは、慣れっこです」
私はミラの頭を撫でて言いました。
「行きましょう。自由になるために、少し汚れるくらい何でもありません」
私たちは馬車を捨て、マンホールから地下へと潜りました。 悪臭と汚泥にまみれた道なき道。 ドレスの裾は泥だらけになり、綺麗な靴は汚れていきます。
かつて「国一番の淑女」と呼ばれた私が、今は下水道を這いずり回る逃亡者。 でも、不思議と惨めではありませんでした。 私の手は、前を歩くクラウス様としっかり繋がれていたからです。
数時間後。 私たちは王都の外、北の街道沿いの森の中へ這い出しました。 朝霧が立ち込める中、振り返ると、遠くに王都の城壁が見えました。 あの中に、私たちの敵がいる。 そして、私たちが取り戻すべき名誉と真実がある。
「……必ず、戻ってくる」
クラウス様が、王都を見据えて誓うように呟きました。
「ああ。その時は、ギリアードの首を洗って待たせておこう」
彼は私の方を向き、泥だらけになった私の頬を指で拭いました。
「すまないな、アリア。こんな汚れた姿にさせてしまって」
「あら、意外と悪くありませんわ」
私は強がって笑いました。
「泥中のタンポポ、でしたでしょう? 泥にまみれてこそ、私は強く咲けるのです」
「……違いない」
クラウス様は優しく微笑み、そして北の方角を指差しました。
「ここから先は、私の領地『ノースランド』だ。雪と氷に閉ざされた、過酷な土地だ。……ついて来れるか?」
「愚問ですね」
私はミラの手を握り直し、一歩を踏み出しました。
「貴方の行くところなら、地獄の釜の底でも、極寒の氷河でも。……私たちは家族ですから」
朝日が昇り始めました。 私たちの長い逃避行と、反撃への旅路が、ここから始まります。
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